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心理医学の面で教えてください、子供の悪口について
私は中学のとき、周りの人の悪口に耐えられず不登校になりました。 「何で?皆人を傷つけるのがそんなに平気でできるの?」と思うと辛くて悪口を聞くのも嫌になり、学校に行けなくなりました。 この間NHKで引きこもりの子の特集があって、同じように「学校へ行くとクラスの女子が話していることは殆どが悪口陰口で、こんなに平気で人を傷つける人達の中で暮らすなんて耐えられない」と話していました。 そういった子供たちのインタビューの後、引きこもり、不登校症の研究をしている人が「引きこもりの人っていうのは心が病んでしまっているから・・・」など、悪口に耐えられない人達を不健全と話していました。 確かに私たちは自分でも健康的な心だとは思っていません。 ですが、人の悪口を平気で言い、罪悪感を感じないような子供というのが「健康な精神の子供」だというのはおかしいのではないかと思うんです。 精神医学に詳しい方、こういった子供達の成長は望ましいものなのでしょうか?教えてください。
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対処法ですが、無視しろと書いてある人もいるのですが、確かに対処するには有効ですが、これは逆にいうと他の誰かを犠牲にして自分を守れといっているようなもので、飛んできた矢を避けているに過ぎないわけです、そうすると飛んできた矢は他の人に当たるわけです、これがいわゆるスケープゴートというわけですが、無視していじめのターゲットが変わったというのなら、他者を犠牲にするという残酷な方法です、無論無視をしていじめをしなくなったというのなら話は別ですが、ターゲットが他に変わった場合それを横目で見ながら生きていかねばならないわけです、これは相当人間性として苦痛な筈です、もしそんなことができるとなるならば人間性が破壊されている可能性があります、つまり「自分さえよければいい」という考えになるわけです、近年の「自分さえよければいい」という自己中心的な人間が増えているのもいじめを回避する口実から性格が捻じ曲がった結果が一つの要因であると僕は思います、つまり人を無視するということはある種の賭けであって、解決する可能性と未解決になる可能性の両面をもっています、これがもし未解決になった場合にはやはり一時不登校になり先生や教育委員会もしくはカウンセラーにその現状を報告すべきでしょう、それでもその学校でいじめが発生しているのならその学校を辞めるのが一番よい解決方法だと思います
一般人ですが、長女が登校拒否になりかけた経験を持つ二児の親の端くれとして回答に参加させて下さい。 「引きこもり」というのは、自分自身だけではなくて、世の中全ての可能性を否定することじゃないかと思います。 現状では自分自身やものの見方を変える事が出来なくて、自他共に失望している状態の表れじゃないでしょうか。 その番組は見ていませんが、質問文を読んだ印象から意見を言わせて頂きますと、研究者が、 “「引きこもりの人っていうのは心が病んでしまっているから・・・」など、悪口に耐えられない人達を不健全と話していました。” と言うのは、引きこもりの人が自分を否定する感情に囚われていることに対してじゃないでしょうか。ここで言う「心が病んでいる、不健全だ」と言う発言は確かに乱暴であるけれど、皆が皆、自分を否定する存在であるとか、救いようのない状況だと自分を追い詰めていることを指しているのだと思います。 誰か一人でも自分を認めてくれる人、悩みを聞いて受け止めてくれる人を見い出せたり、どんなに周りから否定されようと、自分の存在価値を認めることが出来れば陥らずに済む精神状態に持って行けないことを、「心が病んでいる、不健全だ」と言っているのでしょう。 人に傷つけられ続けた心は、どうしても明るい未来も、希望も持てなくなりがちで、他人を信用できなくなります。 でも、自分が人を信じられないのだから、自分も人から信じられることもなく、己を閉ざすことによって、他人も自分に歩み寄ることが無くなっても何も文句は言えません。自分が人を避けたら、結果的には自分も人を見下していることになるでしょう。その人の可能性を否定していることになるのだから、相手を悪く思っていることには変わりなく、言葉を発しなくてもを非難していることに何ら変わりはないのです。 悪口に勝つには、自分を肯定すること。自分の価値観を見いだすことに尽きると思います。他者に自分の可能性を示すことだと思います。 