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人間の内面と外面とは 総合されうるか
次の質問で質問者が説明しつつ問うている問題について どう考えるか。これが ここでの質問です。題して 【Q1: われわれそれぞれの主観内面における・人間関係に関する思惟のあり方は われわれ互いの交通(まじわり)における対話の行方と つながっているか。 【Q2: つながっていて 全体としての世界観(つまりおのおのの生活態度)において 総合的に捉えることはできるか】 【Q3: それらのことは われわれ一人ひとりと神との関係にかかわっていると言えるか】 三つ目の問いにかんしては 次の文章を参考にしてください。 【Q:現代日本に必要な哲学は?】そのNo.9です。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4151421.html ▲ 【Q:リカちゃんについて】(No.11お礼欄) ~~~~~~~~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4991449.html 森毅さんの『魔術から数学へ』・・・に倣って説明するとすれば、p.65の「石」と「砂」の比喩が良さそうに思います。 少しかいつまんで説明すると、古代ギリシャの数学には二種類の系譜があって、著者に依ればそれは「数論」と「幾何」だという事です。 「石」の数学とは数論のことで、石を並べて1,2,3,4…と数を数える。「砂」の数学とは、砂に絵を描くものです(要するにコンパスと定規が使えるヤツ)。 前者は粒を基本にしているので、それ以上はわけられない原子からできているのに対し、線のほうは連続して繋がっているので、幾らでも分けることができる。 前者の考えではそれ以上には分けられない点からできている線が、後者の場合にはどこまでも分けられるという――この食い違いが問題になるケースです。 遥かむかしに、南イタリアあたりで、この「石」と「砂」の争いがくり返されたわけですが、この違いについてはどうでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 趣旨説明として 質問者の見解をのべます。 1. 《石》は 個体であり 《砂》は その内面だ。 2. 石と石との〔人間〕関係が その基軸として 外面としての交通ないし対話を据えるとよいと思われる数論である。 3. 砂の幾何は 意志の自由にもとづき みづからの表現として想像し絵を思い描くところの自由を訴える。 4. 砂の幾何模様を内面に抱いた石は ほかの石とも まじわり話し合いを持つ。 5. そのとき 固い石どうしとして しかも あたかも互いの交わりにおいて化学反応が起きるであろうか。 6. その外面における生物化学反応は それぞれの内面に どうかかわるであろうか。 ご見解をお寄せください。
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>最後の締めをよろしくどうぞ。 締めって言われたって、何を締めるのやら――首でも、締めてくれと仰るのですか? 最初に断っておきますが、気持ちの面からすれば↓の記述はわからんでもないですよ。 ========================= ▲ (同上No.19) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 現在では、物理系のみならず、化学系、生物系、昆虫の社会構造、人間の社会構造、都市の発展形態等々、構造と名の付く現象の至る所で散逸構造の理論の主張の正しさが確認されております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こう来ているんですよ! ========================= こう書かれるのはたぶん、それが仮説だからですよ。 物理屋さんでしたよね、確か。ブラジュロンヌさんはご存知ないでしょうけれど、数学の世界ではふつう「仮説」という用語は使わない。 一般的にいう「仮説」という言葉の意味は、物事を合理的に説明してはいるけれど、その説明が事実(現実)に合致しているかどうか、その真偽が不明なものという感じだと思います。さらに、自然科学の分野なら、その真偽はあるときまでは真だったけれど、後に偽になってしまったり、逆に偽だと思われていたけれど、あるとき真なのがわかった、というような説まである。 だから、法則と呼ばれる説明であっても、それが通時的ではないゆえに、科学の分野ではあくまでそれは仮説なのだとする学者さんも多いそうです。 でも、こういう意味で使われる「仮説」は、数学には無い。 なぜ無いのか。証明された真偽は、二度とくつがえらないからです。真偽が不明なものは、「問題」と呼ばれる。No.15の回答に、連続と不連続の記述がありますが(ε-δ 論法のことです)、自然数より真に大きく、実数より真に小さいサイズの集合がないという問題が連続体「仮説」と呼ばれるのは、この問題が、数学の問題ではなくなった(現代数学の枠組では証明できないことが証明された)からです。 現実を前にすれば、「仮説」というものは、ほぼ無限に立てることができる。そして、科学が現実(事実)を対象に置く以上、その仮説を問題外にすることはできない。あらゆる事実に照らし合わせ、仮説は常に検証されるべきです。そういう主旨だと、読めませんか? ======================== ☆ とおっしゃるのは けっきょくわたしの言葉に変えるなら ○ 散逸構造の理論を社会構造に応用するという立ち場は 社会のどこにもいないという立ち場であり 人間ではないという立ち場であるのではないか。 ☆ と考えました。いかがでしょう? ======================== 現象の捉え方には、各人いろんな方法があるだろうと思います。 僕の見るところ、あの回答者もきっと同じ意味の結論をお持ちだと思います。異なっているのは、表現方法だけです。方法は、いちばん良さそうなものをその都度、使い分ければ良いのです。マシュマロさんは、それを「はさみ」だと教えてくれたんじゃなかったのかな。 いつもやさしい、マシュマロさん。
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- ri_rong
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>そういう問題だと まだなお 思いますよ。どうでしょう? どうでしょうって、要するに↓が分かれば良いって事ですか? ========================= その立ち場を動かすのは 《散逸構造の法則が 社会科学に応用されうる》ということがわたしに分かったときです。ただし 《個人としての人の意志行為のあり方》が問題であって きちんとちょうど哲学としてと同じように参画していることが了解できたときです。 ========================= あぁもう、困ったなぁ。理由がさっぱりわからないけど。ともかく、「散逸構造の法則」なんて書かれてますけど、ブリゴジンが対象に置いているのは、熱力学ですよ? だらだら書いても仕方ないから、いちばん良さそうな例がウェブにあったんで、リンクします。 ・http://homepage3.nifty.com/kuebiko/biology/jyosyo/benard.htm 身近な例で言えば、熱い味噌汁をお椀に移してしばらく経つとできる、あの模様です。沸くほど熱い鍋のなか(温度は100℃付近で安定しますよね?これが平衡状態)では、汁は全体的に対流し、下から上へと熱伝達がおこります。けれど、鍋から移した椀のなかで、上下に極端な温度勾配ができる(これが非平衡)と、対流は上記の画像のように局所で安定化し、小さな対流系をつくる(これが自己組織化)。この非平衡な系(不安定でも良いですが)においてしか見られない、局所的な安定状態はいったい何なのか――お椀のなかの味噌汁の話から、熱力学一般にまで演繹したのが、(かなり端折りましたが)ブリゴジンの散逸構造論です。 さて、これを社会科学に応用するんでしたね? 僕たちの社会にとって、そういう不安定な系では、北朝鮮が一発の核ミサイルを打てば終わりだと思われがちですけれど、そんな事など無いのかもしれません。アンゴラの内戦では、誰も強権を発動せずに、内政に干渉しなかった結果、三つの派閥はさらに細かなゲリラたちに分裂し、最後まで残ったザイールが自己分裂するまでに360万人が死にました。まあでも、死者数としては少なすぎますよね。せめて、億人の桁で死なないと、話題にする事とは言えないかもしれません。 あくまで、局地的です。 ですから、これまで他国が行ってきた干渉は非難して、中東にせよ、放っておいたら良いのかもしれません。米国にしてもWTCが壊れただけで、社会にとってはたいした影響など無いのかもしれません。もちろん、自力で身を守るのもその国の生き方でしょう。 市場の競争原理にしたところで、介入しないと決めたなら、バンク・オブ・アメリカだってリーマンのように、放っておいたら良いのです。治安は乱れるでしょうが、買える者には安全は買えますし、僕のように、そういうのを利用してお金を儲ける人は、ちゃんとコロニーを作って暮らして行けます。うんぬん。 ――けれどそうではなく、ブリゴジンの理論が社会に適用できるとしたら、時間的にもっと長いスパンで見た場合です。アメリカという国など無かった時代から現代までを量るとか、逆に現代から数えて日本という国がすでに消滅してしまった未来においてを量るとかです。 あるいは、宇宙という空間において存在する「生命」を仮定し、その仮定した生命の社会を捉える中でなら、たとえ地球がひとつやふたつ無くなっても、生命はもっと広大な空間のなかで安定化するだろうと言えるかもしれません。 このような単位においてしか、正確性を期した発言はできないだろうと思います。なぜか? 現代という認識に立つ短い期間、そして限られた空間に生じている局所的な安定状態を、その理論で説明してみせるよりも、もっと妥当な説明が他にあるからです。僕の言う「社会」や「自然」は、所詮、僕らの認識でしかありません。その認識が有効な時間、有効な空間は、あまりに限定的で、局所的過ぎる。その認識が届かないところには、「社会」や「自然」は無いのではないでしょうか。 そして、その認識が届くところに大きな影響を及ぼすのは、理論ではなく個人の自由意志です。だとしたら、「社会」や「自然」に大きな影響を及ぼしているのは、僕ら人間の意思だと言わざるを得ないのではないでしょうか。 こんな感じですけど、どうでしょうか。 けど、なんで僕がこんな目にあうんだ?
