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どっち!?
もしかしたらカテ違いかもしれませんが・・・・ というより かなりどうでもいいことなのですが 自殺をしようとする人、死にたいと思っている人に対して言う言葉のひとつに 「世の中には生きたくても生きられない人がたくさんいるんだから!」 というのがありますよね よく意味がわかるし 何ら間違ってはいないと思います 事実 私もそういう場面にでくわしたら間違いなくこのセリフを言うだろうし たぶん心から思って口にするでしょう でも・・・・ 「世の中には食べたくても食べられないひともいるんだから そのひとのぶんまでいっぱいいっしょうけんめい食べる」 「世の中には欲しくてもすぐ手に入らないひとがたくさんいるんだから それが簡単にできる自分はもっと物欲のままに手に入れようとする」 これらって違いますよね どちらかというと 「食べたくても食べられないひともいるから自分の少しは慎む」 のではないでしょうか どちらも決して間違っているとは思いませんが 「生きたくても生きられないひとがいるからあなたは死を選んじゃだめ」 は 人間のエゴではないの???? それだったら 「死にたくても死ねないひともいるのだから死にたくなったら死んでいい」 もあてはまってしまうのではないでしょうか (死にたいのに死ねない人の例;捕まったときの金賢姫とか・・・)
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確かに、「世の中には生きたくても生きられない人がたくさんいるんだから!」 というのは事実だとしても、自殺志願者にそういう道理が通じるかどうかは甚だあやしいものです。きっと、ドラマかなんかでこの言い回しが流行ったんでしょうね。 「生きたくても生きられないひとがいるからあなたは死を選んじゃだめ」 というのは、私も人間のエゴだと思います。でも、そういう事を考えると、何もかもが人間のエゴになってしまいませんか? 私は子供の頃、焼き魚が夕食に出てきた時、母親に「お魚さんが私のために殺されるのは可哀想だから食べたくない」と言った事が有りますが、それもエゴでしょうか? その時、私は焼き魚が嫌いだったのかは覚えていませんが、「お魚さんが可哀想だから」とこじつけたのは私のエゴでしかないでしょう。 つまり、世の中は人間のエゴが縦糸になって織られている、ということです。縦糸ばかりじゃ織物にならないけど、人間ってそういうものだと思います。近所づきあいひとつ取ったって、「その人の考え方に深く共鳴できる」なんてドラマティックな考えよりは、「その人といると沢山の情報が手に入る」とか「何かを教われる」とか「もしもの時に役に立つ」etc.、打算のもとにあるものでしょう? 「死にたくても死ねないひともいるのだから死にたくなったら死んでいい」 も、ある意味事実かもしれませんね。聖人の殉死がいい例だ。人間はそういう歴史を繰り返して成長してきたのでしょう。 ただ、そういう時代とは少し異なっています。昔、人間は「集団の中のひとつ」でしかなかったけれど、今は「ひとつひとつが集まって集団を作っている」という認識に改められつつあります。個人が尊重されるようになって来たのです。だから、時代感覚が合わなくなって、そういう疑問が生まれたのではないでしょうか? 「世の中には生きたくても生きられない人がたくさんいるんだから!」 というのは、“集団の中のひとつ”としての考え方だと思います。 それから……あなたの疑問はどうでもいい事では無いと思います。こういう発言の場所があるからこそ、私の人生は薔薇色です。学生は色々と制約がありましてね……残念ながら、日本国における義務教育課程の学校というのは、こういう闊達な議論を交わす場所ではなくなってしまったのですよ。勉学に勤しむというより、人生の基礎教養を身につける場所に成り下がってしまったので、学校っていうのは私にとってかなり退屈な場所です。楽しい事が無い訳じゃありませんけどね。こういうコミュニティがある事で、こういう質問の回答を考える事で、私は少しずつ成長しています。だから、あなたの質問で私の哲学は進歩した訳です。 長々と書いてしまった事をお詫びします。あなたの疑問の答えに少しでも近付けたら幸いです。
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- gon1234
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何事をも大切にするという意味では、例に挙げられた因果はすべて正しいのではないでしょうか? 食べられない人がいるから一杯食べる=食べ物を粗末にしない 欲しくても持てない人がいるから私はたくさん持つ=持てない人と共有する 生きたくても生きれない人がいるから私は生きる=自らの命を精一杯生きる ちなみに私は自殺とは「一種の心の病気」と考えていますから、自殺者を責める気持ちはありません。肉体的に死に至る病気はガンなどがありますが、精神的に死に至る病気の結果として自殺があるのではないでしょうか。 どちらも治療可能なものですから周りのバックアップで救い合うような社会が生まれると良いですね。
お礼
ご回答ありがとうございました >どちらも治療可能なものですから周りのバックアップで救い合うような社会が生まれると良いですね。 まったくです!! gon1234さんのような方ばかりだと世の中ももうちょっと明るくなるのに。。。
「生きたいと、思えない人もいるんだから!」 人は、二度、生まれるなら、二度死ねる。 多くの自殺者は二度、死んでいます。 二度にわたる死は、二度、もしくはそれ以上にわたってとめなければ、とまりません。
お礼
ご回答ありがとうございました 二度・・・??
