どうも向こう側をこちら側に結びつけるものはすべて恣意的なのだと、デリダは言いたいようです。話し言葉がわかり合えるのも差延、書き言葉が読めるのも差延、こちら側にあるものは全部差延の運動(間化)なのだから、無根拠なのだ。記号の無根拠化だ。差延は、シニフィエとかシニフィアンに先立つ、概念や活動にも先立つ。だから、こちら側と向こう側との関係も差延にすぎず、向こう側の支配を受けるいわれはない。向こう側との蝶番をはずし、向こう側の支配を当たり前のものと思っているロゴス中心主義者の関節を脱臼させろ!と、いうことらしいです。要するに、関係性で従属性を乗り越えてしまうのですね。こういう強引な乗り越えを脱構築と呼んでいると思われます。向こう側(神・イデア・ロゴス)なんか関係ない、こっちの我々の世界を変えちゃえ! というのが目的で、そのために差延とかエクリチュールの優越とか、いろいろ難しそうな道具をもちだしているといったら、うがちすぎでしょうか。分かるのはここまでです。また考えてみます。