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なぜ、戦国大名の間で茶の湯がもてはやされた?
なぜ、戦国大名の間で茶の湯がもてはやされた? 戦国大名というと、茶の湯や茶道具好きのイメージがありますが、 戦国大名の間で茶の湯がもてはやされた理由というのはあるのでしょうか。 また、戦国大名にとって、茶の湯、茶道具とはどういった存在だったのでしょうか。
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人間は価値観によって上下関係を持とうとする動物である。 新しい価値観を創るのは難しい。 価値観を伝達共有するには目に見える具体的な「ブツ」があると分かりやすい。 前代の価値観を手直しするのが一番簡単です。 室町期の価値観でいうと「椀飯」というものがありました。現在の大盤振る舞いの語源になっておりますが、室町将軍家が部下の家にお呼ばれして、食事をすると言うもの。これによって、将軍家と有力大名とは位置関係を確認しておりました。また、支配層の共通文化として連歌もありました。連歌で平安時代からの文化を背景にして詠い込むことが支配層同志の相互確認となります。 ところが、椀飯にしても連歌にしてもハードウェアとソフトウェアと分けて考えるとソフトウェアの部分が大きい。そしてソフトウェアを取得するには修練の期間が必要です。勉強時間が必要なのです。 それに対して、茶の湯はハードウェアの部分が他のものより大きい。「あの人、あんなの持っている」と見せやすいし、修練も必要ですが、名物を買ったり、奪ったりするのは、一層簡単です。 ということで、茶の湯はいろいろな室町文化の中でもっとも「成り上がり」がしやすい、ハードウェアな文化であった。これがもてはやされた理由。 そして、支配層が相互に認識しあうためのシンボルが茶の湯、茶道具だった。
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- fumkum
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>なぜ、戦国大名の間で茶の湯がもてはやされた? 信長の茶の湯は「茶湯政道」と言われることもあるほど、茶事と言うより政治の場と捉えた方が良いのではないでしょうか。秀吉についても同じ様なことがいわれています。茶器を褒賞として与えるのも一種の政治的行為と思われます。 さて、茶の湯の歴史の中で、南北朝から室町初期には闘茶が武士の間でブ-ムになります。茶の銘柄を当てる賭け事です。戦争の合間の息抜き、遊び事の要素が強いものでした。バサラ大名の佐々木道(導)誉などが有名ですが、これが廃れて侘び茶の系統になっていくわけですが、千利休についても、豊臣政権の内幕について「表のことは豊臣秀長に、内々のことは千利休に頼め」と書いた書簡が残っているそうですが、利休も政治家やフィクサ-の要素を持っていたようです。 これは、茶室が刀を置いて入り、客と主人の関係しかない密室と言う要素からもきているように思います。しかし、そのような中からも古田織部、金森宗和、上田宗箇、片桐石州、細川三斎などの茶人大名が出てくるわけですが、それらの茶人大名が活躍するのは秀吉の統一以降ですから、多くの戦国大名(どの辺りまで指すのか難しい問題ですが)にとって茶の湯とは娯楽であったり、政治の場であったりしたのではないでしょうか。 以上、参考まで。
- Pinhole-09
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No.1,4,5の答え通りですが若干補足します。(蛇足かな) 辺地の鎌倉から京都へ幕府が移った室町時代は、貨幣の流通が進み経済の発展とともに、それまでの集大成として室町文化が花咲きました。 現代の日本文化もその線上にあります。 それまで宮廷文化であった茶会も富裕商人、文人の間で盛んになり、中国伝来や国産の名品の茶器など非常に高価で、取引されるようになりました。 応仁の乱で地方に避難したこれ等の人たちで、地方大名にも茶道が伝わり、名品の茶器を持つことなどが権威の印となりました。 京の公卿を招き交際を深めることは、中方の情報を得る手段にもなりました。 京に上った織田信長は茶会に招かれ知識を得、これを部下の掌握に活用することを思いつきました。 貴重で高価な茶器を召し上げたり、買いあさったりして多く集めました。 一方主な家臣を招いて茶会を開き、茶道を学ばせました。 信長の茶会に出られるのは非常な名誉でした。 部下達に許しなく茶道を学ぶことを禁じたとも言われています。 集めた茶器は褒美に使いました。 戦場の手柄にも土地、金の代わりに与え部下達もそれを喜びました。 吉村貞司氏によると、滝川一益は武田氏滅亡戦の手柄に「珠光の小茄子の茶入」を所望したが聞き入れられず、代わりに関東管領の職を与えられたが不服と茶友に話したといいます。 一城に代わる茶器です。 かく信長は軍事の天才ですが、茶道の心を知らずと不評です。 しかし動機は不純でもおかげで茶道が隆盛になりました。 秀吉も同様で茶道は道具にしか過ぎませんが、保護しました。 徳川になり将軍茶道は続きましたが、形骸化しました。 余談ですが将軍が大名に、茶器の名品を賜ることがありますが、これは隠居しろとの含みだそうです。 (充分務めたのだからここらで家督をゆずり茶道を楽しんだら 煙ったい大名に対して)
