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唯心論ってなんでしょうか
まず第一に心がある、ものを思う自分があるからこそ、その他すべての物がある 我思う、ゆえに我あり よくわかりません、教えてください
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私はなぜ私自身が「存在している」と言い切れるのか。それは私が存在しているということを認識し考えているからである。 例えば、宇宙の果てに花が実際に咲いていたとして、私がその花を認識せず、どのような花か考えることもしなければ、それは無いことに等しい。 同様に、私が私として存在していることを生まれてから死ぬまで考えず気付かなかったら、存在しなかったことと等しい。 だから、私は考える(惟う)ことによって初めて存在を勝ち得ているといえる。 と捉えています。
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現実を捨てて目を閉じることです。
- makoto_y
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唯心論 世界の根源を物質とする唯物論に対し、世界の究極の実在を心的・精神的なものとする見方。 宇宙が原子や素粒子を単位に構成されているという考え方に平行して 世界は意識と認識によって作られているとする考え方があるの それは私たちが常に世界が『ある』と思っているから世界が在り続けるという考え方で 世界の構成単位を『認識』としている まったく具体性のない世界をイメージしてそこに漠然とした『存在する』という意味が全体を覆っているの その漠然とした『存在』の表面が揺らいで波を生じ波が干渉して新しい揺らぎができる こういった状態の不均衡を『個性化』というんです もっと簡単にいうと 混沌の表面を伝わる意識の波がある境界面を越えると個性化して個人となる 個性化した意識は他へ干渉をはじめて他の個性と同調したことを『認識する』というの これがより広範囲で同調しているものを現実というんです 私たちは意識を個として持っているのではなく意識の特殊な状態なんです
- makoto_y
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哲学って面白いですね。 デカルトは唯心論ではなく物心二元論を唱えたようですが。 「我思う故に我あり」 彼は全てを疑って疑って、それでも疑い様の無いものを見つけたと思いました。 それは意識の内容は疑えるが、意識をする自分の存在は疑えないということでした。 まあ間違っていますけどね。
この世界には、ふたつの心があります。大自然の心の無我と脳の自我とがあります。人の心の中にも、無我と自我があります。この無我の自然と、自我の脳は対立しています。だから脳が思考してる時は、脳が自然を遮断するので、人の心がストレスになります。脳が休むと、人の心が自然と交流するので、心が癒されます。日本語は、子音の自我と、母音の無我の調和した、世界でもめずらしい言語です。外国語は、子音だけ自我だけです。だから現代文明を理性、理屈文明といいます。五万年前のアトランチス文明は、自我と無我の調和した、すばらしい霊性文明でした。伝説では、人は機械を使わず、超能力でピラミッドの石を動かしたそうです。人の心は、テレパシーで会話して、大宇宙の事をすべて知っていたそうです。
○ 形相(エイドス・ form )と質料(ヒュレー・matter ) ☆ の話から入るべきでしょうね。 家の設計図が 形相(イデア と言うと分かりやすいですね)で 土台や壁や屋根など モノが 質料です。 一般に この《家》の例のように ものは 《形相と質料》とが 一体となって 存在しています。 ところが この存在の究極を問い求めようという話が出ました。《本質》というそれですね。 片や 形相派は 質料をいっさい持たない形相 すなわち 第一形相 これが 究極の存在であると説きます。いわば 身体から離れた心を言うのでしょう。つまり 唯心論です。 したがって もう一方では とうぜんのように 形相を持たない質料 すなわち 第一質料を ものごとの本質だと説きます。これが げんみつには 物質であり その思想は 唯物論です。 問題は 唯心論の《第一形相》も 唯物論の《第一質料》も 人間の想像力を駆使した結果得られたに過ぎず 思惟の産物でしかないことです。 この二つの究極の存在を――たしかに それらは 想定であるのですから 同じ想定であるところの―― 《絶対》と比べて むしろ それと定める見方も起きて来ます。二つの究極の本質は 《絶対》つまり《神》を ただ 言いかえたものだという意味です。 しかも ただ そういう言い換えであれば もはや いちいち 《究極の形相》だの《究極の質料》だのと言っていないで 《絶対》なり《絶対者》なりと言えば よいことになります。 