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強過ぎる関心
自分と直接の関わりも利害関係もない見ず知らずの人なのに、その本心を必要もなく むやみと知りたがったり推し測ったりする場合、どういう理由が考えられますか。 また、自分と直接の関わりも利害関係もない見ず知らずの人なのに、その本心を見透かせたつもりになって、いわゆる「差し出がましい」というのか、高圧的な口調で指図をする人の場合、どういう理由が考えられますか。 こうした人ほど、逆に自分自身が「見透かされた!」となると、いつまでも根に持って、いわば「意識の排泄」とでもいうようなことをし続けますが、これは、どのような心理からでしょうか。負けん気とか、根底に劣等感があるのでしょうか。
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noname002さん。 私信みたくなってしまうのですけど、ちょっと気になったので。 怒らないでね、と先に言っておきます。 「強過ぎる関心」という観点で言えば、少し種類は違うわけですが、遠くからの眼では、あなた自身もやはり「強過ぎる関心」がある人なのではないかなと思えてしまうのですが、どうでしょう。 揶揄しているわけではないのです。「拘り」と言うことはいいこともあるわけですし。ただ、少し勿体ないなという話です。 以下の話は、私自身のかつての話で、あなたはまた別かもしれません。 昔の私は、論争を好む、そういう印象を持たれていた人間でした。決して好んでいたわけではないのですが、論理的に考えておかしなことにはつい口を挟んでしまい、やりあってしまうことが多かったです。 まぁ、口では負けないほうですし(笑)、9:1みたくなっても、数を頼むような輩相手だとなおさら燃える(笑)。話の筋はこうでなくてはおかしい、土台がおかしな話を進めるわけには行かないという、まことに正義感に満ちておりまして(笑)。でもね、ある時から、変わっていったのです。 論争に負けたから?→イエイエ。面倒くさくなったから?長いものには巻かれろと?→そこまでヒヨってません。 ところで、相当な論争になる時って、案外、場外乱闘になってませんか? 本当はリングの上でやりたいのですが、どういうわけか、すぐ、リングから飛び出して、場外乱闘が始まってしまうのです。(これにはこれの訳があるのです。リングの中はルールの世界、リング外はなんでもありですから、戦いとしてはえげつなくもなるけど、本音勝負。確かに余程見ごたえがある。 笑) 私としては、早くリングに戻りたいのに、延々とかかってしまって、しかも、リング外でロジック無視で多数派を形成されてしまう。いくら論理的整合性でポイントをとっても蟷螂の斧。 勿論、そういう無茶苦茶をする連中のすることですから、後日になればわかるのです。あまり良い決め事ではなかったと。 思うに、良いこと悪いこと、どうすべきか。こういうことって本来おのずから決まってる部分ってあります。普遍でも良いです、王道でも良いです。後になって振り返ってみれば、ほとんどが、その範囲です。 ところが、メンバーが悪いのか、隠された事情があったのか、そう進まないときがある。こういうときに揉め事って多い。そして、往々にして多勢に無勢でした。いくら正統性を言っても突破できない、場外乱闘しか出来ない。 結果がどうなろうと、場外乱闘にならないように気をつける、これを考えるようになりました。が、スルーも出来ない、見すごす訳には行かない。さりとて、乱闘は嫌です。結局身に付けたのが、「ほどほどの物言い」です。 場合によっては、チクリ一刺しもありですし、ユーモアやぼやきですますこともありです。「嫌味に思われない皮肉の言い方」かもしれません。「わかってんのよ」とちょっと意味深なウインクだけで済ます、ということかな。 本筋以外で精力を使い果たすなんて、馬鹿なことはしない。そのためには、相手が仕掛けてきても、わかってますよ、だまされませんのサインだけでかわす。これが身に付くようになってからは、「戦いすんで日が暮れて、骨折り損のくたびれもうけ」が激減しました。 あなたは、なんでも真っ向からがっぷり四つ組んでしまう。がっぷり四つ組まないといけない話ですか?四つ相撲は体力勝負になってしまいますよ。。。体力もないのに頑張るんですもの、そりゃ、欝にもなりますって。じゃあどうすればいい。みすみす不戦敗は嫌だ。 私がその当時、新たなスキルを身につけるためにはじめたのは、川柳です。3年ほど一生懸命しました。雑誌や新聞にせっせと投稿していました。ユーモア、ウイット、わさび、からし、こういうものも身に付けると、普段の人間関係も好調になりますよ。 二十歳ソコソコの若い人が言うとサマになりませんが、ヒトトシいった知性ある人は、こういうものを身につけるべきです。 何でもかんでも真っ向勝負、四つ相撲ばかりは「野暮」です。 ちょっと考えてみませんか。
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- ghostbuster