例え悪口ばかり言う人達に囲まれていても、自分を含めた悪口を向けられる対象となった人達の存在価値、良い面を見い出すことが出来、そのことに確信が持てれば受け流すことは可能だと思います。悪口が真実そのものの姿ではないと分かっていれば、惑わされることも屈することもないのだと思います。 悪口に勝つのは引きこもることではなくて、その歪みに負けない態度を示すことだと私は思います。 引いたままでは何も変わらないことを、その研究者は、「心が病んでいる、不健全だ」と言う言葉で表したのでしょう。 でも、不健全な心に追いやった存在そのもの、“人の悪口を平気で言い、罪悪感を感じないような子供というのが「健康な精神の子供」だ”というのは確かにおかしいですね。研究者がその様な発言をするとは、にわかには信じられません。 それでは、「健全な精神の子供」というよりも「ただの幼児」です。人の痛みや立場が分からないのですから、「ピノキオ」と同じです。人として心が成長しているとは言えませんね。 健全な精神というのは、素晴らしいものや存在価値を見いだせる心、お互いを認め合う心だと私は思います。負の面ばかりを見つめてあげつらうことが、“差別”以外の何を産むというのでしょうか。 世界も人の心も対で出来ていて、失敗や欠点からその克服法を学んだり、成功を手に入れるのだと思います。 物事の善し悪しが分かるのも対になる存在があるからだし、片方を切り捨てればそれで良いなんて言う単純な物ではないと思います。 人間は完璧ではないから、折り合いの付け方や、全てが上手く治まる形を学ばなければ行けないのだと思います。 私は悪口ばかり言う子供の家庭は荒れているのではないかと思います。 人を否定することで自分の精神状態を保ているのですから、いつも自分の中には不満で溢れていることでしょう。親に認めて貰えていないという不満が大きいのではないかと思います。自分と言う存在を“掛け替えのないもの”だと認めていれば、人の些細な欠点など気にならないのではないかと思います。 親自体も普段から、不平不満の多い人なのではないかと思います。親のイライラが子供に伝染してしまっている状態が、他者への悪口となって現れるのではないかと考えています。 子供の精神状態を考えるとき、両親に遡って考えなくてはならないと思います。
お礼
古い質問なので回答はつかないと思い確認していない間に退会されてしまったのですね。残念です。 その番組の言葉の解釈についてですが、前者のほうは違う見方もあるのだな、と思いました。 悪口に負けない精神というのが一番健康的・理想的ですよね。 後者の発言についてはやはり謎・・・専門家の言葉として少しおかしいですよね。 大人になって子持ちであっても悪口やイライラの八つ当たりをする人っていますよね。その子たちの親の人間性というのもきちんと知っておかないといけませんね。
自尊感情をうまく発揮できないの子供や大人が人を口悪く罵りますよね ということはその子供はどこかで自尊感情が低迷しているわけです その低迷した自尊感情が「なぜか」人を貶したら回復出来たわけで、それでやめられなくなっているわけです この「なぜか」が味噌で自分の劣等感コンプレックスが自分で意識化出来ていないわけですなのでこの劣等感コンプレックスは劣等感コンプレックス独自に子供の心の中で蝕んでいくわけです、これがフラストレーションということになるわけです。 しかしこれはそんなに危険なものではないので放って置けばその内治るものです ですが自然にゆだねている間に不意に口悪く罵ったりそのようなシーンを見た瞬間にその劣等感コンプレックスの糸が解けてその後止められなくなってしまっているわけです、タバコやギャンブルに走ってやめられなくなっているのとある種似ています またこの現象は感染するんです、独り攻撃チックな人がいればあとはあれよあれよと感染していきます この劣等感コンプレックスを解消するとなぜか偉く(強く)なったような気になれるのも特徴で 多分精神医学の研究者がそう言ったのもそのような感情が表れているシーンを見たからではないかと思います。(研究者ですか・・・世も末ですね) 話を戻しますがこの強さの誇示というのは大人にもあって、政治家の不祥事や凶悪な事件のニュースなどに怒りをぶつけるなどといった行為は言うまでもなく典型的な強さの誇示でしょう 多分当人は自分の心の中に劣等感コンプレックスが感染しているとはその時は知る由もないでしょう この辺もある種いじめっ子の心理と似ているところがあり 1・フラストレーションの発散 2・劣等感コンプレックスの解消 3・強さの誇示 4・はけ口は自分以外の人 といったところでしょうか 普通はこの劣等感コンプレックスは 解きほぐし,消化,昇華,歪曲(心の座標を変化させる),等によって日々解消していくものですが 口悪く罵る人の場合これが人へ向かってしまうわけです、なぜ人に向かってしまうのかというと自分の精神をコネクションしてくれるからではないかと思うわけです、なので人が絡んでくる現象にぶつけるといったところだと思います。 