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絶望から這い上がる
自分はいてもいなくても仕方がないのだと自分を責めつつも、 私は子供たちの母親である、毎日会社に行く夫もいる。 けれどもいつも「誰にも迷惑をかけずに消えることができたら」 と考えてしまいます。 このままではいけないと心は激しく感じていますが、頭と体は違うみたいで。 こんなちぐはぐな自分がいやでなりません。 自分は自分なんだとあるがままを受け止め、前を向いて生きていくにはどうすればよいのでしょうか?
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家事雑用に疲れきったのでしょうか それとも夢を失った虚脱感なのでしょうか 私が思いついた、女性向きのヒントを差し上げましょう。 友達と話しをする事です。 とにかく何でもいいから話しをしてみて下さい 心が晴れるまで話しをしてみてはいかがですか。 話しすぎたと思うくらいやってみては・・・ 心が軽くなれば、今までの自分は何だったのだろう、と思えますよ。 さあ、あれをやろう、これをやろうという気にもなりますよ。 友達がいなければ身内でもいいと思います。
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- ZVH01371
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私も長い間うつ病で苦しんできました。薬もたくさん飲みました。 何で生きているのだろう、何のために生きているのだろう。長い間苦しみました。 でも私は知ったのです。まず生まれることは人間にとって極めて一方的であること、すなわち生まれる時も、場所も、親も、環境も、何も選択肢はないのです。選べないのです。生まれてくるかどうかさえ選べないのです。生命とはそういうものなんです。だから一方的に生まれてくるのだから、生きていくことに価値を見出すこと自体ナンセンスではないでしょうか?人は順調なときは生きている意味など考えませんが、人生に行き詰まりを感じるとこのようなことを考え始めます。 私はたくさんの病院にいきましたが、他人は結局私のことなど理解できるはずもないと、特に一日にたくさんの患者に接しなければならない医者が一人の人に裂くことができる時間や労力は知れたものだと知りました。 そこで私は自分を分析し始めたのです。今の自分は過去の自分の育った環境や行動の結論であると。今生きることの意味に悩むようなあなたを創出したのも過去の生きてきた環境の影響にほかなりません。 人は白紙で生まれ、生きていくうちに所謂「環境色」に染まっていきます。 まず今のあなたがなぜ今の有り様であるのかをまず考えてみませんか?
お礼
ありがとうございます。 お返事が遅くなり申し訳ありません。 過去の生きてきた環境の影響・・・思い出して1個ずつ昇華していったら自分の今や未来は変わるのかも・・・と自分でも思うほど過去の自分の環境や行動をひどく後悔しています。思い出し解決していく作業が本当に怖いなんんておもっていたらいつまでたっても解決しないですよね。
- kichikichi
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回答、アドバイスではないかもしれませんが読んでほしいです 僕は39でコンプレックスの塊です この質問を読み励まされました と同時に質問者さんが素敵な方だと感じました 素敵な優しさから生じる苦悩なのかな、と感じました だから励まされました 周りの人々との関係性の中で、より良い自分・人の役に立つ自分で在りたいと思う優しさからくる苦悩なのではと感じました 僕も消えてなくなりたいと感じながら生き長らえています 自分の父も他界する前の数年間は同じでした 父が消えてなくなれば…と何度も思いましたが でも父に「消えたい」という自分と同じ思いを告白されたとき 「どんなに迷惑かかってもいいからそんな事言うな」 と泣きながら怒ってました だから僕も妻や子供のためにも生き恥をさらそうと思いました 良いときの自分と今の自分を比べないでくださいね でもここに居続ければ、良いときの自分を超える可能性があるのも忘れないでくださいね こう言うと苦しめてしまうのかなあ? ごめんなさい 人生最大の友(相手もそう思ってくれてる)に 「俺にその資格はない」と言った時 「その考え方は、お前を尊敬している俺に失礼なんじゃないの」と たしなめられました 確かに逆の立場なら僕は激怒したと思います 