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背理法 万人が認める美はあるか?
私は万人が認める美が存在することを信じたい者です。 しかしながら私はあまり頭が良くないので、感覚だけでそれを信じているのであって「存在する」ことを証明することはできません。 この前その話をしていたら「存在しない」ことを信じている人にそんなバカなことをいうのはやめろと諭されました。 悔しいので、「絶対ない」というのなら「無い」ことを証明してみろといったら、「有る」ことが証明できない時点でそれは「無い」ことを証明しているのだといわれました。 彼はそれを背理法だと言うのですが、私にはよくわかりません。 たとえば箱の中にリンゴがあるとします。 箱の蓋は閉じているので中にリンゴが入っているかどうかわかりません。 それはリンゴが無いことになるのでしょうか? それでいいんでしょうか? 彼にはさんざん馬鹿にされましたが、私はそれを信じることはいけないことでしょうか?
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- a-saitoh
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「背理法」ではなくて、「悪魔の証明」と言いたかったのではないでしょうか。 基本的には、ある法則を新たに提案してそれが成り立つと主張する人がそれを証明すべき責任を負うのです。「成り立たないと証明してみろ。出来ないのなら私の説が正しい」っていうのは詐欺師などが良く使う反則です。 なお、(言葉遊びですが)「万人が認める美」が存在しないことは明らかです。 先ほど僕は「今以降、質問者様が美しいと思うものはすべて美しくないと考えることにする」と決心しました。 ほら、これで反例ができましたよ。
- mojitto
- ベストアンサー率21% (945/4353)
背理法について間違いであることは、すでに回答が出ていますね。 彼氏さんは背理法で「万人が認める美がない」ことを証明しようとするのであれば、「万人が認める美がある」ということが「ない」ことを証明しないといけません。 相手が証明できないから、こちらが正しいというのは間違いです。 僕はおそらく「万人が認める美」はないと思いますが(断言はしませんよ。しかし僕にとって信じるに足る要素がありません。)、信じることは自由です。 ですが、 >「存在しない」ことを信じている人にそんなバカなことをいうのはやめろと諭されました。 これについては、正論だと思います。 神様を信じていない人に対して、「神様はいるんだよ」と言って、何になるのでしょう。 結論としては、信じるのはいけないことではありませんが、あなたが彼からバカにされるような要素はあると思います。 自分の信条を語るときは「自分はこう思います。はい、おしまい」です。 反論や論争なんてのは時間と労力の無駄で、お互いに亀裂を作るだけです。 証明を求めるなんて、無駄の骨頂だと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 弁解しておきたいのは、私は彼にも信じてほしいと言ったわけではないのですよ。 私は信じていると言っただけなのです。 おしまいにしてくれなかったのは彼です。 まったく、それを信じたからと言って彼に何か不利益が生じるのでなければ、信じることは自由だと思うのと、信じることはやめたら私が私として機能しなくなるのでできればほっておいてほしいものです。 まったくバカな論争をしているものだと思いながら、どこかで、彼に「信じることをやめない自分」を認めてほしいと願っているのでしょうね。 背理法の使い方間違えるような人じゃないと思うんですが、彼も頭に血が上っているのでしょうね。 私は馬鹿にされるようなことをよく言うので、それを正されるのはかまわないのですが、間違った反論をされるとついムキになってしまって。 分かり合えるなんて幻想をつい追いかけてしまうのが、癖なんですね。笑 では。ありがとうございました。
- purunu
- ベストアンサー率42% (518/1214)
彼のいう「背理法」は、言葉の使い方を間違っています。 さて、「万人」=「例外なくすべての人間」というと、 夢をこわすようですが、「万人が認める美」はないかも しれません。この世の中には目が見えない人、耳が聞こえない人、 匂いを感じ取れない人がいます。そういう人を例外なく 含むのは難しいでしょう。 そこまで厳密にならなくてもよいなら、「万人が認める美」 はあるかもしれませんね。
お礼
そうですよね。 やっぱり背理法的には間違っていますよね? よかった。 私の理解力が足らないのかと思いましたが、そう言っていただけて安心しました。 私も正直万人は言いすぎだったかと思います 私は哲学者ではないのでそこまで厳密な意味にこだわっていったわけではなく、ごく一般的に、特別な知識がなくとも、文化が違っても人々に認められる「美」が存在するのではないか?というようなことを信じているのですね。 「あるかもしれない」と言ってもらえて嬉しいです。 彼にそう言ってもらいたかったわけではないけれど、私に信じるのをやめろと言われるのは無理な相談というものでしたので。 ありがとうございました。
- gohtraw
- ベストアンサー率54% (1630/2965)
論理に関する部分では 「ある」という証明は1つの例を挙げれば済むが、「ない」という証明はそんな例がどこにも存在しないことを示さねばなりません。このため一般に「ない」ことの証明は非常に難しいとされています。背理法というのは「ない」ことの証明をするひとつの手法で、「ある」という仮定をおくと事実に反する結論が導かれることからもとの仮定を否定するやり方です。 というコメントをつけることはできるのですが、上記の「ある」という例を示すことも充分困難ですよね。そもそも「証明」ということにそぐわないテーマだと感じます。 感覚的には万人とはいわないまでも大部分のひとが「美」と感じるものはやはりあるのではないかと思っていますし、そう思いたいですね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私もあると信じたいだけで、あるのかどうかわからないのです。 あったらいいなと思っているだけなんです。 彼に有るのなら一つでもあげてみろと言われました。 たとえ、思いつくものをあげたところで、私の答えが正しいかどうかを確かめるすべはありません。 意固地になる自分が悪いことは分かっているのですけれど… 別に彼にあると信じてほしいわけではないのですけれどね・・ 「そう思いたいですね」と言ってくださる方がいて少し救われました。 ありがとうございました。
お礼
背理法の成否についてお聞きしたので言い換えは却下です。 なお「考えないことにする」という時点でそれはあなたが自分の感覚に嘘をつくということです。 私はもっと感覚的なお話をしているのであって、個人の好みの云々はあって当たり前ですから。 あと、その評価の対象を評価するにあたって、私の評価の反対をする意味で美しくないと評価するのでは自分が「美しくない」と認めたとは言えませんし、自分で評価したことがあるものであれば、「美しいと感じてもそう思わないことにする」→「実は美しいと感じたことがある」という矛盾がが発生しますのでそれも却下です。 あとは本当に言葉遊びですが、私があなたの決心を信じるという前提がなければ、その反例は成り立ちません。 「箱の中にリンゴはないよ」といわれても私が「ある」と信じることによってリンゴはあるように私には見えるのです。 お返事ありがとうございました。