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お久しぶりです。 その昔、近所の大学で浜田省吾のコンサートがあるから、一緒に行こうと誘われたことがあるんです。 え~、やだよー、浜省なんて…って思ったんですが、無料だし、じゃあ、行くかってことになった。そのときに、うしろに立ってた人が(娘連れのおばちゃんでした)ぐいぐい押してくる。もう、押してくるなよ……とずっと思ってたんですけど、そのうち気がついたんです。あ、自分も同じように押してるんだ、って。 わたしの頭の中では、相手が押してきた、とあった。それを不当に思っているうちに、「押し返している自分」というものがブラックボックスに入ってしまっていた。わたしが押し返すから、おばちゃんも押してくるんだ、って。だから、わたしは少し横にずれました。その位置からは、前のでかいお兄ちゃんの頭のおかげで、それまで見えていたマッチ棒大の浜省は見えなくなったけど、まあいいや、って。そうなったら、そこからベースが見えるのに気がついて、コンサートの間中、ずっとベースを見てました。なるほどなあ、この人、こんなふうにリズムを取るんだ、って、とってもおもしろかった。気が付いたら、そのおばちゃん、わたしより前に出てましたけど(笑)。 わたしの好きなレヴィナスの好きなパスカルの言葉に、“「そこは私が日向ぼっこをする場所だ」という言葉のうちに、全地上における簒奪の始まりと縮図かある”というのがあるんです(いい加減な記憶による不確かな引用)。 誰かが「自分の日向ぼっこをする場所」に入ってきた。そのとき、ここは自分の場所だ、と宣言して排除する。このとき、排除した人は、自分がまったく悪いことをしたなんて思ってないでしょう。逆に、正当な行為をしたと確信しているでしょう。だけど、パスカルはそれが「簒奪の始まり」だという。何でだと思います? わたしはこんなふうに思うんです。 出来事は、出来事として起こるんじゃない。それに立ち会った人が、「始まり」と「終わり」に区切りを入れて、取り出して、それをつなぐ「物語」をつくって、初めて「出来事」になるんです。そうなると、立ち会った人それぞれによって、「出来事」というのはちがったものになる。まるで芥川龍之介の『藪の中』ですよね。あれを読むと、たいがいの人は「真相はどうだったんだろう」と思うんですが、実際には「真相」なんてものはどこにもないんじゃないか。 「私」にとって、「自分の日向ぼっこをする場所」に入ってきた人は乱入者です。けれども入ってきた人は、まったく別の意図を持って、単に歩いているだけだったのかもしれない。にも関わらず、そう宣言し、相手を排除することによって、「私」は自分の解釈が絶対だ、唯一のものだ、と相手に押しつけるのです。簒奪するのは、「場所」ではありません。相手の「物語」です。 そうして、自分の「物語」を相手に押しつける人は、独裁者になります。 独裁者というのは孤独です。わたしは独裁者というと、いつもロバート・シェクリィの『宇宙市民』というとっても愉快なSF短篇を思い出します。あらすじを紹介すると終わらなくなっちゃうんで省略しますが、それを読むと、独裁者って大変だなあとつくづく思いますよ(笑)。 自分の見方を唯一のものとして押し通そうとすると、かならずそこに摩擦がうまれます。際限なく互いの見方を主張しあうか、どちらかが屈服するか、妥協するか、そのいずれかになるでしょう。 理解し合った上で、自分が主張する地点と、相手が主張する地点のいずれでもない場所に一致点を見いだすのは、もしかしたらすごくむずかしいことのように思えるかもしれない。けれど、わたしたちは、実は、日常、気がつかないうちにそれをやってるはずです。それが円滑なコミュニケーションというものだから、あまり意識はされないだけで。たいてい意識にのぼってくるのは、不調に終わったコミュニケーションの方ですからね。 質問者さんは、それでも「自分の物語の方が正しい」とおっしゃるかもしれません。わたしにはそれはわからない。わたしはそれを判断する立場にはいません。でもね、正しいかどうかの判断は、少なくともその当事者が下すものではないと思う。そしてまた、当事者の一方が、「証拠」をずらーっと並べて、さあ、判断してくれ、と迫るものでもない。だってその「証拠」というのも、その物語の脈絡のなかで「証拠」として機能している一要素に過ぎないのだから(だから、あのときこういうことがあった、つぎのときどういうことがあった、ってわたしに説明しないでくださいね)。 「さびしい王様」になるのがイヤだったら、少し、立ち位置を変えたらどうか、と思います。押されてるから自分は仕方なくこっちに来た、というのではなくて。 こういう場というのは、やりとりするのが、言葉でしかないですよね。しかも、日常生活であれば、その言葉を回収する「場」というものがあります。たとえば『藪の中』だって、現実に起こった事件だったら、「真相なんてどこにもない」なんて悠長なことは言ってられません。 だけど、言葉だけのやりとりしかないと、どこまででも行ってしまう。実際に泳ぐと、5キロも泳げば、あ~もうダメ、となっちゃいますが、言葉でならどこまでだって泳げてしまいます。回収される「場」を持たないやりとりというのは、実は、かなり危ういものではないんでしょうか。だからわたしはあまりそういう場には近寄らないことにしてるんですけどね(笑)。 質問者さんがこんなふうにおっしゃっておられるということは、よほど苦しい思いをされたんだろうと思います。 でもね、それはもう終わってしまったこと。 いま苦しいのは、過去のことを思い返して、何度も何度も同じ物語を読み直しているからだとしたら。いまの自分を苦しめているのは、過去の事実でしょうか、思い返している自分でしょうか。 時間を経たせてやることです。いや、ほっときゃ勝手に経つんですがね、時間なんてものは。