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人に対する普通・普通じゃない(異常)という評価・区別に意義があるんでしょうか。
あの人は普通じゃない、普通だ、変だ、変わっている。 こういうことを言う人がいますが、こういう評価・区別それ自体には何か意義があるんでしょうか。 語るべきなのは具体的に何が起こるかだと思います。 変だからどうのというのはいじめっ子の感情論と変わらないと思うし、普通かどうかが良し悪しの事だと思っているのだとしたら本末転倒な気がします。 なので普通だとかははっきり言ってどうでも良い話だと思うんですが・・。 もしかしたら人は取り合えずそういうグループに分けたがるものなのかもしれませんが。倫理の先生が、人は自分が普通だと思って安心したがると言っていました。 実際のところどうなんでしょう。
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>>倫理の先生が、人は自分が普通だと思って安心したがると言っていました。実際のところどうなんでしょう。 普通とか常識とかは思考の上でとても大切なことなんですよ。 普通という思考は大体、論理だってものごとについて考えることが出来るという意味なのですね。みんながそうしているから普通とか、みんながやっていないから異常という見方は思考的な見方ではなく眼で観た観察的な見方なんですね。倫理の先生は動物的群れとしての行動について述べているのでしょうが、人間は羊やヤギではないですからね。 普通というのは、みんなが同じ行動をしたときの様を考察した時、容認できる程度のことですね。容認できなければ異常という見方ですね。 状況にもよりますが、例えば、風呂の中でもぐって息を止める。これは何のへんなとことが無いように思いますが、これが日本中で行われた場合はどうでしょう。お父さんはなにしているのと聞かれて風呂の中でもぐって息を止めてる、と、どこの家でも答えられたら異常ですよね。 イスラム教はそんな異常がありますね。宗教というだけで思考が止まると、異常が正常になり、あのような世界(全員が同じ時間に礼拝する)が広がるのですね。だから常識とか普通というのは大切な思考なんですよ。
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- garcon2001
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人類の発展の歴史を紐解いてみればおのずと答えが出てきます。 人が文明を持たなかった時代、そこにはただ生きるためだけに生きた野生を優先させたものでした。そのとき、食料がとれない場合は、共食いをするという最終種さんが常にあり、なんびともいつ自分が標的になるかわからない恐怖と隣り合わせでした。 しかし、農耕が発展して、とりあえず食うものには不自由しないのが恒常的になると、人は安全性を社会に求めるようになり、人を殺すものに対して厳しい制裁を加えて、そういう危険性を社会から排除しようとしました。ここが出発点です。 「殺人はいけない」という基本原理は、この安全性を担保するという人類の基本的欲求から来ています。 すると、殺さない人が普通である、という常識が出来上がります。ここから発して、人々の安全や健康を脅かすような人間、そういうものを異端として排除しようとする。その流れが変容されて、現在の「普通のやつ」「普通じゃないやつ」というレッテル張りに発展したのです。もはや、安全を脅かさない存在でさえ、件の本能的原始的なところに端を発しています。
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私の予想に近いです。 いつの間にか手段が目的化してしまった感じですね。 世の中のとある人々の傾向だったり、一個人の特徴だったり。理解しにくいものは色々とあると思います。 問題があるなら誹謗中傷にならない範囲で批判すれば良いと思います。でも ○○は普通じゃない。△△は変態。××は駄目。何歳までアニメや少年ジャンプ見てるんだこのオタクが。 等等。まあ中身はなんでも良いんですけど。 論理を置いてけぼりにしたこれらのような曖昧な話であるなら、批判のための批判、正常のための正常でしかなく、それが理性的だとか真っ当だとかは思いません。 論理による善悪があってその上で正常異常の問題の感覚があるのであって、決して逆ではないと思います。 常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことだとも言いますしね。 もしかしたら。出る杭は打たれる、人と横並び・一緒。そういうのがあるのかもしれません。日本だし。 >ライフ >恋愛・人生相談 辺りで質問した場合も回答は同じでしょうか。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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【あの人は普通じゃない、普通だ、変だ、変わっている。】 という場合、単に変だ、変わっている。ということをいっていなく、いわゆる中華思想でのバルバロイ(東夷、西戎、北狄、南蛮)としてみる、見下す価値評価が伴っている事は、ご質問者の直観の通りですね。 【こういう評価・区別それ自体には何か意義があるんでしょうか。】 全く価値評価はありませんでしょう、寧ろ自分や大多数dとしている人たちの勝手な魔女狩りや異端狩りの、常套用語でしょう。 個性的生き方や自己の意思や、自分性を持つことを疎外したり、邪魔したりする機能があるだけのことば遣いですね。 意義ある魔女、異端、改革者、自己としての生き方。 こういうものを私は価値あると存じます。 仰せでの迫害的言動は、あしき(悪しき)村社会には今も昔も、人間界のどこにもあるやり方です。大衆という不明確な人間はいつ、この通弊を超克できるでしょうね。 個性的で、素晴らしい人格や思想家たちはこの、堆積した泥のような大衆と、どう戦うかがその課題で在り続けてきた人類の歴史です。
