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修験道における寺・院・房の意味について

下記は文政年間に記された修験道当山派のある寺伝の一節です。 先祖平家の落人○○が真言宗になって△△房と名を改め、小庵を建立して神明宮を安置していた。 その後、文明三年に他所の神社に引越し、修験道となり、別当を勤めた。もっとも社地に居住していた。 その後貞享三年に寺山号を免許され、◇◇山▽▽寺と改めた。 また、別の寺の記述では◎◎院と名乗った後、寺山号を免許されたとあります。 そこで、次の点について教えてください。 1、「寺」とは、御堂・庫裏等、施設の総称、または住職・信徒を含めた組織の総称と理解していたが、修験道では施設・組織としての寺を持たず、神社に奉仕しているようである。 では、この場合の◇◇山▽▽寺は実質的に山伏個人を指すと考えてよいか? 2、「別当を勤める」の意味は、寺の運営を本務とし、神社奉仕を本務以外のこととして勤めていたということでよいか? 3、△△房、◎◎院とは施設・組織を指すか、山伏その人を指すか? 4、そもそも、山・寺・院・房の号は格式からみてどれくらいの差があるのか? 以上、よろしくお願いします。

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  • neil_2112
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回答No.1

1について。 施設・組織が整っていないのは別段修験道の特色ではなく、この時代ではむしろ当り前のことだと思います。文明と言えば15世紀中頃ですが、この時代では寺といってもイメージが異なると思います。官寺や有力者の菩提寺など特別な例を除き、小さな庵やせいぜいお堂程度が伽藍の実態でしょうし、信徒についても江戸の寛永年間に寺請制度が施行されるまでというのは、組織化されたものはほとんどありません。有力者の持仏堂が寺とされていた例も沢山あります。 ただ、山号寺名が許されたのが貞亨だということですから、これは既に檀家制度が施行されている時代で、信徒集団の組織も行われたでしょう。この頃は檀家制度で寺院の経済基盤が徐々に確立し、大きな伽藍が整備されていった時代でもあります。 関連性は少し薄いかも知れませんが: 参考質問「江戸時代あたりの小規模な寺について」 http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=343041 2について。 別当とは、言葉の本来の意味では、大寺院の寺務を統括する僧官のことです。後には大きな社寺に共通して別当が置かれるようになりました。ご質問の場合、神社の別当がその社地内に建てられた寺に居住したのではないでしょうか。実際これは別当寺と呼ばれ、少なからず存在したケースです。もちろん上に書いたように、現在イメージされるような寺にあたるものではありませんでした。 3について。 ~房というのは坊と同じような意味で、僧侶の居所である建物を指したのがもともとです。それが徐々にそこに住む僧侶そのものをも含めて意味するようになりました。“坊の主”である“坊主”が一般に僧侶を指す言葉であるのはご承知の通りです。 特に平安後期や鎌倉時代の頃になると、僧侶の一種の号として~房が名乗られるケースが多く生まれてきます。例えば日本達磨宗では「大日房能忍」、「宝地房証真」といった名前の僧侶がいたのですが、このように僧名にプラスする、いわゆる道号として~房が用いられるようになりました。対外的には「大日房」などと呼ばれたケースが多いようです。この場合の房には、本来の建物としての意味は薄くなっています。 院というのは、多くの場合、大きな寺に付随して存在する伽藍のことを指します。寺の一部として作られる場合には、ある特定の機能を持った建物(翻訳のための翻経院、授戒のための戒壇院など)となりますし、独立性が高い場合にはちょうど禅宗で塔頭(たっちゅう)などと呼ばれる寺院のようにほぼ別個の存在となります。 後者の場合には、大寺院の住職の隠居に際して新たに専用伽藍として建てられる場合も多かったために、〇〇寺△△院と言えば、当然伽藍を指すと同時に特定の個人を指す場合もあったわけです。(これは、ちょうど上皇の居所が院と呼ばれ、さらに上皇その人も例えば後白河院などと呼ばれたことと同じようなものでしょう) わが国では敬意表現のひとつとして、貴人の呼称を地名や建物でもって婉曲的に表現することが多くありましたから、建物をもって人をも表すこのような表現は馴染みやすかったのだと思います。 4について。 山号というのは寺の格と直接の関係はありません。もともとは比叡山など、寺の所在の実際の山名が寺名の前に冠されたに過ぎなかったのですが、後に中国の五大山にならって禅宗が山号を導入するようになり、平地の寺でも山号をもつことが一般化しました。さらにそれが各宗に広まったのです。 寺と院の関係は先に書いた通りですが、房という言葉はこれらと同列ではなく、宗教性よりも“僧侶の居所”、すなわち生活の場としてのニュアンスが強い言葉です。 余談になるかも知れませんが、江戸の慶長十八年には「修験道法度」が定まっており、これ以降、当山派は真言宗醍醐寺の三宝院門跡が本山とされて、仏教教団の参加に入ります。修験道の教義や儀礼が体系化する一方で、幕府の意向もあって山中宗教から里宗教へと変質を遂げて行きます。要するに、江戸時代以降に限れば修験道といっても仏教とかなり相即した存在となるわけで、ご質問のような内容については、特別難しく受け止める必要はあまりないのではないでしょうか。