自分がたぐりよせ、たぐりよせさえしなければ。 ひどいことをした相手に謝らせてやらなければ、自分の傷は癒えない、と思っているのだとしたら、そう思っている限り、自分は自分の築き上げた物語の外に出られません。だって、相手にはまた別の物語がある。謝れ、と命じることは、自分の物語を唯一絶対のものである、それを受け入れろ、と命じることにほかなりません。そんなことは誰もしてくれないだろうし、そうなったら質問者さんは、ますます自分の物語という牢獄のなかで、謝れ、謝れ、と怒鳴り続けます? 外に出ることです。 「出来事」が物語であるとするなら、それを振り返る「いま」の自分が変わってさえいれば、いくらでもちがう物語にすることができる。そう思ったら、なんか、気分が晴れ晴れしてきません? ああ、こういうことを書くと、どうしても説教臭くなっちゃう。ほんと、もうダメだ、こういうことをわたしにはもう書かせないでください(笑)。
お礼
宗教的なまでの盲従要求を受け入れることでしか認めてもらえない。受け入れればいいじゃないか或いは自ら従わせてみせろ、とも(遠まわしに)言っていたようですが、私は従わなかった従わせるつもりもなかった。 「相手にはまた別の物語がある。」まず、これを、お互いに認められるかどうか。 「相手には」、当然、「私にも」、のはず。 孤立した立場に置かれていると感じた私以外の人たちも、それぞれの立場で大なり小なり異なる思惑があったかもしれない。 「さびしい王様」になるのがイヤだとも思わないです。但し、先にも言いましたけど「王様」なんて全くガラじゃない。でも、「さびしい」とかは鈍感なのか平気なほうなんです。盲従するくらいならば。本当は盲従させてもらいたい気持ちもあったんですけどね~ >こんなふうにおっしゃっておられるということは、よほど苦しい思いを 確かに、ひと口で言えない、いろんな思いは ありました。メンタル面での不調も影響したと思いますし、もっと遡った過去から押し込むように抱えていたものを刺激され続けた部分もあったのかもしれません。 >それはもう終わってしまったこと。 いや、これ違います。たぶん、別のことを思ってらっしゃる。 「それ」に関連してなら、ごく最近も「当事者」の一人が、 「少しの混乱から、たくさんの混乱を生み出しました」 などとシャアシャアとホザイタのを目撃し、怒髪天状態で殴り込みかけましたけど!(メ ̄Д ̄) 仰るように、「ほっときゃ」いいんです。でも、ほっとけなかった。他の回答者様にも述べましたが、自分に向けて「張られた網を」たぐりよせて「ビリビリに破いてやりたくなる」んです(笑 謝れと言い続けて徒労に終わったと みえるのは表面的には事実としてもいいでしょうが、「当事者」どうしの間ですら、まだ知らないことがあります。他に、私の意向をよそに続いていきそうな奇妙な事態もあるのですが、それらについては今ここで言うことではないですし、これからも言わないかもしれません。 そのことよりも、私が今回ここで尋ねたかったのは、「終わった(あの)こと」ではなく、今進行中のことについてです。勿論やめてもらいたいことなのですけど、何故、どういうつもりで それが なされるのか理解できないからです。私だったら まずやらないことなので。 gbさん?!有難うございます。でも字数が全然、足りない~;
補足
若かった頃に、トコトン「押し返す」のと「押されっぱなし」両方それぞれに試してみたことがあります。 「押し返す」ほうの結果は、、、まあ言いません(笑 「押されっぱなし」のほうは、いっさい無抵抗だと、どこまで押されるものなのかな、と。 最終的には端の端っこまで流されて、マジで身に危険が迫りました。冷や汗かくまでやる私も どうかしてますが。押してくる人のなかには、私が少しも逆らわないでいるのに気づいて、うっすら笑みを浮かべつつ、それでは遠慮なく!と ばかりドンドン押してきた人もいました(案外、女性が多かったような)。 私は、およそ「独裁者」とか「王様」って器じゃないです。 でも、いままでに、多分「乱入者」になりかけてたことは、ある。それに気づいて「横にずれた」ことも。 だけど、この、「横にずれ」ること自体で、実は相手を脅かしていて、相手なりに持っている「物語」?に一種の圧力をかけていたということもあり得るんだと思いました。そのときに気づいてなくても、もう その時点から押しつけ合いは始まっていたかもしれない。 「横にずれた」ほうは大して気にも留めずにいるのに、「ずれ」られたほうが気に病んでいたりする。そして、「あなたが 横にずれた のは私としては心外で大いに気詰まりなのです。」などと、まっすぐ すなおに話しかけるということはしないで、「横にずれた」ままいる相手を、いろいろと回りくどい あの手この手を尽くして元の位置へ戻そうとする。が、実は相手は、「ずれた」その位置で、すでに満足していたりするので二度「ずれ」る必要はないだろうと思ってる。だから、元の位置に戻そうとして、いろいろやる相手がウザくなってくる。「私は、ここでいいんですよ」と言っても、相手は耳を貸さず、とりあう気がない。「ずれ」させた自分、というのを挽回するのに必死になってたりする。 「この位置も、いや、この位置がオッケー」と思って、もはや元の位置に戻る必要を感じない者と、そのままを認めて受け入れることができず、なんとか元の位置に戻そうと、迂遠なイロイロをやり続ける者。 (いつだって、そこから出発したらいい、と)戻る気がない者は、それだと相手が負担に思うことに気づいてない。 