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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:疎外―→物象化―→理象化(?)―→・・・?)

疎外と物象化と理象化――人間の存在と意志の喪失

このQ&Aのポイント
  • 疎外とは、エネルギー部門の外化・譲渡・手放しのことを指す。自分の手元から離れてしまっていて、自由になれない状態を意味する。
  • 物象化とは、資本や経営者、雇用者、消費者などが資本の自己運動のために存在と意志をささげることを指す。人間は資本の前にひれ伏す存在になってしまう。
  • 理象化は、疎外と物象化の世界に不満を持ち、精神や理性を取り戻し、自己の存在を女王とすることを意味する。コミュニケーションを重視せず、自分自身の感情や意識に重きを置く考え方としても知られている。

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noname#195588
noname#195588
回答No.6

体系としての真理だけが現実的であること、あるいは、実体が本質的に 主体であること、それをいいあらわすものとして、絶対者が聖霊(精神)だ、 といういいかたがある。聖霊(精神)こそ、近代および近代の宗教に特有の、 もっとも崇高な概念である。精神的なものだけが現実的なものなのだ。 15ページ まえがき ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ――このように、おのれを精神として知る精神の形が学問である。学問とは精神の現実のすがたであり、 精神が自分本来の場できずきあげた精神の王国である。 17ページ まえがき ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 弁証法が自然における否定の運動としてあらわれるとき、その運動は、意識にとって 自分が作りだしたのではなく、そこに自分が身をさらす運動としてまずあらわれる。 B.自己意識の自由――ストア主義、懐疑主義、不幸な意識 143ページ 精神現象学 ヘーゲル 長谷川宏 訳 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ とりあえず、聖霊とは何かですかねえ。 三位一体の話とか、聖霊の話とかカトリックとルター派で違うのでしょうか。 あと否定とか分裂 神学とか人間学とかどうも 父なる神とイエスの話をしているような気がしてくる。 では、聖霊はなんなのか。 聖霊は否定したり分裂したりするんですかねえ…。どうなんですかね。

