- ベストアンサー
愛の反対は何ですか?
『愛の反対』で検索すると、『愛の反対は憎しみではない 無関心だ』という Mother Teresa の言葉がたくさんヒットします。 確かに無関心というのは愛の対義語のような気もしますが、ピンと来ません。 Mother Teresa のように誰に対しても愛をもって接することのできる人の言葉として捉えると、そうなのかなという気もしますが。 愛の反対は何ですか?
- みんなの回答 (26)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
このような質問は、「愛」として、何を考えているかによって、違う答えが出てくるのであり、「愛」としてどのようなことを考えれば、その反対は何か、という風に考えなければ答えになりませんし、「愛」一般の反対概念は、ないとも言えます。人がそう考える愛それぞれで反対概念が色々あるからです。 「恋愛感情」や、恋愛という具体的実際的な関係において、「愛」が破綻するか、否定的関係になったとき、「憎」や「怨」の感情に転じやすいということからは、「愛」の反対は、「憎」や「怨」だとも言えますが、これは、愛という感情や行為の「否定的反動感情」なので、愛の反対というのは、もっと他にあるのです。 「愛」を、「好き」の非常に高まった状態と考えれば、概念的には、「好き」の反対は「嫌い」ですから、「嫌い」の非常に高まった状態は、「極度に嫌い→嫌悪」だということになります。つまり、「愛」の「概念」からすれば、「嫌悪」が反対概念だと言えます。 マザー・テレサの言葉ですが、「キリスト教的愛」の概念を前提にテレサはそう言っているはずで、これを、無前提の「愛」と考えるので、分からなくなって来るのです。 キリスト教の「愛(アガペー)」については、以下の質問で、わたしは少し説明しました。参照してみてください。 >No.460063 質問:エロス フィリア アガペー >http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=460063 この質問の回答では述べていませんが、マザー・テレサの言葉の背景にある「愛」について、考えるには、「アガペー」の説明に、もう少しキリスト教神学の背景を述べねばなりません。 神は、父なる神として、「子である人類」に無償の愛を注いでくださる……この「無償の愛」をアガペーと言いますが、キリスト教の神は、「創造神・絶対神・人格神」なのです。 神は、この世界を愛し良しとされるが故に、この世界の存在を認めておられるのですし、人間の存在を愛し良しとされるが故に、人間の存在を認めておられるのです。「認めている」だけではなく、中世神学の基本的な考えでは、神は、被造物を愛するが故に、「不断の存在」を付与されているとします。 (この付与する「存在」を、中世哲学で、esse(エッセ)と言います。ハイデッガーが使う Sein と同じような言葉です)。 これは近世の「理神論」の考えとは、まったく違う訳で、神のこの「愛による存在の付与」がなくなれば、人間も宇宙も、次の瞬間には、「無」となるのです。マザー・テレサは、カトリックの修道女ですから、このような「愛と存在の恩寵」の考えは、当然、分かっていたというより、そのような意味で「愛」を捉えているはずです。 人間はキリスト=神にならって、他者を愛すべきであるというのが、キリスト教の教えで、他者を、人は、神が愛する存在として、神同様に愛さねばならない。他者との関わり、世界を共にするという他者把握は、基本的に「愛(アガペー)」であるという考えからは、「愛」の反対は、「憎しみ」などではありえようがないでしょう。 キリスト教的な意味での「愛」では、「人を愛さない」とは、その人を、この共有世界の一員として認めないということで、神の場合は、そういう人は「無」になるのですが、人間の場合だと、他者を認識・相互の存在関係のなかで「無」にしている、つまり意識のなかで「無」としているとは、相手に対し「無関心」であるということなのです。 人は、神の被造物世界のなかで、本来すべての人を愛さねばならず、人は、人にとって、「関心」ある存在なのです。人との関わりを否定するということが、愛の反対であれば、それは、関心の否定、つまり「無関心」です。 しかし、キリスト教世界でも、このように「愛」を、アガペーの基本的意味で捉えるのは、稀であり、このような愛は、むしろ、「普遍愛・博愛」であり、「博愛」の反対は、「無関心」でしょう。「誰をも愛する愛」の反対は、そのような愛を持たないこと、つまり「唯我論的態度」であり、これは、他者に対する「無関心」でしょう。 もっと考えれば、色々な可能性がありますが、当面の答えとしては、この程度で十分ではないかと思います。