お礼
訂正があります。 ★ しかも ことの発端は 【Q:リカちゃんについて】なのです。自業自得とも心得たまえかしよし。 ☆ これは勘違いでした。わたしが リカちゃんのほうから引っ張ってきたのですから。ごめんなさいませ。まちがいました。深くお詫びもうしあげます。 ○ 戦国時代のいわゆる群雄割拠 ☆ どの藩においても 内部に対流を起こし一定の安定した渦状態がもたらされるでしょうが そこからつねに ▲ ダイナミックな変化を次々ともたらして、新しく、かつ、より複雑な構造を自発的に次々と創り出して行く。 ☆ とは限らない。法則どおりに行くとは限らない。 言いかえると 新しい変化が起こればそれに次つぎと対処していくのは 当たり前だと考えられます。難題がふりかかれば 生き残りのために善処するのも当然です。 ▲ あるいは生き残りのための軍事や技術の進化を促します。 ☆ というような動きを 対流や渦状態に比定するのは おおざっぱ過ぎるように見られます。むしろ人間の行動と熱力学の現象との違いであるように捉えられます。 ここまで伺った限りでは ○ 自然の現象が 条件がととのえば放っておいても不安定状態から安定状態へと移る。 ☆ としても ○ 社会の一定の構造として 不安定から安定へと移行するのは 人びとそれぞれの意志行為とその関係錯綜による。――放っておいても そう成る場合は 放っておくという意志行為もあれば 放っておかれた一つの構造体においてその内部で人びとの行為が行なわれている。 ☆ と考えました。そうして ★ けれどそうではなく、ブリゴジンの理論が社会に適用できるとしたら、時間的にもっと長いスパンで見た場合です。 ☆ とおっしゃるのは けっきょくわたしの言葉に変えるなら ○ 散逸構造の理論を社会構造に応用するという立ち場は 社会のどこにもいないという立ち場であり 人間ではないという立ち場であるのではないか。 ☆ と考えました。いかがでしょう?
補足
ri_rong さん やはり おのおのが主観真実を表わしていくしかないとさとりました。ご回答をありがとうございます。 戦国時代において アマテラス諸侯(藩主)が 藩内の秩序と藩際的な対立関係とのあいだの温度勾配から――つまり《不安定性》から―― それぞれの藩の統治状態としては べナール対流を起こしべナール渦をつくりそのかたちで安定状態を持つ。 実際に他国(藩)が攻めてくるほどの温度勾配になれば 治安は 乱流状態にもなりうる。 ここから次のような認識に到りますか? ▲ (Q:知の欺瞞No.19)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ドングリの背比べ状態は非常に不安定な状態ですから、各地方を封じている各豪族には、いつでも抹殺される緊張感が存在する。その不安定性は系の内部にダイナミックな変化を次々ともたらして、新しく、かつ、より複雑な構造を自発的に次々と創り出して行く。 封建制度下では、隣接国や藩と、あるいは王の王や将軍家との間の外交や交易による経済活動の熟達度の進化や、あるいは生き残りのための軍事や技術の進化を促します。 そのような形で出来上がって来た構造は、外部からの揺動に大変な抵抗力があり、そのダイナミズムを経験していない中央集権制度下の安定な構造に遭遇すると、その安定な構造を一打ちでぶちのめす力も持つに至る。 封建制度と言う例外中の例外に属する経験をした西欧と日本だけが、近代化に何故スムーズに移行できたかは、このように「不安定性」をキーワドに理解できると考えています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ううーん。やっぱしすべてを端折って言えば 信長の決断力 秀吉の抜け目なさ 家康の粘り強さ そしてそれぞれに従う百姓兵士たちの心意気――三河武士のそれは トヨタ社員の心にまで受け継がれているかに見える――が 決めてだったのではないでしょうか? あとは どのような影響を持ったかを別としてアマテラシテ(アマテラスの抽象名詞化)の存在を抜きにしては捉えられないでしょうね。これがなければ 超乱流状態になるのか それとも 良かれ悪しかれブッディスト・ワイマール共和国を樹立したかでしょうね。 ▲ (同上No.19) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 現在では、物理系のみならず、化学系、生物系、昆虫の社会構造、人間の社会構造、都市の発展形態等々、構造と名の付く現象の至る所で散逸構造の理論の主張の正しさが確認されております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こう来ているんですよ! 最後の締めをよろしくどうぞ。 * ★ けど、なんで僕がこんな目にあうんだ? ☆ これらはすべて 【Q:人間の内面と外面とは 総合されうるか】の問いに答える王道であるでしょう。しかも ことの発端は 【Q:リカちゃんについて】なのです。自業自得とも心得たまえかしよし。
- ri_rong
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>ちょっと風雲急を告げて来たのでしょうか わからなくなってきました。 わからないもなにも、『知の欺瞞』では、属性を無視した科学用語の使用が批判されているわけでしょう? それを題材にした質問の場で、批判しようとする内容とまさに同じ方法を用いて批判する回答に対して、いったい僕に何が言えるというのですか。悪い冗談だろうとしか言えないですよ。 お礼欄の氷のはなしを読めば、これは質問者自身がいちばん理解しているだろうことです。それを、ですよ? >次のわたしの文章は すでにおわびの気持ちが込められていると考えているのですが 「おわび」ですって? 「わたしもその確信のあり方をさらに探究してまいりたい」ですって? 僕は自分のことを大概、鈍い男だなと思ってますが、 どうやら、僕より鈍いのがいたようだ(失礼!)と――少し、胸をなでおろしています。 まったく、誰に教えてもらったのか。 どうやったらそんなにうまく、皮肉が言えるんでしょうね。 >だってarayata様の「ましゅまろが2つ」等の≪誤解≫を解いて下さり、かつ、対話におつきあいしていただきましたから このお礼に対してですよ? ブラジュロンヌさんの放った皮肉は、皮肉骨髄、おまえは皮だ、おまえは肉だという――どう拭い去ろうとも、決して消えない刻印のように読めるんですよ。 出直してきたほうが、良いんじゃないですか?