bragelonne
質問者

お礼

 かざみどり365さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  わたしの理解するところをお伝えします。  まづやはり ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理を見てみてください。簡易版を示しますが 神学と人間学とがそれぞれ人間という存在のどこに位置するかです:  ○ (簡略版定理:ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ):神学    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):人間学    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  :人間学    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ですから 無神論では このように位置づけられる神学が ゼロだと見なされているわけです。  有神論としても じっさいの――その理論の有効性についての――勝負は およそ人間学のほうにあります。神学は 雲をつかむようなものなのですから。  あるいは 《心の明け》としるしましたが この《非思考の庭(つまり 信仰)》は 《心が いかなる宗教の奉じる神に対しても 閉じられていない》ということをもって 実質的な内容でありその現実性であると捉えています。  つまりこのことは 無神論にあっては 神学ないし宗教そのものがゼロと見なされているからには 同じく《心の明け》となっているはずです。ことさら言わないということでしょう。  ○ 真理  ☆ という言葉は ワタシが非思考の庭においてその名を受け容れている神のことです。無神論にあっては 《無い神》のことです。  言いかえると 有神論にとっては 分かり得ない非経験のナゾという意味での――神としての――真理と そして人間学の次元と分野での真実とに分かれます。そしてひとの心の真実や経験事象としての真実についても 言葉のナラワシとしては 《科学的真理》などと言ったりすることがあります。ややこしいです。  つまり 真理は 科学的真理のことしかないというのは 無神論のばあいです。もっともそのことは うつろいゆく内容としての・つまり相対的な真実としての内容である《真理》のことを言っているに過ぎないこととなります。  有神論の真理は 変わらざる真実のことです。絶対なのですから。  これらの用語や概念の交通整理は 必須です。  ○ 聖霊  ☆ は 神のことです。有神論における真理です。つまり 人間の精神ではありません。神学の次元での話です。  ただし  ▲ 精神的なものだけが現実的なものなのだ。  ☆ とヘーゲルが言ったときには この精神は世界精神でもあって 《聖霊(精神)》といった用い方をしているように 端的に《真理ないし神》のことです。     ○ 神としての変わらざる真実 つまり真理 これはつねに 人間学の土台である。  と言った意味だと思われます。   ○ 相対的な意義しか持たない経験存在である人間の思惟や行為は それが有効であると言うとすれば その人間の行為じたいには根拠はなく ただ真理にのみある。  こう言っていると思います。真理とて 雲をつかむような話なのですから では 人間のおこなうものごとのどこに信頼がおけるのか? と問うなら それは 真理において有効なのだと答えたなら その意味するところは けっきょく《人間は 無根拠によって生き動き存在する》と言ったことにひとしいわけです。  それゆえ 実存といった思想が生まれます。《本質》などというものが この現実存在に先行してはいないのだ。だから ひとは自由なのだと。  この本質は ヘーゲルの文章の中で《実体》とも言われています。  言いかえると 神学は人間学に言わば先行しているという命題が有神論では持たれているわけですが それは その神学内容を《本質》と見なしたり《実体》視したりするものではない。という注意が必要です。  これが しばしば出て来る《人間のつくった観念の神》なる問題です。《文字(想像物)はひとを殺し 霊(聖霊)はひとを生かす》。  この《観念の神》については 偶像(神の仮りの姿)であると知っていれば大丈夫ですが それ自体が神とされたら問題です。問題が 実際には多く大きく現われたようです。原理主義的な思考や振る舞いがそれです。  よって 神は死んだというふうに言って 《弁証法》が作動したとも考えられます。  ▲ 弁証法が 自然における否定の運動としてあらわれる  ☆ うんぬん。  もっとも 神学という土台にあっては すでに弁証法が弁証法されている わけです。つねに最終的な弁証法の作動が済んでいるわけです。  つまり 観念の神は 観念化したそのときすでに死んでいるという認識を――神学は――すでにそなえています。  《自然における〔否定〕》とは人間学のこの経験世界では 時間的な過程として《テーゼ→アンチテーゼ→ジンテーゼ》というふうに推移して行く。つまり 《ほんとうはすでに〈その場での観念の神の死〉なる認識》が 時間差をともなって得られて行くという寸法です。  ぎゃくに時間差をともなわないというのは 絶対としての真理の国での話です。人間は この真理の国にいるということは出来ませんが そういう想定をしてそういう世界が それも経験世界の現実の一環であるものとして 知覚されたり認識されたりするという経験を持ち得ます。  つまり 神学です。――フリッツくん(ニーチェ)とやらは いったいどんな神学をまなんだんだい? アウグスティヌスのアの字も知らないではないか。  ○ 三位一体  ☆ については 次の図解を参照してください。  ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ☆ この文意を取って表わしたその内容です。  ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~    ――ひとと社会の成り立ちについての図式――   光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《神の似像としてのヒト》について フォイエルバッハは《神学を無としたうえで人間的本質》と言い それをマルクスは 次のように言いました。No.1補足欄を参照。  ▼ (マルクス:フォイエルバッハのテーゼ) ~~~~~  第6テーゼ  フォイエルバッハは、宗教の問題とは結局人間の問題である、というふうに解消する。〔* それはそれでよいのだ〕  しかし、人間的本質は、個々人に内在するいかなる抽象物でもない。〔* 人間学は 形而上学のみではない〕。  人間的本質は、その現実性においては社会的諸関係の総体である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち《人間関係ないし社会関係の錯綜して構造を成す社会形態の全体と相似形ないしフラクタル形を持つニンゲン》のことが 《現実性における社会的諸関係の総体》だというわけです。図における三位一体の部分は 除いてですが。  三位一体の理論は おおむね合意が出来ているようです。相違点はほとんどないようです。  光源が父なる神 そこから生まれる発耀が子なる神 それらから発出する明るさ・あたたかさが聖霊なる神です。光は経験事象としては 時間差を持ったものですが 真理つまり神にあっては そこに時間的な間隔がないということになります。  問われれば さらに説明します。  

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noname#195588
noname#195588
回答No.15

