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愛についての問題

目新しいことではないのですが、例として、 1.10匹の羊を飼う羊飼いが他の9匹の羊を狼の脅威にさらしても1匹の迷える羊を救う。 2.10匹の羊を飼う羊飼いが9匹の羊を狼の脅威から守るために1匹の迷える羊を見殺す。 これどちらも羊飼いの羊に対する愛だといえると思いますが、明らかに差異がありますね。 さて、質問はどちらが良いとかというものではなく、これを包括的にどのように説明するかについてです。 イエスの愛とベンサムの最大多数の最大幸福とはまるで違うものであれば、どのように愛を説明すればよいのかとの問いです。 あるいはマズローの欲求段階説のように愛も理性的、段階的に分類されるものなのかについても問うてみたい。 そのような問いですがどのような回答、ご意見でも歓迎いたします。 尚、例として羊飼いの話を持ち出しましたが、 直近の物資援助か直近を見捨てても井戸掘り技術教育かの問題と置き換えてもかまいません。

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回答No.19

 けっきょくもし 一般的に  ○ 愛について自己の見解を示せ。  ☆ という問題でしたら あらためて回答を寄せます。    ○ 愛とは わたしがわたしであることです。  ☆ 《わたしがわたしする》と言いかえても まだ抽象的ですから 分かりやすく言えば  ○ 愛とは わたしがわたしを愛することです。  ☆ まだ抽象的すぎるとすれば  ○ 愛とは 自己の利害や損得を 徹底して考え抜きこれを守ることです。  ☆ この結果  ○ 自分と同じように ひとを愛する。つまりはひとの利害や損得を 自分のと同じように捉えた上で どうするかを徹底的に考えて行動することです。  ○ したがって このように――つまりいま哲学ないし人生の主題として考えているように―― 人びとが一般的に共同してこの《利己という愛を考え抜く》ことを提唱し実際に考え続けていくことが 愛です。  ☆ その一方で わたしたちは 自己の利益を守ると言っても 被害に対する自己による報復から自由になる道をえらびました。加害者を 被害者本人にしろその身内や関係者にしろあるいは第三者にしろ 個人としてその犯罪を裁定しその報復処置を施したりする道を放棄し 社会共同の自治にゆだねるという形式を採りました。  それと同じように 一般に社会共同のことは 法律を起草し取り決め これに従って執行するという法治社会を築きました。  したがって 《自己の損得を図るという愛を考え尽しあたかも昇華するかのごとく突き抜けさせて行っても なお社会共同の損得や利害が保たれない》ときには 法律による共同自治の形式に訴えます。広く社会政策の問題です。  何が愛であるかは つねに 人びと一般の井戸端会議を基礎として 動態過程において 判断されていくものと考えます。  利己を突き抜けると どういう愛になるでしょうか? さらに将来がたのしみなのではないでしょうか?

mmky
質問者

補足

bragelonneさん再回答ありがとうございます。 ○ ・・人びとが一般的に共同してこの《利己という愛を考え抜く》ことを提唱し実際に考え続けていくことが 愛です。 ☆ その一方で ・・個人としてその犯罪を裁定しその報復処置を施したりする道を放棄し 社会共同の自治にゆだねるという形式を採りました。 ● 回答を読んでいますとヘーゲルの国民・国家や法の哲学を見るようです。 ☆ 何が愛であるかは つねに 人びと一般の井戸端会議を基礎として動態過程において 判断されていくものと考えます。 「利己を突き抜けると どういう愛になるでしょうか? さらに将来がたのしみなのではないでしょうか?」 ● 私もそれを楽しみにしたいと思います。

