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障害者と健常者の言葉の区別・・・

 ここ数年、テレビドラマを見ていると、障害を持つ人を主人公にしたドラマが、多くなっている気がします。健常者に何かを伝えたくべく、しているのかもしれませんが・・・。  最近この事に関して思う事があります。  「障害者」と「健常者」という言葉で分ける意味・意義はどこにあるのでしょうか。障害を持ちたくて持ったわけでもないのに、区別される事自体おかしいと思うのですが。またこの他にも、「特殊教育」と「普通教育」等・・・・・!!  障害があるからダメとか、できないから特別扱いとか、健常者と違うからそれなりの差(不平等)をつけるなど、「マイナス部分でしか判断していない今の社会」に疑問を感じます。 みなさんの意見・考え・異論を聴かせてください。

みんなの回答

  • marutaka
  • ベストアンサー率23% (27/113)
回答No.9

なかなか難しい問題ですね。一つの例を挙げれば、例えば聾唖教育では今もって手話による教育は正式には認められていませんね。 あくまでも発音教育が基本になっていると思います。よって、聾唖の方は手話と発音との双方を学ばなければなりません。勿論、日本語発音教育が悪いという事ではなく、その方に合った教育方法があって然るべきだと思います。 要は教育の問題だと言えます。その人に合った教育方法を考えるべきであるにも関わるず、一元的にしか考えようとしない現在の教育方法に問題があると考えます。 一元的にしか考えなければ、それ以外の方法は排除される事となり、そうでなくてもハンディのある方には一層厳しい現実が待っていると言えます。弱者であるからこそ色々な選択肢を考慮し、そのハンディを補うべく環境を整えなければいけないのに、現状は逆に画一的教育方法を押し付けている観さえあります。問題の本質はそのあたりにあるように考えますが・・

az22hk
質問者

お礼

ご意見ありがとうございました。 「弱者であるからこそ色々な選択肢を考慮し、そのハンディを補うべく環境を整えなければいけないのに、現状は逆に画一的教育方法を押し付けている・・・」という考えに、少し考え直せられました。

  • think_i
  • ベストアンサー率38% (10/26)
回答No.8

 この世の中が、物理的な面でも精神的な面でも完全にバリアフリーにならない限り、区別は必要だと思います。  「健常者」は「障害者」が生活の中でどのような部分が不自由なのか、自分もふくめてほとんどの方が完全に理解するのは難しいし、「障害者」どうしでも同様でしょう。肢体不自由の方が視覚障害者の不自由さを視覚障害者自身と同じレベルで理解はできないでしょうし、視覚障害者の方が内部障害の方を同様に理解するのも難しいでしょう。同じ内部障害でも、HIVの方が呼吸機能障害の方のことを同様に理解するのも難しいでしょう。  もしハンディキャップに関係なく、区別無くみんなが暮らし易い社会になるとしたら、それはみんなが本当にわかり合えたとき。  相手のことがわからないと、気遣いできないですものね。どう気遣っていいかわからないから。  ということで、現状どうしても全てのひとが全てのひとに対して気遣いができている社会ではないので、既存の社会にハンディキャップをもった方が持つ不自由さを少しでも緩和するための手段として、区別は必要ではないでしょうか。 (誤解を与える表現があるかもしれません。すみません~)

az22hk
質問者

お礼

ご意見ありがとうございました。 この物理的・精神的両方の面が完全でなければ、本当の意味でのバリア・フリーは実現しませんね。参考になりました。

  • fuchikoma
  • ベストアンサー率17% (82/466)
回答No.7

障害モノのテレビドラマ多くなりましたが、中途失聴なのに喋れないとか、異様に読話がうまいとか、片足切断なのに義足ではなく車イスとか、思い込みでドラマを作っているのかな、とか思うときもあります。 さて、障害=ダメですか? 特殊教育はできないから特別扱い? 最近は統合教育がはやりですが、統合されることで平等に教育を受けられない方がいるのも事実です。ひとりひとりの実情にあった教育を提供するのが平等なのか、子ども全員に同じ教育を提供するのが平等なのか、そこは議論の的になっています。 障害は障害なわけで、障害者は逆立ちしたっていわゆる健常者には及ばない部分もあるわけですが、一概にそれがマイナス部分とはいえません。 マイナスと見えてしまうのは、偏光しているからかも知れません。