こう考えれば大人の愚痴や子供の侮辱がなぜ人へ向かうのかが説明できますね、これを昔の言葉でいうと投影ということになります ではなにを投影しているのかということになりますが自分にも起こりえる負の感情や劣等性などではないかと思います。 これは完全に実証されたわけではないので憶測ですが自分のそういう負(不)的な部分を貶す側に投影して自分の劣等感コンプレックスが自動的に解消され自動的に快感が形成されるといったところじゃないかと思います 図にすると 初期 負の感情や劣等性→貶す人へ投影,同時に劣等感コンプレックスが自動的に解消→快感と自動的に連結 後期 意味もなく突然いじめたい衝動が発生→他者を劣化させて不快などの負の感情もしくは悔しさを沸き立たせる→快感 といったところだと思います。
- hakobulu
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特に詳しいということもない一素人ですが、精神分析学では人間の精神性を3つに分類する考え方があります。 基本的に、 本能(エス)は快・不快、 自我は損・得、 超自我は善・悪、 にそれぞれ関与する精神的作用です。 「健全」ということであれば、これら3者のバランスがとれていることと捉えてよいのではないかと思われます。 自分にとっても快く、(広義で)自分を利し、しかも他者に迷惑のなるべくかからないこと。 を実行できるのが理想形ということになるでしょうか。 自らの欲求の赴くままに生き、他者への悪い影響を全く考慮しない。 逆に、 自らを徹底的に犠牲にしてまで、他者のために尽くす。 などは、健全か否かという観点からは、どちらも不健全と考えるのが妥当ということです。 本能と共に、動物にはない超自我性を人間は併せ持っています。 他者を利するような「良いこと」をすると誰でも満足感が得られるのはそのためです。 ただ、その芽は抱えて生まれてきますが、超自我は後天的に獲得されていく性質のものです。 超自我は、(主に)両親など、幼少期における他者からの躾によって最初の芽生えを見ます。 過剰な躾はまた別の問題を引き起こしますが、いずれにしても、本能に対する抑制(抑圧)が超自我の本質と言えるでしょう。 本能的欲求を抑制することを知るということが、善を知ることにつながっていきます。 超自我にも発達段階があるでしょうから、その程度は人それぞれです。 冒頭のバランスという点で言うと、超自我の割合が低いということは、エス(本能)的欲求が比較的強いことになります。 感情のままに悪口を言うのはこのタイプと考えて良いでしょう。 では、「>悪口に耐えられない人達」はどうでしょうか。 悪口というのは一種の攻撃です。 攻撃に対応するには、大まかに分類すると2つの方法があるでしょう。 ひとつは「無視」です。 相手の精神性が自分より低いものであることは明らかですから、それと見切って、余裕で「(攻撃を)無いものとして受け流す」わけです。 (「君子危うきに近寄らず」というような格言もありますが、ここでは回避というよりは無視と捉えます。) 2つ目は「反撃」です。 悪口の内容にもよりますが、どのような場合であっても、「自分の身を守るために」立ち向かう必要が生じることはあるものです。 これら「無視」「反撃」は、どちらも自我の作用です。 自我というのは、エスからの本能的欲求や超自我からの(エスに対する)抑制要求のバランスを取り、最も自分にとって適切と思える選択を行なう作用です。 その結果を現実社会における自らの行動として実現するわけです。 この自我が弱いと、無視することも反撃することもできずに、現実を回避する手法を選択することになります。 自我を守るためにはそうするしかないからです。 自分以外の人に対する悪口を聞くのも辛いという方は、悪口を言われる人の気持ちに同化してしまう、ということでしょう。 他者の心情を想像できるのは超自我性の高い現われであって、人間として貴重な、また大事な精神作用です。 ただ、それによって現実的な社会生活自体に影響が出るようだと、悪口に耐えられない人同様に、自我が弱い、ということになります。 