totan
質問者

補足

3、4についてはよくわかりました。 また、「江戸時代あたりの小規模な寺について」の回答も大変参考になりました。ありがとうございます。 1、2について補足質問させてください。 以下は文政年間に当山派の寺僧(山伏)が自ら書いた寺伝です。原文のまま記します。 …(先祖は某寺の弟子であったが)寛文六年に○○村へ引越し、△△社別当と相成り、その後延享四年に寺山号御免許、◇◇山▽▽寺と相改め、尤も社地に居住仕り候、持宮十二か所別当相勤め居り申し候… イメージとしては境内内に社殿以外に別棟または棟続きで寺院(住居に仏壇を置いた程度のものも含め)があり、社殿には天照皇大神等、寺院には大日如来等を安置していた。こんな感じでしょうか? それとも、建物としての寺は存在せず、山伏その人、あるいは形のない寺格を指して◇◇山▽▽寺と称したのでしょうか? 私は当初後者の方と思っていたのですが(境内を調べたが独立した寺の遺構がみられなかったため。ただし、神職の住居は今もある)、上部の寺から寺山号を受けている以上、どんなに小さくとも大日如来等を安置する施設がなかったとは考えにくいと思えるようになってきました。 それと、別当の意味ですが「本官のある者が臨時に別の職に当る」ことですよね。 私は寺務が本務で社務は二次的であるから「別当」かと思いましたが、違うのでしょうか?とすれば神社別当を勤めた山伏の本務とは何でしょうか? すみませんがよろしくお願いします。

その他の回答 (2)

  • neil_2112
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回答No.3

>この場合、別当は「寺務を司る役」でなく「社務を司る職」と理解してよいのでしょうか どう説明すればよいのか困ってしまうのですが、神仏習合ということは、神仏どちらに奉仕しても畢竟同じことである、という了解が社会にあったということです。別当とは仏教の行を通じて奉仕する存在で、厳然と「寺務を司った」のが実態でした。単純なはなし、別当と言えば真言を唱え加持祈祷や勤行にいそしむ人たちだったのです。定住化する江戸前期の山伏は別当としてうってつけの存在だったことでしょう。 ただ、その呼び名はもともと神に奉仕する側の視点からつけられた名前なのです。要するに、別当とは「神の本地である仏・菩薩の供養を行うことを通じて神に奉仕するものと神道側から了解されていた存在」だということになります。 先にも書きましたが、別当はあくまでも神道側から“出先でも神に奉仕する”という位置づけを受けていたわけで、その意味で「別に当たる」職と認識されたのです。従って、別当とは社を離れてはあり得ないわけで、常に〇〇社別当、〇〇社別当寺と呼ばれたのです。 この呼び方が一般化してくると、社地に起居する僧が自らを「別当」と称するようになってくるわけですが、別当と聞けば大方の人間は、その実態に即して、社殿の傍らのお堂で真言を唱える僧形の者や験者を思い浮かべたでしょう。 >神明と大日如来が同一視されてきたことは承知していますが、この場合も寺は別物と考えた方が無難でしょうか 断言はしかねますが、恐らく別物でしょう。本尊という言葉が同じ史料中にあるのであれば、まず寺の存在を想定して間違いはないのではないでしょうか。 神明というのは言わば集合体としての神ですが、本地垂迹説では神明の本地に、人格をとらない言わば自然法則や宇宙の生成原理としての仏(法身仏)を想定しました。真言宗ならこれはご指摘のように大日如来ということになりますが、「この世界をこのようにあらしめるもの」として神明が仏式供養の対象とされる例は存在しています(ただ、読みは「ジンミョウ」とされています)。

totan
質問者

お礼

いつもながら丁寧で分かりやすい回答に敬服しております。 非常に答えにくい質問でご迷惑をおかけしましたが、おかげさまで段々と分かってきました。 どうもありがとうございました。

