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自我の解体なさってますか?
自我の解体、というコトバをお聞きしたのですが、教えてくださったかたが退会されてしまったので、自分で検索してみたら、仏教関係のコトバなのか他にもあるのか、よく分かりませんでした。 自我の解体、どうやってなさってますか?
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んーー 自我の解体、、、、解剖して自我はどうして構成されているか って調べるってことじゃないですよね。 解体 取り壊し、破壊、消滅・・・・ 銀河鉄道999、とびとび動画を見たので、全体がわからないのですが、、、 主人公は機械の体を手に入れるために旅をするわけですよね。 永遠の体を手に入れるための旅。 で、私の理解では、個を消滅させ、すべての人を一つにするってことじゃないか と。 宗教でいけばキリスト教。 全人類がキリスト教徒になるために活動している。 中世のキリスト教は図書館を閉鎖し、聖書だけを読めと人々の命令した。 たった一つの考え方、みな同じ受け止め方、皆同じ思想であれば、他が無いので対立が起こらない。 これこそ天国というものじゃないか と考えたのではないか と。 そのための他の思想をするグループを殉滅してきた。 もしくは異なる思想をする人が、自分たちの思想になるように改造してきた。 皆個性があるのに、同じ一つの個性にすべての人をするって無理な話で、未だに達成できていない。 自我。 新世紀エヴァンゲリオンでいけばATフィールドに守られた個性。 とても硬い壁なので、他者がどんなに破壊しようとしても、無理。 唯一それを破壊できるのは、そのATフィールドを張っている主人が死を望んだとき。 自己(個性)を放棄・消滅させることで、皆が一つに同化するわけです。 これが永遠の至福。 とゼーレもゲンドウも考えた。 で、主人公のシンジは、他人と自分が違うことに常に不安を抱いており、「皆死んでしまえ 自分も死んでしまえ」と死を望んだ。 デストルドー(死の欲望)が起こり自我を形成していたATフィールドが弱まり、アンチATフィールドにより中和され、すべての人と同化してしまったわけです。 どこまでが自分でどこから他人なのかわからない状態になった。 で、結局 他人のATフィールドは自分のATフィールドを傷つけ、痛い思いもするが、それでも自分というものが欲しい と望んだ。 自分という形を作るには、異なる別のものが必須。 それで、他者を誕生させた。 つまり、自分の思想はこれだと決めたことで、異質が誕生したわけです。 義務教育、よき社会人になるための教育をするわけですが、そのよき社会人という概念は誰が決めるのか。 時代とともに変るので真理じゃあない。 とにかく「こっちにこい」といえば、みながこっちに来る方が、支配者は集団を束ねやすいので、一つの命令に対してみなが同じ行動をするように教育するわけです。 「遅刻はいけません」 みなに浸透して、この命令が徹底されれば、遅刻者はいないので、授業もはかどる。 遅刻は悪、そういう価値観が徹底している場合、例えば誰かに途中で出会って助けが必要だと思っても、第一命令を実行するので助けない。 例えば、約束が3時にあって向かっている途中、なつかしい人と再会した場合であっても、命令を叩き込まれている人は、そそくさと挨拶して約束に向かう。まるで機械です。 別の集団は、せっかく久しぶりに会うのだからと、約束相手に電話して、1時間約束をづらしてもらう。 約束は変更され、交流も深まる。状況に応じて行動を変える生き物です。 どっちの社会がいいでしょうか? そりゃ 支配者の立場であれば、命令通りに動く市民でいてくれた方が楽ですよ。 そのために市民が自分の欲求を抑えることになるわけですが、市民も上の人の思想と同化していれば、上の人の言うことを実行し続ける作業を繰り返すわけで、上の人の理想社会を作るパーツにすぎないが、パーツであることに同意した以上 個は無いのですから、不満も出てこない。 はず。 でも、どんなに市民の思想を統一したと思ったところで、それぞれ異質なわけですから、統合され一つになったようでも、実は別々なわけで、いさかいも起こる。 そりゃ 変なところにこだわっている人が自我を解体することで、トラブルが無くなり生きやすくなるのなら、その部分の強い自我を解体した方がいいと思います。 ただ、解体するより、それを自分の一つの特徴と受容するって手もあります。 消滅させずにすみます。 人にいろいろ言われても、自我は解体できるもんじゃない。 自分が「いらない」と捨てる境地に至る、 あるいは「これも自分」と受容することで、イライラは消滅すると思います。 結局 不幸はイライラするから起こると思うんですね。 じゃあ イライラを消せばいいわけです。 個を消滅させる必要は無い。
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>「自我の解体」というよりも「自我の崩壊」即ち「逝く」というのは少くとも、今の私自身に あてはめられることではないように思えます。 >「価値観の再検討、再組み直し」の必要性なら自分自身の問題として、じゅうぶんに受け止められます。 読み間違いがありました。崩壊ではなく、【解体】ですね。 ソシュールの記号学もロゴス中心主義(精密な言葉により論理的に、神の悟性、人間の理性を全て語れるとした思想)を、デリタは本物か偽者か区別することができなくなり、いつのまにか事物が姿を消し、ロゴスが活動することになり、延々繰り返し袋小路に入りに入ってしまい、そして身代わりになるものの無限連鎖的に生み出す(差延)とし、解体=脱構築(ディコンストラクション)という造語を作りました。 脱構築を簡潔に言うと「ズラす」です。その事物を使うが変形させて内部に留まらず、意外な根拠、あるいは方法を辿って外部へ抜け、対象に対処する方法。だという。 脱構築(解体) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B1%E6%A7%8B%E7%AF%89 デリタの文章は造語が多く独特で難解で知られていますが、ロゴス中心主義は「病」で、肉体の改善、生活を改善することで脱却、対処療法を試みたような感じではないでしょうか? 私は「自我の解体」としてダイエットと早寝早起きを心掛け脱構築したのですが、リバウンドもありまして(泣)次の手にボディースーツなる武装下着をしてます。スリムビューティ再脱構築となるか?