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回答No.2

 mmky さん こんにちは。たぶん初めて mmky さんのご質問に投稿いたします。  言うまでもなく 個人および社会のあらゆる事象にかかわっていて いくつもの論点がある主題だと思います。  ですが 事例としましては どうも二者択一として迫ってくるように感じられ どうお答えすべきか迷うところではないでしょうか?  目の前で九匹を襲おうとする狼がいれば どこかへ迷い込んだ一匹よりは こちらを優先するでしょうし。つまり 身も蓋もないことを申し上げれば 襲撃の危険をまづ取り除く処置をして それから 見失った一匹を探すでしょうし。  ★ イエスの愛とベンサムの最大多数の最大幸福  ☆ これは その人のいわゆる魂に届きいつまでも響く言葉をかけるといった愛もあるでしょうし さらにそれを超えて いわゆる永遠の現在を実現せしめるべく消えざる熾き火のような・もしくは涸れざる泉の水のような愛を呼び起こす愛もあるでしょうし あるいは 目下の急を凌ぐ助けあいとしての愛もあるでしょうし―― こうして 個人が すでに特定の個人に対しておこなうような愛の問題が 一方で 基礎としてあります。  ベンサムの愛は 個人がそれぞれ考えて共同で行なうかたちですが 特には相手の人を特定していない場合です。いわゆる社会科学の政策としての問題です。  ★ マズローの欲求段階説のように愛も理性的、段階的に分類されるものなのかについても問うてみたい。  ☆ マズローについて知らないわけではないのですが 特に どういう扱いをするかと言って わたしにはありません。ので これは やり取りに従います。  とりあえずです。

mmky
質問者

補足

bragelonneさん回答ありがとうございます。 ☆ 事例としましては どうも二者択一として迫ってくるように感じられ どうお答えすべきか迷うところではないでしょうか? ●ご指摘の通りですね。一般的には二者択一問題のように扱われますね。例えば、会社などでは管理職が「1人の人間をかまってどうする。全体をもっとコントロールしろ。」と上司におしかりを受けるような事例ですが、「愛」という事例の範疇では二者択一問題にしてしまうわけにはいかないですね。「愛」に二者択一愛が存在してしまいますからね。 ☆ 「目の前で九匹を襲おうとする狼がいれば ・・・それから 見失った一匹を探すでしょうし。」 ●そのような考えは至極妥当ですね。でもそれは「愛」ではなく「知恵」の範疇ですよね。つまり「愛」には「単純な愛」と「賢い愛」の二種類があるということになってしまうと思うのですね。私はそれを認めることはやぶさかではないのですが、どうでしょうか。 この「単純な愛」と「賢い愛」のために捕捉として、施しの愛の例として「物を与える。」「物を与えるかわりに井戸を掘ることを教える。」という例を追加しました。 ☆ベンサムの愛は 個人がそれぞれ考えて共同で行なうかたちですが 特には相手の人を特定していない場合です。いわゆる社会科学の政策としての問題です。 ● 私もそのように思いますが、社会科学の政策としての問題として捉えると、「多数決の愛」を容認する必要が出てきますね。1匹の羊の幸福をとるか9匹の羊の幸福をとるかですね。個人の多数が構成する社会では、個個人の普遍愛だけでは説明が出来なくなってしまいますね。ここで個人の愛と、社会愛は二者択一問題であるとするとベンサム理論は選択理論になってしまいませんか。個人と社会は別だとする二分法を持ち込むしかないようにも思いますがそれではキリスト教的愛というのは個人のみに適用される狭い範疇のものになってしまいませんか。 ● マローズを持ち出したのは二者択一問題から抜け出すためには「愛にも段階的分類」を与えないと統一的な説明が出来ないのではと考えるからです。(可能性) イエスの説く愛は本能的な愛ではないようですし、一匹の羊を助けるというのも感情的愛でもなさそうと考えるからですね。汝の敵こそ愛せよという愛がどのようにして一匹の羊を助ける愛に変化するのかがわからないのですね。それをつなぐ段階でもあるのかと。

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回答No.1

詳しくはわかりません。でも、 羊飼いは、自らが戦おうという精神の持ち主ではないといことは確かなようですね! 羊飼いの愛は感じられません。 羊は単なる商品に過ぎないってことかと思いました。 数的差はあれども、一部のものの安全を確保するために犠牲を提供するなんて・・・

mmky
質問者

補足

回答ありがとうございます。 羊飼いの話は例ですが、拉致被害者と置き換えればどうでしょうか。 数百人が拉致されたという話もありますが、助けに行くという話はないですね。ほとんど2.の状態ですね。 残された家族の方々は悲しんでますよね。

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