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生まれつき感音性難聴によるコミュニケーションの困難
- 生まれつき感音性難聴のため、音をはっきり聞き取ることが難しく、コミュニケーションが円滑できない状況にあります。
- 補聴器の使用ができないため、見た目は健常者ですが聞き取りにくく、自分の個性として受け止めていますが、周囲の扱いに悩んでいます。
- コミュニケーションがおぼつかないことにより、おもしろがられたり低い扱いを受けることがあり、自分の尊厳を保ちたいと思っています。
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質問者が選んだベストアンサー
質問者さまと、ほぼ同様の状態であるかと思われる者です。 たまたま こちらの質問を お見かけしていて、すぐに投稿をという気持ちでしたが、同時に、自分自身の辛さを思い起こし、改めて正面から向き直す必要のあることですから、ちょっと疲労のために見合わせておりまして、まだ閉じておられないのを確認しましたので参加させていただきますね。 すでに良い御回答が ついていますが、お気持ちは いかがでしょうか。 お仕事なさっておられるようですので、それなりの年齢の かたなのだろうと思っていますが、それでも、まだ お若いと言える御年齢でしたら、この先のことを思いやられて、悩ましい ご気分になられるのも無理はないと お察しします。 どのような障害でも、内部障害というのは、外部に あらわな障害とは また違った苦労が つきまといますね。 まず、職場での根回しや くふうは、これまでにも なさってきておられるようですが、これからも、よく お考えになって、できる限りの努力は継続なさってください。職場のため、職務遂行のためのみならず、御自身を守るためでもありますから。 補聴器のことですが、質問者さまと背景事情は共通しており、私も使用するにあたっては、メリットよりも、ある種の苦痛や煩わしさ、状況に よっては、不都合のほうが大きく伴います。 私の場合、生まれつきではなく、幼児期からで、薬害らしいのですが、母が、どうしても私の障害のことを認めるに抵抗があったようで、補聴器も障害手帳申請も、かなりの年齢になってから とりかかりました。 同じく聴覚障害を持つ知り合いは、生まれつきで、私よりも もう少し程度が重いそうなのですが、そのぶん、補聴器は早くから親しんでいたらしいのに、やはり、使用中はキツイ、つらい感覚があると言ってました。そのため、勤務を続けることが できなかったとか。 補聴器で補うことを諦めるのでしたら、そのぶんも、他の面での くふうは重大です。 さて、一番お苦しみかと察せられますコミュニケーションのことについてですが、私が若かった頃と比べると、それでも昨今は、聴覚障害者が主人公の映画などの影響も手伝ったか、世間の理解度も、かなり改善されてきているという感じが します。 むかしは、ちょっとデパートなどで買物を するときに、どうしても うまく いかないので、こちらが筆談を お願いしても、露骨に厭そうな顔をするケシカラン店員も おりましたが、近頃は、こちらが「耳が不自由ですので…」と言いかけたが早いか、サッとメモ帳とペンを とり出し、意欲的に向き直ってくださる人に、感激することが増えました。 それでも、皆が そうということはないですし、職場でしたら、いわゆる「健常者」であろうとも、気が合わないことが原因で、何かと隙あらば足を引っ張り合うということが ままあるものだと思いますけれど、そうした事情は、障害者と言えど、いえ、だからこそ、それ以上に降りかかってくるもので、いまは、やっと晴れて?障害手帳保持者として堂々と?しておれますものの、母の意向により、いわゆる「健常者」のフリをして自分を偽って生きてきた私も、若い頃から、何らかの理由で気に入らないと相手に思われてしまったが最後、たとえ仕事のうえであっても容赦なく、障害に つけ込まれた妨害を受けることが珍しくは なかったので、そうとう怯えながら暮らしていた時期が長かったです。 人の弱点を嗤う人は、相手が障害を持つことを知ったら知ったで、それ自体も蔑みの理由にします。 そういう人は、障害の ために、やむを得ないのだからという視点を持ちません。持とうとも しません。 たとえば格闘技などの世界で、対戦相手のケガをしている部分を狙って集中攻撃するなどは、どう みてもアンフェアじゃないかと思うのですけど、生き残るためには、どんな汚い手でも使うといった、そういう側面が、この世には あることも隠しおおせない現実です。人間とは言え、獣性を感じさせるところです。 本人自身が内心の底で劣等感を隠し持っている場合、自分にすら できることが この者には できないのだ、と なれば、障害であろうが、その他の弱点であろうが、等しく蔑みのネタに しますよ。 