お礼
>脱構築を簡潔に言うと「ズラす」 私、これ聞くと、どーしても「ズラ」(かつら のことね)と「骨抜き」を連想してしまうんですよ(笑) 「自我の解体」「脱構築」 形而上学の仕組みを解体 解→脱→解→脱→解→脱…しまいには解⇔脱となって、とどまるところを失い、久遠のループ? 「菌とウィルスに親痔脳が刺激を受けて、言葉がずるずると分泌されちゃう、そういう病気なんだもーん。」 ひょっとして、「しりとり唄」と どう違うのよ?という問題があるかもしれません。 >次の手にボディースーツなる武装下着をしてます。スリムビューティ再脱構築となるか? それは、可能性の要素を抽出、というのと少し違うのではないでしょうか。 ボディスーツの場合ですと、これは解体、脱構築によるボディデザインというより、むしろ拘束、監禁的と言いますか、、、ボンデージか。あっ、解体、脱構築に見せかけた監禁もあるかもしれない。 早い話は、食べんかったらよろしいねん。一番効果が高い。但し、年齢によっては、まさに解体すべき部分が解体されずに、痩せてもらっては困る部分だけが解体されたまま再構築もならず、、、という事態も大いにあり得ます。 こうなると、やみくもに解体する前に、脱構築そのものの可能性をも、はじめから視野に入れとかないといけないかも。 あるいは、いっそのこと「自我の崩壊」とともに即ちイッてしまうか。 いや、私は、すでに逝ってるのかもしれない。 では、ここで私を叩いた人は、何のためにやったのか? >対処療法を試みたような感じではないでしょうか? それが まさに「療法」であったかどうか、結果をみて判断するしかないのでしょう。しかし、結局のところ「療法が功を奏した」との断定はできない。。。 楽しいアドバイス、有難うございました。
>では何が役に立つのかをお答えくださいますか。 ソドムとゴモラが何故滅び あるごく少数の人間だけが何故生き延び得たかを考察すれば 欲を煽る今の世にあって大勢の考えに乗った幸せ感に浸っている人間やユダヤ教徒やその派生宗教者の宗教を通した集合自我にとって真に救われる道ではないことを示唆する。 悪を誰かに投影することによってでしか幸せを感受できない人間 悪に依存してでしか味わえない幸福感 それは依存だ。 峻別には境界線が明確にある。 すっかりユダヤ教化し誤解されてしまっている日本神道において 今の世で心の病を訴える人が多くなってきているのは 感知できないその繊細さゆえの当然の帰結であるといえなくもない。 理屈を超えたその感性は大切に 人は何故漠然とした不安 破滅の予感を持つ人が多くなっているか? 小乗は粒子性 大乗は波動性 分析は粒子性 統合は波動性 その両方で光は表現される 時期が来たならすべきことは 十分なされた解体ではなくて解体したものを組み立て直す再構築 その時なれば今までに身にまとった全てが全人的に統合され平和の道具として一点を指し示し発動する。
A8です。 1つ舌足らずでした。 概念の類は他の研究分野の考え方と一致する考え方を見つけても、その一致した部分を他の研究分野と無理やりこじつけると脳ミソが食あたりや二日酔いの状態になります。要するに哲学なら哲学、心理学なら心理学、宗教なら宗教、このように分けて考えを発達させないと頭の中がちゃんぽんになってキレます。 これはかつて私も経験した失敗です。
お礼
「エクソシスト」とかホラー映画がお好きですか? 「復活蘇生させました。」 何を、でしょうか(笑)
補足
>概念の類は他の研究分野の考え方と一致する考え方を見つけても、その一致した部分を他の研究分野と無理やりこじつけると脳ミソが食あたりや二日酔いの状態になります。要するに哲学なら哲学、心理学なら心理学、宗教なら宗教、このように分けて考えを発達させないと頭の中がちゃんぽん おもしろい表現ですね(笑) 「自我の解体」ということについて私自身は全く知識がなかったものですから、とりあえず検索をかけてみたところ、どうも仏教ですとか「ヴァガバッド ギーター」に絡んで、いくつか あがってきた。 これは哲学カテゴリーで尋ねたほうがよいのかな、ていどの考えに過ぎませんでした。 もっとも、こちらのカテゴリー、もとは哲学と宗教とは別に分けられていたそうですね。 私は哲学というのは、いかにも幅の広い世界で、心理学にしても、もともと、その源流は哲学に発していると聞いております。 正直申し上げて、御回答者さまの御文章も、ふだん私にはスンナリと理解できないことが多いので、お名前を拝見した途端、少々冷や汗をかきましたが(笑)今回は そうでもなかったところをみると、ずいぶん気を使っていただいたものと思われます。 ちょっと所用で、この質問を覗くことができなかったのですが、今晩にでも、あらためて、お礼を申し上げるつもりです。 それまで、もう少し仰るところを反芻してみますね。
まづ、概念の扱い方の基礎ですが、自我の概念は心理学分野です。 哲学や宗教で処方箋を求めるのは医者を選び間違えたようなものです。 自我でなく、個に縛り付ける欲望、こだわりの類と表現するなら宗教や哲学でも論議できます。 したがって勘違いや無謀な試みと推定される「自我の解体」が現実的でない試みなのでしょう。 欲望の哲学、欲望について考える試みは全て失敗しています。 その「自我の解体」の言いだしっぺさんは、自我と欲望を取り違えただけでしょう。 欲望にまつわる神を語る宗教は危険な団体です。 宗教に欲望の解消を求めるのは間違いです。 真理や真実は欲望にありませんから欲望は行き場が無いのです。 今回の「自我の解体」は、ありえないことなので気にしないことおお勧めします。
お礼
