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善がなければ悪はない

なぜ善と悪は生じたのですか?

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noname#101110
noname#101110
回答No.8

ひとりのとき→すべて自己満足の方向でことたりる→善も悪もない 二人以上の時→自分ひとりだけの考えではやっていけない→自分も他人も納得すること(善)でおおむねやっていく→自分も相手もみとめないこと=やってはいけない→悪 社会ができた時の必須のルールとして発生したのではないでしょうか? >善がなければ悪はない 善が出来たからその反動として悪も出来たと仰りたいのでしょうか。 そういうことではないと思います。善と悪はひとつのものの表と裏といった関係ではありません。遠く隔たったふたつの無関係のものです。それぞれ構造的に発生せざるを得なかったということではありますが。

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noname#94938
noname#94938
回答No.5

聖書的に言えば、「神は良い麦種と、悪い麦種を、人のこころに蒔かれた。」 その人がその人生において、良い麦と悪い麦のどちらを多く、そのこころに育てるか。 その人の臨終の時まで見守り、「良い麦は天の倉へ、悪い麦はまとめて燃やすため」です。 良い麦を育てた人は天の国に入り、 悪い麦ばかり育ててしまった人は、あの世でそのおそろしい報いを受けるためだとおもいます。

  • pupurpu
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回答No.4

それは、この世界や宇宙がなぜ生じたかというのと同じです。 わかりません。 後出しじゃんけん」のように後から、何でも理由はつけれます。  自分で自分が納得できる理由を考えるといいと思いますよ。  エゴの問題かも知れませんね。自分にとっていいが、相手にとって悪いことかもしれません。集団の中に生きてると他者が存在しますから。  ですから例えば、強盗は自分にとっていい。とられるほうは自分にとって悪。ということでしょうか。  自分勝手が問題だということかもしれません。  また自分がよければいいという心が肥大すると、独裁者と呼びます。ファシストですね。  意識が低いと自分の利益しか目に入らない、視野狭窄になりますから、悪を作り出しやすいということでしょうか。  善も悪もないという言葉がありますが、つまりは、集団で生きる場合、他者のことを考えないといけないという簡単なことでしょう。  ですから、そこまで認識ができてない人に善悪を教えることをします。  「善がなければ悪はない」というのはすでに哲学的言葉遊びになって、 現実観念から遊離した、空想的展開から生まれた文章でしょう。  善がなければ悪はない」と言っても善があり悪があるので、あるものに対してどう対処するのか、と言うのが現実です。  あるものに対して、理由を求めても、この世から存在をなくすことができない以上、空想の言葉遊びでしょう。  しかし、自分の中から悪を消して善を生じさせると言うのは、現実として有効ですね。  ですから、自分の中からどうすれば、悪がなくなるかというのが現実に有益なことになります。  ひとつは、なぜあるか、ではなく、どうすればいいかという対処を知るのが現実的ですね。  人を大事に思いやるところから、自分の中の自分勝手な悪に対処する方法が大事ではないでしょうか。   なぜ生じたか。とはこの世界や宇宙がなぜ生じたかというのと同じでわかりません。しかしあるのは事実です。  それは幸せと不幸にたどり着く思考だと思います。  つまり、いいことをしてれば幸福になり、悪をしてれば不幸になる。という簡単な考えですが、現実では坂井のりpが悪に染まれば、不幸になるということです。  なぜ、という思考から思考の飛躍をすれば、厳然と「ある」と認識し、それに「対処」する方法が求められるでしょう。  なぜあるか。理由はわかりません。しかし、理由がわかっても、わからなくても、善悪から幸不幸まであると言う現実は変わりませんね。  善の影として、反対のことが生じたと言うことでしょうか。  その結論は怖いですね。それなら善をなくせば悪がなくなるとか、  詭弁です。そんな狂った考えは善をなくし、法律をなくし何をやってもいいというくだらない非現実的空想の思考にたどり着くでしょう。  そんな考えを信じる馬鹿な人はいないでしょうが。  善がなければ悪ばかり  です。当たり前ですが。だから罪は法律で規制しているんですし。 善がなければ悪ばかり  そんなの当然ですよ。 善がなければ悪はないというのは狂った思考です。  「考え」や「思考」によって、社会は運営されてます。  ですから狂った思考は社会に害毒です。間違いは間違いと言いましょう。  法律をなくせば、殺人を許可したのと同じです。恐ろしい社会になります。ですから、最初に悪があり、それを規制する法律の善ができるんです。  

noname#100496
noname#100496
回答No.3

この世界が、不調和世界対、調和世界と言う、正反対のものがぶつかる世界だからです。だから不調和の悪と、調和の善が存在します。仏教では、この世界を仮の世界といいます。不調和世界の脳の自我と、調和世界の大自然の心の無我が、出会うために、仮の世界の、この地球がつくられました。だから人の心は、自我と無我の二つの心が、合体して出来ています。目的は、不調和を調和に変換するためです。また仮の世界なので、始めと終わりがあります。マヤ暦では、2012年が終わりだと言われています。終わると、仕切り直しになるから、人の心は解体されて、それぞれ元の世界へ帰ります。自我は、不調和の脳の世界へ、人は、自然の心である無我なので、調和の神の世界へ帰ります。

noname#194289
noname#194289
回答No.2

自分がやっていることに意味を持たせたいからではないでしょうか。本当は意味がないということに人は耐えられないのではないかと思います。やっていることに意味を与えるためには何かの基準が必要となります。善悪いに限らず美醜にしても長短、寒暖などの簡単なことでも何かの基準がなければ決められません。

  • clrpwrhld
  • ベストアンサー率27% (16/59)
回答No.1

簡単に言うと、人間には思考があるからではないでしょうか。  本能で生きてる生物に善や悪などないのに、人間にとって都合の悪い生物は悪になりますからね。。なにが善で悪かの基準を決めてるのは人間ですから。 多数派の意見が善で少数派の意見が悪になってる世の中ですよね。  日本でも戦争が必要善な時代もありましたし。    鯨を食べてた日本は他の国からは悪ですし。他の国も捕鯨してたし、してるのに…   それぞれ違う思考の人間と交わって生きていくにはある程度 似た思考が必要です。乱れますから  それについていけない思考の考えや行動が悪。 人を傷をつける好意= 理解できないし腹立たしい=悪   やむおえない理由で生きてくために人を殺した= 本人以外理解できない理由=少数派 = 本人以外は理由がわからないので第三者は理解できないし殺人という行為が腹立たしい=悪

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