http://www.tipitaka.org/ http://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0505m.mul3.xml スッタニパータの第四章 アッタカ・ヴァッガを buddhで検索してみた。()はPTS版の数字 6. Jarāsuttaṃ 813 Supinena yathāpi saṅgataṃ, paṭibuddho puriso na passati; Evampi piyāyitaṃ janaṃ, petaṃ kālakataṃ na passati. (807) 807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛したひとでも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることはできない。 16. Sāriputtasuttaṃ 963 ‘‘Taṃ buddhaṃ asitaṃ tādiṃ, akuhaṃ gaṇimāgataṃ; Bahūnamidha baddhānaṃ, atthi pañhena āgamaṃ. (957) 957 こだわりなく、偽りなく、このような範たる人として来りたもうた師・目ざめた人(ブッダ)であるあなたのもとに、これらの束縛ある多くの者どものために問おうとして、ここに参りました。 http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ たまたまこの経典がそうなのかもしれないけれど ブッダという言葉が少ない。 この経典しか知らなかったとしたら ゴータマをブッダと考えただろうか? そんなことを思った。 調べ方が違うとか、あるかもしれないけど。 ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドの 夢の話とスッタニパータは関係はあるんだろうか。 ブッダではないなら、ブッダの教えではないような気もするけど 保留にしておきます。たんなる疑問。

bragelonne
質問者

お礼

つづいてです。  ▲ (スッタニパータ) ~~~~~~~  16、サーリプッタ  955 サーリプッタさんが言った、── 「わたくしは未だ見たこともなく、また誰からも聞いたこともない。──このようにことば美わしき師(ブッダ)、衆の主がトゥシタ天から来りたもうたことを。  956 眼ある人(ブッダ)は、神々及び世人が見るように、一切の暗黒を除去して、独りで(法)楽をうけられた。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こういうおべんちゃらが言えるということだとも思えます。    ▲ 前代未聞 / 《ことば美わしき師》 / 《衆の主》 / 《トゥシタ天から来た》 / 《眼ある人》 / 《独りで法楽を受けた》  ☆ そう思うと《目覚めた(ブッダ)》と聞いたからと言って ただのあいさつ言葉かと思うかも知れません。  でも その中から オシエの中核に持って来たのなら そのブッダについて 言葉でも語り尽くすのが――たとえ定義できなくても――大事だったと思われます。  ただし つまりそれとして外形的な説明はたくさん語られているでしょうが それにしても何か一つや二つでも 人間の知性と能力にうったえるような・またヒラメキにつうじるような説明の言葉が欲しかった。

noname#195588
noname#195588
回答No.14

しまった。引用をミスしました。 誤 : [二つの世界に]共通しているの、 正 : [二つの世界に]共通しているので、 それから 気になったので、ついでに検索してきました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Brihadaranyaka Upanishad Translated by Swāmi Nikhilānanda Chapter III INVESTIGATION OF THE THREE STATES 17 [Yājnavalkya said:] “That entity (purusha), after enjoying himself and roaming in the waking state and merely witnessing [the results of] good and evil, hastens back in the reverse way to its former condition, the dream state [or that of dreamless sleep]. http://www.universaltheosophy.com/legacy/movements/ancient-east/vedic-india/brihadaranyaka-upanishad/ sa vā eṣa etasmin buddhānte ratvā caritvā dṛṣṭvaiva puṇyaṃ ca pāpaṃ ca punaḥ pratiny āyaṃ pratiyony ādravati svapnāntāyaiva || BrhUp_4,3.17 || http://fiindolo.sub.uni-goettingen.de/gretil/1_sanskr/1_veda/4_upa/brup___u.htm 第4章3・17 「まことに、この人間は、この覚醒状態において楽しみ、さまよい、善と悪を見たあとで、 ふたたび逆の順序で、それの最初の場所に従って、まさに夢を見る睡眠状態へ向かって急ぐ。 buddhānte という言葉が使われているようですね。 サンスクリットに詳しい人教えてください。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャド 第四部 第三章の 17 の前後がおもしろいぢゃないですか。  ▲ (Brihadaranyaka Upanishad) ~~~~~   Translated by Swāmi Nikhilānanda  Part Four / Chapter III  INVESTIGATION OF THE THREE STATES   16  [Yājnavalkya said:] “That entity (purusha), after enjoying himself and roaming in the dream state and merely witnessing [the results of] good and evil, hastens back in the reverse way to his former condition, the waking state.  (プルシャなり存在は 夢の状態で自分自身をたのしみ(?) さまよい 善と悪と〔の結果〕をただ見て確認したあと 元来た道を急ぎ引き返し かつての状態すなわち目覚めた状態に立ち帰る)。    He remains unaffected by whatever he sees in that state, for this infinite being is unattached.”  (かれは そのような状態において見た何ものによっても影響を受けない。その限りのない存在が 無傷にとどまる)。  [Janaka said:] “Just so, Yājnavalkya. I give you, Sir, a thousand cows. Please instruct me further about Liberation itself.”  (ジャナカ:いかにもそうです ヤージュナワルキャよ。師よ あなたに千頭の牛をあたえよう。さらにわたしに《解放・解脱》についておしえたまえ)。  17  [Yājnavalkya said:] “That entity (purusha), after enjoying himself and roaming in the waking state and merely witnessing [the results of] good and evil, hastens back in the reverse way to its former condition, the dream state [or that of dreamless sleep].  (* ここでは 目覚めた状態と夢の中の状態とが 入れ替わっている。夢の中の状態は また《夢を見ないねむりの状態》と言われる)。  18  As a large fish swims alternately to both banks [of a river]—the east and the west—so does the infinite being move to both these states: dreaming and waking.  (大きな魚が 〔川の〕ふたつの岸へと――つまり東と西とへ――交互に泳ぎ行くように 限りのない存在は ふたつの状態すなわち夢を見るのと目覚めるのと両方の状態へと行ったり来たりする)。  ~~~~~~~~~~~~~~  ○ buddhānte  ☆ これは 主格が buddhānta ( buDdhAnta ):目覚めたさま という語の 与格(なぜなら -e なる語尾の活用形)だと思われるけれど 意味から行くと 処格(活用は -i か)のほうがよいように思われる。  そこのところをしっかり把握するちからがいまただちにはないのがくやまれます。