az22hk
質問者

お礼

ご意見ありがとうございました。 「ひとりひとりの実情にあった教育を提供するのが平等なのか、子ども全員に同じ教育を提供するのが平等なのか」という議論を具体的にする必要があると私も感じます。

  • critical
  • ベストアンサー率9% (7/75)
回答No.6

こんにちは。 う~ん、難しいですね。私は重度の障害者です。私は視力0なんですが、、、。特に分けられることに対しては考えたことないですね。 ただ、最近ドラマの影響か、こうでなくてはならない的な方が増えているように思います. 例えば,障害者用のトイレだと私などは広すぎてかえって使い難いのだけれど、不通のトイレにならんでいると障害者用のトイレに連れていかれてしまいます。 また、点字ブロックはあれはあれで、とても友好的なものなのですが、かかとが高い靴はいているとけっこう辛いんですよね.なれたところなどは点字ブロックだと遠回りなので、ついつい近道もしちゃうんです。 そんな時けっこうブロックの方にひっぱられたり、大丈夫ですって言ってもかえって怒られたりしちゃうんです。 確かに昔もそういうことあったとは思うのですが,やはり、最近ドラマの影響か増えましたね(苦笑)

az22hk
質問者

お礼

貴重な体験談とご意見に感謝します。 障害のお持ちの方の意見を聴いて、「障がい者」への思いやりやボランティア精神、活動のあり方について改めて考え直そうと思いました。ありがとうございました。

noname#6737
noname#6737
回答No.5

身体障害者ですぅ~ しかし、軽度(上肢5級)なので、日常生活に支障は無いし、この質問で想定されているような重度の障害ではないけどね。 そんなに深く考える事は無いと思うけどな。 実際問題として、区別は必要だと思うし。 障害者と健常者の差を、不平等とは思いません。 というか、「障害者」と「健常者」という考えは、障害がある人でも健常者と同じ生活ができるようにサポートするためのものだと思っているので。 区別して、何が出来なくて何が出来るのかを明らかにしないと、対策もとれないでしょう? 健常者と区別しないことが、逆に障害者の社会参加を妨げ、差別につながっていくと思うけどな。

az22hk
質問者

お礼

障害のお持ちの方の貴重なご意見をいただき、ありがとうございました。「このような考え方もあるのかなぁ」と感じました。

  • mokonoko
  • ベストアンサー率33% (969/2859)
回答No.4

受け入れる側として認識しないと社会が効率的に機能しないからです。 大人と子供の区別も同様です。 >「マイナス部分でしか判断していない今の社会」 その社会の捉え方の問題です。これは個々人の意識によるところが大きいです。 ドラマなどを見てマイナスの部分しか見えていないのだとしたら、それは非常に残念なことだと思います。

az22hk
質問者

お礼

ご意見ありがとうございました。

  • achouhi
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.3

私の意見ですが・・・ 「障害者」というレッテルが逆説的に「障害者」を守る、とは考えられないでしょうか。 仮に肉体労働において健常者と肢体不自由者との区別が存在しないとすれば、肢体不自由労働者は生産性において健常者よりも劣ってしまうために市場から追い出され 行政からは「あなたには就業能力がある」と言われて公的扶助を受けることもできません。 「障害者」というレッテルは「障害者の保護」という側面もある、と思います。 ま、こんな意見もあるということで参考にしていただければ幸いです。 masa0000さんの意見ですが >また、ソフト・ハード両面のバリアフリーが完全なら、障害者という概念は消えると思いますが・・・ 僕もそう思います。もし仮にコンタクトレンズや眼鏡がなかったら僕も視覚障害者の範囲に入っていたのかもしれません。

az22hk
質問者

お礼

ご意見をいただき、ありがとうございました。 「『障害者』というレッテルは『障害者の保護』という側面もある」という考えに、少し考え直される思いがしました。参考になりました。

