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作家と創作作品中の人物の関係。
よろしくお願いします。 質問の主題は、 小説等文学作品中の「書き手に依って生み出された人物」は、 書き手である作家にとっては「完全に理解可能、支配可能」な存在か否か? 「現実に存在している人間」は、誰にとっても(おそらく本人にとっても) 「不完全理解、支配不可能」な存在と思われます。 書き手にとって作品中の人物はどんな存在なのでしょう。。。 よく(かどうか、は分かりませんが。汗)創作について、 「人物が勝手に私の頭の中を行動して、私はそれを書き留めるだけ」と言うような言い方もあります。 この表現を見ると、 作家にとって作品中の人物は、現実世界の人間と同様、 「不完全理解、支配不可能な存在」となると思えるのですが、どうなのでしょう。。。 以前、と言うには隔たり過ぎた?中学生の頃、 ふと「物語の読み方に戸惑った」時期がありました。 読み手の私は、この人(=作品中の人物)をちゃんと理解しているだろうか? 文中には全ての行動が描かれているのだろうか? 描かれていない行動/時間があるとしたら、その「行動や時間」は存在しているのだろうか?していないのだろうか? 読み手もだけれど、書き手もこの人を完全に理解しているのだろうか? この人の行動を全ての時間に置いて把握しているのだろうか? そんな事が作品中とは言え、可能な事なのだろうか?。。。。 そんな事を悶々としばらく悩み、 結局「作品は作品世界の一側面に過ぎない」との視点に立って読む事に決着を見ました。 以来15年、読み手の「読み方」としては、間違っていない、と考えています。 では、書き手の立場ではどうなのだろう?とふと気になりました。 何かご存知の方、ご意見をお持ちの方、回答をお寄せ頂けると嬉しいです。 また、 このような課題を扱った論文、評論等ご存知の方もお教え下さると嬉しいです。 大学の文学部等では、このような講義もあるのかしら。。。 調べ方の糸口でも構いません。 よろしくお願いします!
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yukkinn66さん、こんにちは。 >小説等文学作品中の「書き手に依って生み出された人物」は、書き手である作家にとっては「完全に理解可能、支配可能」な存在か否か? yukkinn66さんが取り上げられたのは、必ずしも「文学作品」に限った問題ではなく、制作者(書き手)がいて、自らの作品構想を実現すべく他者(外界の事物)に働き掛け、その結果として何か(作品)を作り上げたとき、制作者と作品とはどういう関係にあるか?という、ある意味普遍的、古典的な問題ではないでしょうか。 で、管見する限り、こういう問題をだれよりも鋭く意識して書いた小説家及び小説の典型例としては、アンドレ・ジッド『贋金つくり』、三島由紀夫『禁色』が挙げられそうな気がします。 いずれも、小説家が素材に働き掛け、それを媒介にして、いかに自らの構想(観念、理想等)を実現するか(=作中の人物を支配するか)をめぐる、小説家と素材との間の抗争、葛藤、駆け引き、馴れ合い、協力をテーマにしていると考えられます。 批評家では、ポール・ヴァレリーや小林秀雄が同様の問題をより鋭く意識しながら、ラディカルな批評活動を展開していたのではないでしょうか。 彼らは、いずれも自我などという妄想、幻想に取り憑かれつつも、良くも悪くも、このことを相対化しうる強靱な近代的知性、健全な懐疑精神を持っていたのだと思います。 「ぼくはひとりの小説家を登場人物として考え出し、中心人物にすえている。言うなれば、まさしく作品の主題は、現実がその小説家に提出するものと、彼がそれを材料にして創ろうと思つているものとの抗争なんだよ。」(『贋金つくり』) これは、主人公の小説家エドゥアールが『贋金つくり』という前代未聞の小説の構想を友人の女性に話しているところの一節ですが、彼は自分の小説のテーマが、作者と現実(=素材)との対立葛藤それ自体にあると言いたいわけです。 ここでジッドがエドゥアールに課した問題は、とりもなおさず、小説家にとって作中の人物が「完全に理解可能、支配可能」か否か?という、yukkinn66さんがここで呈示なさった問題と基本的に重なり合うのではないでしょうか。 『ドン・キホーテ』以降、作者名の署名された近代小説では、程度の差こそあれ、主人公は作者の分身たらざるを得ないのでしょうが、だからと言って、その主人公は完全に作者の傀儡にすぎないかと問われれば、「いや、確かに半分は作者の血を承けた分身ではあっても、残りの半身は時代・社会の血を承けているはず」としか言いようがないと思います。 この点については、文学作品に限らず、音楽作品であろうと、美術作品であろうと、全く事情は変わらないのではないでしょうか。 さらに言えば、文学作品の読みを含めた芸術作品(制作物)の享受(鑑賞)全般においても、作品享受の時間中は、見る側と見られる側との間で、双方の支配と被支配とをめぐるある種のせめぎ合いが繰り広げられているのではないでしょうか。 例によって、yukkinn66さんの興味・関心の焦点から外れた回答になってしまいましたこと、お詫びいたします。
