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「悔いる」は自動詞?
小学館『国語大辞典』によると「悔いる」(古語では「悔ゆ」)は自動詞に区分されるようですが、その理由がわかりません。 Web版大辞林では、自動詞/他動詞の別は記載されていないようですが、「前非を悔いる」という例文が揚げられています。 この場合の「前非を」は目的語とは言えないのでしょうか。 また、「悔いる」のように、一見他動詞のように思われる動詞が、自動詞に区分される例、あるいはその逆の例をご存じでしたらご教示下さい。 どうぞよろしくお願いします。
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お礼
今回もたいへんな労力を払って回答していただきありがとうございました。 おかげさまで「悔いる」については解決がついたと思っております。 その他の動詞については気になるのですが、自分なりにつきつめて考えることができました。 最後に長文の補足をつけることになってしまいましたので、 回答締め切りは1日程度延ばしたいと思います。 お気づきの点がありましたら、どなたでもご教示下さい。 回答いただいたみなさんに改めてお礼申し上げます。 ほんとうにありがとうございました。
補足
問題の部分を下のように整理してみました。 国=国語大辞典 第一版(小学館) 言=国語大辞典 言泉(小学館) 日=日本国語大辞典 第二版(小学館) 新=日本語新国語辞典(小学館) 広=広辞苑 第六版(岩波書店) 談=講談社日本語大辞典 第二版 明=明鏡国語辞典(大修館書店) 三=三省堂国語辞典(三省堂) 学=学研現代新国語辞典(学研) 旺=旺文社国語辞典(旺文社) ベ=ベネッセ表現読解国語辞典(ベネッセ) 国 言 日 新 広 談 明 三 学 旺 ベ 悔いる……自 自 自 他 他 他 他 他 他 他 他 恥じる……自 自 自 自 自 ● ● 自 ● 自 自 報いる……● 他 ● ● 他 ● ● 他 他 他 他 「悔いる」について、小学館の辞書は一貫して自動詞としていたものを、『日本語新国語辞典』(2005)で修正したと判断していいかもしれません。 とすれば、各社他動詞という判断で一致したことになります。 おかげさまで、胸のつかえがおりました。 以下は当初の質問からは逸脱する蛇足かも知れませんが、現時点でのわたしなりのまとめを書きたいと思います。 「報いる」について、さきの補足で疑問であると述べましたが、この3語の中で唯一、「報いられる」という用法が多少は自然な表現に感じられる動詞ではあります。 ?苦労が報いられる。――○苦労が報われる。 ×前非が悔いられる。――○前非が悔やまれる。 ×失敗が恥じられる。――○失敗が恥ずかしい。 しかし、これはふつうの意味での受身といえるかどうか……。 ○親切が人に喜ばれる。……ふつうの受身 ×苦労が人に報いられる。……ふつうの受け身は成立しない 「報いられる」という言い方がもし成立するにしても、どうもこれは受身ではなく自発の表現にちかいようで、これを「報いる」を他動詞とする根拠とはしがたい気がします。 ただ、『国語大辞典』には「恩を報いる」という用例があり、古くは「~を」を伴って普通に使われたのかもしれません。 そして、現在では「一矢を報いる」といった慣用的な表現としてだけ、古い他動詞の用法も残っているという程度のことではないでしょうか。 とすれば、「報いる」は自動詞に分類し、「古くは他動詞としても用いた」と注記するのが「現代語の」国語辞典としては適当かもしれません。 ただ、『国語大辞典』やそのもとになった『日本国語大辞典』は、現代語だけを対象とした辞書ではありませんから、●となるのは当然ではあります。 「恥じる」について、「~を恥じる」の用例には事欠かないはずなのに、多くの辞書が自動詞としている点は、依然不可解です。 「~が恥じられる」と受身の表現に言い換えにくいことが理由かも知れませんが、この点については次に述べるような理由で納得できません。 過去の質問のなかで、 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2576076.html の(回答No.3)が比較的有用な議論だと思われました。 「寂しがる」は、自動詞だという議論ですが、「母がいないのを寂しがる」という例は、「母がいないのが寂しがられる」と受身にすると不自然だとあるのも、「(子が)母の不在を寂しがる」と置き換えてみると「母の不在が(子に)寂しがられる」となり、この不自然さは例の無生物主語の受身を嫌う日本語の特殊事情によるものだということがわかると思います。 受身の表現に改めることができる動詞を他動詞とする判別法は一応の有効性があるようですが、「恥じる」「寂しがる」のように、非人称的な事柄を「~を」として要求するタイプの動詞の場合、判断が難しくなる(ぶれる)欠点があるようです。 ○「彼が友人の死を悼む(他動詞)」――?「友人の死が彼に悼まれる」 ○「ファンが選手の引退を悲しむ」――?「選手の引退がファンに悲しまれる」 ○「私が自分の無知を恥じる(自動詞)――?「自分の無知が私に恥じられる」 ○「子が母の不在を寂しがる(自動詞)――?「母の不在が子に寂しがられる」 これらの例で他動詞/自動詞の判断が別れている理由が私には納得がいきません。 もし、日本語の受身表現が、無生物主語を許容するとしたら、「家を出る」「空を飛ぶ」のような自動詞とされるものも他動詞と認められていたかも知れません。 仮想的に○「家が私に出られる。」 仮想的に○「空が鳥に飛ばれる。」 このような動詞は『国語大辞典』ではもちろん自動詞とされていますが、「他動詞」の項を引くと、説が分かれると解説されていました。 わたしは思い切って他動詞説を支持してみたく感じます。 確信はありませんが、そのほうが判断はすっきりします。 「~を」が使えるものはすべて他動詞と考えてよいことになるからです。