所用のため、お礼を申し上げるのが遅れ、失礼しました。有難うございます。 >自我の概念は心理学分野です。 哲学や宗教で処方箋を求めるのは医者を選び間違えたようなもの これについては、次の御投稿への補足を御覧いただくとして、そういえば、メンタルヘルスや人生相談のカテにこそ哲学の見地でアドバイスを、といった御意見があったような(笑) >欲望の哲学、欲望について考える試みは全て失敗しています。 このように仰るのは何ゆえか、伺いたい気も致しました。 >欲望にまつわる神を語る宗教は危険な団体です。 宗教に欲望の解消を求めるのは間違い 私は、間違いと言うよりも、宗教と(ある種の)欲望とは、むしろ切り離せない性質のものかもしれないという感じを持っています。 そういえば、私の「信仰対象」なるものについて、どなたかに何か言われたことがあったような朧な記憶がありますが、最初は別の対象を思い浮かべたのですけれど、その後になって 「信仰」というものが即ち無根拠、ということであるのなら、と考えました。それならば私の「信仰対象」なるものは、信仰の対象などではなかったということになります。なぜなら、それは明らかに「無根拠」ではないからです。 私が、ここで挙げてきた理論の内容についても、詰まるところ「再検討、再組み直し」ということであるらしく、紙幅を費やしているわりには、至って平凡な結論のようにも思われますが 回答者さまの御回答内容も、要は >今回の「自我の解体」は、ありえないことなので気にしないことおお勧めします。 ということに過ぎないのでしたら、私としても、そうですか、と お返事するに留めるのが無難のようですね。 でも、今まで、こうしたことを突き詰めて考えることをしてこなかったので、これはこれで、いい経験だったと思っています。
補足
>その「自我の解体」の言いだしっぺさんは、自我と欲望を取り違えただけ …電車内や街なかでは、人はそれぞれの自我肥大のまま相互的不干渉で だいたいは生きていける。しかし共存して何かをする場合は、相互的不干渉のままではいられない。そこに暴力的交渉の習性が噴出する。いじめは言わば自我肥大の権力衝動の「インフルエンザ」という病気である。この病気は、人間が集団をなす所どこにでも1つの集まりに延べ3人やそこらの頻度で必ず発生する。必ず発生すると確認したうえで、常に暴力的交渉の習性というウィルスを、腐った自我肥大の権力衝動抑圧のための注射と、共存的交流というワクチンで治療していくしかない。… 以上は教職についているという或る人の述懐です。 …自我肥大という言い方も一者関係的自己化を表現しており、肥大した自我の中に取り入れられた人や物は「生かされる」ということがない。 私は確かに、誤解されやすいようなのですが(笑)そして、どういうものだか、言うところの「一者関係的自己化」の暴力的交渉のなかに とり込まれやすい傾向もあるようです。 私の拙い心理学的視点からは、むしろ その誤解の内容と動機のほうにこそ興味が わくのですが。 身元が確かな心理学の専門家に、このほど私の身の上に起きた一連の騒ぎに関する見解を伺いましたが、それにも鑑みたうえで、私の考え自体は間違っていたとは基本的に今でも思っていないのです。
欲の皮の突っ張った政治家によっては国民の暮らしは良くならないし 宗教よって心が救われることはない。 心理学の知識が心を理解し心を病む人間を快復させるのに何の役にも立たないように その干からびた砂漠の中の死んだ言葉では草花が茂る感動は呼び起こせない
お礼
>欲の皮の突っ張った政治家によっては国民の暮らしは良くならないし 宗教よって心が救われることはない。 これは全くそうだと思います。 >何の役にも立たないように では何が役に立つのかをお答えくださいますか。
仏教からではなく、私論を端的に申し上げると自我の崩壊とは「逝く」です。 歓喜、高揚感、達成感とでも言い変えれますが・・・・? それでも言い足りないかも。 充満しピークに達すると学ぼうとすることも行為しようとすることからも放たれます。 用心したり注意したり、服従、征服あらゆる欲望が消えます。 無我の境地は何を原動力にするのでもなく、エネルギーそのものとなること。 太陽をよく恵みとか、利他的とか希望の象徴にしますが、ニーチェは「過剰」といいました。 過剰な存在であるから、与える相手がいてこそ軽くなれるので別に感謝されようとして燃え続けているのではないと。 軽くなる喜びを享受するには、重苦しい生を放す位置を得なければならない。 それには喜んで欲してくれる相手が必要ということですね。
お礼
このたびは珍しく?全体に私でも分かるようアドバイスいただけました。有難うございます。 >自我の崩壊とは「逝く」 歓喜、高揚感、達成感とでも 言わばエクスタシーですか。 >過剰な存在であるから、与える相手がいてこそ軽くなれるので別に感謝されようとして燃え続けているのではない 軽くなる喜びを享受するには、重苦しい生を放す位置を得なければならない。 それには喜んで欲してくれる相手が必要 「喜んで欲してくれる相手」というのが重要なのですね。 これも、いろいろと難しいものがあるのではと思います。 「感謝されようとして燃えて」いるのでない、もちろん「服従」とか「征服」を要求しているわけでもないにしても、「喜んで欲してくれる相手」もいれば欲しない相手もいますよね。 自己実現への「生の本流(奔流)」なるものにしても、どっちの方角に向いて流れるのか。等々。。。 …我々は生の本流たる行を見極め、そのポテンシャルを下げるよう行動するのでなければ後から後から行が沸いて来て、それを止滅させることはできない。ポテンシャルが下がり切ってエネルギーゼロになったとき本当の意味の止滅が訪れ、それを仏教では涅槃と言い即ち死と同義である。もはや全ての行が止滅しているので再び生まれるということもない… …固定的意味づけではなく、対象の意味の変化を主体が容認している。従って愛されているときに対象はそれ自身を生きることができる。このような自己化を、二者関係的自己化 と言うこともできるが、一般には、共生 という言い方がなされる。… >自我の崩壊とは「逝く」 それは「自我の解体」と結び付いているのですか? 私の立場をいうなら、「充満しピークに達する」「軽くなる喜びを享受」「喜んで欲してくれる相手」というものを手離さざるを得ないと判断した場合は、私なりの対処法として、距離を保ちつつ、他のことについては、これまでのように、ふだんどおりやっていく、やはり紆余曲折の末ではあっても時間とともに静まっていくのを、じーっと待つしかありません。 どうも「自我の解体」というよりも「自我の崩壊」即ち「逝く」というのは少くとも、今の私自身に あてはめられることではないように思えます。 「価値観の再検討、再組み直し」の必要性なら自分自身の問題として、じゅうぶんに受け止められます。