貴方を素敵だと思ったという僕の言葉など信じなくていいです でも、貴方を好いてくれてる周りの人たちのために 何かをしてあげるのではなく 現在の自分に自分で課したハードルを少しだけ緩めてください じゃなきゃ 「この質問で励まされたバカがいるのだから、ひょっとして消えないほうが世のためかも」 と思ってくれたらうれしいです ARMSという漫画からの引用でもうしわけありませんが 境界線に近づいたとき、自分を励ましている言葉です 『人は絶望するから足を止めるのではない 絶望から這い出ることを諦めてしまったから足を止めるんだ 人は希望があるから前に進むんじゃない 希望を探そうという意思で前に進むんだ』 僕にとって絶望とは、足掻きたいという思いを諦めたときです だから苦悩している jinno39 サンに励まされました 僕が境界線を越えそうなとき 正気を保っているうちにここに泣きつきます そのときは、誰よりも jinno39 サンの言葉が欲しいと思いました 見つけてくださいね なあーんて都合のいい事言ってしまいました ひとりよがりの言葉をぶつけてしまいはずかしいかぎりです ちなみに我が家の家計も借金はないものの友人と比べると 自分を卑下してしまいます 正直将来が不安でなりません わが子には、お金のあるなしで自分を卑下して欲しくないと思います そんな育て方ができたら自分で自分を許せる気がしています jinno39 サンの絶望が昨日のこととなりますよう祈ってます
お礼
ありがとうございます。 なんだかものすごく私自身も救われたような気持ちになりました。 なんだか書きたいことがたくさんあるのですが 気持ちがいっぱいで書ききれません。 でも、本当にありがとうございます。 私はだいじょうぶ。げんきです。
- abc2008
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まず、「頭と体は違うみたいで」とありますが、本当のところは心の中での葛藤かと思われます。 一方では、自虐的であり、一方では、理性的であろうとする。それでちぐはぐな自分と決め付けておられるようですが、実は心の中というものは、必ずしもすべてが自分自身の思いで占められているのではないのです。 つまり、自分以外のものによって、その心の中に悪しき思いを投げ掛けてくる干渉者が存在するのです。これを仏法では『己心の魔(こしんのま)』とか『己心の賊(こしんのぞく)』と呼ぶのですが、それが我々の心の中にあたかも自分自身の思いのように紛らわしく、苦悩、悲嘆等のマイナス思考を投げ掛け、我々が苦しむようにいろいろと悪しき干渉をしてくるのです。 例えば、我々が就職や恋愛に際して不思議と悲観的に思ったり、又、自分にとって好ましいことや得なことを思ったりすると必ずといっていいほど、その思いを否定、覆す思いが起こってくると思いますが、それらの類は『己心の魔』の為せるわざなのです。 よく考えてみれば分かりますが、すべての思いが自分自身によるものであるのなら、なぜ自分にとって損な、自分を苦しめる思いまで、わざわざ心に抱くのでしょうか。一方で楽観的であろうとするのに、一方でそれを打ち消そうとする。そこには明らかに大いなる矛盾があるかと思われます。 ともかく、心の中の思いがすべて自分によって為しているものなら、自分にとってのマイナスの思いなど始めから抱かなければいいのではないでしょうか。ところが、やはりどこからか悪しき思いが涌き出でてくるのではないでしょうか。これを西洋風に言えば、心の中に悪魔と天使がいて、それらが相争うという図式みたいなものです。 よく世間では『魔が刺した』という言葉を聞きますが、これはその本人にとっては不本意ではあるが、結局は悪しき行為をしてしまった時に使うものですが、これこそがまさに『己心の魔』に踊らされて馬鹿なことをしてしまったと後悔する状態を現わしているのです。 結局、『己心の魔』という存在を知らない者は、それが投げ掛けてくる悪しき思いも、自分の為す思いと捉えて簡単に従ってしまい、挙げ句、苦悩へと沈むことになるのです。 ですから、心の中に巣くう『己心の魔』を見極め、本来の確固たる自分というものを認識して、それに干渉してくる悪しきものはすべてはねのけ、取り合わないように心掛けて行けばよいのです。 『魔を見抜けば、魔に負けず』という言葉がありますが、まさにその通りで、自分を責め、絶望へと引っ張り込もうとする悪しき思いは、まったく自分の思いではないと峻別して、今後は決して従わないようにして、自身の理性的であろうとする意志をはっきりとさせるようにしていかれればよいかと思われます。