したがって――推論をここで端折りますが―― 唯心論も唯物論も 単なる思考実験であるという結論が得られるものと考えます。 からだとこころ 両者は 一体であるというわけです。身体=精神です。単純です。 この肉(つまり 身体=精神)なる人間存在は いかんせん 朽ちるべき生物です。その能力も 有限です。相対的かつ時間的・経験的な存在です。 わたしは いま考えて決めたことを 明日も しっかりと保っているかどうかは 分かりません。また その必要もないことになる場合もあります。その内容が 将来 どのように 自分に影響を与えるか わたしは分かりません。その知には 限界があります。 だれか相手が わたしに約束したことを 破ったなら わたしは そのあやまちを いちど指摘しておきつつ 約束の不履行をめぐって その可能性についても考えます。自分にも 起こりうるし あやまつは 人の常だとも考えます。 ここで ○ あやまつなら われあり。/ 欺かれるなら われあり。 ☆ と知ります。あやまちに気づき 我れに返り その我れを思うなら 我れありです。欺かれたなら 我れに返りますし しかも 欺かれることを欲していないという心(意志)は もはや 欺かれ得ないと知るとき その意志の主体であるわたしは 存在すると知ります。 たとえどれだけ あやまちを繰り返したとしても たとえどれほど 欺かれたとしても そこで還帰した《わたし》は つねに 《わたし》です。自己の同一性と言う所以です。つねに わたしに わたしを掛けて わたしの冪をつくっていきます。もし数として わたしが 一なら 一の連乗積は つねに 一でありつづけます。 ★ 我思う、ゆえに我あり ☆ は 我れに還ったとき その気づきにもとづいて 思惟を重ねるその思考のことを言っています。思考という部分を 特出させたものです。そのデカルトの独創性を パスカルが 擁護していますが もとは アウグスティヌスのことばです。 ちなみに ○ われ われを思う ゆえに われあり。 ☆ としたほうが ふさわしいと言ったのは P.ワ゛レリです。意味は そういうことになるのではないですか。そうでないと 《理性が 人間の神だ》という錯乱が 起こります。 ちなみに 独我論という思想が そこから派生しているようです。唯心論ともからんでいます。自己の思惟あるいは知覚のほかのことには いっさい 信を置かないというもののようです。他者と話はするけれども そこに 共通の感覚も思想も あり得ず(または あるかどうか 知り得ず) 信頼関係など 築けるものではないと言おうとしているのではないでしょうか。 おそらく ことばを もう少し信頼しても よいのではないでしょうか。ものごとそのものと 一義的に 対応していませんが ことばは ものごとを代理して 指し示し その指示機能だけによっても じゅうぶん 意志疎通をはかることができると思われるからです。
- ga111
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意識、心が第一であり、いろいろな存在を規定しているとする考えかたです。こころが豊かであれば、お金、経済は犠牲にできるという考えは、ある意味、唯心論的です。 この反対語が唯物論です。存在が意識を規定している(マルクスなど)、としています。お金、経済が大事で、こころの豊かさもそれらに左右されるという考えは、唯物論的といえます。 個人的には、両方とも極端な考え方であり、実質的には、多くの人は両方のあいだを行ったり来たりしていると言えると思います。
心(精神活動)が体によって支えらえていないと思わない考え方ではないでしょうか。それは人間以外の生物を見ると納得できると思います。我思う、ゆえに我あり、というのは唯心論のことではなく自己言及の矛盾で、私には「我とは何か」を考えることをやめた方が良いという忠告のように聞こえます。
- isuchihaha
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目の前にパソコンやそれを置いている机などが「あり」ますが,それは本当に「存在」しているのでしょうか。目で見,手で触れますが,そのような幻を見たり感じたりしているだけなのかもしれません。パソコンや机に限らず,世界の全てはバーチャルであって妄想の産物かもしれません。 「全てが疑わしい」中で,どうしても「存在」を否定し得ないものが「あり」ます。それは「パソコンや机が見えているのは本当だろうか」と『疑っている自分』です。言い換えれば「自分が存在することを『否定しようとする』自分」です。 懐疑論の行き着く先に何もなかったら,とデカルトは恐れたわけですが,「我思う,ゆえに我あり」という折り返し点があったため,机も世界も存在することを認められることができたわけです。 こういう基礎的な回答でよかったでしょうか?