その他の回答 (25)
- jean-luc
- ベストアンサー率28% (2/7)
私的な意見を一つ。 概ね#4のお礼で述べてある、Tiamatさんのご意見に同意します。 『愛』にしても『憎悪』にしても、対象があっての事。そこから推するに、『無関心』とは裏返せば対象が存在しない(人の事を考えない)『自分勝手(身勝手)』と言えないでしょうか? 電車の中で大声で携帯で話す。道にタバコやガムを捨てる。等の身近な事から、先の韓国の地下鉄放火犯のように「一人で死ぬのはイヤだから。」と云う理由で、見ず知らずの人を巻き添えにする。不倫相手との関係の為に、自分の子供が邪魔になり、殺してしまう。等、全ての犯罪は、突き詰めれば『自分勝手の成せる技』とは云えないでしょうか? 私もMother Teresa の著作は読んだ事はありませんが、私達凡人は、何も世界中を飛び回って貧しい子に手を差し伸べる様な壮大な愛の行動をしなくても、身近な事に感心を持ち、常に相手(人)の気持ちになって考え行動をする事が、『無関心』とは対極の『愛』の行動になるのではないでしょうか。 (私が現在、そう云う行動をしてるかどうかは別として。。。爆)
お礼
こんにちは。 > 『無関心』とは裏返せば対象が存在しない(人の事を考えない)『自分勝手(身勝手)』と言えないでしょうか? 関心を持つということは多かれ少なかれ、対象に対して愛を抱く余地があるけれど、無関心だとその余地もない、というご意見には全くそう思います。 愛のない行為とは何かということを考えていけば、自ずと愛の対極にあるものが見えてくるのかもしれませんね。 > 身近な事に感心を持ち、常に相手(人)の気持ちになって考え行動をする事が、『無関心』とは対極の『愛』の行動になるのではないでしょうか。 この言葉もいいですね。頭の中ではわかっていても、なかなか相手の気持ちになって考えるというのは難しいものです。どうしても自分を第一に考えてしまいますから。 ご回答をありがとうございました。
- yama_x
- ベストアンサー率20% (188/940)
ちょっと言葉のお遊びみたいな回答で申し訳ありませんが、 「反対」ということは対になっていなければならないので、 じゃあ、「無関心」の反対は「愛」かというと、 ちょっと違いますよね。 ちなみに、 Mother Teresaの言を借りると、 「憎しみ」の反対も「無関心」ということになりませんかね? 「愛」にしろ、「憎しみ」にしろ、感情を持つ対象ですらない、 ということですよね・・・ 「愛を否定する言葉は?」と聞かれれば「無関心」でもOKだと 思いますが、「愛の反対の言葉は」と聞かれれば、個人的には #2の方同様「憎」かな、と思います。
お礼
こんにちは。 辞書的な意味ですと、『愛』の反対は『憎しみ』でいいのだろうと思います。ただ Mother Teresa の言葉を見た時に自分の心の中で『憎しみは本当に愛の反対なのだろうか?』という疑問が沸いてきたので質問させていただきました。 > ちなみに、 Mother Teresaの言を借りると、「憎しみ」の反対も「無関心」ということになりませんかね? これも鋭いところを突いていますねー。その通りかもしれません。 Mother Teresa の言葉は、愛の反対が何であるかなどということは本当は問題ではなく、『弱い人を見た時に、あなたがたは決して無関心であってはいけません』と言っているのかなと思いました。 ただ、私は人類愛とか博愛といったような高尚な愛を持っていないので、私の中で愛の反対は何だろう? みなさんの心の中で愛の反対は何だろうと思ったのです。 Mother Teresa に関しては、私は彼女に関する本を読んだわけでもなく、聞きかじりの知識しかありませんので、どなたか彼女の言葉の意味を解説していただけたら嬉しいのですが。 ご回答をありがとうございました。
