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教育者って・・。<学校の先生に質問>

僕は、高校生で、生徒会活動をしています。 生徒会活動の中で疑問に思うことがあり、教職員の方々に質問したいと思ったことがあるので、回答をお願いします。 昨年の君が代法制化の影響で、僕の高校でも君が代を卒業証書授与式(以下卒業式と記す)で流すことになりました。 先月の22日に校長先生が職員会議で、そのことを正式に教職員に伝えました。 そして、今月2日に生徒部の教職員から生徒会役員だけに伝えられました。 生徒会では、生徒への連絡が今までまったくされていないことと 校長先生は、君が代についてどう考えているのか? 校長先生から直接話を聞くことに決まり今月6日、校長先生と生徒会は意見交換を行いました。 そして、校長先生から平成11年度教育指導要領を見せられつつ君が代を卒業式で流さなければならないと記載されているので流すことを決めたと聞きました。それについては、校長先生の判断で決められるものではないということがわかりました。 その後、生徒への連絡が未だに無いということに対する質問をすると、校長先生は素直に謝罪してくれました。そして、卒業式までに卒業生への連絡を行うことと、卒業式の当日、その場で連絡が遅れたことに対するお詫びを卒業生&親族へ伝えると約束してくれました。 そして、卒業式当日・・校長先生は、生徒会との約束を破った。連絡が遅れたことを怒ったのに、校長から約束を破った理由さえ未だ連絡が無い。 職員会議で決めたことのようですが、生徒の代表者と約束したことをそんなに簡単に破っていいのでしょうか? 教育者って、生徒に勉強を教えるだけでなく、約束を守ることの大切さを教えることも仕事なのではないでしょうか? それができない教育者って何? 僕は、新学期が始まって校長と会う機会があれば直接質問しようと思ってますが・・・他の教育者の方々の意見もお聞きしたいので、回答をお待ちしています。

みんなの回答

回答No.8

確かに変です。人としての常識にかけていますね。

回答No.7

もうちょこっとだけ書かせてくださいね。 私も学生のころからあなた同様、「これが正しい!」「これはまちがっている!」と、ばかりにまっすぐな性格でした。ある面、(いまもその部分持ち合わせていますが)・・そんな、白黒でものを見てきた時期ありました。社会(就職)にでて一人歩き始めたころ、わたしの親(同年齢)にほぼ等しい方の発せられた言葉に非常に反発を感じたこと覚えています。私の常識からは考えもつかぬ上司(=大人)の理に叶っていない指示・対応にとまどいを通り越して怒りを感じたことあります。仕事をしていく中で矛盾や理不尽なことも数多く経験しました。そして、知りえたことは、世の中には必ずしも白・黒で物事を解決できるものではないと・・・ときとして曖昧にも思えるグレ-な部分もある。そして、その置かれている立場立場で安易に言葉を発することができない場合もあるということです。教育者なのになぜ?と、職員会議で話し合われたことと今回の卒業式での君が代を流したこと結果的には裏切られた形になってしまい憤慨されておられますね。お気持ち十分理解できます。教師という大人信じられなくなりそうですよね?信じられない、許せないこの気持ちだけは増幅しないでください。この気持ちが大きくなればなるほど、言葉を発することやめてしまいます。あなた方の今回受けいれてもらえなかった要望を少しでも受け入れてもらうために今以上に相手(学校側)に言葉を送ることやめないでください。信じれば、願いはいづれ叶うかもしれません。

