- ベストアンサー
人間の内面と外面とは 総合されうるか
次の質問で質問者が説明しつつ問うている問題について どう考えるか。これが ここでの質問です。題して 【Q1: われわれそれぞれの主観内面における・人間関係に関する思惟のあり方は われわれ互いの交通(まじわり)における対話の行方と つながっているか。 【Q2: つながっていて 全体としての世界観(つまりおのおのの生活態度)において 総合的に捉えることはできるか】 【Q3: それらのことは われわれ一人ひとりと神との関係にかかわっていると言えるか】 三つ目の問いにかんしては 次の文章を参考にしてください。 【Q:現代日本に必要な哲学は?】そのNo.9です。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4151421.html ▲ 【Q:リカちゃんについて】(No.11お礼欄) ~~~~~~~~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4991449.html 森毅さんの『魔術から数学へ』・・・に倣って説明するとすれば、p.65の「石」と「砂」の比喩が良さそうに思います。 少しかいつまんで説明すると、古代ギリシャの数学には二種類の系譜があって、著者に依ればそれは「数論」と「幾何」だという事です。 「石」の数学とは数論のことで、石を並べて1,2,3,4…と数を数える。「砂」の数学とは、砂に絵を描くものです(要するにコンパスと定規が使えるヤツ)。 前者は粒を基本にしているので、それ以上はわけられない原子からできているのに対し、線のほうは連続して繋がっているので、幾らでも分けることができる。 前者の考えではそれ以上には分けられない点からできている線が、後者の場合にはどこまでも分けられるという――この食い違いが問題になるケースです。 遥かむかしに、南イタリアあたりで、この「石」と「砂」の争いがくり返されたわけですが、この違いについてはどうでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 趣旨説明として 質問者の見解をのべます。 1. 《石》は 個体であり 《砂》は その内面だ。 2. 石と石との〔人間〕関係が その基軸として 外面としての交通ないし対話を据えるとよいと思われる数論である。 3. 砂の幾何は 意志の自由にもとづき みづからの表現として想像し絵を思い描くところの自由を訴える。 4. 砂の幾何模様を内面に抱いた石は ほかの石とも まじわり話し合いを持つ。 5. そのとき 固い石どうしとして しかも あたかも互いの交わりにおいて化学反応が起きるであろうか。 6. その外面における生物化学反応は それぞれの内面に どうかかわるであろうか。 ご見解をお寄せください。
お礼
後日譚として お気が向けばどうぞご覧になってみてください。 あなたも回答に参加しておられる質問です。 【Q:自分の身を守るのはいけないことでしょうか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4844443.html 次などが 余興によいように思います。 ▲ (No.33) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「散逸構造の理論によると、人間万事塞翁が馬、世の中、成り行きに任せていれば、なるようになるよ」と高を括っております。 僭越ではありますが、私は、「お前ら、もっと散逸構造の理論を勉強せい、私は塞翁が馬の現人神、あるいは権化であるぞよ」と不届きな事を物理を勉強している若者達に捲し立てております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 悪趣味だと言われかねない要素が出てまいりましたが はっきりしたのではないでしょうか? 《中庸》のki・・・理論と軌を一にしていると思います。
補足
ri_rong さん 最後の締めをありがとうございます。 この件に関しましては 最後のまとめとして受け取り締めとします。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 現象の捉え方には、各人いろんな方法があるだろうと思います。 僕の見るところ、あの回答者もきっと同じ意味の結論をお持ちだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここまで言ってくださったのですから もう 一件落着としてありがたくお受け取りします。 ★ 異なっているのは、表現方法だけです。方法は、いちばん良さそうなものをその都度、使い分ければ良いのです。 ☆ なお問題提起になりますが これはあくまで別の問題です。分かっていただけると思います。つまり ○ 自己表現についての答責性 もしくは 文章責任 ☆ の問題です。 ▲ ・・・散逸構造の理論の主張の正しさが確認されております。 ○ 仮説が広く検証されつつあり 現象としてその仮説の内容が当てはまる部分がいくつか見られると報告されている。 ☆ とでも表現すべきだと考えます。しかも 重大なことは ○ その仮説内容が当てはまる部分――つまり いまここでは そのような社会現象の一部――において 人間の自由意志がどのようにかかわっているのか。 ☆ だと考えます。これについての研究と検証は まだ始まっていない。(もしくは おそらく今後とも 自然科学という立ち場〔のみ〕からは 手がつけられないと考えられる)。 かくして ★ マシュマロさんは、それを「はさみ」だと教えてくれたんじゃなかったのかな。 ☆ に到るという寸法です。 ○ 《はさみ》が一人歩きするということは 断じてありません。 きわめてうろ覚えのままですが かつてトインビーは 歴史の捉え方として 単位体として《文明》をとり そのあたかも歴史主体が 自然環界と人間社会的な環界(つまり他の文明)との間に繰り広げる《挑戦の受容とそれに対する応答 challenge-and-response 》という視点を提出しました。開いた状態において不安定から安定状態へと自己展開する現象と似ていると思います。 トインビー説は 法則でもなく仮説ですらなく そういう見方をあくまであと付けとして提示したに過ぎないと思うのです。《はさみ》ですらないでしょう。 ということで ○ 表現方法の使い分け方 ☆ に研究者としての(もしくは けっきょくは誰であっても人間としての・自己表現者としての)良心が問われると思います。その心は あいまいであっても構わないし 間違っても構わないであろうけれども つねに批判を受けてそのつど修正していくことは大事だ。というところにあると考えます。 この批判をつきつけるというやさしさについても 触れてくださいませませ。それなら 首を絞めてもらってもかまいませんから。