  • masa0000
  • ベストアンサー率36% (462/1265)
回答No.2

こんばんは 私も同意見です。障害の程度も部位も経緯も人それぞれですから、それら全てをひとまとめに「障害者」と呼ぶのはどうかと思います。言葉の裏に「健常者に比べて劣る部分のある人」というニュアンスが見える気がします。 例えば視力の低い人であっても、眼鏡を使用することで日常生活に支障がなければ、その人を「障害者」とは呼びません。入れ歯も同様でしょう。サポートする機器を使用することで日常生活に不自由がなければ、障害者ではありません。 車椅子も同じ目的を持ったものですが、残念ながら今の社会には車椅子では移動できない場所が多すぎます。バリアフリーが完全でないため、障害者として扱われてしまう結果となるわけですね。(ハード面だけでなくソフト面のバリアフリーも必要ですしね。) 要は「日常生活のために何らかの人的サポートが必要な人」であるか否かが重要なだけだと思います。 また、ソフト・ハード両面のバリアフリーが完全なら、障害者という概念は消えると思いますが・・・ 長々と書き込みましたが、ちゃんとまとまっていませんね。「こういう考え方もある」程度に思ってください。

az22hk
質問者

お礼

ご意見をいただき、ありがとうございました。 特に私が納得しとても参考になったのが、「『日常生活のために何らかの人的サポートが必要な人』であるか否かが重要」という意見で、改めて「障がい者」の考え方を問い直しました。

  • TT250SP
  • ベストアンサー率41% (2393/5813)
回答No.1

そうですね「障害」という言葉は、昨今の状況を考えると望ましくないかもしれません。 どうしても少数派になるので、世間は「健常者」向けの世界にしかなりませんね。 私が訪問している家の「障害者」の方は、いくら「障害」という名前を違う名前にしても、結局見られ方は同じなので気にしていない…そうです。 また、その人がおっしゃるには、トイレの障害者用も、駐車場の障害者用も、どんどん使ってくれても構わないとのこと。 そういう気遣いの方が特別視されているようだ…ともおっしゃっていました。 多数派の人って、「何も見ないふり」してるんじゃないか?とは思ってます。 街中で車椅子見ても、道を譲るだけ。酷い人は顔を外らせる。 エレベーターのスイッチ押してあげるくらい、数秒なんだから、押せばいいのにって思いますね。 ただのハンディですもんね。お互い気持ちいい思いした方が幸せでしょうに。 もうね、病院とか役場が真っ先に気付くべきところなのに気付いているのか、知らんふりしてるのか。 仕方無いのかな? 一度でも入院してたり、福祉の仕事とかボランティアの経験をした人ならスグに理解できるのに。 体の健康な人ほど、心は不健康なんだろうか。 余談 このサイト、アンケート行為、論争は利用規約違反なので、質問文はあくまでも「○○が判らない」形式の方がいいです。 それと多種多様な人が居ますので、度々論争になります(質問者対回答者もあるし、回答者対回答者もある)論争になった、またはなりそうな場合は、一言止めるか、締め切るかしてください。 でないとRESばかり伸びていき、結論はでません(回答が成り立たない)

az22hk
質問者

お礼

ご意見をいただき、ありがとうございました。 ご意見の中の「体の健康な人ほど、心は不健康なんだろうか」というコメントに、ちょっと心があつくなりました。実感させられました。 最後に、このサイトの投稿などのご忠告を、懇切丁寧に指導していただきまして、誠にありがとうございました。

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