補足
…フロイトはここでいう「自己化」を「本能エネルギー」とし、その貯蔵庫としての「エス」を定義している。初期にはエスの内容として、自己保存本能と性本能を、後期には、生の本能と死の本能を想定している。そしてエスは快感原則だけに従い、無意識的であり、直接・間接に満足を求め、現実原則を無視し、無時間的、非論理的、非社会的であるとしている。しかし、ここでは 自己保存本能と生の本能 を「維持の原理」としてまとめ、本能 と言うより「知の原理」の主目的として「自己化」を捉えた。それが快感原則に従うように見えるのは「一者関係的自己化」のときに限られるが、それは飽くまで「代用満足」であるからやがては真の満足である「共生的自己化」を目指す。 性本能 については異性との一体化を求める「知の原理」と、命を繋いで行こうとする「維持の原理」の協働で説明できるのではないか。「共生的自己化」が実現し一体化願望が消滅すると性欲も随分その表現が変わるだろう。死の本能 についてはウイルバーの「代用犠牲」の概念がうまく説明している。 …激質から生じる行は我々を無闇に行動的にし、無意味な行為を重ねては更に激質的な行を無意識に貯える。しかし行動が必要な時には心が激質にならなければならない。 純質から生じる行は我々を更に純質に導き「止滅の行」を生じさせ、最終的にはそれさえ止んで三昧に至る。このような行の生じ方を心得た上で行のコントロールを目指すのが最も重要ではないか。 …禅のコンセプトで言えば価値観とは即ち囚われであり、そこから解放されて行くにつれて自分自身の存在を許容でき、そのままの自分でいることに深い安堵感を覚えるようになるだろう。誰であれ、そこに辿り着くのは容易なことではない。見方を変えれば悩みを抱えることで、そこに至る道を模索する 求道者 たり得たとも言える。 …大乗仏教では、煩悩即菩提という言葉に表されるように、煩悩を生じさせる行の中にも菩提(悟り)に通ずるものがあるので無闇にそれを否定しない立場を取る。行の止滅よりこちらの方が重要な意義があるだろう。悟りに通ずる行とは、我々をとことん悩ませながらも 自己実現 へ我々を導く行のことである。煩悶のままに生きる。それは 行の体現 である。 それは自分がこの世に生まれた意味を教えてくれるものである。行の体現はまさに無意識の意識化であり、ユングの言う、個性化の過程 である。しかし、悩みのままに生きる、という行の止滅に比べ一見簡単そうに見えることがなかなかうまくいかないのは、前意識の意識化が不十分であること、余分な行の止滅がなされていないことに起因すると考えられる。 …宇宙に知の原理である識が生じ、続いて環境をつぶさに知るべく自我と肉体が生じ、それを維持すべく維持の原理が働く。それは自我に都合が良いよう環境を意味づけ始め、価値観を前意識に貯える。自我が安定し環境適応がスムーズであれば維持の原理は勢力を弱め、当初目的であった、知 を全うするために超越の原理が働き、前意識の意識化がなされることで自己拡大が起こる。一方、この一連の過程における自我の行為は全て 行 として無意識に貯えられ、貯えられた行は 結果 として結実するのを待って前意識に上り、間接的に自我に影響を与える。これが行の原理である。 …心理臨床においては、まず維持の原理が正常に働いて安定した自我が形成されているかどうかチェックされなければならない。そこに問題があればカウンセラーは自身の安定した自我でもってクライエントと「集合自我」を作った上で社会適応のための訓練が施されるべきだろう。自我が安定しているクライエントでは緊張から維持の原理が働き過ぎている場合が多いのでリラックスが重要であり、リラックス法を使ったり場の雰囲気を和らげたりする一方、カウンセラー自身リラックスの気を放射している必要がある。その上で前意識の意識化を促せば、行の原理にも理解が及ぶだろう。 余談ですが、先日、別のカテで質問したら、これまで そのカテゴリーに来られたことがなさそうな或る常連のかたがサッと現れたので少し驚きましたが、残念なことに私にとっては お門違いの ご意見としか思えませんでした。 とにかく最終的に質問者が喜んでいるなら、何がしかでも拾えるものがあればよい、 それが全て、という考え方それにしたって、ある人には適用し、ある人には適用しない、といった ご都合主義的なことなど、今このカテゴリー内で さかんに議論されていることのなかにも、いくらも見つかります。 そして「救う」なる立場に立つことも、結局は相手に対し優位に立ちたいという征服欲求の現れ、潜在する一種 ねたみのようなものの現れもあるかもしれません。自覚の有無とは別に そうした面があるとすれば、それが執着的行動の理由かと思われます。
補足質問にお答えします。自我の脳の発達は、人の退化です。中国の老子は、脳を否定し無知を奨めてます。仏教では自我を否定し、座禅などで、無我をすすめています。脳の思考は、人を迷い苦しめています。大学の先生が、日本人の脳という本で、日本語を話して育った人は、脳の音感の構造が変化して、自然の音に敏感になるという、論文を発表しています。つまり風や川の音、鳥や虫の声が、日本人には美しく聞こえるが、外国人には雑音に聞こえます。また世界中で大自然の心を表現する言葉が、日本語の情緒しかありません。だから日本人は自然を無我を理解する事が出来、自我を嫌い、個人が無くて、内と外があります。脳、自我と自然、無我は対立しています。だから脳が思考してる時は、人と自然の交流が遮断されて、ストレスになります。脳の思考が休んだ時、人と自然が交流して、心が癒されます。人は最初は無我でした。その後脳の自我と合体しました。そして迷い苦しんでいます。だけど2012年に脳を分離して無我にもどります。
お礼
