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濃陽諸士伝記のある文章の読み方について

濃陽諸士伝記からの抜粋なのですが 下の文章はどのように読んだらいいのでしょうか? 「信長は、故道三の聟なれば、信長妻の爲には姪なれば、其妻死後に遣し難し、況や妾などとは、緩怠過ぎたる申分、」

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  • Pinhole-09
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回答No.1

難しい一部の読み方、 「・・・その妻死後に遺し難し(つかわし=人をつかわす)、況や(いわんや)妾などとは、緩怠(かんたい=この場合は無礼の意)過ぎたる申し分)」 下記の意です。 「織田信長は死んだ斎藤道三の婿である。(この娘は)信長の妻(道三の娘、濃姫)の姪にあたる。濃姫の死後にそちらに送る事は出来ない。まして妾に欲しいなどとは無礼も甚だしい要望である。」 この娘とは斎藤義竜の娘「馬場殿」のことで、濃姫が亡くなり信長と美濃の縁が切れたので、これをつなぐ為信長が義竜に、馬場殿を妾にしたいと申し入れたのに対する断り状の一部です。 信長の濃姫に対する扱い方に不満があったようです。 濃姫の若死はこの書状で立証されました。

yamashiba
質問者

お礼

ありがとうございます。 やはりそう読むのが一番自然で矛盾が少ないですよね。 因みに濃陽諸士伝記の史料価値はどの程度の物でしょうか?

その他の回答 (1)

  • Pinhole-09
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回答No.2

「濃陽諸士伝記」が書かれたのは寛永十五年で、七十年位後なのでどう評価するか難しいのですが、かなり当たっているのではないでしょうか。 濃姫が長生きし、墓が京都にあるとの話もありましたが、その間の情報が全くないのはおかしく、若死にの方が説得力があります。

yamashiba
質問者

お礼

ありがとうございます。 自分も京都の墓は濃姫とは全然関係のない人間だと思っております。 ところで「濃陽諸士伝記」が書かれたのは寛永十五年との事ですが、 「美濃国諸旧記」の成立はおよそ寛永の末年か正保時代といわれる為、 「美濃国諸旧記」を書くにあたって、「濃陽諸士伝記」を参考にしたと考えられないでしょうか。

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