私は、質問者さまと同じような状態に陥っていても、障害者であるということを自他共に、まともに認識していなかった時期が大変長かったですから、ただ ただ自分側の至らなさ情けなさに原因があるのだという感覚で おりましたせいか、甚だしい事態の ときは、相手に、ハッキリ言って知能障害者扱いされたりもしました。(実は、知能指数自体は、そうとう高いのですが) 一番もどかしい思いを させられ続けたのは、わが実の親とくに母親からは、「オマエには障害などというものは ない、障害手帳申請?そんなもの必要ない。なぜならオマエは横着な性分だから、努力が足りないから聞こえないのだ」「聞こえているのに、聞こえないふりをしているだろう、そういうのを勝手つんぼ だと言うのだ。そんなことだから人に嗤われるのだ」などと責められながら育ちました。 おそらく質問者さまも、聞きとれるときと、そうでないときの格差が大きく、そのため誤解を招きやすくも あり、焦れば焦るほど、ますます聞きとりにくくなり、ますますオロオロと戸惑い、果ては硬直し、まさにドツボに嵌まった、と言いたくなるような悪循環の悪夢のような ご経験を たびたび してこられたことでしょう。 そういう言わば「負の経験」とでもいうようなことを積み重ねてきておりますと、凹み続けなわけですから、なんとなく、どことなく、いかにも自信なさげな雰囲気が出てしまってるとすれば、もう それだけで舐められてしまいそうですよね。 で、そういう場合に、どうしてきたか。 いっしょうけんめい、こちらの事情と、考えていることを何度でも説明し直し、理解していただけるよう食い下がる。私が若い頃、努力してみたことです。しかし、この やりかたでは、ますます侮蔑のみならず、鬱陶しがられるという事態まで招きかねないことでした。 今度は、どうせ私がガマンすれば いいこと、誰にも わかってもらわなくて けっこう、と開き直るという、極端から極端へと揺れ動いていたこともありました。 そうですね、、、「蔑みたがり」の人には、どうしても軽侮され続けることを覚悟しなければならないのかもしれません、それでも、仕事などで否応なく関わらざるを得ない相手でしたら、その軽侮される状態に負けずクサらず卑屈にもならず、精いっぱいの誠実を示し続けることです。 そうしているうち、そこに多少の同情心なり、良心の呵責が、相手に僅かに芽生えてくるのでしょうか、蔑みつつも、最低限の必要な対処は、かろうじて、とってくれるように変化してくる場合がありました。そうしているうち、時間が たつに つれ、あなたの誠実如何と、実績の現れによって、今度は逆に、蔑んできたぶんまで見直してくれて、何かと肩入れしてくれる側に変わったということもあるのです。まあ、そこまで行くのが並や大抵ではないのですけどね…(苦笑) もっとも、どうやってもダメであることのほうが多いというのが私の見てきた厳しい現実でもあります。 そういうときは、私は、あるていどまで きたら思い切って切りあげ、最後に、嗤う相手をジッと冷たく観察するように見つめてから、立ち去るということも してきました。 おたおた しないこと、蔑みや嗤われることを怖れないことです。 そもそも、考えてもみてください、障害を持っているからといって、そのために、なにを罰せられなければならないというのでしょうか。 恥ずべきは、自分の基準や尺度、自分に与えられたものだけでしか ものごとを考えることが できない者のほうなのです。本当の「障害」とでも言うべきは、その料簡の狭さ、拭いきれぬ劣等感の深さのほうでしょう。 私は、こういう肉体で、こういう条件下、それでも誠実に やっております、という、それだけのことです。 堂々としていてください。 私にも、同様な障害を持つ人たちから得た様々な情報は貴重でした。健常者のフリをしながら、あまりに長年やってきましたから、知らないことが多過ぎたのです。 しかし、慣れている「健常者」の友人知人よりも、むしろ同種の障害を持っている人たちのほうが、なぜか仲間に入っていきにくいのです。質問者さまが、そういう お仲間を お持ちでしたら、できるだけ大切に。 聴力障害とくに感音性などは、たいがいの人が老齢に なれば、他人事で なくなります。実際、老年になってから聴力障害に なられた かたが、可愛がってきた お孫さんに疎まれ侮られ、家族のなかで、ひとり団欒の会話に加われない寂しさを訴える話を拝見したこともあります。 さきの御回答者さまも触れておられることですが、私も常々言ってきたこと、 「あすは、我が身」です。 最後に このことに希望を持っていただいて よろしいと思うのは、 やはり場数と言いますか、経験と言いますか、まだ若い年齢の かたで いらっしゃるなら、試行錯誤しながら修行していく気持ちで長年やってきて、フと気づくと、あらゆる状況や場面で、自分なりの くふうや、ピンチの切り抜けかた、かわしかた、ひとに対する上手なアピールを多かれ少なかれ身に つけてきたのだという実績を、驚きと喜びと共に発見できる日が あるであろうということ。 そのときには、質問者さまは、ひとまわりも、ふたまわりも大きく強くなっている御自身に気が つかれることと思います。同時に、ご自分を、ご自分の障害を恥じる必要など ないのだという自然な実感を。 他にも何か お尋ねになりたいことなど あるようでしたら、私に できる限り、戻って来ますので、どうぞ御遠慮なく。 それでは、こんなところで。。。