わざわざ補足に おこたえいただき有難うございます。 …従来伝えられている瞑想法は、例えば呼吸に集中したりマントラ(真言、神の名前や聖典の言葉を唱えること)を唱えたりしながら長時間座り、外界の遮断に努めるというやや荒っぽい方法が取られることが多い。そして"意味づけの再構成"は瞑想においては"雑念"として片づけられる。しかし雑念は心の自然な発露であり、それを敵視するのはいたずらに瞑想を難しくする。… …子どもは好奇心の塊で、何でもかんでも知りたがる。それはもちろん 知の原理 が優勢に働いているからだが、意味づけが定まる前は価値に汚染されない分、純粋に、あるがままに対象を観るので、ときに子どもは詩人のようである。しかし一度意味づけが定まり、それなりに適応できるようになったり使いこなせるようになれば、知の原理 は抑制されてしまう。… >自我の脳の発達は、人の退化 退化ですか!心理学的には「超自我と本能の調整役が自我であるという見方」があると教えていただいたのですが。 >脳の思考が休んだ時、人と自然が交流して、心が癒されます。 自我の発達、対象の自我化の複雑さは、そのまま人間社会の複雑さに直結しているのでしょうか、仰るように、脳を休ませるということは大切なことだと思いました。 確かに自然の風物を眺めているときにはゴチャゴチャ考えませんね。 >だけど2012年に脳を分離して無我にもどります。 そうですか、、、えっ、でも、それって、もうじきじゃないですか。。。 >日本語を話して育った人は、脳の音感の構造が変化して、自然の音に敏感になるという、論文を発表しています。つまり風や川の音、鳥や虫の声が、日本人には美しく聞こえる たとえば日本語を話すことに慣れている外国人の場合、その顔つきや表情までが何となく日本人っぽくなるものだな、と思うことがあるのですが、逆に、日本人でも、長らく外国語を中心に話す生活をしている人だと、何となく日本人離れしたような表情になるというか、口もとなんかの形が変化してるような気がします。 大昔から日本人には「聞きなし」という微笑ましく味わい深い風習もありますね。 『枕草子』でしたか「みのむし いとあわれなり」(秋風が吹く頃、親が戻ってきてくれると信じ、みのむしの子供は、ちちよ、ちちよ と鳴く)というのもありました。
- mmky
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仏教で使う「自我」は肉体に影響された自分自身のことですね。例えば、ラーメンもっと食べたーい。パチンコしたーい。タバコすいたーい。かっこよくみせたーい。などなど、日々生きてますといろんな考えが浮かび、それによって自発的行動が生じますね。こういうのが自我ですね。 自我に対して真我というのがあるのですね。「ラーメンもっと食べたーい。」と思った瞬間、「まてよ、そんなに食べなくても生きていけるし、太るからやめとこ。」という思いが起きる場合があります。これが真我による思考と行動ですね。我慢するということではありませんね。自身が常に健全な方向に進むようにアドバイスする思考ですね。全ての人にはこの二つの思考が同時にあるんですね。自我を伸ばす方向はより肉体本能に従った考えと行動を伸ばす方向であり、真我を伸ばす方向は自我を抑える方向、つまり肉体から来る考えを制御する方向ということですね。 このように言えば、「自我」を弱くすることも、一度解体して組みなおすことも可能でしょう。殆どの人は生まれてこの方、自分自身の肉体にとらわれた考え方、生き方をしてるわけですから、まず肉体がないと仮定すれば何を考えどう行動するかと考えてみればいいんですね。肉体がないんだから、食べる必要はないし、睡眠もいらないし、お化粧もいらないし、禿を心配することもないし、顔の成形の心配もないし、男女の差別もないし、肉体に関係する全てのスポーツさえないよね。できないことを全部羅列できますね。考えることぐらいしかのこらないはずですね。こういうのが仏教的自我の解体ですね。それでもやりたいことがあれば、本当は肉体もあり健全なのだから集中してやれるわけです。つまり日々考えて行動していることが本当の自分が欲してることかどうかを問い直すということですね。だから自我は解体できるし再構成もできるということなのです。例えれば、手足がなくなろうが目鼻がなくなろうが脳の一部を失おうが私自身になんの変化もないはずということですね。
お礼
カウンセラー自身が生の本流を体現し淀みない心で共感するときクライエントは、カウンセラーの生の本流に触れて自らの内に流れが生じ始める。 大抵クライエントは淀みに執着している。快ならざるものを快と感じ、美ならざるものを美と思う。また、思い出せば気分が悪くなることをわざわざ思い出しては気分を悪くしている。この執着を一喝するのはたやすいことだが、その一喝がクライエントの心にストレートに届くかどうかがカウンセリングにおける最大の焦点となるだろう。だから、共感という危険を冒さなければならない。 淀みとはポテンシャルが低くならないような行為つまりその個人の人生にとってあまり意味のない行為を繰り返しているときに生じると考えられる。行為の結果再びポテンシャルを高めてしまうのも淀みの一形態である。ポテンシャルが低くなるような行為(それは個人によって異なる)が、正しい行為と言い得るものであり、それを行うためには智慧が必要であり、淀みから抜け出せたとき「言葉」として備わる。 初めから淀みがないときには言葉化されることなく、当たり前のように「正しい行為」がなされているのである。 今、ポテンシャルエネルギーを失っている日本にあって日本人は自力で「正しい行為」を模索していくしかない。社会の奔流に巻き込まれない分、本来の意味での自己実現がしやすくなっているのが現代と言えるだろうが、それは大いなる迷いの時代とも言える。そのことが教育現場にも影を落とし、子供たちの心が読めない状況を作り出しているのではないか。 淀みにはまっているときは少なくともすがすがしさは感じていない。むしろ閉塞感や倦怠感、もやもや、どろどろした感じを胸やお腹の辺りで感じているだろう。 東洋は自我の不都合な面を見つめ、個を作り上げる、煩悩そのものと解釈される「維持の原理」を無くすことに集中し、よって自己拡大させ、環境と一体化する。 西洋では自我の「維持の原理」と「知の原理」に焦点を当てて良性の部分を認め、それを発達させる。 「知の原理」によって認識された世界を利用したり、もっと詳しく知りたいという科学的態度に大きな価値が置かれている。 >本当の自分が欲してることかどうかを問い直す 自我は解体できるし再構成もできる 有難うございます できる、のですね。 本当に欲していることを示して無視され、そのまま終わったりしたら残念です。