お礼
ありがとうございます。 お返事が遅くなってしまい申し訳ありません。 実のところこの質問をしていろいろな方の回答を読みながら自分の中で何かが浄化されていくような感覚もあれば、「でも、私には無理」という気持ちもあって、なかなかみなさんにお返事を書くことができませんでした。 回答者様の >『魔を見抜けば、魔に負けず』という言葉がありますが、まさにその通りで、自分を責め、絶望へと引っ張り込もうとする悪しき思いは、まったく自分の思いではないと峻別して、今後は決して従わないようにして、自身の理性的であろうとする意志をはっきりとさせるようにしていかれればよいかと思われます。 という言葉も半年前の自分には噛み砕いて飲み込もうとしても難しいと正直感じてしまうものでした(失礼な書き方をして申し訳ありません) しかし、今は噛み砕かなくともすんなりのみこめる自分がいます。 この自分がプラスな自分なのかはわからないのですが、飲み込んだらうまく消化できたら良いなと思っています。
- jitaichi
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外へ出て運動してください。室内で筋力トレーニングでも良いです。とにかく少しつらいくらいに体を動かす事です。運動が億劫なら単なる散歩(一時間以上)でも良いです。 間違っても医者へ行って、抗鬱剤などもらって飲んではいけません。真剣に哲学的に自己と向かい合う事も重要かもしれませんが、歩きながら考えてください。(どんな病気かわからないので鬱病か何かだと想像して書いています。違っていたらご容赦ください。医療関係のお仕事をされていたのならお詳しいでしょうが、この手の病気に対する現代の医療のいい加減さはいたるところで指摘されています。) 「誰にも迷惑をかけずに消えることができたら」とは、できない事を承知で思われているいるのでしょうが、不可能とわかっている事に考えがとらわれているようではようでは、ものを考えるより、体を動かされた方が良いと思います。
補足
お返事が遅くなりすみませんでした。 確かに、日々動いてはいるけれど、体が心地よいと感じるような疲労感を味合わず、なんだかドロドロした精神的疲労のみが蓄積されているようなきがしていました。 確かに体を動かしながら考えたほうが、まとまりやすいうえ、前向きですよね。
- reki4649
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まずは正しく「自分を愛する事」です。 あなたは自分の事が好き過ぎてあれこれ細かい事が気になっているのです。 子供の事を心配するあまり小言を言い過ぎる母親のように。 ゆっくり自分を見つめなおしてください。 あなたにはあなたしか居ない、どこに行くにも何をするにも一緒です。 あなたが自分を認めないで誰があなたを認めてくれるのですか? また、自分が自分が自分をキチンと認めていれば誰に何を言われようが堂々としていられます。 私は世界中から批難されようとも大丈夫です、自分が自分の事を信頼してますから。 自分で自分が満足してる つまり自己満足つまり我侭。 あなたが「消え去りたい」というのも同じです。 自分が自分を消し去って満足するは 結局「自分」です。 同じ自己満足ならプラスのほうにしませんか?
お礼
お返事が大変遅くなり申し訳ありません。 自分のことが好きかどうか…この点は自分ではわからないんですが、あれこれ細かいことが気になってしかたがない・・・そうです、その通りなんです。 時々プラスな自分が出てきてうんと前に引っ張ってくれるのに、いつものマイナス野郎が引きずり落としてくれる・・・なんて日々をこの質問から半年たった今でもやってます。 でも、ときどきでも出てきてくれるプラスな自分を励みに生きていこうと思います。
私もそういう思いになることはありますので、考えてみたところ、今思い浮かんだことを書きます。 >「誰にも迷惑をかけずに消えることができたら」 (1)現実としては消えることはできません! (死んでも肉体から離れるだけのことで、他にも霊人は居たりするわけです。。) ですから前を向くしかありません! (2)消えたら消えたでむしろ消えたことによってかかる他者への迷惑の方がはるかに大きいのではないでしょうか。 ですから、存在するだけで既に存在しないよりプラスであるのです! (3)夫や子供がいらっしゃるのであれば、それだけで1人役も2人役も実際にこなしておられるわけで、質問者様がおられなかったらその分他者にその仕事量がかかるわけで、迷惑があると言ってもプラスの内でのことだと思います。また仮に病身だったりしたとしても、存在するだけで周囲はありがたいと思っているもののようです。子供だって仕事もせず言うこともきかなくても、存在自体がありがたいでしょう。それと同じだということです。