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- sasimiumai
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No.1です。 回答のお礼をありがとうございます。 貴方への回答になるかどうかわかりませんが、真面目に書きますので読んでくださいね。 私は小学校まで、とても成績がよく優等生でした。 周囲もそういう目でみていました。 でね、そういう目でみられていると、悪いことなどできずに 更に期待に応えようとするのですね。あれって不思議ですね。 で、中学に入ったら突然自我に目覚めたのですね。 あれー小学校までの僕は本来の自分ではないんだ、周囲に応えようと自分を飾っていたんだなと思ったのですね。 そうしたらはじけてしまって、伸び伸びとしてきたのですね。 もう楽しくて楽しくて、悪いことも一杯しました。 その頃から、こう思ったのです。それはですね、人の評価なんてものは100人いて、100人などに好かれない。100人いたら51人に好まれて49人に嫌われてもいいんだと。もともとが好かれようなんて思ってはなかったけどです。 ですから、人の評価なんてものは、たとえばですね、僕が犬をかわいがっている様子をみた人は、なんて、やさしい子なんだ。すごい勢いで喧嘩をしているところを見た人は、なんて乱暴な子なんでしょうと。同じ人間であっても、その時点で評価など、まちまちに捉えられてしまいますよね。同じ人間なのにね。 ですから、人の評価など気にすることはないと、あるいは意味がないと。中学生のときからそういう気持ちで今まできました。 長くなりつつありますね。書いていることがね^^ 開き直りが必要であるということです。^^ たとえばですね、私は頭が悪いです。よくみせようなどと 思ったことはないです。背伸びしたところで疲れてしまいますよね^^ こう書くと健常者だからそんなこというんだよ。私の気持ちも知らないでと言われるかもですが。ここは健常者であろうがなかろうが 同じではないでしょうか^^ いかかでしょうか。 まとめますね、貴方をきちんと理解してくれる人がいれば よろしいのではないでしょうか。 100人いて、51人が理解してくれればいいのではないでしょうか。 だめですか^^ なにかありましたら、又書いておいてください^^
お礼
お礼が遅れ、大変お待たせをしまして申し訳ありません。 私にとって心強い、貴重な体験談をお話しいただきありがとうございます。 そうですね、そう言われるとなぜその時にこだわっているのだろうという気持ちになります。 もっと自分が自分を大切にしなくてはいけませんね。 お時間を割いてアドバイスをしていただいた事に感謝をしています、本当にありがとうございます。
- nemutaiazarasi
- ベストアンサー率25% (777/3052)
私も感音性難聴者です(障害4級ですが、今はもっと悪くなっています) まず「補聴器は使うべき」ではないでしょうか? 合う補聴器を徹底的に探すべきでしょうし、 信頼できる耳鼻科医・補聴器屋に相談してみるべきです つけずに聞こえないなら少しでも聞ける道具は使うべきだと思います。 また補聴器もめがねと同じでずっとつけてないと「慣れない」ものだと思います 補聴器を通して人の言葉を聞く=理解するのもある程度の練習・訓練が必要だと思います つけ始めは人の声もただの物音としか聞こえませんしね 私は障害をわかってもらわないといけない人(会社関係含め)には必ず「聴力障害者」ということを前もって言います 見た目でわからぬ障害がある場合、こちらから先に言わないと「誤解を生む」だけだと思うので。 これで配慮・理解してもらえる人なら付き合いできますが、そうでない人には距離を置いて・・となりますね 障害に理解ある人ばかりではないので。 障害があると、どうしても健常者より劣ると思われがちです。>> これは仕方ないと思いますが・・ 電話一つにしたって我々聞こえない者はお手上げでしょう 普通の電話機では聞きも話も出来ませんから 「健常者が普通に出来ること」ができない人=気の毒・可哀想とかいう思考は健常者なら誰でもあるのでは? 