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ひな祭りの身分的問題
平等思想平等思想といいますが、ひな祭りなんて、まさに身分差別思想の極端のようなものじゃないでしょうか?三人官女やら五人囃子やら、あと、なにか狂言役者のようなコミカルな人たち(仕官?)やらいますね。上のほうで御座に乗っている雄雛雌雛は、えらそうで立派な「ご身分」で、下のほうの雑魚みたいのはどうでもいい身分のように思えます。これを情操教育的に慣習にしているというのは、現在の教育風潮社会風潮と、ちょっと違和感不協和音がしませんでしょうか? なお、私は、なんでも平等平等叫んでいるよりも、身分差別がある社会のほうが、現実的で味もあるものだと感じます。
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- lequeos
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>>では、差別がないとしてもいいでしょう。 しかし、身分はある。厳然とひな祭りの構成様式は、上段下段着ているものその他でそれを感じさせる。 その「身分」を現代社会で演出していること自体、不協和音を発していないだろうか。<< 質問者の補足を拝見すると、どうも「差別」はなくても「身分」の差があることが問題だ、ということに尽きるように読めてしまいます。ひな飾りの服装の差は、すでに他の方が指摘されているとおり、「婚礼」を擬したものであることに由来するものです。帝政ローマのころには「これこれの色の服はこの身分以外の者は着てはならない」という、文字通り「身分に伴う差別」がありましたが、ひな飾りはそれとは明らかに異なっています。繰り返しますが、身分制度があることそれ自体は必ずしも差別社会を意味しません(身分に伴う差別があればそれを差別社会という)。もし仮に、質問者の目にはひな飾りの服装に貧富の差が見えるとしても、それが身分に伴う者でない限り(すなわち、これこれの身分でないとこういう飾りをつけてはいけないとか、こういう衣装は着てはならないなどがない限り)、そこに「差別」は存在しません。質問者はそういう事象を踏まえて疑念をお持ちなのですか?ということを補足してもらいたいというお話をしているわけです。 >>その「身分」を現代社会で演出していること自体、不協和音を発していないだろうか。<< そういう感受性は大事だと思いますが、何度も申し上げるように、具体的事象を伴わないと多くの人には共感されません。ひな飾りにどんな恨みがおありかは分かりませんが、ひな飾りは身分「差別」だ、とおっしゃるからには、なぜそう思うのかを誰にでも分かるように明快に説明してください。
- lequeos
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>>身分制度があるところに、かならず差別は生ずるのではないでしょうか。<< えっと、私はすでに英国社会において「差別」と呼べる状況はなくなっていることをすでに指摘していますが、質問者は何かそれと異なる「具体的な」事実を把握しておられるのでしょうか。事実に基づかない、観念的な議論は世の中を進歩させませんので、具体的な教示をお願いしたいと思います。
補足
では、差別がないとしてもいいでしょう。 しかし、身分はある。厳然とひな祭りの構成様式は、上段下段着ているものその他でそれを感じさせる。 その「身分」を現代社会で演出していること自体、不協和音を発していないだろうか。回答者は発していないというのだが、私は、その身分を表に出している演出は発しているのだと思う。現実は裏の身分階級であるから。
雛飾りで身分差別を考えますかね? それなら江戸時代の切腹強制なんて犯罪なので教科書でどう扱うか・・歴史にならないですよ 法律・習慣・身分などその時代のものなんですね。 >>身分差別がある社会のほうが、現実的で味もあるものだと・・ この主観は一般的には間違いです
お礼
身分差がある時代をそのまま現代に持ってきているだけです。それを隠して、あるいは顕在化させずに商活動として利用しているという堕落振りではないでしょうか?
- lequeos
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>>身分の差もあり、不平等な扱いも受けている と感じるものです<< 質問者は「下にいるから不平等な扱いを受けている」とお感じになっている、という理解でよろしいでしょうか。 なお念のために付け加えますが、私は前回のお答えで「身分の差があること」それだけでは差別とはいわない趣旨を述べていますので、その点は誤解のないようお願いします。
お礼
私は、やはり、身分さがあるとことは≒差別があると思います。ユートピアじゃないわけですから。
- anachronism
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一応言っておくと、下の方にいる「狂言役者のようなコミカルな人たち」というのは、たぶん右大臣、左大臣ですよね。親王(雄雛雌雛)を除けば一番えらい人です。「下のほうの雑魚みたいのはどうでもいい身分」というのは、それこそ単なる思い込みです。 一般に、雛人形は婚礼の儀を模しているといわれており、三人官女は親王に給仕するため、もっともお側に居り、五人囃子はいうまでもなくバックミュージシャンですから、その次に控えているわけです。その意味で、どうでもいい右大臣と左大臣はその下に控えているわけです。 祝われる親王が一番上にいるのはあたりまえとして、「宴席」というシチュエーションに際し、実際に必要に応じた配置が成されているだけのことで、これは別に身分の上下という意味でもなんでもありません。 むしろ、位置の上下が身分の上下だと思うほうが、どっか間違ってるのでは。
お礼
右大臣ではないですね。もっと庶民の役というか、その風情がある人です。やはり、囃子ですね。問題は。この身分的な差、人間的な差というものが、戦後思想とは容れません。
- lequeos