noname#195588
noname#195588
回答No.13

調べないといけないことが増えた。 とりあえず 盲目の意志の回答をして 荘子の混沌の話を思い出しました。 渾沌は内篇・応帝王にでてきますが 荘子外篇 天地篇 にも混沌氏の術としてでてきます。 主観と客観の解消とでもいえばいいんでしょうか。 それでも秩序ある世界を目指すら 見ると見られるは必要になるというのであれば カオスとコスモスの対比でしょうか。 それから神話には原人とか巨人が死んで 世界が誕生するというのもありますが 混沌の死はそれをイメージさせます。 盲目だけの話をするなら 観自在菩薩と観世音菩薩の訳の違いとか 観想念仏が称名念仏になったり 見るなのタブーとかいろいろありますが ショーペンハウアーが音楽を評価していたり 神を見たら死ぬとか 預言者の聞け、イスラエル。とか。 まあ、盲目の意志だからといって 聴覚の話をしても仕方ないとは思うけど。 それよりウパニシャッドで 引用が面倒なのですが ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド 第4章3・7 「どの自己であるか?」 「もろもろの生気において認識から成り、心臓の内部にある光としてのこの人間――彼は[二つの世界に]共通しているの、二つの世界の間を行ったり来たり動く。彼は、時には熟慮し、時には揺らめく。なぜなら、彼は夢になって、この世界および死の諸形態を超えるからである。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ このあたりから、眠りと夢と目覚めの話があります。 原文の「目覚める」という言葉にブッダが使われているかどうかは知りません。 それになんだかんだいって、宗教的な理想を達成しているのは 夢の世界の中である。というみもふたも無い話かもしれません。 このへんはまだあまり読んでないので

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  今回の内容に対しては 大した応答が出来ないですね。  素養がないと言えばそうでしょうし 切り口や問題意識の持って行き方が まださだまりません。  ウパニシャドについては 目覚め方や 目覚めたあとの状態 これらについて知りたいとは思いました。  ★ 神を見たら死ぬとか  ☆ これは はっきりしていますね。ひとは神を見て生きていることは出来ないうんぬん。モーセのくだりなど。  ただし 顔と顔とを合わせて神と 友だちのように話したとあって そのあとも生きていますけれど。  あるいは ヤコブが神(天使?)とすもうを取って まだ生きているとか。  それらは 神を見たという予感だという話として受け留めているともお伝えしたと思います。  そう言えば 《カオス》は 人格を持つとか言っていましたね。

noname#195588
noname#195588
回答No.12

見る。ことばかり考えてしまいましたが、 ショーペンハウアーの 盲目的な生への意志 という言葉に、はっとしました。 意志 は盲目である 意志と表象としての世界 http://1000ya.isis.ne.jp/1164.html

