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当たり前を権力にする大人たち
社会経験は浅いのですが学校生活でのことを書きます 生徒か勝手なことをやりだし先生たちは「常識的に考えて」といって止めさせたり、 壇上で先生が生徒へ行動を慎ませる話をした後に「あたりまえだな」というのは、疎外感を感じてしっくりきませんが、分かったことがあります。 それは、あたりまえ(常識・規則)を正義とするあまり押し通す権力にして自分自身を守りながら自身の力のように扱ってることでした。保身です。 規則を守らせ、それを守らないものは埒外だと突き放します。規則さえまもれば、よくやったと仲間に入れてもえらる、そこで安全を与えら れられるのだと思うんです。つまはじきと保護。 これは、あたりまえの偏見・差別・仲間はずれの意識だとわかりました。 彼らが分かっているのは規則です。それで分かった気でいるんです。 幼い子供はわからないと「何故」と知りたがありますよね。 それにしっかり答えてやることをしないで理由も無く聞き分けさせる育てかたが、青年期になったころ、その空白にあたりまえ・規則が入り込んだんじゃないかと考えてます。 「なんだよこいつ」みたいに自由のはき違いをして言う、はきすては常識人でもおこります。彼らはまともだからでしょう、それを維持するのに身をまもりながら埒外の人を軽蔑するのでしょう。そして自分が勝っていると思う優越感・さげすみです。 一方的な答えは答えではないと考えます。 ですから規則も答えではないはずです。だって守るものでしょう? 式を立てた答えが答えとするなら良識があります。職人におおくおられますので想像してもらえればわかることでしょう。 粋な教えもありますが、たまに路線をはずしてそりゃないよと言いたくなることもしばしば出てきます。 そうすると常識はいったいどんな構造かになります。 規則が元だとすると一方的だし押し付けがましさを感じます。それを皆で共有して社会をなりたたせるとしたらやはり仲間はずれは出てきます。両者に立たないで別なルールを人が作ってしまうとすると、それになるんです。 しかし良識のように己のうちから沸き起こる考えが元の世界ではそうはならないでしょう。人を評価するとき、その人のやったこと、持っている能力でみるからなんですが、かたや常識は比べる屁理屈です。人と人をくらべ優劣を付けたがる、良いか悪いか、守ったか破ったか それでは正しさを求めてしまうしまいます まともにすがりたがりたくなります それに、つまはじきされたくない そいう恐怖心から良い悪いかの二者択一の考えかたを規則から人は作った気がしてます。 日本人の忘れた思想は良識ではなかったかと言う気がしてます。 言い換えるとわからずのやる、おしつけ、はきすて、つまはじき、ただしさ、目にする機会がおおいい若者の非道と常識人のやってることの差はルール守っているかの違いだけでした。 また判然としない気持ちがありますが、この考えを捨てたくここへ書き込みました。 不完全な考えですが、誰にも言ったことがなくどう評価されるのかこの 場を借りてご意見いただけませんか? fit 国家権力を傘に着る警察のえらそうな態度は、常識を盾にする人と似ています。
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質問者が選んだベストアンサー
質問者様の感情は学生時代によく経験して同意します 『本質主義』と『実存主義』に分けて考えてはいかがでしょうか? 『本質主義』とは、プラトンの言うイデア論であり、最初に物事の本質があって、正しい事はそこに向かうという考え方です。 それに対し『実存主義』とは「実体が本質に先立つ」という考え方です。この立場からは「人」はいつでも千差万別な個人の自由な意思により自由な判断「自己決定」をなすものとされます。 人はそれぞれにおいて考え方、センス、思想、などがあり、死ぬまで、思いのままに自己確立を目指します。今日あるように明日もあるとは限りませんし、考え方を変える事も自由です。