お礼
この欄をお借りします。7月8日(火)しるします。 mashumaro2 さんの投稿(No.11&13)についてです。 ふたつあります。 その後の経過を考え合わせても合わせなくても わたしの質問へのかかわりから訣別したという意思表示があったと受けとめます。そしてそのままを受け容れます。 次の事柄をいっしょに捉えるなら これでいっさいのかかわりは無くなったと認識します。 わたしはいつでもどこでも誰に対してでも《恩を売った》おぼえはありません。 ◆(No.13) ご恩は決して忘れません。 ☆ この意志表示は わたしにとって無効であると宣言します。返してくれ・あるいは覚えておけと言った覚えはないからです。 本来ならこのたぐいの発言は 直接におこなうものですが その機会と場がいまこの場よりほかにないという事情にかんがみ 致し方ないと こちら側としては考えます。本人としては これの有効をとなえます。 bragelonne
補足
ri_rong さん おつきあいいただき大変ありがとうございます。 まづこのご返答は 前回から進歩していないとおことわりしなければならないと思います。分からないからです。 まづ一番に確認していただければありがたいのは No.11補足欄にわたしが書いたまとめです。今回のことをめぐってのわたしの立ち場でありその考えていることの基本です。言いかえると この基本のほかに 何か大きく抜け落ちていることはないと思っています。 ですから たとえば ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >だってarayata様の「ましゅまろが2つ」等の≪誤解≫を解いて下さり、かつ、対話におつきあいしていただきましたから このお礼に対してですよ? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というこの《お礼》のことなどは 関係して来ないという立ち場です。お礼の必要がないという意味です。 おわびの必要もないと考えています。つまり おわびもお礼も 双方どちらの側にとっても 必要はないという意味です。すべては終わったことです。何も問題になっていません。もともといっさい何も引きずっていません。 ★ お礼欄の氷のはなしを読めば、これは質問者自身がいちばん理解しているだろうことです。 ☆ これは確かにわたしには理解できていません。何かが引っかかって理解を阻んでいるのではなく そうではなくその科学の知識の意味するところがです。自分から言うのもおかしいですが 致し方ないと思います。 ★ どうやら、僕より鈍いのがいたようだ(失礼!)と ☆ 鈍いも何も 分からないものは分からないです。 ★ 皮肉骨髄 ☆ これも分かりません。分かっていることは いっさい何も過去からは引きずって来ていないことです。 ★ 出直してきたほうが、良いんじゃないですか? ☆ たぶん いえおそらく いえいえ確かに すでにもう出直して来ているはづです。久しい空白ののちの最初のわたしの投稿に対して たしか《恩人である》と言われたときに 出直しが即座に完了しました。言いかえると その後このわたしの質問への投稿をもらうということは もうないという受けとめは完了していたという意味です。 ですから 最初に述べたようにNo.11補足欄に書いたまとめとしてのわたしの基本的な立ち場が すべてだと考えております。 その立ち場を動かすのは 《散逸構造の法則が 社会科学に応用されうる》ということがわたしに分かったときです。ただし 《個人としての人の意志行為のあり方》が問題であって きちんとちょうど哲学としてと同じように参画していることが了解できたときです。そうでなければ ほとんどあとからの理屈付けとして応用されたのみだと捉えなければならないと考えます。 あぁ あやうく見逃すところでした。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ わからないもなにも、『知の欺瞞』では、属性を無視した科学用語の使用が批判されているわけでしょう? それを題材にした質問の場で、批判しようとする内容とまさに同じ方法を用いて批判する回答に対して、いったい僕に何が言えるというのですか。悪い冗談だろうとしか言えないですよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ でしたら 《温情判断》であることをお認めになりましたね。ぢゃあ ri_rong さんも わたしと同じ立ち場でおられるのではないでしょうか? そういう問題だと まだなお 思いますよ。どうでしょう?
- ri_rong
- ベストアンサー率56% (30/53)
前回答に、補足するかたちで投稿します。 >出過ぎたまねを!という反批判 何となくここでの受け答えが繋がったような次第です。 いやはや、ブラジュロンヌさんは、何を言ってんだろうなぁと、ずっと思ってました。それで僕は、注文の多いレストランに入ったってわけですか? まあ、どうも――僕は、人の心理に鈍いですから、気が付かないですいません。そうか。とすれば、僕は悪いことを投稿しちゃったんですね。 ちっとも、気付かなかった。 質問文だけ読んで、サクッと投稿しちゃったからな。嘘は、書けないし。その下の回答では、実に複雑な人間ドラマが演じられていたってわけですか。いやはや。 >もしこうであるなら 衝突しているかに映ります ブラジュロンヌさんの目にどう映るかは別として、僕が二度、三度とここで回答してきた言葉の意味は、ちっとも理解されていないのだというのが、わかりました。 回答者は、「その」質問に対して答えを返すのです。「すべての」質問に対して答えを返しているわけじゃない。表現を変えれば――ある質問に対する回答と正反対の回答を別な質問に返す場合がある、ということです。回答者は、質問によって初めて生まれる。そして、回答によって質問者は生まれる。 あれは、マシュマロさんの質問なのです。 あなたの質問じゃない。 ――悪いことは言いません、手を付いて謝るべきでしょう。 さて、それはそれとして教えていただいた回答(ずいぶん長いですけど)を読みました。結論から言えば、ちっとも悪くない回答じゃないですか。狭小な了見でブラジュロンヌさんが対立するなら、むしろ、僕はこの回答者に味方しますよ。ちゃんと最後まで読んでください。 ――「皆の言うことの反対が常に正しい」というほんの少しの例を述べましたが、私がそう言いたくなる気持ちが判って頂けましたか。 要するに、気持ちを書いているのです。それをこの、すっとこどっこいは、早とちりして議論をふっかけたわけでしょう? 出過ぎた真似だと言われても仕方ないですよ。論じるだけの内容は無いし、「皆の言うことの反対が常に正しい」という例は、ほんの少ししかないのです。 ありがたく気持ちを汲み取っておくべき良回答だと思います。
お礼
ri_rong さん もめてますでしょ? もめるに値しないというご裁定でしょうか? それなら ご回答およびご裁定に感謝しつつ つつしまねばなりませんね。 次のわたしの文章は すでにおわびの気持ちが込められていると考えているのですが どうでしょう? ☆☆ (No.13補足欄 )~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ (マさん):「散逸構造」は面白い、等 ☆ (bragelonnne ):あくまで――自然科学の理論を問題にするのではなく つまり問題にする能力すらわたしにはありません――社会科学への応用にかんして もしそれが《面白い》と mashumaro2 さんが確信しておられるのなら それについて解説していただくわけにはいかないでしょうから わたしもその確信のあり方をさらに探究してまいりたいと考えます。 もともと しっかりと理解したい これだけのことなのですから。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ しかしながら と曲がったへそをもとにおさめたかと思うと また曲がった状態にひねり戻すかのごとく今回のご回答におこたえすることにならざるを得ないのかなぁと憂うのですが そこは いかがあい成っていますでしょうか? つまり ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 論じるだけの内容は無いし、「皆の言うことの反対が常に正しい」という例は、ほんの少ししかないのです。 ありがたく気持ちを汲み取っておくべき良回答だと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これを尻から読んでも逆さにして読んでも 温情主義によるご裁定であるとしか解釈できないのですが どないになっていますでしょうか? ちょっと風雲急を告げて来たのでしょうか わからなくなってきました。球はそちらの境面に入りましたでしょうか?