回答No.6

補足読ませていただきました。 読んでいてまずうれしく思ったことが、一人の高校生が真剣に日々の暮らしの中で問題意識をもっておられること。わたし自身、過ごしている時間の中で『なぜ?』と、不思議に感じることや思えることをもつこと素敵に感じています。何も感じず何も考えずにただ無駄に時間が過ぎていくこともったいなく思います。いろんなことに『なぜ?』をもつことで人は立ち止まって考えることはじめます。次に自分の考えが正しいのかそれともどこか間違っているのかと思いが膨らみます。そこから、他の人は、自分が感じた『なぜ?』をどう感じ、どう考えるのかきいてみたくなります。その結果、コミニュケ-ションをはかろうと試みます。哲学のカテゴリ-には、なぜがいっぱいあります。そこをのぞいていて思うのですが・・・・いろんな意見をいろんな方々がお書きになっておられます。教えて!gooの主旨には反するのですが、『なぜ?』を探ろうとするとやはり議論を重ねなければよりよい答えは見つかりにくいです。議論の場ですから、相手の考えを真っ向から否定する意見もたたみうけられます。しかし、そこに於いてさらに否定された側が言葉をなげかえすことによって、お互いがいわんとすることや考えが少しづつ理解できていきます。しかし、だからといって自分の意見をすぐさま翻すということはあまりありませんね。言葉を交わしあう中で、相手のことを認められる部分が大きくなるんだと思います。前にどなたかがおっしゃっておられましたが、相手の意見を否定しても相手のこころだけは傷つけない配慮だけはしたいと・・・あなたが新学期に入られて校長先生とお話をされるのであればこの点だけは心にとめて置いてくださいね。 少し前置きが長くなりましたが・・・ 正直に申し上げます。この君が代斉唱がクロ―ズアップされた当初、わたしは反対派でした。新聞紙面でこのことが、義務づけられると知った折には地方紙ですが社会部に抗議したほどでした。と、いうのも・・・これからの子供たちに君が代を斉唱さすことで、過去の歴史背景からして君が代=戦争を思い起こさせる、そのことによって子供たちが将来、外国からある部分いわれなきバッシングをうけたり、過度の賠償責任を負わされるのではないかと危惧しました。過去の戦争において傷を負ったかたがたのこころを今まで以上に逆なでするのではないかと・・・そんな思いから君が代斉唱の義務付けに過敏に反応しました。では、なぜ?ある面、全面的に反対ではなくなったのかというと・・・時間が経過していく中でいろんな方々とこの問題について意見を交わしました。その中で、考えさせられたのが文化・伝統というものが廃れゆく今日、途絶えことは簡単であるが、復活、継承することは容易ではない。 おおきくとらえて、日本人の日本の文化の大切さに考えさせられる点が私の気持ちの中に芽生えました。はじめに感じた『君が代斉唱』=『日本バッシング』これもよくよく考えてみれば、君が代を耳にすることで不快感、過去のいまわしい記憶が蘇るといわれる方のお気持ち、お立場からの声を100受け入れ自分(日本人)の気持ちは汲み入れない。なんかへんです。相手を慮ることとても大事ですが、それは両者に言えること。ならば、それによって日本の文化が根絶えてしまうことおかしいです。両者が歩み寄ることが第一だと考えます。諸外国で反日感情を抱かれておられる方々にあなたは歩み寄られましたか?と、わたしは問いたい!好きだ!嫌いだ!だけでは、よりよい方向に話はかわっていきません。 上で書きましたような思いが私の中ではあります。強制的に卒業式で君が代を流されたことについては、それぞれの立場があって校長先生一人をやり玉に挙げ物申してもよい結果が生れるとはいまの現状では、難しいです。ならば、来年の卒業式に向けてまずは真剣に君が代についてもちろん社会背景やそのたもろもろのことまで話を掘り下げて考えてみて下さい。学校でまたはご家庭に持ち帰り幅広い意見をたくさん集めてみて下さい。出揃った意見を一つの調査書のようにまとめあげ、それに加えて署名も集めてください。できれば、最低3部コピ-をとって一つは学校へ もう一つは、県教育委員会へ、最後の一つは文部省宛てに送付してみて下さい。必ず、何らかの回答をお願いしますと・・・書き添えてください。言ってもどうせ握りつぶされると思わずにこの機会に、幅広い意見に耳を傾けられてください。きっと、あとになってあなた自身を大きく成長させたひとつのステップになることでしょう。はじめてみてくださいねぇ。