お礼
ありがとうございます。 なんで自分なんかここにいるんだろうと来る日も来る日も泣いてばかりな時期がありました。自分はまわりの人間を不快にさせるばかりの疫病神だ病原菌だとおもっていました。 今でもここに自分がいていいのだろうかという疑問はないわけではないのですが、自分の周りに笑顔が咲いているというのは幸せなんことなんだなあと実感する日も増えました。 消えてしまったらその人たちの笑顔もみられませんよね。もうちょっと頑張ってみます。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
<ねずみ女房>という童話があります。 他から見たらどのねずみも一緒。 自分という個性の無い存在すら希薄なねずみ女房。 夫は「ねずみはチーズのことだけ考えれいればいいんだ」と言う。 確かにそうかもしれないが、ねずみ女房にしてみれば物足りない。 自分の存在が消えていくような思いを抱いて過ごしていた。 ある時 捉えられた山鳩と出会う。 山鳩は外の世界をいろいろ知っていて話してくれる。 それがどんなものか、外の世界を知らないねずみ女房だったがわくわくした。 せっせと通って山鳩の話を聞くねずみ女房。 夫はねずみ女房がもうあっちの世界とこっちの世界の境にいて、とても魂が危ういことに気づかないで、家のことをしないねずみ女房に暴行を加えた。 暴行を加えられて当然だと思って、もう山鳩の話を聞きに行かないようにしようと決めた。 ねずみ女房の魂は限りなく旅だとうとしていて、夜中彷徨うように歩いて山鳩のところについた。 山鳩は与えられた食事ではなく、外の世界のものしか受け入れず、食べなかったのでぐったりしていた。 ねずみ女房は突然自分の使命に気づいた。 せいいっぱい鳥かごに入り口にかみついて、入り口のドアを開けた。 ぐったりしていた山鳩はいつのまにかドアが開いていることに気づき、ねずみ女房が開けたことも知らないまま、カゴから飛び出して外の世界に戻っていった。 そのとき ねずみ女房ははっとした。 「これが何かわからないけど、私には見えることができたんだわ。」 それは私たちが言う夜空の星。 ねずみ女房は、初めて外の世界を体験し、自分はどうでもいい どこにでもいて消えてなくなっても誰も困らない存在などではない。この世で唯一の大切な存在なのだと気づいた。 それから子供ができて忙しく働き、昔体験した外の世界を知覚したことを話した。 子供たちはわくわくして、そのきらめくような世界を体験したねずみ女房の話を聞いた。 もうただのどこにでもいる、誰でもいいねずみ女房ではなく、唯一のねずみ女房として尊敬した。 ってストーリーです。 ねずみ女房は、ずっとある一家の家から出たことがありません。 彼女のこの世のすべては この家だけです。 でも、外に出なくても 彼女は外の世界を知っている。 外に出なくても別世界を体験できる。 限りなく魂が消える寸前に、ねずみ女房は異世界を体験したことで、魂が復活したわけです。 説明下手ですいません。 内容も昔読んだのでうら覚えです。 子育ての合間に、図書館で本借りてきて読むことでも、家にいながら異世界を体験できます。
お礼
ありがとうございます。 お返事が惜しくなりもうしわけありません。 わたしって子供にこんな風に物語を話すことができてないなあとふと思いました。 子供の想像を膨らませるようなお話を回答者さまのように自分のこどもにも話せたら素敵だなと思いました。 図書館にしばらく行ってなかったので行ってみます。
ぜんぶ引用です。 * 真実がどのような労苦によって見出され 誤謬を避けるのがどれほど困難であるか知らない者たちは あなたがたに向かって怒り狂うかもしれない。 敬虔な心の清澄さによって肉の幻想を征服するのがどんなに稀な 成し遂げがたいことであるか知らない者たちは あなたがたに向かって怒り狂うかもしれない。 内なる人間の目がその〔義の〕太陽をみることができるように癒されるのが どれほどの困難を伴うことか知らない者たちは あなたがたに向かって怒り狂うかもしれない。 神についてほんのわずかでも知りうるようになるためには どれほどのため息とうめきが必要であるか知らない者たちは あなたがたに向かって怒り狂うかもしれない。 同じ誤謬によって欺かれたことのない者たちは あなたがたに向かって怒り狂うかもしれない。 (アウグスティヌス著作集 7 基本書と呼ばれるマニの書簡への駁論 2.2)