何事もなかったとして相手に自発的に元の位置に戻ってもらいたい者。自分の働きかけが相手の位置を決めさせたと思う気詰まりに耐えられない。 不毛な平行線。お互いに何かを取り下げ、何かを容認することができないでいるようだ。 一致点を見い出すためには、何を取り下げたり何を容認できるのか理解し合ったうえで判断しなくちゃならないですよね。片方の者が一方的に片方の者に従うべきとするのであれば盲従しておればいいだけのことだから判断するための理解の必要すらないです。或いは双方共に、相手は何を取り下げ何を容認してもいいと考えてるのだか、「あなたから、どうぞ」「いーや、あなたから」。延々と、お互い、先に相手に言わせたがり、いつまでたっても決着が付かない。これって、うるわしい譲り合いなのだろうか? いっそ、こちら側から積極的に圧をかけ、強行の構えを見せたら、相手は慌てて、自ら要望を申し述べたり異議申し立てなどするかもしれない。 >正しいかどうかの判断は、少なくともその当事者が下すものではないと では、誰なら正しく下せるでしょう? 私は「自分の物語の方が正しい」とは思ってないです。むしろ、正しいのか どうか実のところ分からない。皆そうではないでしょうか? 私を「さびしい王様」「独裁者」と読むのは、それは回答者さまが区切りを入れて読んだ、回答者さまの「物語」でしょう。 私に言えることは、自分に どういうことが起きてきて、それを どんなふうに感じているか、どのようにしたかったか、それだけです。その、「物語」というのですか、私が、それについて述べたことを、相手は どのように判断したのかということが第一の問題だったと思っています。 そもそも相手の働きかけに応じて「横にずれた」のなら、トコトン、相手の望む位置に立ってやればいい?かつての「押されっぱなし」実験のように。 >押されてるから自分は仕方なくこっちに来た 最初は そんな感じもあったかしれないけど、最終的には、こっちが押し返して押しまくってるつもりだった(笑 オマエの「物語」は このように読んだ、いや、このようにしか読んでやらない。 自分が示した「物語」をオマエは どう読んだか、いや、このように読め。 読んだ以上は相手の「物語」の「予定調和」に協力し従うのか。従わないなら戦うか。 私は、どちらも納得しなかった。 なかの一人は「受け手側、解釈する側の自由、勝手」を絶対的に優先、歩み寄りのための異議申し立てだの軌道修正などは、いっさい受け付けないという姿勢で貫く構えを宣言しました。 (お礼欄へ)
- aoaoao
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なにやら、大変ですね。 私が思うには、基本的にnoname002さんのような方の、文章などからあらわれる人間像が単純に気に食わないのでしょうね。 なぜか、放っておけない程に。 人間って、自分が生理的に出来ない事をサラリとやる人って、嫌いだと思うんですね。見ているのが不快だし、真似できないから悔しい。 たとえば、私は馬鹿正直な人間なので、嘘を並べる人が嫌いでしょうがありませんが、 中には役立つ嘘もあり、それによって上手に人間関係をコントロール出来ている人に出会うと悔しくなります。 通常は自分と関係のない人であれば、さほど気にならない事だと思うのですが、 日頃からストレスが溜まっていて、嫌いなタイプの人間が快適に(?)自分らしさをアピールしていると、 どうにかしてギャフンと言わせたくなってしまう、とか? ただの推測ですが、そんな心理が働いているのでは? でも普通、大人は質問に上がっているような行動はしないと思いますけどね。少し未熟なのか、病んでいるのか…。
お礼
(続き) >日頃からストレスが溜まっていて、 改めて考えますに、これは自分自身の反省点なのですが、私は、人格障害とか精神的な病気を抱えた者との関わりが、親を始め、身内に多かったせいで、これまでに、そうとう振り回されながら生きてきております。 どうも言動や行動にスッキリとした明るさがない、変に陰に こもっているかのような極めて屈折した人をみると、とりあえず距離を置いて敬遠したくなるという、この傾向が、自身うつ病に罹患したあたりから多少 強くなっているという自覚はあります。自分の余裕が足りないということなのでしょう。 それは、親との距離を適切に保つということに失敗した過去の痛手からも来ていることかと思います。 ですから私自身にもストレスフルな面があるのであって、「類友」と世間で言われるように、自分が同じようにメンタルでの問題を抱えている人を招き寄せてしまっているのではということも考えられます。 もう一つ、実は、これが一番大きいかもしれないのですが、私は子ども時分から、ねたまれやすい、ということを周囲に たびたび指摘されてきました。 こちらでも、どうも「ねたみ」のために つきまとっているらしい人が何人か思い当たっています。実際に、明らかに ねたみのために、こういうことをしているなと鈍い私でも察しがつくような投稿が続いたりしました。削除になっているものもあります。 ですけど、そういうことをされる理由というのが自分では、よくは分からないのです。 なんにせよ、真剣みをもって、このような場で応答すること自体、私のなかの何かが、病みの深い人の ねたみや執着や依存を招いてしまうのであれば、そういう人たちのいる場から遠ざかるくらいしか当面の対処は なさそうに思っています。しょせん見ず知らずの他人なのですし。 せっかく回復途上だった不眠症と うつ病が悪化するなどというバカげた事態を招いたことについては、自己責任という面などからも厳しい指摘を受けましたが、どうも、それだけではないような感じを受けております。そこが一番の疑問です。 理由不明の「ねたみ」の他に「依存」され易さ、ということも気になっています。 あらためて、ありがとうございました。