つまり一人一人の人間を「不良」とか「まじめ」とか「エロい」とか「短気」などと定義付けすることに意義はないし、どんな人に対しても、人一人を簡単にレッテル化することはできないということです。 最初から一つの答えがあって、「これはだめ、あれもだめ」という指導では人間本来の自由な感性はまったく無視されます。「人に迷惑をかけてはいけない」とするのではなく「人に迷惑をかけたら、結局は自分が困ることになる」ということを教えてほしいのです。まず理想があるのではなく、まず子供達が一人一人存在するのです。「お前達はバカか?」とレッテル化するのではなく、理解できない生徒もいて当然。そして解らない生徒はそこから理解へと導くことが教育なのだと思います 日本の学校では、国民または住民が国や地方公共団体との関係について、自己の自由意思に基づき入りこむ「特別権力関係」として、ここでは「基本的人権の限界」とされ、憲法の保障する基本的人権も制約を受けます。そんななか、厳しい規律を頭ごなしに押しつけられたら、子供達は「死んだ魚の目」になるのは当然と言えば当然です。 『本質主義』で正しいとする理想を掲げ、それに沿わない子供たちの個性や感性を見ざる、聞かざるでローラー作戦のように一度に踏み潰す教育は、鉄筋の少ない姉歯建築のような手抜き教育にほかなりません。 猿回しの猿は良く見ると死んだ魚のような目をしています。猿自身の感性はまったく無視されて、人間の笑いの道具にされ、行動を決め付けられているからです。 赤ちゃんのころから人間の都合のいいように育てられた動物は食べ物には困りませんが、もしジャングルに放り出されたら、肉食動物なら食べ物を捕る術がわからないでしょうし、草食動物なら仲間と群れをなす術や、身を隠す術がわからないでしょう。 あれもだめこれもだめと個人の感性をつぶして、行動を押さえつけてしまえば、自分で考えて行動しなくなり、指示待ち族になってしまうでしょう。 そういう新人の多い日本の社会を作ったのが現在の日本の教育方針です
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- Nahnom
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世の中が複雑になりすぎたのだと思います。 各々の解釈が多岐に渡り、特にそれを摺り寄せもせず先送りした結果です。 では、何故先送りにしたこというと「やぶへび」になりたくないからです。 人はそれぞれ自分が損をしないように都合よく解釈しているということですね。
質問者様の長文を私なりに(というか、私が理解したと思った範囲で)まとめてみました。間違っているかもしれません。貴方にとって意味のない回答だと思われたらスルーしてください。 何処にでもありがちな閉鎖した社会だけで通用する「常識」と呼ばれるルールがあり、それをその社会の中で守らせることで権力を維持している一部の人間がいる。これは許されないことだ。なぜかといえば、以下のような理由からだ。 そういった「常識」を守らない人間はその社会から疎外されるが、彼らが本質的に悪いわけではない。「常識」が絶対ではなく、疎外された人間が彼らなりに考える「良識」のほうが正しい場合もあるのではないか。いや、多くの場合、むしろ「常識」でなく疎外された彼らの「良識」の方を「常識」に置き換えるべきではないのか。 質問者様の書かれた文章は、大体以上のような意味ではないでしょうか。私も貴方の思いに共感できる部分があります。最初に現れたようなごく小さないやらしい閉鎖社会としての頭の良くない横暴な教師が作ったひとつのクラスルームはどこかに実在しそうな気もします。そんなクラスでびくびくして一年を過ごした生徒たちは本当に可哀相だという気もします。 でもその横暴な教師のおかげでともかくクラスの秩序が保たれて、学級崩壊を起こすことなく一年を終えたということだったのなら、教師がまったく悪いということでもなかったのではないか、とも思います。 「常識」という言葉は一般には誰かが勝手に作ったルールというものではなく、世間一般に通用する知識というような意味を持つことが多いです。そういった「常識」は誰かが盾にする権力の道具ではなく、世間をひとつの快適な社会として成り立たせている道具のようなものに近いと私は思います。