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物理学が哲学に還る日が来ることがあると思いますか?

物理学が哲学に還る日が来ることがあると思いますか?

みんなの回答

noname#221368
noname#221368
回答No.4

 自分の意見では当面、物理学が哲学に還る事はないと思います。当面がどれ程の時間かは、わかりませんが・・・。  こう言って良ければなのですが、現在の哲学は、   人がどう生きるべきかの指南書を研究する学問. になっていると思います。しかし過去には、人間も人生も自然も、もっと渾然としていた時代がありました。文献に残っている限りにおいては、それがギリシャの自然哲学だと思います。この中には、アリストテレス,ピタゴラス,エピクロス,ユークリッド,パルメニデス,・・・などなどがいる気がします。人間と自然がもしも不可分のものであれば、自然を知る事は人間を知る事につながると思えるからです。  この状態から苦労しながら決別したのが、ケプラーだと思えます。ケプラーは、惑星の楕円軌道を発表した時、はっきりと次のように言います。   私はここで、哲学から、天体の物理学へと移行する. と。このとき自然哲学は「物の理論(物理学?)」になり果て(?)、現在にいたっていると思います。そしてそれを決定的にしたのは、ガリレイ,デカルト、そしてフランス啓蒙主義で、物の理論「だけで」、世界は説明できるかも知れない、という可能性を示したのがニュートンだと思います。この状況は今もそのままです。  ホーキングとの共同研究で有名な、ロジャー・ペンローズは、著書「心の影」の中でものすごい奇説を展開し、人の意識を「物のメカニズムに基づいて」、数学低/物理的に説明しようとします。「心の影」は、ものすごく夢のある話だとは思うのですが、現状はこれです。  でも。これが本当なら「あるいは!」とも思います。

kogoefuyu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。

  • shiara
  • ベストアンサー率33% (85/251)
回答No.3

既に素粒子物理学は、哲学の領域に入り込んでいるのではないかと考えます。物理学と哲学の決定的な違いは、物理学は実験によって実証するものであるのに対し、哲学はその必要がない(というより実験ができない)にあると考えています。そのような考えると、素粒子物理学は、実験できるエネルギー領域をはるかに超えるところを考えていますから、実験によって実証できないという意味で哲学になっている、といえなくもありません。もちろん、実験技術も進歩しますから、まだ完全に哲学にはなっていませんが、いずれ哲学となる日も近いかもしれません。

kogoefuyu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >素粒子物理学は、哲学の領域に入り込んでいるのではないか 昔々の自然哲学のアルケーの現代版のような。 高度化された隔世世代のような。 孫悟空とお釈迦様の手のような。

  • spring135
  • ベストアンサー率44% (1487/3332)
回答No.2

>哲学 質問の意味がよくつかめません。哲学という言葉は人によって、場合によって意味合いが違ってくるのでまず定義してみてください。 もし、科学の根本原理という意味なら、他の科学分野、例えば数学や生命科学、社会科学、人文科学も包摂することになり、物理学は哲学の一部分を構成する素材になると思います。 >還る これはどういう意味ですか。厳密に定義してください。

kogoefuyu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ご回答が難しすぎです。 これでは素人の質問には向いていません。 もっと的確な質問のしかたがあるのでしょうが、レベルが違いすぎます。 ここでは、おそらく中学生くらいからの人達も質問します。

  • sanori
  • ベストアンサー率48% (5664/11798)
回答No.1

こんばんは。 単純な意味では、物理学が哲学になることはありません。 ただし、実際起こっている現象を量子力学で説明するのは「簡単」でも、 量子力学自体をどう解釈するかということは「哲学に近い」としている人もいます。 (たとえば、我々が進んでいる未来は一本道のようであるが、時刻が進むごとに無限通りの未来が発生している、とか。) ですから、「物理学が哲学に還る日が来る」というよりは、 現時点でも、すでに物理学が哲学になっている部分はあると言ってよいでしょう。

kogoefuyu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >量子力学自体をどう解釈するかということは「哲学に近い」としている人もいます。 >我々が進んでいる未来は一本道のようであるが、時刻が進むごとに無限通りの未来が発生している >現時点でも、すでに物理学が哲学になっている部分はある 我々が理解に到達していない事柄のさらに向こう側でも新しい状態としての可能性が知らず知らずして開闢していて止まないということでしょうかね。 そこの見地に立ってはみられないにしろ、仮に立てる仮の存在があったとしたら、現在の知も随分と哲学的なものの模索なのかもしれませんね。

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