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「目が見えない」という表現が・・・
目に炎症おこして、目が上手く開けられない時に自分で「目が見えない」という言葉をよく聞きます。 普通自分で「・・・が見えない」ときたら、・・・を見ることができないという意味になるはずです。そうなると、自分の目が見えないのは 目を開けていても鏡などなければ見えないのは当然だと思います。 そこで「目が見えない」という表現は正しいのでしょうか?もしも 正しいのであれば文法的にどういうことなのか?と思います。なので私は目が上手く開けられない、暗くて見えないときは「物が見えない」という形で使ってますが。
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日常で使用する「ことば」は 慣用法 によるものが多く、その意味で「論理的ではない」ことが多いのです。 お示しの「目が見えない」は字句をそのまま受け止めれば、「自分の目は自分では見ることができない」のであって「論理的に破綻」しています。また、例えば同様に「自分の背中を見ろ」(=自分の行動を客観的に見ろ)は「自分の背中は(道具を使わなければ)見ることができない」のでこれを「論理矛盾」ととれば「おかしな表現」になってしまいます。 慣用法では「発話者の視点」が重視されますから、「目が見えない」は「(自分の)目が(自分で)見えない」のではなくて「(自分の眼を使って)目が(物を見ることができない、つまり)見えない」ということですね。 「耳が聞こえない」を長々と「耳を使って音を聞くことができない」などどとはいいませんよね。「耳が聞こえない」で二つ目の「 」内の意を表すのに使います。 ですから「論理的にはあいまい」でも立派に「使用に堪える」、だから使用されている、と考えてはどうでしょうか。