- nazca
- ベストアンサー率39% (167/419)
こんにちは。個人的な意見ですが。 愛の反対は怨み(うらみ)だと思います。 言霊ってありますよね? 言葉には(良くも悪くも)エネルギーがあると思うんです。 で、その言葉(日本語)の50音の最初が「あ・い(うえお)=愛」 最後が「(わゐうゑ)を・ん=おん=怨」ですよね。(濁音は除きますが。) こういう見方をしたら「あい=愛」の反対(対極)は「をん(おん)=怨」じゃないかなって思います。 ま、言葉遊びと言われてしまえばそれまでなんですが、遊びと言うにはできすぎてると思いませんか。
お礼
こんにちは。個人的な意見、大歓迎です。 > 愛の反対は怨み(うらみ)だと思います。 新しい説ですね。憎しみとは少しニュアンスが異なりますね。 怨みというのは『相手から満足できるものが得られなかったり、不快感を与えられたりしたときに相手に対して抱く感情』といったような理解でよろしいでしょうか? もし愛というものが代償を求めるものではないとしたら、代償を得られなかったことに対して生じる『怨み』という感情は、愛の反対とは言えないのかもしれませんね。 しかし、相手から愛が得られなかった場合に、相手に対して抱く感情としての怨みというのはあり得るかなとも考えられますね。 > 言葉には(良くも悪くも)エネルギーがあると思うんです。 これ、いい言葉ですねー。 > こういう見方をしたら「あい=愛」の反対(対極)は「をん(おん)=怨」じゃないかなって思います。 面白い解釈だと思います。言葉遊びと謙遜されていますが、言葉遊びにも鋭い一面を突いていることがよくあります。 余談ですが 『アルファベット順では、I(愛)の前にはHがある』 というのを思い出しました。あ、関係ないですね。失礼しました。 ご回答をありがとうございました。
単純に愛の対義語は『憎』かな~と思いました。 愛=対象をかけがえのないものと認め、それに引き付けられる心の動き。 ↓この他にも http://dictionary.goo.ne.jp/cgi-bin/jp-more_print.cgi?MT=%B0%A6&ID=a4a2/00012100.txt&sw=2 (goo国語辞典より) 憎む=出来ることなら、抹殺したいくらい、相手の存在がたまらなく嫌 http://dictionary.goo.ne.jp/cgi-bin/dict_search.cgi?MT=%C1%FE&sw=2 (goo国語辞典より) 「愛憎が交錯する」「愛憎相半ばする」 が真っ先に思い浮かんだのですが・・・ 「愛」も「憎」もどちらも相手の存在を大きく認めている上での 感情かしら、と考えました。 (「憎」は相手の存在を認めたくないと必死に思っていても、 認めないと出来ない-な感情ですよね) 無関心・・・博愛主義者のマザー・テレサだから言える言葉ですね。 でも、無関心の方が憎むより、存在自体を認めていないので、 そっちの方がきついな~と感じてしまうのは私だけでしょうか?! マザー・テレサ・・・すごいこと言っているなあと、 今「愛」について考えて、しみじみしてしまいました。 単なる一般のおばさんが思いつくまま回答しました。
お礼
こんにちは。 > 単純に愛の対義語は『憎』かな~と思いました。 私も『愛の反対は憎しみ』と思っていましたが、Mother Teresa の言葉にハッと させられて質問しました。 > でも、無関心の方が憎むより、存在自体を認めていないので、 > そっちの方がきついな~と感じてしまうのは私だけでしょうか?! 確かに、無視するということは存在を否定しようとする行為ですが、裏を返せば 『関心を持っているからこそ、意識的に関わらないようにしようとしている』 とも考えられますよね。そう考えると、感情をぶつける憎しみよりも一層憎しみの 度合いが強いのでしょうね。 > マザー・テレサ・・・すごいこと言っているなあと、 > 今「愛」について考えて、しみじみしてしまいました。 本当にそう思います。愛の対極としてあるものを一切超越した境地になれたら、 どんなにすばらしいことだろうと思います。 ご回答をありがとうございました。