そういう意味で、質問者様はそういった教師をわずかなり誤解されている面があるのではないか、と思うのです。これは疑問としてこちらから投げかけておきます。 >国家権力を傘に着る警察のえらそうな態度は、常識を盾にする人と似ています。 確かに、これは非常に鋭いご意見というか、感覚だと私も思います。民主警察というのが戦後の彼らのひとつの重要なスローガンだったと記憶しています。最大はいわゆる「冤罪」事件にみるとおり、警察の機能はまだまだチェックが重要だと思いますし、司法の一部が民間に任される状況が現実になった今、これからの問題として更に広く深く追及されていかねばならないと思います。 ご参考になりましたら幸せです。
お礼
私の感じている常識のニュアンスがルールよりなっていましたね 常識問題といってTVでにぎやかしているのをみて狭義でかんがえてるんだなと感じていたんです。でも回答者が「そんなの常識だ」といって勝誇っているのは差別で遊んでいると思えるんです。ここは判然としないんでよね。 まとめてくださった内容はだいだいそんな感じです。 「疎外された彼ら」は たとえば会社員なら社会通念を重視されます 職人なら気概と礼儀・作法・粋な教え(人生訓)職人に貴賎は無いというように昔かたぎの職人さんなら常識とは差別にならなく純粋に「世間一般に通用する知識」になると思っています。 ですので受け入れる力をもつ人のことをさしています。 映画で聴いた言葉です 「持つに値する力は唯一つで何かを獲得する力ではなく受け入れる力だ」 というのがこの議題の閉めになるかと思います。 共感してもらえてうれしかったです。 ずっと溜め込んでいましたからね足かせが外れた気がしてます。 回答していただき有難うございました。
補足
書き足らなかったのでこの場を借りさせてもらいます。 おしつけ、はきすて、つまはじき、は分からずやのやることです。そんな人は大人に多く存在します。それをやらない人とは良識人といえると考えてます。 また例えですが「学校に入ったからには就職するあたりまえだ」と締めくくったとき当たり前以上のものがなくなっています。可能性がないんです。ここにとどまっておけば安全だといわんばかりに誘導しています。 いいじゃないですか海外へ行こう!会社を立ち上げよう!独学で技術を磨こう、いろんな人生あはずなので導き手の先生が計画をたてている、 しかも学校の面子で生徒を縛りつけ不自由な教育にしている。自由な発想を阻害してるんです。そこに私は違いを感じています。 また飛びぬけたことをするなと学校側からいわれてちゃ本当の意味で自由はなくなるんだと感じてます。 自由の無いところに正義は無いですからね。 はしたなかったかもしれませんが、私の募った思いです。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
kizunanetさんの感覚はすごく大切だと思います。 簡単に言うと、良識を言語化したものが規則となり、権力を得て常識と化し、 差別、軽蔑などが生まれ良識を害すると言うことでしょうか。 人間存在における正義と罪悪、繁栄と堕落でしょうかね。 それと言語表現の限界ですね。 人間って正義を持ち合わせていながら権力をもつと他を 虐げるものです。繁栄し、権力や力が増大すると堕落します。 歴史が物語っていますし、私自身の中にも両方が混在してます。 だからこそ、感性を鋭く保ち、良識と常識の狭間で常に 良識側で考え行動することが人間に課された宿命のようなものですね。 規則など糞くらえですよ。その良識を保てればね。
お礼
良識は比べることをせず一つのものの良さを見て評価をする(責任を負う考えかた) 常識は分別無くいい悪いを決めるなど公の無責任にもなる比べかた (負の面をみての感じていることです) 話を脱線しますと罪悪感から苦しみと解くと 罪は 死んでいく苦しみ 執着は 生きていく苦しみ と考えてます。 自分自身で責任を負う規則、考え方が良識となると思います。 常識は利己的で逃げにも攻撃にも使える側面を持ってますからね あまり当てにできないと思ってます。 回答していただき有難うございました。
- garcon2001