補足
アドバイスいただき、ありがとうございます。 字数制限の関係で補足欄を使用しております。 >私が思うには、基本的にnoname002さんのような方の、文章などからあらわれる人間像が単純に気に食わないのでしょうね。なぜか、放っておけない程に。 私としては放っておいていただいたほうが、よっぽど…と思う人が多い、多過ぎるのです(苦笑) とくに変わったことばかり申しているということはないはずですし。 なかには、「単純明快」自体が低知性の現れであり、ケシカラン!との価値観で絡んでこられる人たちもいるのですよ。それこそ私の「単純な人間像が気に食わない」のでしょう(笑) >人間って、自分が生理的に出来ない事をサラリとやる人って、嫌いだと思うんですね。見ているのが不快だし、真似できないから悔しい。 たとえば、私は馬鹿正直な人間なので、嘘を並べる人が嫌いでしょうがありませんが、 中には役立つ嘘もあり、それによって上手に人間関係をコントロール出来ている人に出会うと悔しくなります。 私は基本的には、自分が できないことをサラリやってのける人は、尊敬や憧れの対象です。自分が易々と真似できることをやる人が尊敬や憧れの対象にはなりません。 しかし、自分でも やろうと思えば、技術的に、などでは なんぼでも やってのけられる、しかし、敢えて やらないのだ――それは、価値観の問題、最低限の自負心などの問題であるように思っています。 たとえば挙げられた、嘘に関すること。これなども、私は基本的には、嘘そのものを糾弾する考えはありません。もちろん他者を救う嘘だってあり得るのですから。 当然、その逆の嘘もあるわけです。この場合は、最終的には人間関係がメチャクチャになります。つい最近も、私の周囲で、そのことが実証されたばかりです。 >通常は自分と関係のない人であれば、さほど気にならない事だと思うのですが、日頃からストレスが溜まっていて、嫌いなタイプの人間が快適に(?)自分らしさをアピールしていると、どうにかしてギャフンと言わせたくなってしまう、とか? 自分と直接の接触や関わりがない相手は、本来の私は、あまり気になりません。むしろ、どちらかと言えばヒト嫌いな面がありますので、冷淡なくらいです。 ところが、先方が、そんな私を、むやみと気にするようなので、なんともフシギに思われるのです。ですから、今回の質問をしたわけなのです。 ストレスが溜まっているといえば、私自身が元来 虚弱な体質で、過労のため、うつ病と不眠症を持ってしまいましたので、他人に むやみと絡みつかれることに過敏になりがちな面もあるかもしれません。 それ以上に、自分自身に対しては何らの利害もないはずの者を下敷きにするようにして (たとえば、世間で よく みられることですが、他人のゴシップや噂話などを利用して、その上にアグラをかくようにして演説をぶち) 「自分らしさ」をアピールしているつもりが、かえって また無関係の人まで巻き込み歪んだ影響を与えたり、不愉快にしてしまう、そういう人を目の当たりにすると、私自身が当事者であった場合などに、黙って見過ごすことができない面が私の性分にはあるようです。 >でも普通、大人は質問に上がっているような行動はしないと思いますけどね。少し未熟なのか、病んでいるのか…。 まあ、私自身の うつ病を棚に上げて言うのではありませんけども、こちらのサイト、ことに哲学カテゴリーや心理学カテゴリーでは、そうとうに深く「病んでいる」のであろうかと感じさせられる人が多いです。 その「病み」は、これも結局、仰った「未熟」さから来ていると言えるのかもしれませんね。 いずれにせよ、ほんとうの意味で「おとな」と言えるのが、どのようなことかというのも、これも難しい問題を含んでいるように思われます。 近ごろの私は、哲学カテなどは、うっとうしくなってきており、もっぱらアンケートのカテゴリーで遊ばせていただくことが多くなりました。
人の心理など、とても見抜けれない者ですが、思いつく範囲で。 一般的に言えば、「そういう性格の人」だからなのでしょう。 言葉尻にこだわって、ねちねち絡んでくる人がいますが、そういう人と似たような印象を持ちます。 こだわりがあるのでしょうね。王道というか、まっとうな道で勝負をしない、まっとうな道では力量どうりと知ってるから無駄なことはしない。でも、人間だからやはり勝ち負けに囚われてしまう心は持ってます。そこで、そういう方面に才能を発揮する。 当然、漠然とした劣等感は持っているのでしょう。ただそれを悲観するでもなく見つめるわけでもなく、密やかに隠し持ちつつ、回復できる場を上手く捉える。そういう人ではないかな?それで、絡みやすい人に絡むのですよ。 以下、お気に触るかもと心配しながら、ちょっと。 noname002さんって、やっぱり、絡まれやすい方みたいに見えますよ(笑)。 まず、女性だということ。(絡む人って男性でしょ?女は現実的だからそんなことしませんよ、滅多に)それも、私みたいな古狸ではなく、まだまだ、お若くて絡みがいがある。 それと、女性にしては、文章がきっちりしていて、「言い切り」が多いですね。普通、女性は、語尾をちょっと曖昧にしておく人が多いです。気を持たせる意味もありでしょうし、突っ込まれた時、ごめんなさ~いが直ぐ言えるように。女って、そういう姑息な事をするのが身についているのです。それで、あなたみたいな言い方をすると、ある種の男は反発を感じるようです。 これはあくまで私の私見です。 実は、私も若い時はよくやってました。そういう論法で、ドンパチも多かったです。30代半ばから、利口になったというか、無駄な喧嘩している暇がなくなりまして。今でも友人や身内に「随分大人しくなったものだ、あなたらしさがなくてつまらない」とまで言われています(笑)。 あなたの場合は違うかもしれません。大きなお世話、だったかもしれません。失礼しました。
