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自然体の美しさ
最近、自然体のものがとても美しく感じます。 花や木、空、光、揺らめく水、等そこには何があるのでしょうか? そのもの自体がsimpleであるから美しいとも思います。 人間でもそのように思える方がいらっしゃいますよね? 素直な気持ち、ありのままの表現、言葉、仕草・・ すべてが美しい。 しかしそれはとても難しい事のようにも思います。 「自然体の美しさ」 どうすればそのような人間になれるのでしょうか? 皆さんのご意見聞かせていただければ幸いに思います。
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●自然にも 身の毛もよだつほどの醜いものも たくさんありますよね。 わたしの場合は ねずみ・毛虫・へび・なめくじ・ ムカデ・・・などです。 どうして 美しいと感じるものと 醜いと感じるものが あるのでしょうか?言い換えれば 見て心地よい ものと不快なものが存在するということです。 この感覚は 幼い頃の方がより鋭敏に働いています。 それは 本能に書き込まれた 自分の敵か見方か という視覚的記憶として作用するからなのです。 さて 人間の「自然体で美しい人」とはどのような人でしょうか? あらゆる芸術は 前述いたしました本能に書き込まれた 心地よいと感じる感覚をたよりに 創作を手探り するわけですけれども。 現代に生きる わたしたちは人類が言葉という 形而上の概念を獲得してから もっと複雑な 快・不快の世界に生きるようになったのです。 例えば車を例に取りましょう。 車を構成する材料は形而下にあります。 けれどもそのデザインや機能は形而上にあるものです。 いいかえれば 車は形而下にあるものに形而上に あるものが憑依したものであるのです。 ですから 現代においては 現代人の感性は 本能のみならず 概念(ミーム)により 真善美が常に成長している可変多面体のように わたしは感じます。 ですから 文明の中において尚 自然体を香らせる ことのできる方は 現代のあらゆる触手に精通してらっしゃる方だと わたしは 感じます。つまり そのような人間に なるためには 自然を知り 自分を知り 現代をよく見聞きし 聡明に考えるということを 続けることだと思うのです・・・。
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ごめん。やっぱ自信なしね。つられた(笑。 >花や木、空、光、揺らめく水、等そこには何があるのでしょうか? カオスと、法と、無。 その三つが自然界の背後に控えているとして、 この三つが、自然というあり方に絡まって、自然界が現象しているのかもしれません。 イメージで縦に並べると、大小はありませんし、みな無ゆえに平等なのですが、 無(全) 法(ロゴス) カオス(ホントの意味で形而上、超存在。↑) 在る(宇宙↓) 自然(形而上↑) 知 (形而下↓) こんな感じです。美しさというのは、法のところ以下に行くに従って、実になっていくのではないかと思います。私たち多くの生き物は、知と、自然の間ではないでしょうか。真の形而上とは、触れえぬ、しかしすでにこの世の元となる世界のことで、カオス以上のところです。 人間の言葉、概念は、知によって生まれる、つまり、形而下以下のもの、存在濃度が一次元薄いものなのですが、知ゆえの性質で、形而上以上の世界の落とした影を知覚してしまうのです。 ですから、この自然界においては、自然界というものが、人間の言葉にとっての形而上の世界であり、プラトンが形而上だと思っていたほとんどの世界は、じつわ自然界なのです。それにたぶん気付いたであろう、アリストテレスは、自然科学の祖、メタフィジカなる知を開いたのです。(フィジカ(肉体で触れる世界、知覚できる世界、形而下世界)の背後世界(形而上界、自然界そのもの)を、知ろうとしたのです。) ゆえに、今ある自然科学こそが、実に形而上学(メタフィジカを求めるもの)であり、現代、形而上学といわれているものは、形而上上の世界を、形而下学(知の下に生まれたもの、知の産物)で、説明しようとしてきたのです。それは無理だ。そして、今、私がしているのが、その無理なのです。このアドバイスは、遥かなる影であるということです。 