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学校の成績のことを考えた場合 普通=みんなの成績の総計÷みんなの人数 なので、普通だと思っているひと、普通ではないかもと思っていたひとがそれで安心するというのはわかりますよね。つまり偏差値がゼロということで、大多数が安心できるレベルです。俺はトップを目指す、という人間はそれでは安心できないと思いますが、それは例外でしょう。 >あの人は普通じゃない、普通だ、変だ、変わっている。 これは学業成績のことをいっているのではなく、多分そのひとの性格というか、普段のふるまいの有様を観察した結果としての、そのひとの癖とか人格にひそむ考え方が普通ではない、社会において浮いているというようなことを示唆しているのではないだろうかと推察できます。 >語るべきなのは具体的に何が起こるかだと思います。 ま、すでにある程度起こっていることの指摘なのでしょうが、現状にみられるわずかなそのひとの瑕疵などは充分社会において容認できることだ、と言われるのならその通りだと思います。 >なので普通だとかははっきり言ってどうでも良い話だと思うんですが・・。 ひとは多数集団にまとまることで生き延びてきたことがあり、普通という大集団に属しているという意識で一応安心するわけでしょう。 でも周囲集団における自分の位置づけにこだわり、その結果他人のふるまいに関心を強め、その値踏みに懸命なひとも多いことは確かです。集団のなかで更に生き残り競争を続けてきた人間の習性としては本来それが普通なんでしょうね。少数派をバカにするなど差別意識というのはその悪い結果でしょう。 既成の各種偏差値分析などには囚われず、他人は他人、俺は俺というように、個々の生を尊重して生きるべきだと私も思います。
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- wiz0621
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倫理の先生には負けるかもしれませんが、 デカルト先生が以下のような趣旨のことを言っていました。 人間は明らかに効率が悪いことであっても、普通を優先します。 思想、文化、習俗、宗教・・・これらのなかでもすでに論理として 否定されたものにすがる人も居るのです。 もちろん最終的には真理へと向っていくにせよ、その過程においては やはり普通が優先される。これが人間であり、世界の側に真理は 存在しないのです。 ちなみにその後、デカルト先生は世界の側に真理が無いんだったら、 実は俺の中にあるんじゃね?という思考を始めます。 これが、近代からの"哲学"の始まりです。 さて、デカルト先生が物事の真理を自分の内側に見つけたように 質問者さんも具体的に何が起こるかというアプローチから、 いずれ真理に到達したとして。 その後、どうしますか? もちろん、学術的な好奇心を満たすというのが目的であるのならば、 その真理を抱いたまま墓場へ行くのも良いでしょう。 ですが、社会に広めるということを考えたときに、最も障害となるのが やはり"普通"です。社会が普通を重視する以上、その真理が自動的に 広まることは、(少なくとも一人の人間の寿命という期間の中では) なかなか考えにくいことです。 もちろん、だからこそ、質問者さんの主張は 社会はそうあるべきではないというものだと思うのですが そういった「"普通"ではない考え」を広めるにはどうしたらよいのか。 ここで、最もその助けとなるのが、"普通"に関する知識なのです。 世界が受け入れるものは何か。受け入れないものは何か。 これを知らずして、「"普通"ではない考え」を広めることは不可能です。 ここにこそ"普通"に対しての価値があるのです。 もちろんそこで質問者さんの「"普通"」を曲げる必要はありません ただ、他者の"普通"を受け入れ、相手が受け入れられる部分を知る。 その上で初めて、真理、つまり質問者さんの「"普通"」を広める 作業が進むと思います。
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- amelielico
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要は多数派が少数派を「変わっている」とそうラベリングしているだけではないでしょうか。 自分(たち)とは違う。そう意識しているんでしょうね。 少数派が良いか悪いか、多数派が良いか悪いかは、「誰の何に対してなのか」という観点から見ると、それは相対的な評価であり、絶対的な良し悪しでありえないのは明確です。 ある個体に対して、その「変わっている個体」が良いか悪いかはどこまでも固有の「相性」でしか判断できない。 その本質的に異質な個体が、お互いを「糧」として共存共栄するか、「毒」として壊しあうか、それはお互いが独創的な関係性を創造できるかどうかに関わる問題です。 世に自分とは全く異質な「他者」が存在するということを「自覚」することの第一歩として「変わっている」と認識することに全く意味がないとは言い切れないとも思っています。 参考にしてください。
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そうですよね。正常とかそうじゃないとか。そういうので判断したり、異変に気づいたりということはありますよね。 上のほうで、現在の青少年に変化があるなら実態を明らかにすることが今後を考えることに役に立つという例が出ていますし。 私は何か観察的な見方について違和感を感じたんですね。