お礼
御回答いただき、ありがとうございます。 返事が遅れまして失礼しました。 来ていただいて、とても嬉しいです。 なんの利害関係もないはずの他人を泥沼に突き落とすような迂闊をしておいて「掬う」などと称する傲慢剥き出しのごとき輩も ままおります。当人は、それによって乏しい優越感を補強したいのでしょう。こういう人ほど「ねちねち」と探りを入れてきますから、その内心の劣等感や孤独感の深さたるや自ずと窺えるものです。だから絡みつかずにおれないのでしょう。つまり寂しいのでしょうね。 ところが体力、持久力に自信がない私としては基本的に、そういう地獄の釜的エネルギーを抱えた暑苦しい人には極力 関わりを避けるというかたちで突き放してしまいますから、先方は自分が「掬い」役側に まわったつもりになってまで しがみつこうとする。「掬って」やろうとしたのに、なんだ、オマエの その態度は!と言う。あげく、頼んでもいない相手をつかまえて、「甘えるな!」と恩着せがましくも お門違いのことまで言い出します。 こちらだって甘えるならば、それに ふさわしいと思う相手を選びます。決して誰でもいいわけじゃないのです。 ウンザリして ますます嫌いになり、しかし、ますます しがみつかれます。悪循環になって、全く時間の浪費ですね。 本人も本人の周囲の者も、案外に なかなか わかっていない面があるのを、こうして直接の面識がないかたに指摘していただく。それによって他者を「掬う」ということがあるならば、それは回答者さまのような やりかたなのだろうと思います。自分自身も見習うべきところです。 字数制限の関係で補足欄も使用いたしておりますので御覧いただけましたら幸いです。 実に参考になりました。
補足
「ねちねち絡む」性向というのは、質問本文で挙げたようなことをする人には当然に備わっていると思います。要するに、いい意味でサバサバしてないんですね。 しかし自分自身には直接の利害関係などがないはずなのに、この奇妙な情熱は何?というのが疑問なのです。 仰るような「王道というか、まっとうな道で勝負をしない、まっとうな道では力量どうりと知ってるから無駄なことはしない。」 つまり、横道、裏道、抜け道を通って、なんとか!ということでしょうか。裏道や抜け道を知っていること自体を優越感の材料にするということも起きそうです。それもこれも、結局は「勝ち負けに囚われてしまう心」ゆえなのでしょう。 「そこで、そういう方面に才能を発揮」しきれない、あるいは精いっぱい発揮しているはずなのに満足いく評価が得られない、「回復できる場を上手く捉え」ることに失敗した、となると、隠し持っていた劣等感は、いや増す。こういうことでしょうか。 どうも やはり「勝ち負けに囚われてしまう心」にカギがありそうです。 私は至って不器用、メンドクサがりなので、しょせん、まっすぐ、です ところで、この私が何故に、そのような人にとって「絡みやすい人」なのかという疑問。 >絡まれやすい方みたいに見えますよ(笑)。 どうも そのようなのです。 >まず、女性だということ。(絡む人って男性でしょ?女は現実的だからそんなことしませんよ、滅多に)それも、私みたいな古狸ではなく、まだまだ、お若くて絡みがいがある。 >そういう論法で、ドンパチも多かったです。30代半ばから、利口になったというか、無駄な喧嘩している暇がなくなりまして。 いや~それが、お恥ずかしいことに、けっこうなトシだけは くっておりますんで、やはり生来のボンヤリで、苦労が身につかない性分みたいです。たはは。。。 お察しのとおり、これまで「ドンパチ」も多くて、近ごろは自分なりに、かなり用心しているつもりなんです。ですが、やはり網を張って待ち構えている相手の、その網をビリビリに破いてやりたくなったりしてしまうんです。困ったもんだとは思うのですが。。。「お利口」になれないんですね(苦笑)むしろ、なりたくないのかも。 しかし、おかげで、回復途上だったはずの うつ病が悪化したりして、さすがに最近はコタエてきております。もう切り上げておかないといけないところです。まさに「無駄な喧嘩」は時間とエネルギーの無駄です。 >女性にしては、文章がきっちりしていて、「言い切り」が多いですね。普通、女性は、語尾をちょっと曖昧にしておく人が多いです。気を持たせる意味もありでしょうし、突っ込まれた時、ごめんなさ~いが直ぐ言えるように。女って、そういう姑息な事をするのが身についているのです。それで、あなたみたいな言い方をすると、ある種の男は反発を感じるようです。 う~~ん。。。 実は、せんだっても、あるかたに似たような御指摘をいただいて驚いたことがあるんです。「鷹の爪」のようだとか(唐辛子という意味ではないようです;^^A)要するに、鋭過ぎるようなところがあるから、もう少し配慮を心がけるようにということのようでした。 