回答No.5

 なるほど。そういう事情があったのですね。これで私の心情はぐぐっとあなた寄りに動きました。  とはいえ、校長先生の立場そのものは、前回の書き込みで触れたようなものとそう変わらないはずです。校長先生としては、学校にどのような生徒さんが在籍しているか、その状況を充分に知ったうえで、約束を破ってしまっているわけです。相当に身の処し方が難しいのでしょう。それはわかってあげてほしい。この点についての私の意見は、変わりません。  では、どうするか。  「話し合ってみてほしい」…kuri5さんのご意見に賛成です。それでは、どう話をするかについて、少し具体的に考えてみましょう。  上で触れたように、校長先生の立場は難しいのでしょう。それを考えると、約束を破った校長先生をただただ責めるのは方針として得策ではありません。君が代・日の丸の強制という問題は、誰が悪いのかと言えば巡り巡って文部省(現・文部科学省)が悪いんですから。ですから、その責任を追及する「糾弾型」の話し合いではなく、妥協点を探る「ネゴシエーション型」の話し合いを持てないでしょうか。  補足の「人間として教育者として」という言葉に、あなたの怒りを読み取ることができます。わかります。わかりますが、校長先生としても身動きがとりにくいのです。  ですから、あなたたち生徒会の方から、校長先生にも呑んでいただけるような具体的な提案をしてはどうでしょう。「妥協点」を見出せるような。  例えば「非公式な場を設けて説明・謝罪をしてほしい」とか。「非公式な」というところがポイントです。後で教育委員会などからケチがつけられないように、言い換えれば校長先生の立場を危うくさせないように。そのような配慮を含めた提案をすれば、受け容れられる可能性は高くなるでしょう。もしこれが受け容れられて、うまくいけば、あなたたちも「君が代を聞きたくない在籍生徒の納得」という利益を獲得できます。校長先生も責任を問われないで済む。  「ネゴシエーション型」議論の真髄は、「相手から利益を得たければ、相手の利益を考え、配慮する」です。ちょっとした発想の転換です。感情を鎮め、冷静になりましょう。いやいっそ、「冷徹」になりましょう。相手に対しても、自分に対しても。  その上で、具体的な代案(「ではこうしましょう」)を出すことです。できるだけ重層的に、代案を用意しましょう。それを相手にぶつけてみて、相手にも考えてもらいましょう。その反応から、相手が何を求めているか読み取りましょう。そしてそれを配慮しましょう。配慮した上で、一歩も引かない構えを見せつつ、引かねばならないと判断したら引きましょう。そして次の防御線へ。これが基本です。  わからないことがあったらどんどん「補足」してください。私でよければ、いくらでも応援します。

回答No.4

君が代って、ここ最近とっても悪者扱いされていますね。『君』の捉えかた一つでいろんな方面に物議をかもしだすからかしら?ちょっと、残念に思います。詩の言葉とっても素敵な表現いっぱい使ってるのに・・・日本のたくさんなくなろうとしている昔からの文化とでもいうのかなぁ~大事にしてほしいのに・・・源氏物語、古今和歌集・・・etc日本には昔から素敵な言葉の言い回し、表現方法があります。世間の流れに流されないで、ここで一つ考えてもらえませんか?日本の文化そのよさを知った上で君が代の是非を問われてみてはいかがでしょうか? 質問の答えになっていませんので、申し訳なく思います。 私は、一般人です。高校生のあなた達にこれからの世の中をどうみていかれるのか そのためには、幅広い目をもっていろんな決断を下していっていってほしいと考えたので書き込みさせてもらいました。流されない自分の目をこれからたくさんのことを経験されて養っていってほしいという願いからです。失礼しました。

norota2000
質問者

補足

回答ありがとうございます。 うちの高校でも、君が代を卒業式で流すことを賛成されている方がおられます。 その方々の考えをどうこう意見するつもりはありません。 君が代をすばらしいと思うのであれば、思えばいいと思うのですが・・・現場の教職員や生徒の意見も聞かずに、強制的に君が代を流す行為を理解することが僕にはできない。その学校が議論し、その結論が卒業式に反映されるのであれば、それでいいと思うし、それが当然のことだと思います。 ただ、うちの高校では反対派の方のほうが多く、現場の意思に反していると思うのですが、それを強制的に流すことについて貴方のご意見をお伺いできますか?