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  松○正○の思想は 買いません。伸びがない。扱う相手の思想の傘の中に入ってしまっている。  全部が全部そうだと限らないかも知れませんが そういう判断をすでにくだしています。何かの拍子に もし考え違いであって見直さねばならないとしたら そういう機会があるでしょう。  たとえば このあとただちにあなたが反論して来れば まづその今回の文章を読みます。いまは読むことすらしようとは思いません。あしからず。  というわけで ショーペンハウエルの思想が分からないままですが 《イデイン》は 現代語でのヰデオやヰジョンに見られるごとく《見る》を表わすとともに 《知る》をも意味するようになった言葉です。  当のギリシャ語でも オイダというかたちで《知る》を表わします。  ▲ (Henry George Liddell, Robert Scott, A Greek-English Lexicon : εἴδω ) ~~~~~  http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aalphabetic+letter%3D*e%3Aentry+group%3D21%3Aentry%3Dei%29%2Fdw1   εἴδω(エイドー= I see )(イデインは 不定詞形 to see )   B. pf., οἶδα :I see with the mind's eye, i.e. I know, used as pres.:   (完了形の οἶδα (オイダ:一人称単数)が 《心の目で見る》意から《知る》として――その現在形の意味において――用いられる)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~      あるいは 言わずとしれた インドの《ヱーダ》があります。  ▼ ( Etymonline: vision ) ~~~~   http://www.etymonline.com/index.php?term=vision&allowed_in_frame=0  PIE(原印欧語) root *weid- :"to know, to see" cf. Sanskrit・・・ veda: "I know;"    Avestan・・・ vaeda: "I know;"    Greek ・・・oida,/ Doric(ドリア方言)・・・ woida :"I know"  ~~~~~~~~~~~~  同じく英語の wise が このエイド― / イデインの仲間のようです。  ▲ (同上) ~~~~~  Old English・・・ witan :"to know;"  Gothic・・・ weitan :"to see;"  English ・・・wise,  German・・・ wissen: "to know;"    ~~~~~~~~~~~~  つまり ヱーダとワイズとがつながっているようです。  ▲ (同上) ~~~~  Russian・・・ videt' (ヰーディチ):"to see,"           vest'( Bectи ヱスチ) :"news,"  ~~~~~~~~~~~~  つまり 見知るのは ニュースであると。《新聞(ニュース)》は 聞くで表わしていますが。  ★ 意志 は盲目である  ☆ この意志は 神学の次元のそれでしょうね。人間学での意志は たいてい意識があります。  《盲目》と言うのは おそらく《めぐみ》のことでしょう。  

noname#195588
noname#195588
回答No.11

14 Καὶ ὁ Λόγος σὰρξ ἐγένετο καὶ ἐσκήνωσεν ἐν ἡμῖν, καὶ ἐθεασάμεθα τὴν δόξαν αὐτοῦ, δόξαν ὡς μονογενοῦς παρὰ πατρός, πλήρης χάριτος καὶ ἀληθείας. 1:14そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。 http://el.wikisource.org/wiki/%CE%9A%CE%B1%CF%84%CE%AC_%CE%99%CF%89%CE%AC%CE%BD%CE%BD%CE%B7%CE%BD http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html 40 λέγει αὐτῇ ὁ Ἰησοῦς· Οὐκ εἶπόν σοι ὅτι ἐὰν πιστεύσῃς, ὄψει τὴν δόξαν τοῦ Θεοῦ; 11:40イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。 ドクサの話が気になったので、とりあえず聖書をコピペ。 3 ἀπεκρίθη Ἰησοῦς καὶ εἶπεν αὐτῷ· Ἀμὴν ἀμὴν λέγω σοι, ἐὰν μή τις γεννηθῇ ἄνωθεν, οὐ δύναται ἰδεῖν τὴν βασιλείαν τοῦ Θεοῦ. 3:3イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。 21 οὗτοι οὖν προσῆλθον Φιλίππῳ τῷ ἀπὸ Βηθσαϊδὰ τῆς Γαλιλαίας, καὶ ἠρώτων αὐτὸν λέγοντες· Κύριε, θέλομεν τὸν Ἰησοῦν ἰδεῖν. 12:21彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。 ἰδεῖν (idein) — 39 Occurrences http://biblesuite.com/greek/idein_3708.htm 「イデア」という語は、古代ギリシャ語の動詞「idein」(見る)に由来する[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A2%E8%AB%96 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ドクサとイデインと聖書でどう使い分けされているのか読み比べてみようかと思ったが、 私には難しい。 今回はヨハネによる福音書の一部。 どうでしょうか。 とりあげた箇所のドクサが意味するのは栄光で、文章としては肉体に関するところ。 神の国を見るときにイデインが使われているのが気になりました。 プラトン主義的に解釈すれば、神の国はイデアと言いたくなるかも知れませんね。 3:3イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。 しかしそのイエスの言葉はひっかかりますね。 特別な人でなければ神の国は見ることができないわけですから。 しかも、新しく生まれなければ。