たとえばおっしゃるような不登校というのは、道の端につながれて吠えている犬を無視して通り過ぎるでもなく、威嚇して黙らせるでもなく、回り道をすることを自我が選択した結果と表現することもできるでしょう。 それはそれでひとつの方法ですし、回り道をしてみなければ出会えない人や発見できないものもありますから、意味のないことではありません。 むしろ、回り道をしなかった人たちよりも貴重な経験をしたということもできるでしょう。 ただ、回り道をしたとしても、元の道に戻ってこそ言えることですから、回り道をした時点での自我はやはり弱いものだったと言わざるを得ません。 そのテレビは見てないので断定はできませんが、このことを指して不健全と表現したのかもしれません。 いずれにしても、あまり適切な表現とは言えないようですね。 >人の悪口を平気で言い、罪悪感を感じないような子供というのが「健康な精神の子供」だというのはおかしいのではないかと思うんです。 :全くそのとおりです。 ここも「健康な精神の」を「自我の強い」と置き換えるべきでしょう。 繰り返しになりますが、健康とは、エス。自我・超自我のバランスが程よく取れていることです。 他を押しのけてまで自分や自社や自国の利益だけを追い求める現代社会の風潮は、自我の強い、しかし超自我性の薄い社会と言えます。 その番組の出演者にも、表現上において、そういった影響が及んでいたのかもしれません。 健全な人はエス・自我・超自我の3つの円が均等に連携しつつ、ほぼ同じ大きさでバランスを保っているものですが、 たとえば、犯罪者の精神構造は、小さな超自我が大きな自我に呑み込まれかかっていると表現することができます。
- harrywithers
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1) > 心が病んでしまっているから・・・」など、悪口に耐えられない人達を不健全と話していました。 2) > 人の悪口を平気で言い、罪悪感を感じないような子供というのが「健康な精神の子供」・・・ スイマセン、TVを見ていないので・・・ 1)の所ですが、『心が病んでいる』ことと『不健全』というのは違うと思うのですが、 TVの中で『悪口に耐えられない人達=不健全』との発言があったのでしょうか? 2)も同じように、『いじめる側=健康な精神の子供』との発言があったのでしょうか? ---------------------------------------------------------- ここから回答です。(上の質問には答えてくれなくても構いませんが、思い出して見て下さい。) 勿論、「人の悪口を言い、罪悪感を感じない(ように見える)ような子供」が健全な訳はありません。 しかし、心理面から見ると、彼らもまた傷を抱えて苦しみのた打ち回っている人間です。 彼らは自分自身で自分の傷を抱え切れないので他人を傷つけることによって、 自分の傷を一瞬でも忘れたいと思っている大変に弱くちっぽけな人間です。 でも、彼らに罪悪感がない訳でもありません、罪悪感よりも己の傷の方が痛みが大きく 罪悪感には、気づかない振りをしているだけです。 そして、『悪口に耐えられない人達=不健全』ではありません!絶対に!!! 悪口に耐えられなくなったのは、何度も何度も執拗に傷つけられた為です。 不健全ではなく、傷つけられた為、不適応になってしまっただけです。 人は、何度も傷つけられると、傷つけられまいとして、先に防衛しようと考えます。 この場合、誰かが話して入の見るだけで、無意識の内に、 『どうせまた私の悪口だろう』と想像し、想像することで 最悪の事態を回避しようとするのですが、私達の脳中のプログラムは、 繰り返すことで回路が強化された結果、想像と現実が区別でき難くなります。 これは、少し思考回路が不具合を起しているだけです。 身体も心も自分だけで回復出来ないような大きな傷を負うと、 専門家(医者やセラピスト)の助けが必要になります、当然の話です。 不健全なのではなくて、傷の手当てが必要なのです。 学校の中で、言葉や行動のナイフを振り回す人間と、 ナイフによって傷つけられた人間、どちらも、助けが必要だと思われますが、 傷つけられた人達を手当てし、ナイフを振り回す人間を取り押さえて、 ナイフを振り回さない自我の在り方を教える教育が必要なのではないかと思います。 イジメ体質の人間は、そのまま大きく成ると、パワハラ・セクハラ人間に成り、 歯車が狂うと犯罪者と云うケースも考えられますから、 人を傷つけない人格は実は強い人の要素です。 もう一歩乗り越えて現実を受け入れると、世界が微笑み返してくれます、必ず!