- ri_rong
- ベストアンサー率56% (30/53)
なんだか、知らないうちにブラジュロンヌさんは揉めていたんですか? >(1) 自然科学としての《理論》は 《再現性と予言能力がある》けれど その条件を守るなら 社会科学の場合には 理論などないであろう。――という意味ですか? 社会科学も自然科学のひとつでしょうから、法則はあるだろうと思います。その法則から帰納される原理もあるだろうと思います。けれど、科学は現実を相手にする学問です。法則は定理ではないし、原理は公理ではない。つまり、現実を相手にしない数学と同じように――公理から定理を演繹するのと、法則から原理を演繹するのは同値であるというふうに――扱うわけにはいかない。 「証明」とか「理論」が科学の用語として用いられるとき、その用語を用いる者には常に「ためらい」が付き纏うことになる。なぜなら、それらの用語は真実に対して、常に緩い整合性しか持ち合わせていないことを知っているからです。ここに言うためらいを生む緩さ、曖昧さは、数学という非現実の世界で用いられる 「証明」とか「理論」という用語に対してです。 表現を変えれば、科学的言説に正しさが委ねられるとき、その表現には「今のところ」という限定子が省略されている。この限定子が発言者にためらいを生むのだと思います。 >(2) 散逸構造理論の――あの学者によると――社会科学への応用としての《理論》というのは そうではなく 《自己組織化》という或る程度の法則的な事態である。という意味ですか? ブリゴジンが散逸構造理論でノーベル賞を取ったとき、彼が対象にしていたのは実験場という「つくられた自然」です。科学とは言いつつも、非現実という数学の世界へ足を踏み込んでいる。その理論を現実世界へ応用することは、果たして妥当でしょうか。 先に、百年のスケールがどうのと書きましたが、同様に線形非平衡熱力学はこの地球上で暮らす僕らの日常には、ほとんど関与しないものです。理論の適用される「対象」は何か。これを特定しない言説に正しさは無いし、まして科学的ではないと言えるでしょう。 >☆ 要するに 個人としての人間の意志行為が どうしても不可欠とも言うべき基礎である。その基礎にもとづいてこそ 《自己組織化》の理論的な方程式も 現実の問題として あたかも再現されていくのだ。――これでいいでしょうか? ううむ、どう説明したら良いのでしょうか。 個人の自由意志と自然科学は、統一的に語れる問題ではないですけど、それが質問の趣旨なのでしょうか。それとも、とりあえず、それで良いと答えておいたら良いのでしょうか。
お礼
ri_rong さん ありがとうございます。 ★ 表現を変えれば、科学的言説に正しさが委ねられるとき、その表現には「今のところ」という限定子が省略されている。この限定子が発言者にためらいを生むのだと思います。 ☆ このあたりが よく分かったように思います。 必ずしも焦点を結ばないでしょうか。直接つぎの議論についてよろしければ論評していただければはっきりするように思います。ヰキぺにも 社会科学への応用は そうざらには解説がないように見えます。 ★ ブリゴジンが散逸構造理論でノーベル賞を取ったとき、彼が対象にしていたのは実験場という「つくられた自然」です。科学とは言いつつも、非現実という数学の世界へ足を踏み込んでいる。その理論を現実世界へ応用することは、果たして妥当でしょうか。 ☆ もしこうであるなら 衝突しているかに映ります。 【Q: 「知の欺瞞」 】のNo.19などです。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5062963.html ▲ (No.19:散逸構造) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 何故、不安定性が重要か。ここにもまた、常識の裏を掻くような事実が含まれているのです。 近代の物理学の際立った進歩の一つに、「散逸構造」の概念の発見が在ります。これは非平衡非線形の熱力学と呼ばれる分野で得られた成果で、この宇宙に数限りなく存在する複雑な構造が、物理学の法則に従っているだけで何故自発的に存在できるようになって来たかを明らかにした理論です。 現在では、物理系のみならず、化学系、生物系、昆虫の社会構造、人間の社会構造、都市の発展形態等々、構造と名の付く現象の至る所で散逸構造の理論の主張の正しさが確認されております。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 素人のわたしが どちらかと言うと これに批判の目を向けているので マさんは 出過ぎたまねを!という反批判をくれているのだと思います。そういう事情です。
No.11です。 これ以上の拙文(「散逸構造」は面白い、等)は甚だ御不快と承知致しましたので、これ以上の貴問における拙文による面汚し、並びに今後のご教授は固く戒めさせて頂きたく存じます。 愚鈍故に気づかずにおりましたことを恥じております。 数々の失礼につき、大変申し訳ありませんでした。 今までの数々のご恩は決して忘れません。 本当にどうもありがとうございました!
