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万葉集と農民(庶民)の生活を詠った和歌
社内報を担当している友人と飲んだ時に和歌を勉強していると口を滑らしたら(飲んでいる時なので少し自慢げに…(^_^;A)今度の社内報で農民の生活と和歌といったテーマで書いてくれと依頼を受けてしまいました。 貴族文化が成熟してくると、農民とかの生活は、雅でないものですから、歌になっていないので、万葉集辺りで書こうかと思い立ちましたが、数少ない知っている万葉歌の中で貧窮問答しか思いつきません。 愚かにも飲んでいる勢いで安請け合いをしてしまった小生に、良い歌をお教え下さい。m(_ _)m それ以外の和歌でもお教えいただければ幸いです。独学している新古今には1~2首しか無いので。
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>飲んでいる勢いで安請け合いをしてしまった 濁世の憂いを払うありがたい玉箒も、度が進むと陶酔の勢いから、まるで「鍋の鋳掛けが釣鐘を請け合ったよう」な成り行きに、「酔いて狂言醒めて後悔」とは誰しもよくある、また幾度も繰り返すこと日常でありますが、それにしても大変なテーマではありますね。 「日本書紀では「百姓」「民」「庶民」「兆民」「黎民」「黎元」「居人」などをオホミタカラ・オオムタカラと訓んでいる」(小学館「古語大辞典」)ということで、「万葉集 おほみたから」で検索したら、万葉集4516首から田や畑を抽出した一覧がありました。ご参考まで。 「水土の知 万葉集の田畠に見る」http://www.geocities.jp/no_tohoku/mizututi/manyou.html ところで歌人たちにしても、ただ花鳥風月に縁った風流韻事を専らにするだけではなく、むしろオホミタカラの現実生活の諸相に寄せる形で己の喜怒哀楽の表現を活性化させていたのではないでしょうか。 「衣手に 水渋(みしぶ)付くまで 植ゑし田を 引板(ひきた)我が延(は)え 守れる苦し(巻8-1634)」 袖が水渋で色が変わってしまうほど懸命に植えた田─それほどまでに手塩にかけた娘─を荒らしにくる外敵を追い払うため鳴子を張り巡らして番をするなど、「守れる苦し」。 「娘子(をとめ)らが 続麻(うみを)のたたり 打ち麻(そ)掛け うむ時なしに 恋ひ渡るかも(巻12-2990)」 麻撒き・麻刈り干しと手間をかけた麻糸を績=続(うむ)作業が、これもまた倦む時なく続く、それほどまでに「恋ひ渡るかも」。 「然(しか)とあらぬ 五百代(いおしろ)小田を 刈り乱り 田蘆(たぶせ)に居(を)れば 都し思ほゆ(巻8-1592)」 大伴旅人の異母妹にあたるお姫様が農繁期に自家の荘園に手伝いにいって詠んだ歌には、鳥獣から田守する番小屋での寝泊まりなどといった庶民の暮らしにほとほと懲りてしまい、とにかく「都し思ほゆ」と。よくもまあ、こんなちっぽけな田圃のくせにとこぼす歌の中にも、大化以前の耕地面積の単位取りや、穂首刈りではなく根刈りして稲束を地面に扇状に広げて干した、そんな刈り取り風景が仄見えてきます。同じ大和の地の農夫が「稲機」を発明し、それ時の政府が奨励するには9世紀半ばまで待たなければならなかったとか。
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- Mumin-mama
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私、今朝目が覚めてからずっと頭に、 『銀も 金も玉も 何せむに 勝れる寶 子に及かめやも』 「しろかねも くがねもたまも なにせむに まされるたから こにしかめやも」 (金銀も玉も何で子供というすぐれた寶におよぼうか。) がずっと浮かんでいて、OKWaveを見たらこちらの質問がありましたので、おじゃまします。 これは山上憶良の歌ったものです。 山上憶良は遣唐使として唐に渡った経験や聖武天皇の教育係の一人になったこともある高級官僚でしたが、いつも庶民の立場に立って歌を作っていました。 帰国後10年、五十五歳で従五位という貴族で中くらいの地位になり、やがて伯耆(ほうき)の国守、筑前(ちくぜん)の国守(栄転)を勤めました。 『瓜食めば 子ども思ほゆ 粟食めば まして偲はゆ 何処より 来たりしものよ 眼交に もとな懸りて 安眠し寝さぬ』 「瓜を食べれば子供のことが思われる 粟を食べれば、いっそう子供がいとおしくなる、一体、子供は何処から来たものなのか。目の前に、しきりとちらついて、私に安眠もさせないことよ。」 これは、ただ単に自分の子供を思って歌ったのではなく、富める者も貧しき者も子を思う気持ちは等しいと人間平等の思いを歌った歌です。 『世間を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば』 「この世の中を、 つらいと思い、身も細るような 気持ちがすると思うけれど、どこかへ飛んでいってしまうこともできない、鳥ではないのだから」 (世の中の矛盾を強く感じても何もできず、自分を恥ずかしく思っても、鳥じゃないから(その苦痛から)飛んで逃げることもできない。) 山上憶良の代表作は、 そうhanatsukikaze様、ご存知の 『風まじり 雨降る夜の 雨まじり 雪降る夜は・・・』ではじまる、「貧窮問答歌」ですね。 今度、飲み会の時に早く家に帰りたいときは、 『憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ そを負ふ母も 吾を待つらむそ 』 「私などはもう途中で失礼しよう。今頃、子供がないているだろうし、そのこを負っている母(妻)も私を待っているだろう。」 「憶良らは 」をご自身の名前で歌ってみてはいかがですか。 独身であられたら、ごめんなさい。 ただ、この歌を歌った時、憶良には泣くような子はいなかったそうです。愛妻が待っているとを言いたかったのでしょう。
お礼
貧窮問答歌は、なぜ憶良程の役職でと疑問に思う事がありますが、遣唐使として派遣される前の若い頃は貧乏だったのでしょうね。筑前国守時代に旅人や家持と知り合って多くの歌が残されたと言われます。宴会の席を退出する際の罰として歌を歌えと衆人に言われたのでしょうね。なにしろ55歳以上ですから、子も妻も・・・とは思いますが、衆人が退席を許す様な憶良の性格の歌だったから万葉歌として撰歌されたと思いますね。有難うございます。
東歌、防人歌などで検索なさってはいかがでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。東歌は教科書に絶対載らない様な歌ばかり覚えており、防人歌は、遠く離れた辛さの歌との認識でした。早速調べてみます。
お礼
御高配痛み入ります。オホミタカラという概念が徐々に消えたのでしょうね。これを枕(序)に使えますね。農業に関係する諸相に寄せる恋歌でもう一段書けます。巻第十八 4122 大友家持に大変興味を持ちました。これで一段。御紹介の中にあった「食の万葉集」を図書館検索で見つけましたので読んでみようかと思っております。