遊びにおける心の活かしかた、が大切なのではないかと思います。
ですから、心を活かした遊び、というか、心を活かしたやりかたでの遊び、といったところでしょうか。
遊びの種類によって、心が活きたり活きなかったりするのではないでしょう。
球を台の上で動かして除くソリテールのような、孤独なゲームも古典的な遊びですが、
どんな心が活きているのでしょうね。
時間が過ぎるのを愉しむ心、目先の小さな世界に没頭する心、球の音を聞く心、まわりの静寂を聞く心、
そんなものが胸のうちに灯っているのかもしれません。
しかし何の遊びをしていても、遊びの世界のルールに心が乗っからない、
遊びをもてあそぶ、あるいはもてあますような、白けた心というものも、ときにはありますね。
遊びは、行為それ自体、進行それ自体、動きや変化それ自体を、わたしたちの身体に投げかけます。
そして遊びには、達成や成就や終わりがあります。
目的とか、報酬とか、打算とかいったものは、遊びの要素ではありません。
わたしたちが遊びを離れて真面目なときに、行為を状況にあわせて適切におこなう、そして
どの時点やどの状態で物事が終わり、どのような到達点があるのかを探しながら過程や手順手間を楽しむ、
そういったことが自然に出来る心は、遊びにしつけられた心と繋がっています。
たぶんご質問のことばは、五感を使うように遊びましょうという意味の耳当たりのよい言い回しと思いますが、
遊びのなかにも遊びの外にも、その場を生きることで心は活きる。
けれども、その場に死んでいる心というものが、
世の中には、遊びのなかにも遊びの外にも、あるのですね。
お礼
なるほど、この言葉の意味は、五感を使って遊びましょうという意味だったのですか。ソリテールという言葉は私は初めて聞きましたが、中々いい遊びかもしれませんね^^やはり大切なことは遊びを楽しむ、ということでしょうか。ご回答ありがとうございます