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江戸時代の渡航
ニュースで幕末に文久遣欧使節がオランダで撮影したといわれる写真が見つかったとありました。 この頃は海外へ渡航する武士も多かったようですが、今ならあらかじめ電話等で連絡をしてかた行けますが、当時はそういうものもなかったので、いきなり船で海外へ行き、交渉してたのでしょうか? おそらく和装で海外に行ったらかなり目立つと思うのですが、最初は海外の要人たちもびっくりしたのではないでしょうか? 日本というよくわからない国から来た人たちを簡単に入国させてくれたのはなぜでしょうか?
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当時の渡航、特にヨーロッパから見るとアジアの先っちょなんてとんでもなく遠い国からやってくる人たちなんてほとんど「宇宙人がやってくる」くらいの感覚です。 現代でも外国の大統領や国王がやってくるときは事前にいつ行くかとか連絡して受け入れ先もスケジュール組んで待っているわけです。 当時は今とは違ってのんびりしていますから、本人たちがやってくるより先に手紙や使者がやってきて「たぶん2ヵ月後くらいに日本人がやってくるんでよろしく」てな感じで連絡しているわけです。 ちなみにあのペリーの黒船もオランダなどから「アメリカから軍艦が来るぞ」と事前に知らせはきていて、江戸幕府もそれを知っていました。簡単に言うと、知っててしらんぷりしたんですが、その理由は「本当に来るとは思わなかった」というものです。っつーのは、本当に来られると対処が出来ない(来ないことが前提で江戸幕府の平和が成り立っているから)ので、本当に来ると困るから来ないって信じたってものです。
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- goo-par1732
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文久遣欧使節団が出発した当時(1961年12月)、日本は欧米7ヵ国と外交関係にあって、たしか横浜に各国の外交公館がありました。 だから日本国内で綿密なスケジュールを立て、相手国の承諾を得て、しかもイギリスの軍艦で出発しています。 「文久遣欧使節団」で検索すれば、訪問国の歓迎ぶりや多くの写真を見ることができます。 http://www.kashiwashobo.co.jp/pages2/rensai/r06-05.html 1862年、生麦事件が起こり、その処理についてイギリス本国から日本駐在公使への訓令は、当時、すでにイギリスとインド間に開通していた電信が使用されていますから、多分、この使節団の動向も(電信が開通しておれば)逐一把握していたはずです。
お礼
そうですか、。すでに幕末には外交は進んでいたのですね。
- PENPENMAKKY
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その通りです。ま、事前にお手紙を送るなどしてはいますが… ペリーだって突然来たでしょ。 無論、事前に情報ははいりますが
お礼
ありがとうございます。やはり突然行ったんですね。
お礼
ありがとうございます。手紙が来てたんですか。。知りませんでした