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絵とピアノを趣味で学ぶ事の意味
会社帰りに趣味で油絵とピアノを習っています。 どちらも一生懸命やっているので、結構きついですが、 ときどき何の為にやっているのかわからなくなってしまいます。 プロになること、実用すること以外を趣味と呼ぶのだとしたら、 大人が趣味で何かを学ぶ意味とは、一体なんなのでしょうか? 私は人と比べられる事が苦手なので、絵を展覧会に出さないですし、 ピアノの発表会にも出たことがありません。 ピアノの先生には「発表会に出ないのは教え甲斐が無い」と言われました。やっぱり、趣味で絵やピアノを学ぶのは、あまり意味が無いのでしょうか?また、教える側からしたら、本当に教える気が起こらない生徒になるのでしょうか?(課題はいつもちゃんとやっているのですが)
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ピアノを習っていて、その先生から”発表会に云々、、”と言われ教え甲斐が無い、何て言われたとしたらその先生の言葉を受け入れられませんね。と言うのは、発表会に出るためではなく、自分で何らかの曲を弾けるようになるために、習うのですから。”その先生は発表会をやるためにピアノを教えているのでしょうか?”自分ひとりでピアノを楽しんだり、絵を描いたりすることでも充分な趣味でしょう。他人に見せたり、聴いてもらったりして批評をしてもらったり、することも一つの方法でしょうが、全く一人でやることもありだと思います。 私は、今は趣味だと思いますが、幾つか外国語をやっていますが、実際の生活で喋ったりしてはいませんし、それこと経済的には何も生まれてきません。やっていることは、メールを書いてそれらの言葉を実際に生活で使っている友人に贈ったり、ウェブサイトを読んだりしているだけです。突き詰めたら、ナの為にやっているのかなんで余り深いことは考えておりません。やりたいからやっているだけでしょう。
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- bibendumbibendum
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絵を展覧会に出さないですし、 ピアノの発表会にも出たことがありません。 ちょっと気になりました。 出る出ないは個人の自由ですが、出られない理由があるのでしょうか。 恥ずかしいから?失敗したら怖いから? もしもそのような理由でしたら、自分の殻を破って発表会に出てみることを勧めます。趣味を学ぶことに迷っているようですが、発表会に出れば全く別の世界が見えてきます。 芸術は自己表現です。発表会は最適な場ではないでしょうか。 また、発表会はスポーツでいうと試合みたいなものです。 草野球でもなんでも試合があるから楽しいのではないでしょうか。 ぜひ、考えてみてください。
お礼
ピアノの先生も同じ事を言っておられました。 私は、他者のいない自己表現は成り立たないとは思っていないので、 むしろ他者を感じて描いたり弾いたりすることに疑問を持っていたようです。批評や比較がコワイのではなく、単純に不快と感じているからでした。大切な事に気づきました。どうも有り難うございました。
絵画や音楽はともに自己表現の手段だと思います。表現の手段を学んでいるということは、表現したいという欲求がおありになるのだと思います。もし、表現したいという欲求がないのに表現の手段を学んでいるのだとしたら、まさに何の為にやっているのかわからなくなるでしょう。 綺麗な絵を描いてみたい。素敵な音楽を奏でてみたい。最初にそうした動機があったのであれば、そのまま続けていけばいいと思います。でも、そういう最初の純粋な動機を忘れてしまって、ただ習うことそのものが目的になってしまっているようだったら、一旦お休みしてみるのもいいかもしれません。レッスンとは無関係に、自分の好きなように描いてみる、自分の好きなように奏でてみる。そうすれば、自分が本当に求めているものに気づくかもしれません。
お礼
そういえば自由に描くことを全くしていませんでした! どうも有り難うございました。
- sanori