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- bakansky
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夏目漱石の『我輩は猫である』を読むと、猫が、1日のことを書こうとするなら、1日かかってしまう、などと言っているところがあります。 すべてを記述していたら大変なことになるでしょう。うっかりトイレにも行けません(笑)。 作中人物は創作者が生み出したものですから、当然作者の自由になります。 が、我々が自分のことをほんの一部しか理解(意識)していないように、自分が生み出した登場人物が勝手な行動をとるというのも、またあるだろうと思いますし、そうでなければ、創作という活動に支障を来すのではあるまいかと思います。
お礼
早速の回答、感謝申し上げます^^ >夏目漱石の『我輩は猫である』を読むと、 >猫が、1日のことを書こうとするなら、1日かかってしまう、 >などと言っているところがあります。 夏目さん大好きです。 大好きと言う割には講話中心で、長編はあまり読んでいないので気が引けます。。。汗 一日の事を書くには一日では足りませんねえ。。。 「パッ!と振り返る」。。。この瞬間的な動作を書き留めるだけで、動作に要した倍以上の時間を費やします。 最小限の表現として「振り返る」。。。これだけでも動作以上に時間が掛かります。 動く、感じる、考える、と言う「実際の行動」。 それを脳内で「言語化」し、 さらに「文字表記」する。。。 人間は賢いのか、おバカさんなのか?よく判りません。。。笑 >登場人物が勝手な行動をとるというのも、またあるだろうと思いますし、 >そうでなければ、創作という活動に支障を来すのではあるまいかと思います。 うーーん。。。支障を来す。。。そうかも知れませんよね。 出来ればこんな曖昧模糊とした「感覚」を、言語化訓練を重ね熟練した書き手が書き表した評論等、有ったら読んでみたい、と思ったのですが。。。 ありがとうございました! また何かありましたら、よろしくお願いします。
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お礼
kadowaki様、お久しぶりです。 またしても有意義な含蓄ある回答を頂き、嬉しい限りです。 こう言う疑問が湧いた時は取り敢えず「小林秀雄!」ですかね。。。^^ うーーーん、本腰入れて全集等読むべき時期かも知れません。 >アンドレ・ジッド『贋金つくり』、 >三島由紀夫『禁色』 この二冊を近くの分館に取り寄せるべく、手続きを取ろうとしているところです。 三島由紀夫は川端康成と並んで、私の「苦手な作家」の意識が濃厚です。汗 でも、三島由紀夫は「美に対するこだわりの強さ」は感じておりますので、今回ちょっと頑張ってみます。読んでしまったら意外にハマるかも知れませんし。 >主人公は作者の分身たらざるを得ないのでしょうが、 >「いや、確かに半分は作者の血を承けた分身ではあっても、 >残りの半身は時代・社会の血を承けているはず」 「分身」。。。。私はどうにもそうは思えないのです。 勿論その私の思いが、やたらと他人の感情に移入したがる癖からの「目の曇り」かも知れないのですが、 書き手が人を一人、描き出してしまったら、それはもう「一個の人格」として実在人物と対等の存在、と感じてしまうのです。 そして、そう思って読み進み、最後迄「一個の人格」で貫徹させ通した(と私に感じさせた)時、「あ、良い作品に出会ったな」と思います。 いえ、時々「貫徹した一個の人間」としては違和感のある人物を書いちゃう作家にも出会いますので。。。。(な、何と生意気な!大汗) でも、もう少し中立な視点を持ちたいとも思います。 作品を「外から眺める」と言う視点。。。 複数の視点を自分の中に持つ。。。結局私の目標は此処にあるらしいですね。 頑張ります。 ありがとうございました!