  • neil_2112
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回答No.2

別当という言葉にちょっと誤解があるようですので説明します。 別当とは本来は官職で、太政官令に基いて大寺の寺務を司る役をさしたものです。(別のご質問への回答で、この本来の意味の別当職補任状をご紹介しました) 後代になって神仏習合の盛んな時代になると、別当という職は神社にも生まれます。本地垂迹の思想に基いて社地内に寺が設けられるようになり、そこで勤めを行うものを別当と呼ぶようになるのです。 別当は社殿にまつられる神の本地にあたる仏の供養を通じて、結果的に神への奉仕を行う役目を担うわけです。この寺は別当が住むので別当寺と通称しますが、神宮寺とか神護寺といっても同じです。 別当は一般の僧侶の場合が多いのですが、山伏の場合も多くありましたし、神官の場合もありました。神社の側から見れば、山伏であれ一般の僧であれ神官であれ、あるいは俗人であっても、本宮以外の場所で神に奉仕する職、つまり「別の場で職に当たる」というニュアンスでこの言葉が使われるに至ったのでしょう。 (後代には俗別当という俗人の堂守をさす言葉も生まれています。民衆レベルでは、一堂宇を預かる立場の人であればあまり委細にこだわらずに広く別当と呼ばれました) ご質問のケースは、詳しい経緯はわかりませんが、恐らくまず問題の僧が現れたことを受けて社地に簡単なお堂が作られたのでしょう。建物が全くないのに寺格があるということは通常考えにくいと思います。宗教はやはり実態が先行し、後からそれが体系化・組織化されていくのが通例です。 恐らくそのお堂が別当寺とされて社殿の神の本地仏に対して勤めを行っていたわけですが、後にその実態が真言宗という仏教サイドに認可されることで山号寺名を認められ、体制に組み入れられたことになります。 遺構がないということですが、神仏習合でも軸足の置き方のウェイトによっては寺の扱いが小さい場合が少なくありませんから、神仏分離の際に跡形もなく撤去された例は沢山あります。ご質問の場合もそうかも知れませんが、神社への信仰が比較的高く、別当寺が独立的に信者を獲得しない状態であり、なおかつその土地の仏教排斥の動きが激越であった場合には、あたかも寺が歴史から消されてしまったように見えることもあります。

totan
質問者

補足

ありがとうございます。もう少し確認させてください。 補足回答前段では「別当とは本来は官職で、太政官令に基いて大寺の寺務を司る役をさしたものです。」とあり、 後段では「本宮以外の場所で神に奉仕する職、つまり「別の場で職に当たる」というニュアンスでこの言葉が使われるに至ったのでしょう。 」とあります。 そこで…… >恐らくまず問題の僧が現れたことを受けて社地に簡単なお堂が作られたのでしょう。 >……恐らくそのお堂が別当寺とされて…… とすれば、別当職とは寺務を司る職ということになります。 しかし、文政年間の寺伝には「△△社別当と相成り・・・」とありますから、この場合、別当は「寺務を司る役」でなく「社務を司る職」と理解してよいのでしょうか? また、この資料には多数の寺の由来が記されているのですが、居住する宮、兼勤する宮、何れの場合も「別当を勤め……」と表現されています。 とすれば、「本宮以外の場所で神に奉仕する職」でなく、これも単純に「社務を司る職」と考えた方がよいのでしょうか? >建物が全くないのに寺格があるということは通常考えにくいと思います。 これについて、前回の補足質問後、貞享二年の書上を入手しました(石川県図書館協会『加越能寺社由来 上巻』)。 いくつかの例をあげます。 1、私儀、承応三年山伏に罷成、本尊薬師如来安置仕、地子地に借家仕罷有候 2、私儀、承応三年山伏に罷成、至今年三拾弐年罷成候、本尊八幡大菩薩安置仕、▽▽村産神別当仕、宮地之内百姓中より申請居住仕候 寺号を受けていないこの段階では、寺の建物もなく、懐中仏のような仏を本尊として居宅で奉る姿が連想されます。 本尊は薬師如来、観世音、大日如来、正八幡大菩薩などが多いので、後に寺号を受ける段階では、やはり寺は別にあった可能性が高いように思われます。 ただ、まれにですが本尊を「神明」とするものがあります。 神明と大日如来が同一視されてきたことは承知していますが、この場合も寺は別物と考えた方が無難でしょうか? 以上、質問の仕方が悪くて聞きたいことがご理解いただけたか不安ですが、よろしくお願いします。 それと、恐縮ですが新たな質問についてもよろしくお願いします。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=522398

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