  • kuri5
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回答No.3

「強制的につれてこられた人々が今回も日本の学校に在籍しているという理由で強制的に君が代を聞かされることに関して、きちんとした説明するべきだ・・」 そういう、具体的な状況があったんですね。それならば、説明するべきでしょうね。しかし、反対する職員の意見もあるでしょう。校長の英断を期待しましょう。 話し合ってみてください。 「説明できないなら、どうして日本はそれをするの? 」 説明できない、しないのは、校長先生でしょう? 校長先生が説明できるのは、 「法制化されたことにより文部省などからの指導が厳しくなったために、日本のほとんどの学校で君が代が、半強制的に流されることになりました。校長の権限では、何ともしようがありません。・・・」 それ以上期待するとすると、 「君が代や日の丸に関しては、戦争を背景として複雑な問題があり、職員も生徒もひとりひとりが考え、日本中で議論するべき問題だと思います。」 ということでしょうか。日本がやってしまった、戦争に関する問題については、学校の校長として説明することはできないでしょうし、それをしないからといって、攻められることではないと思います。 「日本がした」とすると、あなたも私も含めた日本人の総体がしたこととなります。対韓国であれば従軍慰安婦問題も含めて、日本が謝罪した、していない、補償するべき・・・という議論には、結論が出ていません。 南京大虐殺等も含めれば、最近の教科書問題もあります。 こういう問題については、日本人として私たちが考え、在日韓国人も含めて議論していくべき問題でしょう。 日本としてどう結論を出すかについては、政治問題になりますので、ますます、校長先生や教育者個人の問題ではないですよね。 さらに、教育基本法の第8条の2項には、 「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない」 と定められており、政治的に決着していない問題について、教育者として対応することには限界があると思います。 これを機会に、生徒会でこの問題を考えるシンポジウムでも企画してはいかがですか。 参考に、以下に、弁護士会や各新聞社、各政党の考え方がのっていますので、考える材料になると思います。

参考URL:
http://www.jca.apc.org/~kaymaru/Hinokimi/link.html
回答No.2

 教職員ではない一般人ですが、一言。  まず、「約束を破った」という一点において、校長先生はまちがっていたと思います。  ですが、反面、校長先生の苦しい立場も理解してあげてほしいと思います。質問の文面から見る限り、その先生は必ずしも生徒の意見に耳を傾けない、ただ単に権威的な方ではないように感じました。卒業式で「連絡が遅れた、結局しなかった、事情説明と謝罪に触れなかった」という件についても、他の先生方と話し合われて決めたのでしょう。  校長先生から説明を受けたそうですので、事情はおわかりだと思いますが、卒業式等において「日の丸・君が代」を掲揚・斉唱させる、させないを決める権限は、校長先生にも学校にも与えられていません。地区の教育委員会の権限です。その教育委員会もまた、指導要綱に縛られています。逆らえないのです。  それはおわかりでしょう。  ならばせめて、そうした事情を説明する一言を卒業式の校長挨拶で触れてもよかったかもしれません。ところが、そうした一言自体が、後日また教育委員会等の場で物議をかもすこともありえます。誰かがどこかでペナルティを受けることもありえます。校長先生が「結局、約束を破った」本当の理由は、私にはわかりません。が、理由としてはそのようなことが考えられます。  生徒会として、生徒の代表として、校長先生と向かい合い、堂々と意見を述べる。そうしたあなたたちの勇気と真摯な姿勢を、私は称えます。素晴らしいことです。  が、校長先生の立場から「日の丸・君が代」の件に深入りするのは、その何倍もの勇気が要ることなのです。いやな言葉、できれば使いたくない言葉ですが、「大人のしがらみ」があるからです。  今度、校長先生と話をするときには、そうした先生の立場への理解も気持ちのどこかに持った上で臨んでいただければ、と願います。  以下は蛇足ですが。 私は「愛国心」は大切だと考えています。が、日の丸を仰ぎ、君が代を歌うことが、そのまま「愛国心」だとは思っていません。もちろんそうした愛国心の表明も、一つの形です。が、かつてその旗の下で、その歌とともになされた蛮行の数々…これを思い、これを反省する気持ちを持ちながら、その旗を仰ぎその歌を歌うことも、また一つの国の愛し方だと考えます。  また、個人の確固たる思想の表明として、日の丸・君が代に対して起立と斉唱を拒否することも許されてしかるべきと考えています。が…、卒業生や父兄ならともかく、教職員がこれをやると職場での立場が悪化し、極端な場合には退職を迫られるという現実もあります。悲しいことに、これが現実です。