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こんばんは。 私は習い事をするお金がないので、うらやましいです。(笑) 色々な考え方があると思います。 他人から見たその人間の属性として、顔の表情、体つき、声、話す内容、におい、等々ありますが、 ピアノや絵も、その仲間に入ると思います。 つまり、自分のキャラクターを作るということです。 魅力が出ることうけあいです。 私の場合は、小学校の頃にピアノを習い、中学・高校ではブラバンをやっていました。 ですから、ピアノ曲を聴いていると、そのピアノ演奏が素晴らしいか素晴らしくないか(というよりは好きか嫌いか)、 あるいは、演奏の技術が高度か否かがわかります。 ブラバンでの経験から、交響曲を聴けば、鳴っている楽器の名前も全部わかります。 私はピアノを無理矢理習わされましたが、そんな親に、今では感謝しています。 音楽を楽しむ心を持つようになりましたし、自己実現にも役に立っています。 >>> 私は人と比べられる事が苦手なので、絵を展覧会に出さないですし、 ピアノの発表会にも出たことがありません。 ええ。それでよいのではないでしょうか。 ご友人と話すときの、話のタネぐらいにはなります。 それは、上述の「属性」だからです。 >>>教え甲斐が無い」と言われました。 おそらく、熱心で、よい先生だと思います。 うちの親父は高齢なのですが、趣味の習い事では、とことん練習して、年に何回も舞台を踏んでいます。 そういう人もいます。 以上、少しでもご参考になりましたら幸いです。
お礼
確かに、属性のお話は、よく理解できました。 なるほどなあ、と思います。習い事にはお金がかかるので、 形にしないと罪悪感が生まれてしまい、本質を見落とすところでした。 どうも有り難うございました。
では、生活と仕事と、最低限どうしても必要なことだけやっていれば良いのですか?? 衣食住とお金さえあれば、精神的なことや情操面は何にも要りませんか? 人はパンだけで生きるのではないと言いますが、 質問者さんはパンだけでOKですか? 普段やらないことを初心者としてやってみるのって、 色々と感じるものがあると思いますけれど。 大人になると慣れてしまうことが多いでしょう。 初心者というものがどういうことなのか、 自分の範疇を外れてみないと分からなくなります。 ああ初心者ってこうだよなと思い出すと、人のことを簡単に馬鹿にできなくなります。 それと、簡単そうにやっている人々がどんなに上手かが分かりますよね。 デパートのBGMの音楽などを演奏しているミュージシャンは決して有名ではないでしょうが、尊敬します。 耳に引っ掛からず聞き流せるというのは、実は上手でなければ無理なのです。 聞き苦しいと気になってしまいますから。 人生をいろいろな視点から見るチャンスではないでしょうか。 意味が無いとやらない、仕事にならなきゃ意味が無いという人もいるのですが、 私は意味なんてなくても面白ければ意味があると思ってます。 発表会に出ない生徒は教え甲斐がないと考える先生だけではないと思います。 上達したり楽しんでいればいいと思う先生もいるのでは? 先生も人間ですから、いろいろな性格の方がいらっしゃるんでしょう。
お礼
どうも有り難うございました。
補足
(回答へのお礼の続きです) “初心者”を楽しむことが、面白い事、というのを、すっかり忘れていました。もしかしたら、ピアノの先生とは、単純に相性が悪いだけなのかもしれません。先生を替えるという手段もあることに気がつきました。
お礼
「教える甲斐が無い」=「先生にとって教える価値が無い生徒」と 捉えてしまったのと、毎回、先生の発表会における並々ならぬ力の入れよう(私には、それが先生の持ち駒自慢や指導能力の証明場所になっているように見える)を見ていると、先生は自分の発表会の為に教えているのだなあ、と思え、疑問を持っていたので、wy1さんのように 『受け入れられない』というご意見を聞けてホッとしました。いろいろな先生がいるのと同時にいろいろな生徒がいる、ということですよね。私も深く考えずに、好きなものは好き、嫌なものは 嫌、という自然な感覚をとりもどして、やりたいように趣味を楽しむ ことにします。どうも有り難うございました。
補足
いろいろ書いているうちに、一生懸命やっている自分に対して、 先生がモチベーションを奪うような発言をした、というのが 不満の大元だということに気がついたので、ピアノの先生を代えてみることにしました。どうも価値観が合わないようですので。