お礼
あぁ これは どうも逆効果のようなことになってしまったようです。 ○ 散逸構造 ☆ については 何とか――社会科学としてですが――理解にこぎつけようとしています。 あとは伝わらなかったみたいです。きちんと述べたつもりですので 悔いはありません。 とのみ申し述べつつ。
補足
お礼欄をおぎないます。 ★ (「散逸構造」は面白い、等) ☆ あくまで――自然科学の理論を問題にするのではなく つまり問題にする能力すらわたしにはありません――社会科学への応用にかんして もしそれが《面白い》と mashumaro2 さんが確信しておられるのなら それについて解説していただくわけにはいかないでしょうから わたしもその確信のあり方をさらに探究してまいりたいと考えます。 もともと しっかりと理解したい これだけのことなのですから。 ☆☆ あの学者 ☆ という表現に反応されたのですね。わたしからすれば当然です。わたしの複数の質問に対して 《とんずら常習犯》であり みづからもそう言っています。とつぜん投稿してきて なんだかんだいちゃもんをつけて いなくなります。 このあいだは わたしの大切にしている《言語類型論》について 難癖をつけて去っていきました。 《あの学者》とわたしが言うのは 当然ですし 言い足りないくらいなのです。 けれども 問題は社会科学への応用がいかなる状態にあるか これのみです。
- ri_rong
- ベストアンサー率56% (30/53)
また、補足がつきましたね。 >散逸構造の応用は おもしろくないのですか? どうもお話を聞くと、仰っているのは自己組織化のことだと思いました。すきま風が吹くと、部屋の隅とかで渦を巻いて綿埃が固まりますよね、あれです。あれと同じように人間の社会も綿埃みたく、総合されるのか――という問いですよね? 結論から言えば、ひとりの人間が寿命を全うする期間においては、そんなんで社会の方向が決まるわけがないです。けれど、種族としての人間を考えたとき――そうですね、せめて百年です――おそらく綿埃のような、総合性は発揮される。 巷ではこの不景気を「百年に一度」と形容しますが、「百年に一度」という単位は、ひとつの民族がまるごと抹殺されかねない大惨事が、起こり得る期間です。それに比べたら、経済の問題など屁の河童(と、いうんでしたっけ?)です。十六世にインカが滅亡したあと、十七世紀にはポリネシアの島々が欧化された。そして、十八世紀にはトルコが無くなった。十九世紀のアメリカ南北戦争ではインディオが、そして二十世紀にはユダヤ人迫害が起こった。 けれど僕は、人間はやはり悪意より善意のほうが上回っていると思う。自己組織化は、そういう単位を基準にしていると思います。ですから、 >定額給付金は 一人ひとり個人に給付されますが この政策はあくまで総需要の喚起あるいは弱者の援助ですよね。そうしますと 散逸構造――と知ったように話していますが そこのところは塩梅よく受けとめてください――を応用する場合 不安定の状態から新たな秩序へとみちびくような政策は とうぜん 社会全体の立ち場からのものです。個人は直接にはかかわらないか もしくは 受け身でふつうに行動する。 とは、思えないんです。無策、無能の政策こそが消費の喚起や人々の自治を促す――などとは、とてもでないが、思えない。単に、愚かな政治家がまつりごとを仕切った――という評価で十分だと思います。なぜか? 先にも書きましたが、個人としての人間は、一般に対する特殊なものではないからです。人間は、世界という普遍性に対する単独性のものとして存在している。個人としての人間は、閉じているのです。 閉じているのを知っているからこそ、外の世界と交わろうとする。 開いているのなら、苦労なんてしませんよ。それこそ、風が吹き抜けるだけで良い。 >しどろもどろですね。言いなおします。 どの時代も個人というのは、配達人ですよ。 >そうではなく むしろ理論はあとづけであって 迂闊に「理論」という言葉を使ってはなりません。理論は、定理の寄せ集めではないのです。理論には再現性と予言能力がある。それが無ければ、如何に体系的に物事が語られようとも、理論とは呼ばないのです。この世の中は、健全ではあっても、完全ではない。 刹那的なものを除いて、ひとつの理論も成り立たないのが、僕らの暮らす世界です。 >そういう結構は 生半可なさとりによってこしらえているだけだと思います 的確な評価だと受け止めます。僕自身、そうだろうと思います。 だからこそ――食われてみるか? と思っているのです。
お礼
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >そうではなく むしろ理論はあとづけであって 迂闊に「理論」という言葉を使ってはなりません。理論は、定理の寄せ集めではないのです。理論には再現性と予言能力がある。それが無ければ、如何に体系的に物事が語られようとも、理論とは呼ばないのです。この世の中は、健全ではあっても、完全ではない。 刹那的なものを除いて、ひとつの理論も成り立たないのが、僕らの暮らす世界です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここがまだよく飲み込めません。 (1) 自然科学としての《理論》は 《再現性と予言能力がある》けれど その条件を守るなら 社会科学の場合には 理論などないであろう。――という意味ですか? (2) 散逸構造理論の――あの学者によると――社会科学への応用としての《理論》というのは そうではなく 《自己組織化》という或る程度の法則的な事態である。という意味ですか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 先にも書きましたが、個人としての人間は、一般に対する特殊なものではないからです。人間は、世界という普遍性に対する単独性のものとして存在している。個人としての人間は、閉じているのです。 閉じているのを知っているからこそ、外の世界と交わろうとする。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 要するに 個人としての人間の意志行為が どうしても不可欠とも言うべき基礎である。その基礎にもとづいてこそ 《自己組織化》の理論的な方程式も 現実の問題として あたかも再現されていくのだ。――これでいいでしょうか?
補足
ri_rong さん ご回答をありがとうございます。 ★ だからこそ――食われてみるか? と思っているのです。 ☆ と聞いて 思い浮かんだ話があります。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 高倉輝《印度童話集》のなかの話を大岡信の本から 引用する。 * 大岡信《星客集 文学的断章》断章II――大岡信著作集・第十四巻所収1978 誰が鬼に食われたのか ある旅人が道に行き暮れて 原のなかの寂しい空き家で一夜を明かしました。 夜半過ぎに誰だか外からその空き家へはひって来るものがあります。見ると それは一匹の鬼で 肩には人間の死骸を担いでをります。はひって来ると どしんとその死骸を床の上へおろしました。すると その後からすぐまた一匹の鬼が追っ駆けて来ました。 《その死骸はおれのだ。なんだってお前持って来たんだ。》 《ばかをいへ。これはおれのだ。》 たちまち二匹の鬼は取っ組みあって大喧嘩を始めましたが ふと先に来た鬼が 《待て待て かうして二人で喧嘩をしたって始まらない。それより この人に聞いた方がよいぢゃないか。》 といって そして 旅人の方を向きながら 《この死骸を担いで来たのはどっちだ。おれか それともこいつか。》 と 聞きました。 旅人は弱ってしまひました。前の鬼だといへば 後から来た鬼が怒って殺すに相違ない。どっちにしても殺されるくらゐなら 正直にいった方が好いと思ひまして 《それはこの前に来た鬼が担いで来たんです。》 と いひました。 すると 果して後から来た鬼が大いに怒って 旅人の手を掴まへて体から引き抜いて床の上へ投げつけました。それを見た前の鬼は すぐに死骸の手を持って来て 代りに旅人の体にくっつけてくれました。さういうふうにして 後の鬼が旅人の脚から胴から残らず引き抜きますと すぐに前の鬼が一々死骸の脚や胴や頭を持って来てつぎ足してくれました。さうして旅人の体と死骸とがすっかり入れ代ってしまひますと 二匹の鬼ももう争ふのを止めて 半分づつその死骸を食って口を拭いて行ってしまひました。 驚いたのは旅人です。自分の体は残らず鬼に食はれてしまったのです。今の自分の体は実はどこの誰ともわからない人の死骸なのです。今かうして生きてゐる自分がいったいほんたうの自分であるやらないやら更にわけがわかりません。やっと夜が明けて来ましたので 狂気のやうに走って行くと 向ふに一軒のお寺が見えました。さっそくその中へ飛び込んで 息せき切って そこの坊さんに聞きました。 《私の体はいったいあるのかないのか どうか早く教へて下さい。》 坊さんの方がかへって驚いてをりましたが やっと昨夜の話を聞いて合点が行きました。そこで 坊さんが申しました。 《あなたの体がなくなったのは 何も今に始まったことではないのです。いったい 人間のこの〈われ〉といふものは いろいろの要素が集まって仮にこの世に出来上っただけのもので 愚な人達はその〈われ〉に捉へられていろいろの苦しみをしますが 一度この〈われ〉といふものが ほんたうはどういふものかといふことがわかって見れば さういふ苦しみは一度になくなってしまふものです。》 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