お礼
ありがとうございます。 お返事が遅くなってしまい申し訳ありません。
哲学での質問なので・・・そうとう常識から逸脱したものの考え方を紹介します。 今「汎神論」に興味を持っています。反デカルトとされたスピノザhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6からですが、デカルトは世界にある実体は「物質=様態」と「精神=延長」の二元論としました。スピノザは一元論「心身並行説」ですが肉体と精神が人間の本性において同時に影響も作用もせず一致しない。自然=神において全てが一致するというもの。 汎神論の自然には目的がない、そこに目的や原因を見るのは人間のもつ偏見の想像以外なものではなく、そこから多様な価値観も生まれます。 人間は完全な神から生まれた不完全であるが故、人間が世界を捉える認識に限界があり、認識の仕方を三種に分けました。 最も高度な認識が「直観知」で物の最深部まで把握して自然(神)がら来て神に還る旅であるとの認識です。それによって感情に振り回されることもなく、欲望に屈服することもなくなるそうです。 その一段下が「理性知」で物の仕組みや性質を知って概念や常識、意志を想像します。 もっとも低い浅い認識は「表層知」で人間の健康や尊厳に役立つことを善と呼び、反することを悪と呼ぶようなもので、神の本性を否定もしているというのです。他人の権利を自己の権利と同様に守らねばならないと思うほど手段にする感情は無力となり、それが秩序たっていること判断するし、その反対を無秩序という。つまり自分に不都合なことだけ理不尽としますが、好都合であれば当然になって疑う力もないのが人間ですね。下手に理由を考える必要がなくなって誰にでも正直になれればいいのですけどね。 もう一人、汎神論の先駆者であるジョルダーノ・ブルーノhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%8Eさんともなると、太陽や地球さえ平凡な星に過ぎないといい、異端とされました。絶体絶命の火刑となっても「私よりもこの判決を申し渡したあなたたちの方が恐怖に震えています」と直観でいえるようになれます(?)。死後280年経ってからキリスト教会からも受け入れられ名誉を回復していますが。 安心してください。頭と体の価値観(?)を無理矢理合致させずとも、自分放棄しても(?)、汎神論では神の内で合致しています。
お礼
ありがとうございます。 一生懸命読んでみました。 ついつい他人と比べたり、現状にあせってしまうと なんとなく自分の中がバラバラみたいな感覚になり、精神的にだけただただ馬鹿みたいに疲れるんです。 自分でもあきれます。 もっとおおらかでもよいのでしょうか。 30代だというのにコンプレックスの塊なので・・・ 恥ずかしいのです。
- shikaruni
- ベストアンサー率20% (19/95)
自分を責めることはつらいことでしょう。 どういう理由で責めているのかわかりませんが、 自分を分析するチャンスではないでしょうか? 自分を責めることは、自分を否定して、自分の存在を否定していることです。 また、分析が無理なら、手っ取り早い方法があります。 哲学コーナーで言うことではありませんが、実行すると効果抜群です。 それは、 「私は私のことが大好きです。」 「私は私のことを許します。」 「ツイテル」「ありがとう」「感謝します。」 と声に出して言うことです。 言葉には力があります。 言霊といいます。 これを一日千回、どれでもいいので言うことです。 また、ネガティブな言葉は思っても口に出さない。 口にしてしまった場合は、ポジティブな言葉を言って中和しましょう。 これは、斎藤一人さんの本からです。 実例がたくさんあります。 どうしても、どうしても変わりたいなら、実行することです。
お礼
ありがとうございます。 もうコンプレックスの塊というか 中身なんかないのにガチガチにプライドが高いとか そのくせ弱音ばっかり・・・な自分なんです。 友人には「あなたがうらやましい」と言われても、素直に喜べない。 あんなにかわいい子供とこんな私に理解ある夫がいるのに。 陽の言葉を発することで、そんな自分を解きほぐせたらいいなと思いました。
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お礼
ありがとうございます。 たいせつな友人はいます。 今度会う約束をしました。 身内には逆になかなか話せません・・。