>また、戦国大名にとって、茶の湯、茶道具とはどういった存在だったのでしょうか。 茶の湯というと、私は豊臣秀吉x千利休(宗易)の黄金の茶室をあつらえた「北野大茶湯」、国宝の「待庵」や古田織部のことを真っ先に思い浮かべます。 広大な場所の下で催された「北野大茶湯」は秀吉自らの権力を誇示し、かつ、時の高僧や有力町衆などを懐柔して引き寄せるための一大パフォーマンスだったことでしょう。 逆に、僅か二畳の密室にすぎない「待庵」は秀吉が山崎城内に命じて作らせたと伝えられる質素な空間であり、恐らくは茶の湯を介して大名、側近達との腹を割った政治的な密談場所として最適な場所だったと想像出来ます。 そしてこの二つの空間の対比性・対極性は現代日本の政治の形態にも相通じるような気がしてとても興味を惹かれるものと思われます。 また茶道具に関してですが、これも戦国大名達の新しい物好きの側面が如実に表れ、従来中国から輸入され珍重されていた「唐物」から日本独自の「和物」に「あらたな価値」を見出していくようになります。 ろくろを用いずに手づくねで形作る少量生産の楽茶碗は利休の「わび」の表れですし、織部の「ヒヅミタル」を具現化した織部焼は歪んだ形状が最大の持ち味で大変に趣があります。 当時としてはこれらは既存の価値観を打ち破る大変に斬新な発想であり、これらを面白いものと許容した成り上がり者の戦国大名達の底知れぬパワーを感じずにはいられません。 既存の伝統と気取った雅な京都の文化を自ら真似し追随するなど、叩き上げ気質と進取の精神に富んだ秀吉をはじめ戦国大名達にとっては、およそ飽き足らなかったのではないでしょうか。 また、戦国時代が収束を迎えるにつれて、あらたに権力を掌握した彼等が「名実ともにオピニオン・リーダー」と居続けるためにも、これ以上うってつけの「新たな文化の創造」と「操作しやすい政治的手法」は他にはあり得なかったと思います。
- Bakajun
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戦国の武将は気が荒く,無骨者が多かったので,これでは血気にはやるばかりで早死にする。 茶室に入れば皆同じ茶人として身分上下は関係なく,はやる気持ちを鎮めて,ゆっくりとした時間を過ごさ,正しい判断力を養い,大将と家来の心の コミュニケーションを取るために始まった事だと思います。 戦国大名同士の結束を固めるのにも効果があったのではないでしょうか。
- cyototu
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戦前の昭和初期にその当時すでにお年寄りだった方から採録された佐渡が島の昔話によると、花咲か爺さんや瘤取り爺さんの話しなど多くの話しでは、良い行いをした爺さんと婆さんが宝物を手に入れると「茶を振る舞った」と語られています。そして、意地悪婆さんが何故茶を振る舞うのかと聞き出し、家の爺さんに同じことをさせようとしてして大失敗をすると言う話しです。このように、昔は茶を振る舞うことができるのは金持ちの証拠だったようで、庶民の夢だったようです。そんなこと今では想像できませんね。
茶道具はわかりませんが、茶の湯は、癒しの場である一面があったと聞いたことがあります。 明日にはどうなるかわからない戦いの仕事をしている環境では、 心を落ち着かせる時間も必須だったのではないか、という推測です。 権力を争う緊張状態の中で、権力や身分、立場に関係なくなる、 心を洗える静かな場は大切だったのでしょう。たとえ、権力欲があっても、そういう気持ちはあったのかなと思います。 またそうすることで、明日から頑張れる精神力を持ったり、 問題のひらめきを得ていたのかもしれません。 憶測ですみません。
大体以下の2つが大きな理由とされてます。 1.京都との付き合い。 いくら皇族・公家・(足利)将軍家の威光が薄らいでいた戦国時代とはいえ、まだまだ彼らの威光は強いです。 そんな人たちとつきあるには茶道が手っ取り早い手段だったのでもてはやされてました。 (この辺はバブル期のサラリーマンが接待用ゴルフを必須スキルとしていたのと大差ないです)。 2.部下への報酬 戦に勝った際、目立った家臣への褒美といえばそればでは領地と米ですした。 しかし戦国時代は年中戦ばかり、領地にしろ米にしろ分け与えるには限度があります。 そこで尾張の某天才領主が1.の状況を利用し領地などに変わるものとして茶器を分け与えた始めました。 となると、有名な茶器を持っている=優れた家臣みたいな風潮が生まれ、なおさら流行に拍車をかけました。