- ベストアンサー率15% (22/140)
人間と言うのは、無秩序状態に放り込まれれば、つまり社会体制の崩壊した状態になれば、野生化し、モラルも常識もない原始時代にと戻ってしまうでしょう。つまり、略奪暴行そのたあらゆる暴力非道が横行します。ゆえに、そういうものを人間は根本的に恐れているわけです。 だったらというので、権力者たちや一般人は、社会の戒律やらしきたりやら常識というものを、社会秩序を維持するための道具として用いたわけです。それが有史以来続く、人間社会構成力の大元です。 その流れが根本にあって、もし常識がなければ命の補償がないような危険な社会にいるわけでもないのに、その残滓を標榜しているのがいわゆる「常識家」というやからでしょうね。自分たちの論理的基礎がどこから来ているかわかっていない。 逆に、こういうことが念仏的に守られ保守されている(それは結局保身と言うえさによって)ことが、現在の社会秩序を無条件で形成していると言う要因でもあります。
お礼
私は失礼ながら理解力にかけるんですね。まず断っておきます。 常識のある人は傍から見て権威ばって見えるが人へ排他される怖さを使っている。その常識人が社会秩序の船頭をしている。 ということでしょうか? 人は何でもやる動物でしょうし聖書にそれが良くあらわてますね 私自身も非道なことは絶対やらないといいきれませんし、なくしてしまいました。 この考えは、おかしい事じゃないのが分かりよかったです。 回答していただき有難うございました
- kamikazek
- ベストアンサー率11% (284/2372)
はじめまして。 何度も述べている「常識・あたりまえ」とは この国のことでしょうか。 どこかの国のことでしょうか。 また、この国である場合 この国の今の常識は、 どれくらい先までつかえるのでしょうか。 正式には「国内基本常識」まで、言ってもらった ほうがいいと思います。 もう何度も、どの国も常識は壊されてますので。 簡単に「常識」といっても、おおきくまとめ過ぎだと思います。 ついこのあいだ、テレビのバラエティ番組で 「世界の果てまで いってキュー」というので 珍獣ハンター・いもと。という女性が、 キリマンジャロの山頂登頂に成功しました。 これに「常識」をあてはめると、 なにの「常識」が当てはまるのでしょうか。 それを屁理屈と言われたら、屁理屈も常識ですよね。 とお答えになるといいとおもいますよ。
補足
たとえばバイト先の人たちの常識、会社での常識と限られた範囲でのをいっていたのです。 国規模の常識とははいってません もっと纏めて書くべきでしね 私が言ったのはもっと人に根づいた個人の公の思想に近いものです。 常識の全般ではなくそれをつかって横柄な力になっている部分を さしています 質問に書いたとおり、比べる屁理屈とあります。ことばを飛ばすと 意味合いがちがってしまいます。 たとえば、放課後の遊びで Aくんは約束をまもった Bくんは約束を守らなかった これを親目線でみれば Aくん「なにか事情があったんだよ」と慰められる Bくんは「約束したんだから守りなさい」としかられる どこで線引きをするかなんです常識と言うのも Bクンが大人で会社員でしたらあやまるのが常識となります。 責任を負うかで必要不要が分かれます。 貴方の場合イモトさんは社会のルールを守る(常識)責任ある立場でTVで移られてます。そのれだけで十分なのでは? 意識しなくていいところだとおもいます。 屁理屈にもなりませんし移ること事態が責任なんですから まけんきでくじけつつも果敢に挑戦するのはすばらいですね。 いうなら、型破り・栄誉でしょか
お礼
学問が入ると一段と分からなくなりますね 私の書いた文体から分かるとおり専門には程遠いんです。 後半の話はうなずけました。 また{最初から一つの答えがあって}には私にも体験があります。 建築科でしたが、規格に無い建具は認めてくれなかったことです。 そんなの作ることもできるのにと内心で思いながら制約が重苦しかったのを思い出します。 一度『本質主義』と『実存主義』を調べてみると自分自身の考えにまとまりがつきますね。図書館へと足を運んでみますね。 回答していただき有難うございました。