お礼
丁寧な回答、ありがとうございます。 テレビの内容についてです。長く話していたため直接「病んでいる=不健全」とは言ってはいませんが、その人は確かに「悪口に耐えられない子は不健全」、「悪口を平気で言える丈夫な精神の子は健全」と言っていました。その本人は引きこもり経験者です。 確かにそうですよね・・・人を傷つけなくては気がすまない人の精神が健康であるとは考えられません。私も一応精神医学など学んだ人間であるはずなのですが。 No.1の方は社会生活の中で人を傷つけることが悪いと知り優しさが身につくと仰っていますが、見て見ぬふりをしていては悪化する一方なのでは?と私は思います。 いじめられている人だけでなく、いじめている人のケアをしない今の教育、危ないですね。
- dogday
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悪口というのは子供からお年寄りまで誰でも口にします。 悪口を言われて不登校になった人は、その悪口を言った人の悪口をいいます。誰も言われて嫌なことを言わないではいられないのです。 そうなると言われても大丈夫な人が健全で、駄目になった人は不健全としかいいようがないのです。言い方は正しいとは思いませんが、正反対に位置することは間違いないのです。 悪口もコミュニケーションですから、悪口を直接言われる事が嫌で、他人に嫌な事をいわれないように行動する事を学び、嫌なことは他人に行わない集団コミュニケーションが完成していくのですが、 ひきこもりや不登校になってしまうと、そのコミュニケーションを拒絶して成長できなくなってしまい、人にやられるのは耐えられないが、人のことは構わない自己中心的な考え方ができてしまうのです。これは不健全ですよね? 先に書いたように、大丈夫な人が健全なだけであり、人の悪口を平気で言うのは知識のない子供には普通のことで、悪口を言ってしまったことで悪口を他人に言われ、罪悪感を感じることで他人の悪口を言わなくなるようにしないと集団生活は行えません。それが成長するということ。 ひきこもってしまったりするとかえって言葉に罪悪感のない子供が生まれやすいのです。 最近は自分の意見は発言するべきだという風潮が強く、自分の意見を通そうとする人が増えました。 自分の意見は正しいのだから、他人の意見は間違っていると考える人が増えていて、こちらの方が罪悪感をまったく感じないため、他人を言葉で傷つける事が多く、これに傷つく人が増え、この反発に対して暴力をふるうという事件が増えています。 大事なのは、嫌なことを言われる事に耐えるのではなく、なぜいわれるのか、どうしたら言われないのか、自分は言っていないか、他人はどう思っているのか、客観的に自分と他人の気持ちを考えられるようになることです。 自分の意見をする人も、自分の意見が間違っている可能性もあることを常に考えなくてはいけません。 現代人は客観性が足りません。情報が多すぎて全部の知識を取得できないからなのですが。
お礼
早速の回答ありがとうございます。経験者ということは、同じ不登校や引きこもりを経験された方なのですよね。 確かに、私も引きこもりの人などを見ていて、人がいない環境のため自分のことしか考えない人を沢山見ました。でも、相手がいないのをいいことに悪口を言うようになるという点では私はやっていません。 それから、お年寄りまで誰でも悪口は言うものと書かれていますが、私の友人や祖母は絶対に人の悪口を言わない人です。 そういう人に囲まれて育ったせいもあるのでしょうか?悪口がコミュニケーションだというのはとても皮肉な感じがしますね・・・。 ありがとうございました。
お礼
退会する前にお返事ができず申し訳ありません。 他者を犠牲にする、これは確実ではないと思います。 確かにイジメをする子は、イジメのターゲットが消えればまた新しい標的を探すかもしれませんが、自分ひとりが耐えていれば他の人が救われるかといったら学生時代を思い返してそうではなかった気がします。 ひたすらイジメのターゲットが増えていった、というだけだったり、加害者側でも被害者側でもなかった人達をどんどん巻き添えにしていたと思うんです。 カウンセラーに相談することは確かに大事ですけど、とにかく自分ひとりでも解決をする必要はあるのではないかと感じました。