可哀想ならまだましで中には「この役立たず」と思う人だっているでしょう ですので「劣っている」と思う人もいるでしょう でもそういう思考を持つ人も明日事故や病気で何らかの障害を持つかもしれないのですが、そういうことわかってないし・・・・ 劣っていると思われたくないのはよくわかります でも私は事実「聞こえない」というハンデがあるからだなあと思いますが、それは「聞き取る能力が劣っている」のであって人としての能力が劣っているとは全く思いません 人としてのプライドは高いです でも「威厳」が欲しいとは思いません それよりか人としての「優しさ」「強さ」が欲しいと思います またそれを持っているように心がけています 欲しいものは人それぞれでしょう 「威厳」というのがどういうものなのかいまいちよくわかってない私ですが、質問者様が欲しいと思われるならそれ相応の努力は必要ではないでしょうか? なんかピントがはずれたような回答を書き込んですいませんでした
お礼
回答ありがとうございます。 私も、職場等、必要な場面では細かく伝えています。 それと、威厳という言い方は悪かったかもしれません、NO.1さんの回答にも書きましたが、自分を大切にする心=自分自身に対しての尊厳が欲しいです。 あまりにもおもしろがられるので、自信をなくす場面があります。 私も自分を大切にしようと、気持ちを強く持とうと思っていますが、 一生懸命会話をしようと思っているのにおもしろがられる事は悲しくなる時がありませんか? どうすればいちいち周りに振り回されないで済むのかと思います。やっぱり馬鹿にして笑っているのでしょうか? 補聴器は、購入して暫く試して効果を感じなかったので、使いこなせない場合は勧めないと医者に言われました。
- sasimiumai
- ベストアンサー率42% (691/1632)
コミニケーションをとればいいのですよね。 障害をある人を笑ったりする人は、どこにでもいますよね。 心ないひとがね。 そういう人に説明したところで理解などしないのでは。 特に若いときはね。 提案なのですが、上に書きましたね。 コミニケーションをとればいいと。 その都度うまく伝達をしたいときは ケースバイケースではありますけど 専用のメモ帳を用意しておいて、そこに書くとか、書いて もらうとか、あるいは今はみなさん携帯電話をもっているので 文章を書いてもらったり、貴方が書いたり。 こういうことを続けていくうちに、周囲の人が 貴方という人間性の尊厳を理解していくのではないでしょうか。 尊厳、威厳とかは、長く同じことを変わりなく続けて いってはじめてうまれてくるものであって 一朝一夕には無理ではないでしょうか。 いかかですか。 とてもデリケートな問題なので、貴方の質問文を何度も 読ませて頂きました結果、ごくシンプルな回答としたのですが。
お礼
早速ありがとうございます。 コミュニケーションをとる事が出来ればいいのですが、とれないので困っていました。 筆談は例えば人の名前等、どうしてもハッキリ聞かなければいけない時にお願いする事は稀にありますが、 普段の会話では使う事は滅多にありません。 筆談はお互いにとってスムーズなものではないですし、全てを筆談しなくてはならない程困難な訳ではないからです。 聞き取れない言葉と聞き取れる言葉があるため、上手く話せる時・混乱してしまう時、会話内容によって変わります。 会話内容で反応が変わる・矛盾がある事で、変わってると思われている所があるのかもしれません。 説明不足ですいません。 尊厳については、 おもしろがられる時点で低い扱いを受けていると感じるので、 その扱いによってプライドが傷つきます。 自分が大切であれば相手が何を言おうと気にしないはずのに、気になるという事は自分自身に何か変えるべき点があるのかと思ったのです。 人に尊厳を感じてほしいのではなく、私が、自分自身に対しての尊厳が欲しいのです。 笑われて気になるようでは、自分自身がいけないのではと思っています。 おもしろがる人がいると、自己評価が低くなってしまい、どうしてもマイナスイメージがついてしまうので、困っています。 おもしろがられた時は、どう反応すれば、悪いイメージを植え付けないで済むか、悩んでいました。 わかりにくくすいません。
お礼
お礼が遅くなり大変失礼をいたしました。 同じような経験をお持ちの方からのご意見をいただきとても励まされました、ありがとうございます。 特に、このような条件下でも誠実にやっているという部分、すごく心に響きました。 もっと自分に自信を持ちたい・自分自身に対しての尊厳という悩みにあたって最適な言葉でした、ありがとうございます。 おかげで気分が落ち着きました。 ですが、また何かあればnomame002さんに相談したい気持ちです。 経験者というのは周りにいなかったものですから、ご意見いただきとても参考になりました。 そして優しい心遣いをいただきありがとうございます。