bragelonne様、こんにちは。 前回はせっかくご回答を下さっていたのにスルーしてしまって申し訳ありませんでした。 ちょっと、風邪気味でまだ微熱が続いております、でもだいぶ回復したのでこちらにあらためてご回答させていただきますね。 御不快になられるのならどうか無視なさって下さって結構です。 >>フランスのポスト・モダン思想家たちは実際に「あやまった」のでしょうか。 >☆ 反対を明らかにしないことをも含めて 投稿者の見解に触りたくないという意図が見えるところです。 こちらに関しては仰る通り、あえてご見解に触れずにおきました。 その理由はri_rong様にも触れていただいたところに通底するものです。 本来でしたらこの辺りまで質疑を重ねていきたかったのですが、自らの力量の無さゆえ至りませんでした。 ですが誤解をこれ以上生じさせないように以下に抜粋させていだたきます。 『局地的な近代西洋科学を普遍・絶対であるかのように思わせる最大の要因が、その「有効性」にあり、また、その「有効性」が、この世界を「一意的な法則による時間・空間内の事象の記述」として描き上げる、という科学に与えられた能力にあったとしても、それで世界が十全に把握できたことにはならない、ということは、実は、近代西洋科学が確立された直後から気づかれていた。 というよりも、逆に見れば、近代西洋科学の視点は、ヨーロッパという文化圏が築き上げてきた重積するいくつかの視点のなかから、ある一つだけを取り出し、それをグロテスクに研ぎ澄ましてきた結果として確立されたものだ、と言う方が正確かもしれない。 とすれば、残されたそれ以外のいくつかの視点からする科学批判、ないしは、他の選択肢の提案は、近代から現代への西洋の歴史の展開の中で、むしろ当然のこととして行われてきているのである。 それを克明に、歴史の上で顧みる余裕は、ここにはないが、たとえばフランスの啓蒙主義哲学者や数学者・物理学者の手になるニュートン力学批判が現れるのも、その意味では自然なことであり、今日超能力や超常現象に欧米のインテリ層が(日本のそれよりもはるかに強く)関心を示すのも、ヨーロッパの伝統が、いわば表看板としての近代科学の視点だけから成り立っているのではないことのよい証拠となるであろう。」 『近代科学を超えて』村上陽一郎 講談社学術文庫(p206-207) bragelonne様のご主張なさる「精確性」「明晰性」の重要性は愚鈍なわたくしにも理解に至っておりますが、上述のようなヨーロッパならではの「学術伝統の深遠さ」の前には「あやまるべき」とまでは容易に言い難い理由があったわけです。 本当でしたらね、ポストモダンは建築に大変深い関係性がありますから、ル・アーヴルの景観にもふれていきたかったのですが。 >☆ 焦点のずらしを感じるのですが(ただの主観です) いえ、こちらに関しても焦点をずらしております。 「アンテルムライスム」は日本人ならではの大変ユニークな(オマージュ言葉です、念のため)発想だと期待しております。 ですが、本質的にはマルクス主義、実証主義など≪同一性≫的思想としてくくられるものかと思われます。 そして≪同一性≫を堅持する以上は≪普遍性≫≪観念的≫なる方向を目指すものであり、いわゆるポストモダンが着眼するところの≪差異性≫≪多様性≫とは相反する性質のものではないでしょうか。 つまり、ポストモダンは複雑な現代社会を切り刻むツールなため、おのずとより「複雑」で「混迷を極める」様相を呈してしまっているとも言えるかもしれません。 で、逆にわたくしからの質問です。 >質問者さん こんにちは。No.16です。 >mashumaro2 さんと呼んでいたときとは違って これで恩讐もきれいにふっきれて 互いにただの質疑応答者として表現していけますね。 >ご返答をいただいた限りでは わたしの考えと違っていますので あらためて投稿いたします。 他の方々とは「差異化」を試みんばかりにこのようにお書きになった真意をお伺いしたく思います。 わたくしがヴァレリーの詩を見て「キザ」と申し上げたのは「気障わりのキザではなく、格好良いですね」という意味、とその後のランボ等の詩を通じてご理解いただいているはず。 それとも、ご自身とは理念が異なる人間、愚鈍な人間はお嫌ですか。 「ぶっきらぼう」「すべての人を説得することはできますか」のbragelonne様の質疑に参加させていただいた末の結果が「互いにただの質疑応答者としてやっていけ。」ということであったのでしたら、わたくしもここまで虚心坦懐に申し上げましたから、もうそれはそれまでだと思い納得させていただくしかありません。 Alors, cela depend de vous.
お礼
No.13のお礼欄および補足欄を書いたのちにおぎないます。(7月2日朝) とにもかくにも どれだけ盤石な理論であっても それに対してさらにさらに裏づけを取るのが mashumaro2 さんだったのではないですか? わたしはそれをやっているだけです。お分かりになるはづなんですがねぇ。つまりはそれとも わたしの文章に対して右から左から上から下から斜めから 機関銃のごとくバズーカ砲のごとく――まぁ ミサイルはやめときましょう――自由な批判をあたえてくれる自由人マシュロさんだったのではないでしょうか?
補足
こんにちは。ご投稿をありがとうございます。 ★ 虚心坦懐 ☆ 以上のみづみづしい息吹きを感じておりました。とお伝えしたかった。だけでしょうか。 歳を取るとこんなふんぞり返った姿勢になることを止められなかったのですね。いまそれを消しても何にもなりませんから 正直に申し上げるのみになります。 A. ソーカル事件としてのわたしの回答は もう述べています。 1. 評論誌の査読・編集能力の問題 2. ポストモダン思想家の文章責任の問題 B. 関連して添えたことは 3. 精確さと明晰とは車の両輪であり 二者択一ではないこと。 4. 過程であり動態である《自然》の内に 経験合理性による思考と文化とその規範(法則や法律)が宿るということ。 C. さらに質疑応答の流れに沿って添えたことは 5. 百花繚乱を目指すという姿勢に対して 《真理はきみたちを自由にする》の原点。 6. それにちなんで 《神のもとの平等》について それは《無根拠のなぞのもとに 人びとが自由であること》だと開いた。 7. 言いかえると アマテラス諸侯の中の第一アマテラスが権力を握るとき さらに法王であるかどうか定かではないが アマテラシテ(象徴)の存在が考えられるし 存在する。これらは――ローマの神の代理人を含めて―― 《神のもとの平等》ではないということ。 8. (あ) 日本語の文字の特徴は あくまで漢字漢語の助けを借りているのだから あまり大きな顔をし得ない(これはいまつけ加えます)。(い) 表音文字のみを使っている場合にも 習慣はおそろしいもので あたかも象形文字を使用するような特徴が現われることがある。 あとは今回のご議論の中から。 9. ★《村上陽一郎『近代科学を超えて』〔に述べる〕ようなヨーロッパならではの「学術伝統の深遠さ」》――これは 上記の(3・4・5・6)の問題だと考えます。 10. ★《「アンテルムライスム」は・・・≪同一性≫〔的思想〕を堅持する以上は≪普遍性≫≪観念的≫なる方向を目指すものであり、いわゆるポストモダンが着眼するところの≪差異性≫≪多様性≫とは相反する性質のものではないでしょうか》――その内容=形式は 精確さにもとづく明晰性があれば いかようにも応用していけると考えます。ムラムラで 同一の類型を形づくる場合もあれば 差異性をおびる形態を築く場合もあると。 11. ★《他の方々とは「差異化」を試みんばかりにこのようにお書きになった真意をお伺いしたく思います》――これは おかしなご質問ではないでしょうか? 賛同も反対もありません。みづからの見解を述べるまでです。 12. ★《それとも、ご自身とは理念が異なる人間、愚鈍な人間はお嫌ですか》――これは《理念が異なる / 愚鈍 / 好悪》の問題ではありません。《〈対話〉をする意志 話し合いをつづける意志があるかないか》これだけの問題です。わたしからないと言ったことはありません。(応えようがなく困ってしまって応答を無しですましている場合が 出てきてはいます)。 対話を放棄する場合というのは 《〈もう投稿してくるな〉とはっきりいう》場合から《わたしの文章を無視する》場合まであります。わたしはその相手の意志を尊重しているだけです。
- ri_rong