補足
>自我に対して真我 常に健全な方向に進むようにアドバイスする思考 自我を伸ばす方向はより肉体本能に従った考えと行動を伸ばす方向であり、真我を伸ばす方向は自我を抑える方向つまり肉体から来る考えを制御する方向 心理学で言う自我と超自我にあたるんでしょうか。 以下は聞きかじりですが "一者関係的自己化"は対象に服従を強いる。対象が物であれば問題も起こるまいが、自我を持つ者であれば当然軋轢が生じる。しかしこの赤ちゃん的な愛し方を自己化の常套手段としている者は非常に多く存在し、彼・彼女は、わがまま と称される。自我肥大という言い方も一者関係的自己化を表現しており、肥大した自我の中に取り入れられた人や物は"生かされる"ということがない。従ってそれらの対象は容易に脱自我の反乱を起こして自ら生きようとし、わがままな彼・彼女は落ち込んだり、それらへの支配・征服を強めたり、軽蔑したり、場合によっては殺意まで起こす。このような形体の自己化でも愛は愛である。愛は本来対象との一体化を求めてやまない。自我はその手助けをするのだが、一体化による自己化は自我そのものを崩壊させる危機を孕むので、強力な維持の原理によって一体化は抑制され、自己化は一者関係的なものにとどまることになる。 もし自我が母親などの他者から十分に守られているなら、崩壊の危機を顧みず一体化による自己化が促進されることになる。言葉を換えれば、愛されることによって愛する者になれるということである。関係において自我が守られていると感じるならば、クライエントは恐る恐る頑な自我を解いて行き、病的防衛なしで他人と関る方法を知るだろう。 知の原理によって"知る"という行為が起こり、対象が或る程度理解され、単純な意味づけが行われる。そこまでは一者関係的自己化でも行われるが、その単純な意味づけを超えて、さらに対象を奥深く理解してゆくときに愛が愛らしくなる。単純な意味づけの段階では、対象は意味づけの主体となった自我の中で"生かされている"とは言いがたいが、愛によって深く理解されているときには主体の中で"生かされている"。固定的意味づけではなく、対象の意味の変化を主体が容認しているのである。従って愛されているとき対象はそれ自身を生きることができる。このような自己化を、二者関係的自己化 と言うこともできるが、一般には、共生 という言い方がなされる。 ウイルバーはここでいう一者関係的自己化に、代用満足 という言葉を当てている。本来の満足は共生的自己化によって得られるものだから"わがまま"や"自我肥大"によっては仮の満足しか得られない。従って共生的自己化に至らないうちは飽くことなく"欲しがる" 仏教に慈悲という言葉がある。慈 は文字どおり"慈しむ"こと、実際に手を貸してあれこれ世話を焼くというニュアンスであり、悲 は"見守る"ことである。実際には手を貸したりしないが、少し離れて相手の成長や幸福を願うことである。手を貸したい状況でありながら、手を貸すことで却って相手の成長や幸福が阻害されることが予想されたり、相手が手を貸されることを望んでいないことを知って、敢えてじっと見守っている。 慈と悲は状況に応じて使い分けられるのでなければならない。 "悲"とは自己拡大原理であり、それに「超越の原理」と名づける。「超越の原理」(悲)が働くことで自己は拡大し、自我はそれまでの自己イメージを一旦崩して新たに再構成しなければならない。その時に自我は今まで予期しなかった新しい自己を体験するが、それはまさに"超越"体験であり、命名の由来もそこにある。 「超越の原理」(悲)が働くと自己は漠然と拡がるが、その中でも見守るだけでは"生きられない"対象に対しては自己の中に島を作って維持の原理(慈)が働く。外自己の中の自我を持つ対象に対しては見守ることでその自我を尊重するという"共生"の姿勢を取る。 嫌な人、物と意味づけされている対象に対しては維持の原理で取り囲み、自己が侵されないようにしている。一方、赤ちゃんなど保護が必要な対象ははっきり意識され慈で取り囲まれる。ただ十分自己拡大していない母親の場合、赤ちゃんとて何割かは維持の原理で囲まれ、煩わしいなどの意味づけをされ、自己から多少排斥されたところに位置づけられるだろう。 前意識に淀んだ情感が沸き、そこから様々な前言語的感触が生じ、更に様々な悩み深い行為、思考が生じる。カウンセラーのもとへ持ち込まれるのはこの悩み深い行為、思考であり、それらに焦点を合わせ、共感しようとするほどに淀みに巻き込まれてゆく。
自我の解体は、出来ないと思います。ただ自我を、休ませる方法はあります。脳の思考を休めて、脳波アルファ波にすると、心が癒されます。これを神道では鎮魂、仏教では瞑想、座禅として実践されてます。また日本の伝統文化、和風文化も、脳を休めて、心を癒す事を目的にしています。茶道、華道、能、民謡、演歌、舞、日本画、書道、落語、中国の太極拳などいっぱいあります。
お礼
