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デリダの差延
詳しい方いらっしゃいますか? いまいち理解がおぼつきません。
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- BENIRABOH
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どうも向こう側をこちら側に結びつけるものはすべて恣意的なのだと、デリダは言いたいようです。話し言葉がわかり合えるのも差延、書き言葉が読めるのも差延、こちら側にあるものは全部差延の運動(間化)なのだから、無根拠なのだ。記号の無根拠化だ。差延は、シニフィエとかシニフィアンに先立つ、概念や活動にも先立つ。だから、こちら側と向こう側との関係も差延にすぎず、向こう側の支配を受けるいわれはない。向こう側との蝶番をはずし、向こう側の支配を当たり前のものと思っているロゴス中心主義者の関節を脱臼させろ!と、いうことらしいです。要するに、関係性で従属性を乗り越えてしまうのですね。こういう強引な乗り越えを脱構築と呼んでいると思われます。向こう側(神・イデア・ロゴス)なんか関係ない、こっちの我々の世界を変えちゃえ! というのが目的で、そのために差延とかエクリチュールの優越とか、いろいろ難しそうな道具をもちだしているといったら、うがちすぎでしょうか。分かるのはここまでです。また考えてみます。
- BENIRABOH
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こういうことではないでしょうか。 あなたは今、今のフィルムのコマをみている。過去のコマと未来のコマのあいだに間隔がある。コマは断片だけれど、その間隔はうめられて続いているように見える。時間が空間化し、空間が時間かせぎするからである。これを差延と呼ぶ。差延は力動的にみずからを構成しつつ、みずからを分割する。 言語もそうである。話し言葉の音素のひとつひとつは断片だけれど、つづいて話せ、聞こえる。そのあいだの間隔が差延でうめられるからである。書き言葉もそうだ。文字のあいだ、単語のあいだの空間が時間かせぎされて、書けて、読める。とすれば、向こう側の固有なもの(イデア)に差延があるはずだ。 こんなふうにデリダは、映像や音を断片の連鎖と考えているのではないでしょうか。でもそうすると、向こう側に差延をおこす支配者を認めてしまうことにならないか。向こう側の蝶番をはずし、支配を脱臼させたいというのがデリダの望みでしたから。分かるのはここまでです。
- comodesu
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私も詳しくはないのですが、他の方の回答が少ないので。 デリダは、フッサールが超越論的現象学において、ヨーロッパ的理性の自己実現を通じて人間理性に対する信頼回復を目指す、と言うとき、それを評価しつつもそこにロゴス中心主義の誤りを見いだしました。 つまり、そこでは言語が話者と他者の関係から切り離され、言葉の意味は静態的な差異に固定されます。しかし言葉の意味の形成は、差異性と時間性の運動によるのであり、その運動を差延と表現したわけです。 ひとはシニフィエからシニフィアンへ、パロールからラングへの、自己への非ー現前に直面して、意味やパロールを追加するのだ、ということだと思います。 ここにおいて、ひと=存在者が強調されます。その存在者自身も差延の現前性の場面にあるので、他者とともに一定の措定をすることができません。差延が変化というものをとらえる方法でありながら、弁証法と異なるのは、弁証法ではまず存在と自己を画然と措定する必要があるからだ、と言う論もあるようです。 以上、通俗的理解(誤解?)でした。
- kuzuai
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全然詳しくないんですが、こう考えてみるとわかりやすいかも知れないという一例でよければ。 記号論では世界は差異の網の目によって認識されます。 主観、客観といった二元論に先立つ差延こそが一義的とされます。 そこで、差異というのを空間的、差延を時間的と考えた場合、差異は過去、差延は現在と考えれば良いのではないでしょうか?なぞなぞではないですが、現在、つまり『今・ここ』とは常にそこにあって、しかもつかまえようとするとすぐに過去へと変わってしまうという不思議な存在です。 つまり、今は常に今であるともいえるし、今と言った瞬間いまでなくなってしまうものでもある。 そういう認識行為の不自由さを言ったものと考えればわかりやすいのではないでしょうか? 『悟り』というのはすべての「動き」を諦観し常に「いまここ」にとどまりつづけるものであると言われます。 そういう「いまここ」という場所から眺めるとなんとなく「差延」の意味するところのものもおぼろげに実感されるのではないでしょうか?