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岡目八目とあばたもえくぼ
ある国語の参考書に、「岡(傍)目八目」と「あばたもえくぼ」は対義語である、とありました。「当事者には正確な判断ができない」という意味合いからすると、どちらかといえば類義語のような気がするのですが如何でしょうか?
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No.1 の方が書かれていることに尽きます。 「岡目」は「傍目」とも書けます。 「傍目」は「はため」とも読めますが、「はた」つまり「傍(そば)」から見ることです。 「八目」は、囲碁で、石8個分。 「岡目八目」で、傍から見ている者には、囲碁を打っている人の手が、「八目」つまり8手先まで見通せるということ。 そこから、「当事者でないから、客観的に見ることが出来る」という意味で用いられます。 「痘痕(あばた)もえくぼ」は、お分りかもしれません。 昔は疱瘡(ほうそう)という流行病(はやりやまい)がありました。 疱瘡は治ったにしろ、顔にでこぼこの痕が残ってしまいます。それが、「痘痕」です。 そういう、痘痕みたいなものがあったとしても、惚れてしまうと、それがえくぼに見えてしまう、ということで、客観的に見ることが出来ない状態を言います。 だから、「岡目八目」と「あばたもえくぼ」というのは意味が対照的なので、「対義語」ということになります。
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- LN-TF
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傍目八目について。 市販の辞書もこの誤りをしているのですが、八目=八手 は明らかな誤りです。囲碁を少しも知らない人の言としか云えません。 囲碁で「目」と云えば、石を置くところ、或いは石の数です。「子」と云う字を使う場合もあります。八目=八手先と云うのは、囲碁の用語しては誤りです。一手に一目ではないかと云うのは、この場合当て嵌まりません。一手で相手の石を何目もとる場合があるからです。 囲碁は、実力の違う人同士で打つ場合には実力が下の人ははじめに碁盤に幾つか石を置かせてもらえます。一つおけば「一目おく」です。これは「俺は彼に一目置いているんだ」等と云う言い方がありますが、語源はここから来ています。八目と云えば大変の実力の差です。一目は一段或いは一級の差なのですから。が、諺として傍から見ていれば実際に自分で撃つよりも遥かに良い知恵が出るものだと云う事と口調が良いので八目になったのでしょう。一目や二目ではなんだだろうですし、五目では(口が悪いのは)寿司かでしょうし・・・。 将棋の場合は上級者がコマを落として行きますが、囲碁は碁盤の上の目を多く取った方が勝ちなので、上級者のハンディとしてこの方法がとられます。 別説に、八目も余計に有利の打ち方が見えると云う説もあります。あそこに打っても二目にしかならないが、ここなら十目はとれると云う事です。 全体としては、既に回答があがっている通りです。ただ、囲碁の用語の説明に難点があるだけで趣旨は同じです。 「痘痕も靨」も可也誇張した表現です。恋は盲目と云う訳です。 「傍目八目」は傍に居る人間には、大局が見えている、先が読めると云う事です。(派生して、傍のやつがあれこれと煩い脇助言をすると云う意味合いを持たせる場合がありますが、「場合がある」でいつでもではありません) とは云え「痘痕も靨」と「傍目八目」とを対義語とするのは回答者には少し苦しいなと思えます。(無理やり連れてきたの感があります)
お礼
ありがとうございました。
- johnnyblues
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傍目八目って「当事者には正確な判断ができない」ではなくて、「第三者には良く状況が解って有利である」って意味だと思うんですけど。
お礼
ありがとうございます。 それはわかっていたのですが、 「第三者には良く状況が解って有利である」 の裏を返せば 「当事者にはよくわからない」 というニュアンスに近く、 「あばたもえくぼ」とは対義語というよりは、意味が似ているな、と思ったわけです。 たしかに、 「第三者には良くわかる」の「わかる」と、 「当事者には良くわからない」の「わからない」を比較すれば、 対義語かもしれませんが、 ことばの意味全体を考えたとき、対義語なのか?と思ったわけです。
お礼
ありがとうございました。