しかし、私としては、また、リアルの日常で親しく関わる人たちとのコトバのやり取りでは、あまりそういう指摘を受けることは少ないので、私のみならず、私の周囲の者たちも少々は意外に思うことでしょう。実際に口で話すのをお聞きになればわかることでしょうが、私、舌足らずな(本当に舌も短い!)ふにゃふにゃぺチャっとした話し方をしているらしいです。 ただ、思い当たりますのは、何か のっぴきならない争いごとが起きたときとか、黒白をハッキリさせる必要が生じた局面とかに行き当たりますと、ビックリされることはありました。これは、会社の会議での議論や意見の表明などで特に多いようです。私は、この場合には必要があると思って、そうしているだけなのですけど。 「文章がきっちりして」いるとすれば、それは自分なりにアタマのなかを整理整頓しておきたいという努力のあらわれだと思います。そうしておかないと生き辛い来しかたでした。でも、そのために、かえって ますます生き辛くさせるような者らに絡みつかれるハメになっているとしたら、これは いかにも皮肉なことです。 私は「気を持たせる」とか「姑息な事」というのを好みません。 「ある種の男」と仰いましたが、男性に限らず「ある種の女性」も互角なくらい多いです。これは私が男性であったり女性であったりするせいなのでしょうか(笑)
ちょっとわからないのですが、見ず知らずだったら差し出がましいことなどできる機会はないように思うので、もう少しご説明ください。
お礼
補足要求をいただき、ありがとうございました。 >見ず知らずだったら差し出がましいことなどできる機会はないように 一例として、こちらのようなサイトなどでの、匿名での出会いを「見ず知らず」の相手とするか、そうでないか、微妙なところだと思いますが、回答者さまなら いかが 御考えになるでしょうか。 質問本文で >「差し出がましい」というのか、高圧的な口調 と申しましたように、 「必要以上に、他人のことに関与しようとする出過ぎた感じ」 例文「差し出がましいことを言うようですが」 このような意味です。 「差し出がましいことをする」 「差し出がましい口調で言う」 「ことをする」「口調で言う」の違いがあるようですが、「言う」こと自体が「する」ことでもありますよね(笑)なんとか お分かりいただけましたでしょうか。 蛇足なんですが、どうやら、この質問を みて、自分のことを言われていると思い当たるのか、ムラムラきている人もいるみたいですよ(笑)
補足
早速の御投稿ありがとうございます。 あまり質問文が長くなっては読みにくいだろうかと思いましたが、やはり説明が不足だったようで、御手間をとらせました。 たとえば、ですが、こうしたサイトではハンドルネームを使った匿名の やりとりで、基本的に、あくまで質問と応答の関わりだけですよね。 ところが、どういうわけか私自身は経験することが けっこうあるのですが、いわゆるネットストーカー的とでも言うのでしょうか、私の履歴は勿論のこと、質問も検索をかけて、また、こことは別のサイトでの ようすにも関心を持って覗き、それをもとにしたかと思われる質問を、こちらのサイトで立てたり回答したり、そのなかで それについての他人の噂を繰り返したりするような、そのような一群の人たちがいるのですね。 極端な人になりますと、ご本人自身には直接の関わりもない人、つまり私に関わりがある人つながりだからとでもいうことなのでしょうか、そういう人の履歴やらまでもチェックの手を伸ばし、という、まぁ並々ならぬ関心の強さなんですね。 ただ、ご本人は、そういう自分の奇妙な行動がバレてしまってることに気づいていないようです。まあ、このあたりは、かなり微妙な問題を含んではいるのですが。 得てして そういう人ほど、質問内容や事情を的確に把握することもなく大変に高圧的な説教口調で、あるいは、あきらかな罵倒のコトバで決め付けた意見をしてくるということがあります。 残念なことに、そうした意見の内容が往々にして的はずれ甚だしいこともあったものですから、たまりかねて、関心を持ち過ぎるということの弊害を指摘したこともあるのですが、先方は、こちらが妄想しているのであって、何が理由なのか分かりませんが関心を強く持つ自分は至って親切なので、ごくアタリマエの正しいことをしていると信じて疑わないみたいです。 私としては、一度でも自分自身が直接の関わりを持ったことがあり、そのなかで、とくに好意的な感情を持ったりとか親しみの気持ちを抱いている相手でしたら、格別の関心を持つ心情は大いに理解できますし、そういった関わりの相手でしたら、こちらに関心を持ってもらえるのは、むしろ嬉しくもあります。ですが 「私は、あなたを知りません」などと言いながら、そのわりには、変に立ち入ったことを、いかにも訳知り顔口調で高圧的に説教する人の心理が奇妙に感じられてならないのです。 あと、これも たとえばですが、やはり匿名の やりとりでしかない関わりの相手に過ぎないのに、その者の他愛ない発言の裏をとろうとするようなと言いますか、本心が実のところどんなだろうか、というのを知りたいのは、これは自分が直接に好意を持っていたりするのでしたら私にも理解できますが、ご本人には関係のないことで、第三者の誰が誰に対して、どういう心情であるかなどを、強迫的なまでに問い詰めようとしたりですね、このへんの心理が、どうも私には理解しづらいのです。 なんだか、他人のゴシップに興味津々という感じに近いのでしょうか?