学のつくところに、知はありません。知の影、知の産物があります。 知のつくところに、当然(触れる世界)がありますが、自然はありません。自然の影、自然の産物があります。 自然とはあり方であり、 我々が感じる美しさとは、遥か彼方、だけれども、自然より身近に、根源的に私たちを構成している、法(ロゴス)の輝きなのです。 自然は、法の現れなのです。 ソクラテス、プラトン、アリストテレスともどもびっくりの、アドバイスになっちまったが、これが俺の、哲学(←学がついてる)です。 >そこには何があるのでしょうか? 法の影という、法の中身です。法が、遥か下位の次元で、展開されているのです。 >どうすればそのような人間になれるのでしょうか? それを知っても、自分を知っても、それは自然という在り方ではありません。自然というあり方は、知るものではなく、あるものだからです。 美しい人間というのは、美しい生き様を生み出しているのであり、美しさというのは、法に由来するところなので、 生き様を、自然というあり方で生み出し、 法によって自由に生きよう。 ということです。自然は、自由を、私たちを超えて、ものにしています。なぜなら、法に、次元が近いからです。 法のあるところ、自分はありません。満たされているからです。 自然も、法によって、あります。 而して、法のあるところ、自然はありません。満たされているからです。 法は、知りえない。自然も知りえない。 知れるのは形而下に落ちる影だけ。 あらゆる知は、自然というあり方で、実現する。 自律生命体というのは、知と、自然の、合体物なのです。 自然を靡かす美しい人というのは、形而下と、形而上の接点(特異点とよばれる無限)に立つ者であり、それは実に、無(全)という、法(美しさの元)のよるところなのです。 この無(全)だけが、光と影を越えるものであり、次元そのものを超えているために、一切を満たしているのです。ここだけが、法(美しさおよび、自然の源泉)を実現する、「あらゆる」という場所なのです。 そして、あなた自身は、唯一、あなた自身にとって知りえる、その、「あらゆる」なのです。 自分という場所に寸分野狂い無くぴったり立つこと、 それは、法の具現者であり、自然体を、満たしているのです。 また言っちゃったよ。 無にあって、法はありません。満たされているからです。 案外、法は美、無(全)は真、カオスは善なのかもしれません。違うかな(笑。 愛は、どこからくるんだろうな。法かな? 自然かな?両方だな。すべては、無の展開、そして法の展開へとめぐっているんだから。
俺は、毛虫も、ナメクジも、綺麗というか、見かけも、動きも、特に蛇なんか素晴らしいと思うが、危険である場合もある。これとバランスをとるのが、好奇心だと思う。ここら辺は個人差があると思います。 嫌いなのは、卵がびっしり産み付けられてるようなもの。 鳥肌が立つ。破壊したくなるが、触るのも嫌。そういう場合は、見方を変えて、岩石の一部や、景色の一部としてみます。それで収まります。 不思議に美しいのは、確かに自然です。 しかし、人間の腐乱死体、轢死体、水死体などが、俺の一番、近づきたくないもので、その次は、水中での巨大な異生物。これは最高に怖い。いるかとか、水中で見るとかなり怖いと思った。なれるといいが。 その次は、あたたかいウンコとか、げろ。これが嫌。 美しいと思うのは、自分の、発する自分自身、多次元的、超次元的な色々な色の波(時空)が、共鳴、和音、リズム、メロディ、光彩、闇、そのような様態を、世界中の波と複雑かつ無調に起こすことで、感じるものだと思います。 シンプルと思うのは、素直にそれと感応しているのであって、実際は、恐ろしく複雑で精緻な現象が、世界という存在を背後にして、自然というあり方でおこり、美しいのだと思います。 美しくないのは、必要でないもの。自分にとって必要でないものは、美しくありません。げろとか、ウンコとか。出すことは必要ですが、出されるものは必要ではありません。 非道な争いを醜いと思うのは、それが必要でないからです。 死体については、怖い、きもい、くさい、危険を感じるのかもしれません。しかし、それは、無駄な恐怖とおもわれる場合が、私には多いのです。枯葉だって死体です。枯れた人だと思えば、死体から、むだな情報を想起することなく、その死に顔を見て、適切な感応を示せるかも。 