こんにちは! 哲学的なことは何も分からない一般人の女性です。 ですから本当の答えは分かりません。 ですので、私でしたらということでよろしいですか? 私でしたら、「愛」の反対は「戦争」になります。 愛のタメなのかも知れませんが、愛があるならやめて~~!という感じです。 「憎しみ」は愛あってのものかも知れませんね。 「無関心」確かに愛も何もない。 マザ-テレサってやっぱりすごい! しかし私は「戦争」です。
お礼
こんにちは。 > 哲学的なことは何も分からない一般人の女性です。 > ですから本当の答えは分かりません。 > ですので、私でしたらということでよろしいですか? もちろん大歓迎です。愛という言葉を恋愛に限定したくなかったので、哲学のカテゴリーで質問させていただきました。 > 「愛」の反対は「戦争」 なるほど戦争に愛はないし、愛があれば戦争はおきませんね。『戦争=憎しみ』とも限らないですし、戦争を国と国との争いという意味だけではなく、人と人との争いとして考えても、愛とは正反対の行為ですね。考えさせられる言葉です。 >「憎しみ」は愛あってのものかも知れませんね。 『可愛さあまって憎さ百倍』という言葉がありますが、愛がカラ回りした結果と見ることができるのかもしれませんね。 ご回答をありがとうございました。
お礼
こんにちは。お礼が大変遅くなって申し訳ありません。 大変ご丁寧な回答をありがとうございます。 > このような質問は、「愛」として、何を考えているかによって、違う答えが出てくるのであり、「愛」としてどのようなことを考えれば、その反対は何か、という風に考えなければ答えになりませんし、「愛」一般の反対概念は、ないとも言えます。 このことに関しては実は私も気がついていましたが、質問文ではわざと触れませんでした。 『愛』を定義し、『反対』という言葉をどのように捉えるかによって、回答の方向性が違ってくるのはわかっていましたが、私が定義した『愛』についての意見を聞きたかったのではなく、みなさまが感じておられる『愛』というものがどのようなものなのか、それに対して『反対』というのをどのように捉えておられるのかということを知りたかったからです。 私の祖母は熱心なクリスチャンで、私は物心がつく以前から毎週教会に連れていってもらっていました。教会で、『愛』という言葉を幾度となく聞かされてきましたが、結局、神の愛というものを理解できないままに、教会へは行かなくなってしまいました。 ご気分を害されると申し訳ないのですが、『全てが愛であり、愛の反対はない』とおっしゃられると、その愛は私にとって、とても押し付けがましい愛に感じられるのです。 同様に自分は何も悪いことをしていないのに、『人間は生まれてきた時から罪を背負っている』と言われるのが、理不尽な言い方に思えるのです。 さらには、『他の者を愛さなければならない』と言われると、『え?他人を愛することは、義務?』と思ってしまうのです。 (これらは今回の質問に直接関係ないので、深くは書きませんが) これは本当に、理解力に乏しい私個人だけの感じ方だろうと思います。 愛を狭義の恋愛感情と置いた場合、『好き』の非常に高まった場合、キリスト教的愛、と場合分けして解説していただき、とてもわかりやすく読ませてもらいました。 キリスト教的な愛は、先にも書きましたように私自身に葛藤がありまして、どうしても相容れない部分がありますが、マザー・テレサの言葉の意味する『無関心』について、とても分かりやすく説明していただき、ありがとうございました。 マザー・テレサの言葉を理解するには、キリスト教的な愛というものを理解しなければ、真の意味は理解できないのでしょうけど、『愛の反対は憎しみではない 無関心だ』という言葉を何度も読み返してみると、マザー・テレサがカトリック教徒であろうとなかろうと、一人の人間の言葉として、ずっしりとした重みのある言葉だなあと思うようになりました。 今さらながら、愛は暖かいものだということを、病気をしてつくづく感じています。 ふぅ、ここまで書いて、疲れて、自分が何を言っているのかわからなくなってきました。 参考URLもありがとうございました。また1つ賢くなった気がいたします。 まとまりのない文章で申し訳ありません。読み返さずに送信します。 ご回答をありがとうございました。