お礼
御心配をかけてしまったような、申し訳ございません。 怒るなんて、とんでもない、有難く思っております。 せんだって、回答者さまとは別の質問スレで、回答者として ご一緒しましたが、たぶん、あそこでの私の対応ぶりも、あわせて御覧いただいていたと思います。その質問に関連しても、いまだ不可解なことが続いているのです… 私も、親との問題が大きい生育歴を背負ってきています。親との共依存と言うべきか、ことに親側からの依存の問題が重く、その影響を いまだに引きずっている面があるのを自分でも気づいてはおります。私が辛うじて自分自身の最低限の利益を考慮して線引きなどしようとしたりすると、冷たいなどと非常に責められることがありました。また、それをはねつけることができない理由が、私自身の身体的な問題などにもありました。 川柳は私も若い頃から大好きです。人情の機微を鋭く つきながらもカラッとしていて、おなかの底から笑えます。 でも、世のなかには笑うに笑えないものも確かにあります。それが、たとえば川柳精神などを気取っていたとしても、気取っているのを知っていたら私は笑う気になれないのです。黙って避けたくなるのですが、その気取りを見透かされたと思う者に絡みつかれ、挑発されることが多かったということがあります。 見透かされたと思うならサッサと よせばいいだろうと、こちらは思うのですが、売られたケンカを つい買ってしまう、それも、まわりに良からぬ影響をジワジワ浸透させてしまいかねないという危惧感があると、もう いけません。実は、うちの親や身内に、非常に計算高い企みを無意識のうちにやってしまう、それを完遂するだけのエネルギッシュなタイプが多いというのがありまして、彼らは また大変ケンカっ早い。私は、どうやら企みや計算高さというのは興味もないまま似ないで、ケンカっ早いところだけ似てしまったのかもしれません(苦笑) 最近つくづく、ネットで出会う人を単純に尊敬したり憧れてみたり、好意や親しみを持ってしまうことの恐ろしさを感じています。これが、これまでで一番大きく、ネットから学んだという実感です。 とは言っても、回答者さまのようなかたと出会うと、つい緩んでしまいますね(苦笑) 今回も、たいへん参考になりました。
補足
>遠くからの眼では、あなた自身もやはり「強過ぎる関心」がある人なのではないかなと思えてしまうのですが、どうでしょう。 はい、私自身も関心を強く持ってしまっていることはあります。それは自分が当事者であったり直接に関わった経緯がある場合です。この場合に、とくに疑問はないのです。人間の自然な感情としてアタリマエといえばアタリマエのことですので。 疑問は、直接の関係者でもなく、もちろん何ら利害関係もない者の「強過ぎる関心」について、です。 以下の お話は、まるで私の これまでの経緯を御存じなのだろうかと思ったほどに身につまされる内容です。ただ、本来の私は論争というものを好みません。同時に、納得しないことで支配されることも好みません。自分なりの意見を表明する必要があればハッキリと表現はします。あと、言っても、べつだんのことはないと判断した場合。基本的には、それだけです。 リアルの日常生活で或いはネットであっても、かなりの関わりがあった人などは、私が基本的には、むしろ平和主義的性分だということを分かっていると思います。 >ところが、メンバーが悪いのか、隠された事情があったのか、そう進まないときがある。こういうときに揉め事って多い。そして、往々にして多勢に無勢でした。いくら正統性を言っても突破できない、場外乱闘しか出来ない。 驚きました。そのとおりなんです。ただ、私は「隠された事情」について、自分から先行圧力のようなものをかけたわけではなく、先方が私の痛くもない腹を探りに探ってきたものですから、そこから争いが起きてきたということがありました。とにかく疑心暗鬼のカタマリみたいな人がいるのです。 一例を挙げると、「コトバが、ただ、そこにあるだけ」こう言い放った人物が、では私がアッケラカンと言った他愛もない発言に対しては、決して「コトバが、ただ、そこにあるだけ」とは見做しません。フシギでしょうがなかったのですが、どうやらギブ アンド テイク精神、取引精神とでも言うのか、自分が した発言には必ず見合った見返りというものがあって然るべき、だからこそ逆に自分側が要求されるハメには陥らないために、のら~りくらりで、といった感覚で考えるタイプのようでした。要するに計算高いのでしょうか。 私はまた、こういう計算高さが身についていないし、むしろ軽蔑してる(笑 たとえば、私は好きな人に好きだとアッサリ言ったとします。だからといって、それに対して同値の お返しがあるべきとは思いませんので、あれば、もちろん嬉しい、でも、なくてもいいのです。表現しただけで殆ど気が済んでいるのですから。表現できないほうが、よほど苦しいですからね。 >結果がどうなろうと、場外乱闘にならないように気をつける、これを考えるようになりました。が、スルーも出来ない、見すごす訳には行かない。さりとて、乱闘は嫌です。結局身に付けたのが、「ほどほどの物言い」です。 「場外乱闘」は、むしろ相手方が好み、私は、それを阻止しようとして、かえって「場外乱闘」になってしまっていたかと思います。 リング外で下品な挑発を執拗に し続ける相手を、どうにかしてリングに連れ戻そうとして、わざわざ場外へ相手の首根っこを とっつかまえようとして手こずり、そのまま「場外乱闘」の結果に終わってしまったりしてるんです。あほらしいことですが。それだけの関わりや経緯が相手とのあいだにあったということです私の場合は。全く第三者の立場であれば、こういうことはありません。 近ごろ私をめぐって起きていた問題も、最初のアッケラカンが気に食わないか、先方にとってはマズイことらしいと気づいたために「ほどほどの物言い」に切り替えたにも関わらず、その発言の本当のところを知りたい知りたいと言って執拗に付きまとい、絡むのをやめなかった者とのあいだで起きています。 前に戻ることも先に進むこともできない、こういうのって言わばダブルバインドですから、正直、神経が まいりそうになりました。これを「実験」と称してやっていた連中もいるのですよ。ネットサイトの危険性の一端を垣間見たように思います。 私でも、いつも「真っ向から四つに取り組む」わけではないです。それどころか、むしろリアルの日常では少いです。身近の者らには、そのために よく叱られてしまうほどですが、本来マメではなく、いいかげんでズボラで済ませたい性分です。 ただ、ここは必要があると判断したら違ってきます。価値観の問題とかも関わる、たとえば、こうした学問カテゴリーでの相談なども、その一例です。そもそも、こういう場で、親身に こたえてあげようとすること自体、もう すでに並々ならぬ関心ですよね?そのこと自体は私は、この ご時世に結構なことではないかと思うくらいなのです。今回の疑問は、そのことではないのです。