「死にたくても死ねないひともいるのだから死にたくなったら死んでいい」 これは逃避ですよね? 「じゃあ、死んだら?」とは言えません。 どうにか頑張ってそこから這い上がって欲しいと考えます。 「命」は何よりもいちばん大切でたったひとつしかないものです。 「命」は他のものとは比べようがないのです。 「世の中には食べたくても食べられない人がたくさんいるんだから 食べ物を大切にし食べられることに感謝して残さず食べよう」 「世の中には欲しくても手に入らないひとがたくさんいるんだから 次から次へと手に入れようとせずにものは大切に扱おう」 私でしたら、こうなります。 ですから、 「世の中には生きたくても生きられないひとがたくさんいるんだから! 命を大切にして一生懸命生きよう」 どちらも大切にしましょう、で私は納得してますが・・・ でも、エゴといえばエゴなのかも知れません。 それでもやっぱり「命」は大切にしてもらいたいです!
お礼
ご回答ありがとうございました 命の大切さについては私もよくわかっているつもりでした
- olfactory
- ベストアンサー率30% (30/97)
こんにちは. 私は「生きたくても生きられない人がいるのだから!」という言葉の背景には,「今あるもの,与えられたものを大事にしなさい」という意味が含まれていると考えます. 特に命というのは,自分の意志で生まれたわけでもなく,大人に守られて成長する過程においては,なんら苦労なく「存在」しているという感覚があります. 「存在」が,いかに偶然の賜物で奇跡的なことであるか…ということの認識が希薄なわけです. ですから,「捨てるのは簡単だけれど,様々な偶然と奇跡を経て貴方が「存在」しているのだから,それを大事にしなさい」と,言いたいのだと思います. このことをふまえて,食べ物と物質について考えますと…. いずれも「欲に任せて貪れ」という置換ではなく,「与えられた食べ物を大事にしなさい」とか,「今ある物を大切にしなさい」ということになるのではないでしょうか. 最終的には,貴方のおっしゃられる「食べたくても食べられない人のために慎む」にも繋がると思います. 前提条件が少し違いますし,個人的な考えで済みません.
お礼
ご回答ありがとうございました
- gekkou
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エゴと言ってしまうと、他人の人生に対して意見や助言をする事全てがエゴです。その人の為といいつつも、同時に自分の「利」が絡んだり、自分の「快」が潜んでいたりするのです。 例のように「死」に対しても、誰の死も望まないのであっても死を望む全ての人間に死んではダメということを訴えかけていくわけには物理的に無理ですし、それでもそれを望むなら朝、目が覚めてから眠るまで、自殺で悩む人達のカウンセリングなどに明け暮れなくてはなりません。 これでは自分の生活が破綻してしまいます。 結局死んでほしくないと望むのは自分に近しい人物や何らかの関わりのあった人物、思い入れのある人物などが対象で、これらの死が悲しいと感じる、死んでほしくないと感じるのはやっぱりエゴだといえます。 ですから、こうしてここに自分の意見を書き込む皆さんや私もエゴで発言しているのです。
お礼
ご回答ありがとうございます 「エゴ」について考えだすと深すぎますね・・・
はい。 使い方としてはおっしゃるとおりです。 問題は、「世の中には生きたくても生きられない人もいるんだから」という言葉は、自殺する人を止めるためのとっさの言葉だということです。 この言葉がエゴだとか、使い方が間違ってるとか、そういったことはどうでもいいんです。 要は、自殺を止めたいだけなんですよ。 まず生きることが一番大事。それがエゴかどうかはその次です。 あなた個人は納得できないかもしれませんが、それが今の社会通念なわけです。
お礼
ご回答ありがとうございました 私も社会通念だってわかっているつもりなんですがね・・・(笑 わかった上で質問してしまいました
- ceita
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食べ物や、物品は自分が手に入れるだけでなく、 分け与えることができます。 しかし、命そのものは分け与えられませんね。 そこに違いがあるのではないでしょうか?
お礼
ご回答ありがとうございました 物品と 何にも変えられない命 その違いと考えれば簡単ですね
- 100Gold
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おなじくかなりどうでもいい回答ですが。 小さい頃トイレに行きたいけど行けないとき(ゲームとかで手が離せないだけなんですが…)に代わりにいってきてと頼むギャグが流行ってました。 代わりにトイレに行ってもらっても全然嬉しくないところにおかしみがあります。 なんだかそれとちかいような。
お礼
ご回答ありがとうございました なんとなくわかります ちょっと近いですねww
- blurblur
- ベストアンサー率3% (6/173)
>「世の中には生きたくても生きられない人がたくさんいるんだから!」 >「生きたくても生きられないひとがいるからあなたは死を選んじゃだめ」 これはよくある言葉というだけで、必ずしも守る必要はない。 死んで欲しくない、という言葉を違う言葉でいってるだけ。 死んでもいいと思っている相手には言わないわけで。 死んでもいいと思っている相手になら、 >「死にたくても死ねないひともいるのだから死にたくなったら死んでいい」 といえばいいのです。 特に哲学的論理的な問題ではないと思いますよ。
お礼
ご回答ありがとうございました
お礼
ご回答ありがとうございます 長々と書いていただいたことはお詫びしないでください そのほうが嬉しいですよ☆ なんか私の疑問のこんがらがった糸がほつれていくようでした 少ない脳みそでもうちょっと考えてみます たいへん参考になりました ありがとうございました