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場違いかもしれませんが少々まじめなお答えです。 平等であるということと、身分制度があるということは必ずしも矛盾しません。近代型の民主主義社会においては、平等ということは「みんなが同じ」であるという意味ではないからです。 要するに、身分制度が設けられていても、それによる「差別」がなければ、その社会は平等と言うことです。英国では貴族がまだいますが、貴族の特権はほとんど失われている(経済的には豊かもしれないがそれは特権ではない)ので、まぁ平等社会だと言っていいわけです。 ですから、ひな壇の下の方にいる人形たちが明らかに「どうでもいい雑魚みたいな扱い」をされているのなら問題ですが、単に下の方に座っているだけならば、その人形が不平等な扱いをされていることにはなりません。私の知る限り、伝統的なひな飾りでは、そういう不当な扱いを受けている三人官女も五人囃子もいないような気がします。
お礼
身分制度があるところに、かならず差別は生ずるのではないでしょうか。すくなくとも、ユートピア意外は、同族と群れ異属を排するということが必ず人間の了見では起こります。なので、ひな祭りをよくよく考えてみれば、その典型です。
補足
申し訳ありませんが、私には、この下のほうにいる、三人官女や五人囃子と、上のほうの内裏雛は 身分の差もあり、不平等な扱いも受けている と感じるものです。
こんにちは。 >ひな祭りなんて、まさに身分差別思想の極端のようなものじゃないでしょうか? >これを情操教育的に慣習にしているというのは、現在の教育風潮社会風潮と、ちょっと違和感不協和音がしませんでしょうか? 同意です。 また、雛人形の歴史を紐解いてみると その中に現代では考えられない「とんでもない思想」が潜んでいる事に気づきます。 かつての雛人形は簡素な紙で作った人形でした。 これに息をふきかけて、自らの穢れをうつし 川や海に流す、というのが雛祭りの原型です。 お雛様はもともと「みがわり人形」だったのです。 ところが、しだいに豪華な雛人形がつくられるようになると 川や海に流すという習慣はなくなりました。 そのかわり、3月3日を過ぎると、さっさと押入れの奥にしまいこまれます。 「押入れにしまいこむ」ことは、「川や海に流す」ことと同じで 人形を殺すことを意味していないでしょうか。 その証拠に、昔うちにあった雛人形の首は抜けるようになっていました。 子供のころは収納のために抜けるのだと思っていましたが よく考えてみると気持ちの悪いことではありますね。 そう考えると雛人形のお雛様やお内裏様というのは みがわり人形の親玉のようなもので、 大変不幸な存在であるようにも思えます。 雛祭りのルーツは和歌山県の淡嶋神社だそうで 淡嶋神社の御祭神である少彦名神と神功皇后の神像が 雛人形のルーツだといいます。 われわれは雛祭りを祝うことによって 少彦名神と神功皇后を呪わされているのではないか。 私にはそう思えて仕方ありません。 まあ、現代人の中にお雛様を身代り人形だとおもって 飾っている親御さんはいないでしょうけどね。 ちょっと論点がずれてるかもしれませんが 余談として聞き流してくださいますよう。
お礼
祭事が、堕落して、商活動に利用されている。もちろんそこのほうではつながっていたとしても、大きな流通の渦に巻き込まれて、その真髄は隠れてしまっている。隠すべきではないのではないでしょうか。
- kbfd33
- ベストアンサー率26% (371/1398)
今の日本は、思想信条の自由は、隣国中国と違って、完全に自由でありまして、各人が日本古来の習慣や行事にどのような感慨を持たれましょうとも、マッタク誰からも干渉されませんが、オひな祭りの飾りを見て「身分差別思想の極端」ダ、と、思われるのはステレオタイプの典型ではございませんか。「三人官女」「五人囃子」「雄雛雌雛」を見て美意識より違和感・不協和音を感じられるのはチョット...、と思います。5月5日のオトコの子の節句飾りはどうなのでしょうか。美しい習慣・習俗は大切に伝承したいと、私は考えています。
お礼
現代の志向と、かけ離れたところに伝統行事はある、少なくともその真髄に触れれば、乖離しているものです。
- mojitto
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今の日本では身分による差別こそありませんが、社会的、経済的な地位による差別(というより区別?)があります。 そして誰だってそんな身分に憧れがあります。 「シンデレラ」や「プリティ・ウーマン」なんかはその典型ですね。 しかし、そのような華やかな世界に少しでも触れなければ、それがどんな身分かを知らずに、憧れることもないでしょう。 憧れがあれば努力だってできるでしょう。 昔と違って、努力しても絶望的な世の中ではないのですから。 >上のほうで御座に乗っている雄雛雌雛は、えらそうで立派な「ご身分」で、下のほうの雑魚みたいのはどうでもいい身分のように思えます。 そんなことがないように、またそんなことをした人間は、どのような末路をたどるかを教えるのが教育です。 「道徳」もそう、「歴史」もその役割を担っています。 将来、お雛様になる人間が「実質的平等」と「形式的平等」をわきまえる人であるのなら、世の中もよくなるんじゃないでしょうか。 >なお、私は、なんでも平等平等叫んでいるよりも、身分差別がある社会のほうが、現実的で味もあるものだと感じます。 身分差別はどうかと思いますが、それに準じる差別があるのは現実的なのかもしれませんね。
お礼
なかなか、帯に短しの様相ですね。ちょうどいい加減に収まればいいのですが、民に知らしむべからずをやっていると国力が衰えてしまいます。性善説的に考えれば問題なさそうです。
>ちょっと違和感不協和音がしませんでしょうか? いいえ。 女の子はいつの時代でもお姫様にあこがれるものなので それはそれでよいのです。 勘違いしたまま、メッシー、アッシー(死語だなぁ)を 自分でこしらえる子もいますが。。
お礼
思考停止状態で利用すればよいという感じはします。しかし、それによってアッシーをこしらえるのは問題です。
補足
もはや、これは「説明」するようなものではありません。 感じるものです。 上下段があり、衣装の差がある。 それだけのことです。 論理はもはや、無用の話しです。