早速アドバイス有難うございます。返事が遅れ失礼しました。 「自我の解体」、できませんか。 >自我を休ませる方法はあります。 脳の思考を休めて、脳波アルファ波にする リラックスが大事なんですね。 お酒や場の雰囲気に頼っていては、それらがないときは「維持の原理」を働かせていなくてはならない。しかし意味づけ再構成を知らず知らず行っている人は、それらのリラックス法に頼らず、割といつもリラックスしていられる。それは一人でいるときに起こる。 または、その過程を邪魔しない人の傍で起こる。 従って、たとえ和やかであっても絶えず言葉や笑いがひしめいている場に身を置くのは一過性のリラックスに過ぎない、のだそうです。これも個人的に実感します。 気になることに、間を置いて眺めてみる。 リラックスできない、させてもらえないのは辛い。 以下は聞きかじった話ですが 行は盛んに前意識に影響を与え、前意識は自我に特有の傾向をもたらす。なぜ或る種のものに特別に興味を覚え、或る種のものに対しては嫌悪感を持つのか。 それは前意識に貯えられた価値観がそうさせるのであるが、その価値観を意識化した後でもまだ残る興味や嫌悪などの傾向は行によるものである。 従って前意識の意識化により理解に至れば行が理解され始め、行が新たな行を作り出すという循環が抑えられ、悩みが新たな悩みを呼んで身動き取れなくなるということがなくなる。 悩みのままに生きることができるのは行の発現を静観できる心の余裕、さらに行を体現するために、「超越の原理」により変化への抵抗が薄れていなければならない。その意味で「煩悩即菩提」も簡単ではないが、こう言われるとき感じる安心感は維持力を緩和し、心に余裕を持たせるだろう。あるがまま、や煩悩即菩提は、そのような力を持つ言葉であるが、使う前に十分お膳立てが必要であり、乱発されるべきでない。 固定化した価値観の中で「悪」と見做され抑圧されていたものが再評価されたりすると「維持の原理」は揺らぐ。 既成の価値観は必ず再考されねばならない。 価値観は秩序を産み出す半面、レッテルを貼ってしまうから。 とは言え、社会に生きる我々が価値観を持たずに生活することはできない。 唯一できることは価値観を持ちながらも、それを意識化して囚われないようにすること。
補足
日本の伝統的文化って、「超越的」とかいうのでしょうか。関わりが薄いと、あまりよく分からない感じがしますが民謡は家族がやっていましたし、私自身は能や日本画などは好きです。 「超越の原理」が活性化して自己拡大が起こるには、自己と非自己の境界において自我を守っている、「維持の原理」が働くことでつくりだされる力が弱まる必要がある。「超越の原理」が「維持の原理」を抑制するのではなく何らかの原因で抑制され、維持力が弱まったとき「超越の原理」が働き始めるらしいです。 一般に日本人は個人の自我が弱く、代わりに家族や地域社会や国家といった集団によって形成した自我が強いと聞きます。これを「集合自我」と言うそうですが 集団の成員が共有する価値観が、各成員の前意識に蓄えられ、その集団特有の意味づけを生じさせる。個人の自我と同様に集団の自我にも我欲や攻撃性が生じるため集団どうしで争いが生じる。また、弱い攻撃性としての排他性も「集合自我」に顕著であるという。 日本人特有とされる「甘え」も、個人の自我をこの「集合自我」のなかに埋没、維持させている人ほど甘えが強いそうです。そのような人どうしは互いを他人のように思えず、自我の内側に相手を取り入れる。母親の自我が赤ちゃんの未熟な自我を完全に取り込み一体化して育てる様態と日本人が「集合自我」のなかに個人の自我を埋没、維持させる様態がよく似ている、のだそうです。 前意識に蓄えられた、日本人つまり日本人気質という価値観を意識化さえすれば我々は、日本人という文化的な「集合自我」に埋没して、その維持に守られる必要性がなくなり、そこから脱却して、「甘え」や依存の土壌から独立することができる、これが個人主義の始まりであると考えられる、だからといって仲間にに冷たくなるのではなく今度は拡大した自己を持つ者として、どんな文化背景を持つ相手に対しても自分と同じように相手を愛せるようになる。 甘えや依存がいけないわけではないが、それが有効であるのは同じ「集合自我」に属している相手に限られ、属していない相手に対しては無関係か悪くすれば敵視することになる、そして「集合自我」の暗黙の価値観からズレる者は、いじめの対象となる。 これは今、私が個人的に実感していることです。 「集合自我」と個人の自我の関係は、個人の自我の安定度が変数として大きく関与するそうで、安定度が高ければ「集合自我」に深く関与することは少なく、逆に安定度が低ければ「集合自我」に深く関与し、その維持の原理に守られなければならなくなるそうです。 赤ちゃんの自我は「ほどよい母親」によって「本当の自己」を受入れられることで安定性を確保していく。最早期(生後数週間から数ヵ月)の絶対的依存状態にある赤ちゃんに適切な自我支持が得られない場合、人格基礎が欠損し、対象との関係を持ち得ず、想像を絶する不安にさらされる。そして「集合自我」を形成すること自体が非常に困難となる。これは「情緒的母性愛欠損」に相当、精神分裂病の原因と見做す見方がある。 一方「母性的養育の剥奪」は最早期の自我支持は得られており一応人格の基礎は築かれるが、その後の相対的依存期において、その人格から発せられる要求が母親によって満たされない場合を言い、精神病質、累犯者、反社会性向などの性格障害を招くらしいです。 「依存型」の子は学校という「集団自我」にも依存しており、同じく依存している級友は投影対象になりやすい。また、本来依存型でありながら母親から拒絶される場合もある。これを「拒絶型母子」と言い、不安定な母自我が強いストレスに晒されると更に自我不安定になり、母子自我を形成することができなくなる。子は母のストレスのはけ口となって虐待を受けたり、無視という消極的虐待を受けたりする。下の子が生まれるなどして母が他の子と深い母子自我を形成する場合も子は拒絶されることがある。 子は無理に自立的に振る舞うことで早熟したり、問題行動を起こして周囲の目を引こうとする。「依存型」の子より、さらにいじめの被害者、加害者になる確立は高い。また長期不登校、摂食障害、精神病など難治性症状を呈することが多く、アダルトチルドレンと呼ばれている、ということでした。
お礼