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補足をいただいてますね。 注文の多いレストラン――どういうことでしょうね。この質問で、僕を食べようとでも言うのですか? きのこといっしょに盛り付けて。それに、おもしろいのですか?――と訊かれていますが、面白いなんてことはないですよ。 むしろ問われているのは、それとは無関係に、全体と個人ということでしょうか。「個人という立ち場に立つのは 哲学ですよね。そういうあたりです」とお書きだからです。けれども、「個人」という表現はいささか微妙ですね。それに「経済学が社会総体を対象として」とおっしゃる「総体」というのは、個人をも含むという意味なのでしょうか。 単純なる対立というわけでもなさそうです。 そのむかし、自然学から哲学と自然科学が分かれたころは、人間の内面を扱う哲学に対し、自然科学は外側を扱うものだと相場は決まっていました。あいだにあるのは、皮一枚というふうに。外側の世界というのは、開かれた世界(ブラジュロンヌさんのいう散逸構造の世界?)ですが、人間はその皮一枚を超えることができない存在――つまり閉じられた存在――だとする見方があった。 けれど、その閉じられたと評される内側の世界を見返したとき、自分というものは脳なのか、心臓なのか、あるいは細胞なのか――という、その単位の問題が生まれる。結果的に人間というのは、内側全体を指す呼び方であって、外側の世界を総体だと評するように、内側もまた総体であると評されねばならない――こう評価されたようです。 さて、全体と個人というとき、その個人は果たして、一般に対する特殊の例としての「個人」なのか。それとも、普遍性に対する単独性のように、他にはどうとも表現しようのないゆえに、とりあえず「個人」と呼ばれる例としてのものなのかどうか。「個人」という表現が規定的判断の道具として用いられているのか、それとも、反省的判断の道具として用いられているのか。 いずれにせよ、単独性は特殊性とは異なる。 全体論ではこの「特殊ではないゆえに」という理由から、( )書きの存在として「個人」は扱われると思うのですが、だからといって一般論を語るのが哲学だとは思わない。哲学とは、普遍に対する単独性の主張であり、要求される判断は規定的ではなく、反省的であるべきだと――こういうふうなのかな、と思った次第ですが、どうでしょうか。 やはり「注文の多いレストラン」というのが何かはよくわからないのですが、ひょっとしたら僕は、罠に嵌っているのかもしれないですね。山猫ではなく『蜘蛛の糸』ですか? それとも、言われるままに答えてゆくと、最後に何かがわかるのだろうか。
補足
Cher Mr. ri_rong, konnitiha! Merci pour votre reponse. 夕刻は 自転車で散歩をつねとします。わづかの晴れ間が出来たので出てみたら 案の定降られてしまいました。びしょぬれのTシャツを着替えて(というか 裸でももう暑いくらいですね) 顔を洗って気分をあらたにPCに向かう。といったところです。 あぁ 《注文の多い》という一節が思い浮かんだところ たしかレストランがそれにつづくと思って出したら ★ この質問で、僕を食べようとでも言うのですか? ☆ で確かに思い出しました。シェフだかオーナーだかが 客を何だかひどい目に合わせる筋書きでしたね。結末は知らないのですが まぁ そう言えば カインとアベル その殺しの作法の話を聞いた人間としては どうも意識下にその仕返しをしてやろうという魂胆があったのではないでしょうか。世の中 うまく出来ています。刺激的でしたか? たまにはいいでしょう。 ★ おもしろいのですか?――と訊かれていますが、面白いなんてことはないですよ。 ☆ そうなんですか? わたしがお訊きしたかったのは (1)この面白いかと (2)個人の自由意志のはたらく余地はあるのかの二つです。 散逸構造の応用は おもしろくないのですか? あとはですね。定額給付金は 一人ひとり個人に給付されますが この政策はあくまで総需要の喚起あるいは弱者の援助ですよね。そうしますと 散逸構造――と知ったように話していますが そこのところは塩梅よく受けとめてください――を応用する場合 不安定の状態から新たな秩序へとみちびくような政策は とうぜん 社会全体の立ち場からのものです。個人は直接にはかかわらないか もしくは 受け身でふつうに行動する。 ヰキぺの解説を読んで けっきょく 《瀬戸内海のように外の海に開いた状態でいて しかもみづからの内では安定を保つ過程構造》の程度で理解しているのですが ここでおしえていただきたいことは (1)たとえばそのようにすでに《外に開いている》ならば 個人はその意志行為において けっきょくは何も新しい行動には出ないでよいと思われるが そう受け取ってよいでしょうか? (2) そうでない場合には 《外に開く》という条件を与えなければならない。けれどもそういう行動は 社会一般の人びとについてみれば そうしている(外との交流をおこなっている)人は引き続きそうするであろうし そうしていない人は にわかにそうすることも難しい。だとすれば 応用というけれども いったいどういう政策の内容になるのか。 ううーん。しどろもどろですね。言いなおします。 (2a) いまの理論の応用において 個人は意識的に意志行為として行動することが そもそも見込まれているのか。そうではなく むしろ理論はあとづけであって 個人と社会が不安定状態から秩序を回復したときその歴史事例をただ説明するだけのものなのか。 こういうところだと思います。どうでしょう? ★ 山猫ではなく『蜘蛛の糸』ですか? ☆ 山猫が レストランに出てきたのでしたか? そこのところ あやふやです。 今回お尋ねしたのは 単なる知識の問題です。残念ながら蜘蛛の糸でもありません。と言いますか そういう結構は 生半可なさとりによってこしらえているだけだと思いますよ。 * 今さらですが 補足欄とお礼欄は わたしの場合 字数に応じて使い分けています。念のため。
- ri_rong
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ご返事をありがとうございます。 ======================= ★ 意図はわかりますよ。だったら、「人間という個体の存在は一である」――こうお書きになれば、よろしいのです。 ☆ まづ ★ 意図はわかりますよ。 ☆ の意義がわかりかねているのだと思いますが ☆☆ 数として ☆ という一節を省くという意図は どこらへんにあるでしょうか? ======================= 省く意図は、それが不要だからですよ。いや、不要なだけなら良いですが、誤解を招くもとになるし、文意の重要なところが抜け落ちてしまう。 「一」と表現すれば、それが基数か序数か、はたまた実数だの自然数だのといった詮索からも自由になるし、全体なのか部分なのか、概念なのか事実なのかといった限定もしないで済むでしょう? 意味のうえでは、それらは読み手側の裁量に任せれば良いし、またどのような意味付けを発話者が行ったとしても、一旦発せられた言葉は他者のものとなるわけですから、たとえ「意味が取れない」という反応であっても良いのです。応答は、それからのことです。 個体としての人間は、それが数えられるものか否か、未だにわからない。未知の物事は、未知のままにしておく方が良い。僕の記述はいつも、このスタイルを取ります。自分ではそれが、あくまで自分らしい思想なのだと思っていますが、ブラジュロンヌさんには、フラフラとして幾つになっても態度をはっきりさせない(思想がない)、クラゲのような奴だなと映るでしょう。 ★ 意図はわかりますよ――と書いたのは、「数として」という表現を便宜的に用いているという――その意図がわかるという事です。だから、応答は「数として」の話には向かわないだろうと予想したのです。したがって、不要だと書きました。
お礼
ri_rong さん 回答としてのご回答をありがとうございます。 へえぇー そうなんですか。 ★ 「一」と表現すれば、それが基数か序数か、はたまた実数だの自然数だのといった詮索からも自由になるし、全体なのか部分なのか、概念なのか事実なのかといった限定もしないで済むでしょう? ☆ もしわたしがこじ付けをおこなうとすれば ○ 《数として》は 《基数や序数 はたまた実数や自然数などなど》の基礎としての《数》が ここに始まる。 ☆ と考えたということになります。 しかし定義には 余分である。余分のことは 段階を踏んでいけばよい。ということですかぁ。 ということは ○ 「人間という個体の存在は一である」 ☆ という定義の仕方も ありうると考えていいのでしょうか? まぁ それほどの問題ではないでしょうから この問いにはお答えは それとしては なくてかまいません。 ふうむ。数学というのは 文法を決めるようなものですかね。――あぁ 言語は いかようにもと言うほど変化をこうむりますから その文法と 論理の文法とは また別なのでしょうね。 ありがとうございました。これからも よろしくお願いいたします。 * ところで 様相論理は まだ発展途上なのでしょうか?