余裕(リラックス)と興奮のバランスは、美しさを感じるのには、必須だと思います。それは、波の揺らぐ幅の余地、適度な人間的余裕を生み出すからです。 余裕や興奮は、慣れや好奇心、知性、体力などの人間的な総合上昇によって発揮すると思っています。 >どうすればそのような人間になれるのでしょうか? 隠さない。あけっぴろげになる。精神的便秘というのがきっとある。それを、だそう(笑。 他人のたわごとは聞き流す。自分で見聞きする。そうすることで、思いやりというようなものも、より出てきます。自分に正直になるということか。 人との付き合いで言えば、その人そのものと触れ合うということでしょう。現代の多くの人は、いろんな、自分以外のもの(人の考えなど)に包まれて、ひどくなると卵の殻のようになってまとわりついています。封じ込められているように思います。不自由です。 外からは割れにくいが、中からは割れやすいのが、殻の力学的特性です。 中(自分自身で)から、割ろう。 自分の中の自然を意識することで、胎動が起こります。 後付の殻が割れて、やっと再スタートです。自分の中の自然が発揮されると思います。
お礼
本当に丁寧に回答いただきありがとうございます! ちょっと今の私には難しい所もありますがこれから自分なりに考えて行きたいと思いました。 回答いただいた事も参考にして行こうと思います。 ありがとうございました。
- may-river
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自然を美しいと感じる事から始まるのではないでしょうか? 命あるものはいずれ滅び、土に還ります。 限りある美しさというのは、感じ取るものの偶像に過ぎません。 アイドルのファンを例に取れば、 そのアイドルを自分のいいように想像して、その偶像に懐いているだけでしょう? もし、そのアイドルと結婚できる権利をもらったって、 アイドルそのものを愛するのは難しいと思います。 人間は、その偶像をものに表すのだと思います。 彫刻でも、写真でも、絵画でも、音楽でも。 限りある一瞬を永遠にする為に。 自然は、そういう芸術を創る術を、人間よりずっと昔から知っています。 だから、自然の美しさと人間の美しさは、本質的には同じだと思う。 自然を美しいと感じれる人は、人間も美しいと感じれると思います。 殺伐としたこのご時世、難しいとは思いますが どんな嫌な人でもいいところをちゃんと見つけて 一方的に嫌うのではなく ただ「存在」としてきちんと把握する それが第一歩だと思います。 勿論、姿勢を正しくするとか、歩き方を矯正するとか そういう事も大事だと思いますが。 思い込みは信用せず、事実をまっすぐに見つめる瞳 それがあれば、十分美しいと思いますよ。 どう、他人に見せるか、というのは また別の次元の話ですが……
お礼
お返事遅くなり申し訳ないです。 まっすぐ見つめる瞳・・何だか最近このようなフレーズから遠ざかっていたように思います。 もう一度良く考え最終的には自分なりに答えを見つけたいと思います。 ありがとうございました。
- tesshin
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こんにちは。 自然体がとても美しく感じます。 って、素晴らしい事じゃないですか。 あなたのこころがきれいだから、なんでもきれいにみえるんですよ。 いまのsimpleandcleanさんが自然体なんです。 だから自然体がどういうものか判るんです。 『愛』でも同じです。愛されれる事によって、『愛』がどういうものかわかるから、人を愛する事が出来るんです。 ゴメンナサイ!能書きをしゃべってしまいました。
お礼
お返事遅くなって申し訳ないです。 いえいえ、能書きだなんて・・ 皆さんのご意見がお聞きしたかったのでとても参考になりました。 ありがとうございました。
お礼
文明の中において尚 自然体を香らせる ことのできる方は現代のあらゆる触手に精通してらっしゃる方だと わたしは感じます。つまり そのような人間に なるためには 自然を知り 自分を知り現代をよく見聞きし 聡明に考えるということを 続けることだと思うのです・・・。 本当にその通りだと思いました。 私の言いたかった事を整理して代弁して頂いたと言うか・・・私もそうなれるように努力して行こうと思います。 ありがとうございました。