  • kuri5
  • ベストアンサー率75% (3/4)
回答No.1

私は、31歳の会社員ですが、私たちの世代でも、君が代問題ってあまりピンと来ないものです。ましてや、今の高校生や小中学生には、戦争当時の天皇制や挙国体制、その後の敗戦、新しい憲法に新しい教育基本法の制定などの問題や背景については、簡単には理解しにくいものがあると思います。 私自身、仕事の関係で(学校関係者ではありませんが、学校に関することを調査することがあります)学校教育について考えることがありますし、会社の先輩と話をすることもありますが、君が代問題に対する自分の見解や意見が固まっていません。50代、60代、それ以上の方でも、意見が分かれるところだと思います。 意見が分かれるところを象徴していたのが、長らく続いていた教職員組合および日教組VS文部省や都道府県、市町村教育委員会のイデオロギー対立です。近年になって、日教組と文部省(現在文部科学省)は和解し、最近では、協調路線でいます。 しかし、その末端組織であった各地方の教職員組合は、権力への反発意識が強く、特に、戦争時代の国を挙げて戦争に突入していった象徴である天皇をたたえる「君が代」を教育の現場で歌うことに、抵抗感が強いという現状があります。 以前にある地方で、文部省の指導と教職員組合の反対の間に立たされた、いわば中間管理職のような状況である校長が、君が代を卒業式で流すかどうかの瀬戸際にたたされ、悩んだあげくに自殺したという事件がありました。「国旗および国歌に関する法律」で君が代を国歌と定め、文部省が学習指導要領で君が代を式典で流すことを定めたのは、この事件が象徴するような、現場における国の意向と職員や生徒、保護者の対立が背景にあります。また、「国旗および国歌に関する法律」は、国民の間でも議論が不十分なまま、与党多数の国会で可決されたということが、現在でも君が代問題がすっきりとしていない状況を生みだしているとも言えます。 norota2000さんの学校の状況はわかりませんが、一般的にはこのような状況があり(解釈が違うという方もいると思います)、職員会議で生徒との約束を反故にすることが決められた、という話をききますと、同じような状況があるのではないか、と推察されます。 ですので、約束を破ったことは、人間として、教育者として、攻められるべきことだとは思いますが、君が代問題については、個人的なモラルを超えた背景があることを理解してあげることも必要だと思います。その上で、理性的に校長先生がどのようなお考えをお持ちなのか、なぜ、約束を破ったのかについて、質問されては、いかがでしょうか。

norota2000
質問者

補足

うちの高校は、下は15歳から上は80代の方まで様々な年齢の方がおられます。その中には、日本人以外に在日韓国朝鮮人の方や日本国籍以外の方々多く在籍しています。その方々の中には(日本人の中にもいるけど)、君が代を聞くだけでも嫌だという方が多くおられ、その方々にきちんと君が代を流す理由を説明し、理解してもらうのは無理だと思うができるかぎり理解していただけるよう努力してもらいたいと伝えたんです。その結果、校長が生徒に卒業証書授与式できちんと経緯と君が代を流す理由を説明すると約束してくれたのです。だから、生徒との約束を破ったことも人間として教育者として攻められるべきだと思うのですが・・・在日韓国朝鮮人の方々は日本に強制的に連れてこられたという経緯があり、強制的につれてこられた人々が今回も日本の学校に在籍しているという理由で強制的に君が代を聞かされることに関して、きちんとした説明をするべきだと考えて説明をもとめたもので、それを説明しないということは、説明できないと取ることができてしまうんですが、それって説明できないことですか? 説明できないなら、どうして日本はそれをするの? 高校生のふとした疑問・・・補足でした。