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会津藩の残党は、なぜ新潟経由で下北半島に行ったんですか
会津戦争で負けた会津藩の生き残りは、なぜ遠回りして新潟港まで歩き、そこから船に乗って下北に向かったんですか 1.いわゆる市中引き回しの刑ってやつですか? 2.騙されて斗南藩になったって聞いたのですが、観光地の?恐山とか昔から有るのに、あの辺がどんな床か情報が少しも無かったんですか
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あのぉ…会津は自ら望んで斗南に行ったのですが… 新政府は猪苗代への移封を考えましたが、会津藩の会津統治が酷すぎて領民の反発が激しすぎたため、代替地を会津側が要求し、斗南行きとなったのです。 会津藩は諸藩でも最悪級の重税(7割から8割)、住民弾圧(敵に通じた者は処刑)な藩です。
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- tanuki4u
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回答No.1
海路としては日本海側が発達していたらでしょう。 戊辰戦争でも、官軍側は新潟港制圧を優先しております。これによって、阿賀野川水運による会津補給と信濃川水運による長岡補給を絶つためです。 また、会津は圧政のため、旧領内の猪苗代と斗南の選択を迫られ、猪苗代では、領民の反抗が強いと判断しての領地決定です。
質問者
お礼
回答ありがとうございます 人を運ぶだけで、わざわざ新潟へ?・・・ 圧政だったんですね・・勉強になりました
補足
やっぱり自ら選んだんですね・・・逃げるように斗南藩に しかし降伏した側が国替えの条件を要求するなてすごいですね ず~っと重税だったんですかね・・・京都守護職や鳥羽伏見の戦いに向けた幕末ごろだけでなく・・・すげー 新政府も会津藩にハルノートみたいの突きつける人なのに、ゆうずが聞く人なんですね