自我ができるとき同時に維持の原理が働き、そして価値観が貯えられて行くのは生命現象における必然であることも強調しておかなければならない。我々は生きて適応するために価値観を貯えざるを得ない。それならば洗練された教義を持つ"教え"に幼児のうちから触れさせておくのが得策というものであり、教えに疑問を感じ始めるほどに思考力が発達した頃、価値観からの解放を目指せばよい。この、解放の発想がなければ、教義を植えつけることに大きな躊躇が生じて当然であろう。 「クライエントは、嫉妬という表現を与えたが、後に、ライバルという表現を発見し、それから一気に仲が良くなった」 「かれにとっての」死 「われにとっての」死 戦うためのの土俵と武器は人それぞれ 一言惜しんで百しゃべる いらんよいらんよイライライラ(受容;) 勧誘電話のデータベース 先物取引勧誘電話よりシツコく生き残る何か旨い手ないものでしょうか(笑 毎度お世話になっとります。 下のほうでオカルトオッサンたちの悪口大会が盛り上がってます~。 同じことを繰り返えす愚かさを持っているワシらは さぞ正しいと思ってるんでしょう(笑 Kigurumiさんは少し事情を御存じでしょうけど >個を消滅させ、すべての人を一つにする >どこまでが自分でどこから他人なのかわからない状態 調べたところ、これを目指してたらしいです。 私も従わせられそうな立場だったわけですが。 『エヴァゲリ』私は詳しくないので、ふうーん、と感心しながら読ませていただくばかりですが エヴァゲリのお礼になりますやら、たまには私からも お返しさせていただきましょう。 (ずっと前、このカテゴリー常連でいらっしゃるかたを通して知った作品)もしかしたら、すでに読まれてるかもしれませんが、良い短編です、オモシロいですよ、ぜひ最後まで読んでみてください。 『女の決闘』 http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/304_15063.html
補足
絵画鑑賞するときのことを思い出せば分かるように、あまりに密着すると、かえって全然別のものに見えたり、何がなんだか分からないものに見えてしまったりする。 どっちにせよ、人は意味づけ、つまり、その人に合った物語をつくり上げようとします。 距離は、やっぱり必要な段階だと思います。それを犯して ただ、見ている者を見ていることができなかった者を、見ていることができなかった者。 「意味づけという再構成をうまく行えない人は、情動や環境へ働きかけるパターンが固定化してしまい、適応できない。」 圧倒的不利な条件に置かれている者にとって嫌なものと意味づけされた対象に対しては、これも自然なことで、侵されないよう自己を守ろうとします。自己から遠ざけようとします。 「他者あるところ恐怖あり」 未知のものに接する、そして自分が未知の状態に変化していくことには死を連想させ恐怖を感じずにいられない。死への恐怖感から自我は現状の維持を保とうとする。維持の原理は変化を嫌う。自己に変化を強いる環境に対し敵意を抱き、婉曲的にせよ環境を逆に変化させようと攻撃を仕掛ける。 相手が離れて行く感じがしたり慣れ親しんだ環境から疎外されている感じがするとき執着が起こり、相手を、敵と意味づけ、恨みや怒り、嫌悪を抱いて攻撃的になったりするが、それはやはり脱自我機制による。そうした怒りを基本的に持っているのに、価値観がそれを抑圧してしまっているとき、抑うつが起こる。 妄想的・分裂的ポジション 環境の自我化アフォーダンス 同じ対象に対する同じ意味づけを何度も行ううちに、その対象に対する「価値観」が定まり、それは前意識に蓄えられる。蓄えられた価値観は類似の対象に接するたびに類似の意味づけをすることができるので、意味づけスピードが加速される。そうやって人間はあらゆる環境を意味づけし、それぞれに対する価値観を蓄えてきた。そして一度与えられた意味づけは維持の原理によって頑に保たれ、自我は特別な理由なしではそれ以上対象の詮索をしなくなる。それは我々がいつも陥る落とし穴であり、一般に、偏見または先入観と呼ばれる。 投影も価値観によって引き起こされる。それは価値観にそぐわない自分の性質の一部を前意識の中に抑圧し、その抑圧した内容を髣髴させるような人物を攻撃したり嫌悪したりすることであり、また理想を高く持たされたが故に自分そのものを価値観にそぐわないものと捉え(自尊心が低い)、わずかに「良い」と前意識で認めている部分を髣髴させる人物に憧れを抱き、愛着したり嫉妬したりする。 意味づけは物に対してなされるだけでなく、他人に対し、そして自分自身に対しても意味づけを行い、強固な維持の原理を働かせている。これは臨床上の大問題である。この自他に対する意味づけと価値観は所属する時代や国家から家庭に至るまで大小の文化の中で培養されたものであり、極めて人為的である。それは社会を歪め、我々の心を歪める最大の原因であるといっても過言ではあるまい。 自己評価を満足させる価値観に安住することで我々は個人的には安定するが、周囲の人間に同じ価値観を当て嵌めようとするので大いに問題が起こる。自分の価値観に当て嵌まらない人物を蔑視し、いじめ、セクハラなどを引き起こすのである。 このような事態を受けたとき我々が取らなければならないと考える行動は"改革"である。しかしそうした大小の文化的環境を改革するのは大変骨の折れることであり、うまくいくとも限らない。それは"改革されるべきもの"のそれぞれに強固な維持の原理が働いているからである。 しかし自分自身が貯えている価値観を見直すことはできそうなことであり、しかも最も効果の上がりそうな"改革"である。 カウンセラー自身が自分が提供した価値観に嵌っていたのでは、それは単にクライエントを洗脳したことになるに過ぎない。それは絶対に慎まれるべきことで、宗教とカウンセリングの違いもここに集約される。ある教義の中に身を置き、その他の価値観や考え方に否定的になってしまうのは明らかに弊害である。 我々は生きて適応するために価値観を貯えざるを得ない。 "本当の自己"とは個人の実在感の源泉であり、赤ちゃんは身振りによってそれを母親に訴えかける。それに対して"ほどよい母親"は赤ちゃんの表現を理解し、そうしたコミュニケーションが発展することで赤ちゃんの自我は安定したものになる。ところが母親が赤ちゃんの身振りに応じず、彼女自身の要求を押し付けるなら、赤ちゃんはその要求をあたかも自分の欲求であるかのように演じなければならなくなる。それが"偽りの自己"の出発点である。 発達初期に"本当の自己"が支持されなければ、個人はその後の人生を周囲から押し付けられた価値観による"偽りの自己"として生きざるを得なくなる 「代用犠牲」