補足
6月29日(月)記します。 《散逸構造》の理論を社会科学に応用したものというのは おもしろいのですか? わたしの立ち場としましては ○ 経済学が社会総体を対象として――むろん 個々の経済主体について認識したり政策を施したりしますが それも基本的には――社会総体という立ち場から理論も政策も打ち出す。わけですから 散逸構造の理論が社会科学に応用されるということは 個体としての人間(つまりそのわたしの自由意志)は 括弧に入れておかれる。はづである。 ☆ という見方です。そのあたりについて 明らかにする段階にあるのでしょうか? つまり個人という立ち場に立つのは 哲学ですよね。そういうあたりです。 注文の多いレストランに入ってしまわれましたね。デュクセルをいちど食べてみたいです。きのこは好きですから。
- ri_rong
- ベストアンサー率56% (30/53)
お礼欄に補足がつきましたね。 > ☆ ですが 定義・想定の問題だという理解しか得られていないのですが それで良いのではないでしょうか。 >次の見方はどうなのでしょう? ○ 人間という個体の存在は 数として一である。 意図はわかりますよ。だったら、「人間という個体の存在は一である」――こうお書きになれば、よろしいのです。
お礼
ri_rong さん ご回答をありがとうございます。 ★ 意図はわかりますよ。だったら、「人間という個体の存在は一である」――こうお書きになれば、よろしいのです。 ☆ まづ ★ 意図はわかりますよ。 ☆ の意義がわかりかねているのだと思いますが ☆☆ 数として ☆ という一節を省くという意図は どこらへんにあるでしょうか? ○ 要素や部分を集めた総合としての一つなる存在 ☆ であるから そのような ○ 《個体ないし単位体》を最初に捉えるべきだ。 ☆ ということでしょうか? ○ そのあと 数論に移るのか。それとも もうその数論とは切り離された命題としてあるということなのか。 ☆ はどうでしょう? 何が何だか分かりません。まづは 《定義・想定の問題である》で よろしいのですね?
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お礼
後日譚として お気が向けばどうぞご覧になってみてください。 あなたも回答に参加しておられる質問です。 【Q:自分の身を守るのはいけないことでしょうか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4844443.html 次などが 余興によいように思います。 ▲ (No.33) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「散逸構造の理論によると、人間万事塞翁が馬、世の中、成り行きに任せていれば、なるようになるよ」と高を括っております。 僭越ではありますが、私は、「お前ら、もっと散逸構造の理論を勉強せい、私は塞翁が馬の現人神、あるいは権化であるぞよ」と不届きな事を物理を勉強している若者達に捲し立てております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 悪趣味だと言われかねない要素が出てまいりましたが はっきりしたのではないでしょうか? 《中庸》のki・・・理論と軌を一にしていると思います。
補足
ri_rong さん 最後の締めをありがとうございます。 この件に関しましては 最後のまとめとして受け取り締めとします。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 現象の捉え方には、各人いろんな方法があるだろうと思います。 僕の見るところ、あの回答者もきっと同じ意味の結論をお持ちだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここまで言ってくださったのですから もう 一件落着としてありがたくお受け取りします。 ★ 異なっているのは、表現方法だけです。方法は、いちばん良さそうなものをその都度、使い分ければ良いのです。 ☆ なお問題提起になりますが これはあくまで別の問題です。分かっていただけると思います。つまり ○ 自己表現についての答責性 もしくは 文章責任 ☆ の問題です。 ▲ ・・・散逸構造の理論の主張の正しさが確認されております。 ○ 仮説が広く検証されつつあり 現象としてその仮説の内容が当てはまる部分がいくつか見られると報告されている。 ☆ とでも表現すべきだと考えます。しかも 重大なことは ○ その仮説内容が当てはまる部分――つまり いまここでは そのような社会現象の一部――において 人間の自由意志がどのようにかかわっているのか。 ☆ だと考えます。これについての研究と検証は まだ始まっていない。(もしくは おそらく今後とも 自然科学という立ち場〔のみ〕からは 手がつけられないと考えられる)。 かくして ★ マシュマロさんは、それを「はさみ」だと教えてくれたんじゃなかったのかな。 ☆ に到るという寸法です。 ○ 《はさみ》が一人歩きするということは 断じてありません。 きわめてうろ覚えのままですが かつてトインビーは 歴史の捉え方として 単位体として《文明》をとり そのあたかも歴史主体が 自然環界と人間社会的な環界(つまり他の文明)との間に繰り広げる《挑戦の受容とそれに対する応答 challenge-and-response 》という視点を提出しました。開いた状態において不安定から安定状態へと自己展開する現象と似ていると思います。 トインビー説は 法則でもなく仮説ですらなく そういう見方をあくまであと付けとして提示したに過ぎないと思うのです。《はさみ》ですらないでしょう。 ということで ○ 表現方法の使い分け方 ☆ に研究者としての(もしくは けっきょくは誰であっても人間としての・自己表現者としての)良心が問われると思います。その心は あいまいであっても構わないし 間違っても構わないであろうけれども つねに批判を受けてそのつど修正していくことは大事だ。というところにあると考えます。 この批判をつきつけるというやさしさについても 触れてくださいませませ。それなら 首を絞めてもらってもかまいませんから。