• ベストアンサー

時間は相対的なのか?

 時間というものの正体がどうやら相対的であることは  それこそ釈迦以来の仏教哲学や最近ではアインシュタイン以来  サイエンスの理論上も、真理であるようですが  しかし、私には  どうしてもその「相対性」が納得できません。    詰め将棋や数学の例を借りて言ってみましょう。  ここに、ひとつの問題があるとします。  それが何分も「解けない」状態にあって、  あるきっかけでやっと「解けた」とします。  そうやって解けた後で、解けなかった過去を  振り返ってみると分ることがあります。    それは、解けない状態にある間は、  xxxxという道筋をたどれば解けそうな気がする  そういう道筋に自分の思考が空回りして  しまっていたと言うことです。  さて、時間という哲学的課題に関して  私はどんなところで、どういう迷路に  入り込んでしまっていてどんな空回りを  しているのでしょうか?    かつてこの問題をお考えになったことの  ある方の回答をお待ちします。     

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.16

追伸 [なぜなら、そもそも三次元感覚でとらえられない以上そのとらえられない高次元の意識存在を三次元のことばで分類すること自体、不可能なのではないかという疑問が残るからです。] 空間構造はたまねぎのように何層にも重なっているという意味ですね。次元というのは何枚目の皮の間にあるかという程度のものです。三次元は物理学上の空間表現ですが時間(4番目)の皮がそれを覆い、更に5番目、・・・8、9、10番目・・・の皮が順々に覆っているという意味ですね。この意味で3次元世界や時間はたまねぎの芯の部分に相当するということですね。確かに経験的に皮はあるんですよ。自身の意識以上の領域にはいけないようになってますね。薄い膜のように感じましたがね。物理的にはエントロピー増大の法則ですか。多次元空間は、低いエントロピーを取り込んでより高いエントロピーを創っていく非平衡定常状態の無限空間(領域)構造ということですね。 意識エネルギーの違いが次元構造を構成しているのか、その他の理由があるのかは私にもわからないのですが摩訶不思議な構造であることは間違いないですよ。 尚、アインシュタイン先生の団子の串に例えた時間はたまねぎの芯にしか通用しないので本当はニュートン先生のほうがえらいのかもしれませんね。

arakan
質問者

お礼

<<確かに経験的に皮はあるんですよ。 自身の意識以上の領域にはいけないようになってますね。 薄い膜のように感じましたがね。>> mmky さんは、超意識というか超自我というか、超三次元というか  宇宙意識との合体(合一、到達)経験があられると  いうことですね。  その貴重な経験からのご回答大変ありがとうございました。  大変に興味のある回答です。     いったんこの質問を締め切って  別スレを立てて、質問いたしますので  またご登場ください。    

その他の回答 (15)

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5

[さて、時間という哲学的課題に関して私はどんなところで、どういう迷路に入り込んでしまっていてどんな空回りをしているのでしょうか?] 時間と空間の認識の問題ということですね。時間は3次元空間が創造されたときに同時に創造されたものですね。つまり、時間は3次元空間と一対のものであってそれ以外のものではないということです。ところが意識的に認識できる空間というのは多次元であるところに時間と空間の認識のずれが生まれるのですね。時間の一点(同時刻)に複数の認識空間(多次元空間)が存在しています。思考・認識が3次元空間を離れたとき、多次元意識空間には、時間は存在せずただ原因結果の連鎖のみがあるということです。思考の過程(空回りなど)は原因結果の連鎖のみの状態(3次元以外の認識空間)に入っているわけです。それがどれほどの時間であったかは一度3次元空間の自身に戻らない限り測定できないということですね。一秒で一生涯の思考もできますし、短い思考の空回りが気がつけば1時間である場合もあるわけです。時間と空間の不思議ですね。 それから物理的な相対論は3次元空間限定の時空間の問題ですから特殊で限定的なものですね。それに比べて意識の時空間はるかに広大無辺ということで不思議な差異が生じるのですね。

arakan
質問者

お礼

ひそかに mmky さんの登場をお待ちしていました。  仏教教理に造詣が深い方だと感銘していたからです。  まずは、ご登場ありがとうございます。    では、各論に行きますと、まず  <<時間は3次元空間が創造されたときに同時に  創造されたものですね。>>    そうですね。難解とされるハイデッガーの「存在と時間」でも  結局は、そのことを詳細に説いてあるように思います。    <<ところが意識的に認識できる空間というのは多次元で  ある・・・以下>>  要するに、時間の流れというものも、それを認識する  側(認識者)の数だけある → したがって限りなく多次元である  ということでしょうか?  そのことは個体における時間意識が違うことから  うすうす類推は出来ます。  ところがです。  それを認めるならば、時間は「私」という認識者が誕生した  → あるいは、認識を始めた瞬間から生じ、  「私」という認識者が死滅した瞬間に消滅するということにつながるのでは  ないでしょうか?    ところが一方では、「私」という個体が消滅した後でも  絶対空間が存在し続けるようにも思えますし、  現に300年前に生きた人間が死滅した後にも(現に)  「私」という存在が出現している以上、  やはり相対認識を超えて、絶対空間が存在しているのが  「当然」のように思えます。  もちろん  そうなると、問いの立て方を変えなければいけないのかも  しれません。  そもそも私という「認識主体」は個体の消滅後  どこに消えるのでしょうか?  あるいは、3000年前に生きた仏陀の意識は  今でもどこかに生き残っているのでしょうか?                  

noname#100496
noname#100496
回答No.4

相対時間に対して、絶対時間があります。仏教ではこの世界を、仮の世界といいます。地球は、脳と自然の神が対立し交わるシュミレーションの世界です。だから相対時間の世界です。だから始めと終わりがあります。2012年が終わりとか言われています。これに対して絶対時間は、永遠に続く時間です。宗教で言えば神の世界、仏の世界です。宇宙の大元の、完全調和の世界です。宇宙が成長、拡大するために、不完全不調和を調和に変換する場所として、地球が創造されました。

回答No.3

時間の相対性は、時間の同時性が否定され、ある地点の1秒は、他の地点の1億年に相当するというようなことなのですが、ご質問で問われているのは少し違うようです。 時間を認識する側で思考の空回りは、時間の停止、あるいは、外から見ると永遠を示唆していて、そこからの飛躍が「解けた」というそれまでとは異なるシナプスの発火があったということ。すなわち、状態の同一性を時間の停止、状態の変化を時間の進行と捉えているという見解です。 これがある意味で真理を突いていて、状態の変化こそが時間であるということでよろしいのではないでしょうか。

arakan
質問者

お礼

うーーーん。   すみませんがよく分りません。  回答ありがとうございました。  

noname#194289
noname#194289
回答No.2

物理学的な時間軸は原点をどこに取ろうと実在するものだと思いますが、人間の頭の作用による時間はあくまで現在脳の中で起こっている現象にすぎないのではないでしょうか。

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.1

批判だけなら誰にでも出来ますし、科学者は批判だけでは成り立ちません。

関連するQ&A