bragelonne
質問者

お礼

 かざみどり365さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  しかしそのイエスの言葉はひっかかりますね。  特別な人でなければ神の国は見ることができないわけですから。  しかも、新しく生まれなければ。  ~~~~~~  ☆ エイド― / イデインなる語ですが ここでは《神を見る・神の国を見る・神の栄光を見る》に限って見てまいります。  何よりもたとえばパウロは 《死者の復活》と題することのできる議論を展開しています。コリント前書15:12~34です。そこでけっきょく《神を見る。=真理を見る》を解釈 しうると思われることを語っています。  まづたとえば  ▲ (15:14) そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。  ▲(15:21~22) ~~~~  死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。  つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ のように《復活》の問題をみちびき説明しようとしています。これは むつかしいので後回しです。(いつか説明できるようになれればよいと思っています)。  《神=真理 を見る》とはどういうことか?  復活のあと  ▲(15:26) 最後の敵として、死が滅ぼされます。  ☆ そして  ▲(15:28) すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方(* 父なる神)に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。  ☆ これです。   ○ 神がすべてにおいてすべてとなられる  すなわち分かりやすいように独断で言いかえますが:   ○ 真理がすべてにおいてすべてであると人間であるわたしが分かる  これです。これだと思います。《神を見る》というのは。  この世の因果関係のすべてが明るみに出る。あるいは一人ひとりの人の考えていること そのすべてがわたしには分かるということ。――こうなれば《神がすべてにおいてすべてとなる》ことだと考えられます。すなわち人間であるわたしが神〔の栄光を・またその国を〕見るということなのだと。    同じくパウロですが 《愛》を論じます。次の13:12のくだりに注目してください:  ▲ (コリント前書12:31-13:1-13) ~~~~~  8: 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、  9: わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。  10: 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。  11: 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。  12: わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。    だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。    わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、    はっきり知られているようにはっきり知ることになる。  13: それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《顔と顔とを合わせて見ることになる》のが 《神直視》とも言われる《神を見る》ことです。  そのときには《はっきり知られているように 自分も はっきり知るようになる》つまり 《真理がすべてにおいてすべてである状態の中に わたしはいることになる》。  ○ ドクサ=栄光  ☆ についてですが 次のイエス・キリストの栄光のふたつの中身について考えます。  ▲ (ヨハネ福音1:14) それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。  ☆ 《まこと》は すでに上に見た《真理》のことです。  《めぐみ》とは?  ▲ (ヨハネ福音1:16) わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。  ☆ 《めぐみの上にめぐみを》とあります。  あとの《めぐみ》が わたしに思われるには 《復活にともなってあたえられる〈真理〉の国》ではないか? つまりその神の国にあって 真理がすべてにおいてすべてである状態の中にわたしがあるということ。これだと思われます。  では最初の《めぐみ》は何か?  これは 信仰があたえられたこと なのではないか?  キリストでも神でも その名が与えられこれをわが心に受け容れるということ これが信じるということであり その持続が 動態としての信仰です。  なんならその神は 《無い神》という名であってもかまわないでしょう。    先ほどの  ▲ (コリント前書1:13) それゆえ、〔顔と顔とを合わせて神を見るときには〕信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。  ☆ いえ。わたしは 信仰はもう残らないと考えます。いま顔を合わせて見ているものを わざわざ信じることはなくて ただ愛するということがなおつづくことになる。こう考えます。  というように そうだとしたら 信仰はやがて要らなくなると思われるのですが この信仰によって第二のめぐみである復活があたえられる。こうだと思います。  この《真理とめぐみ》に満ち溢れているのが 神の子でありみづからも神であるキリストであると考えられます。  めぐみには 人間にとってふたつの段階があります。信じることを得さしめられることと それの持続によって神の国にみちびかれて行くこと。  これらはすべて いま・ここなる現在時において成った。こういうことだと考えます。そういうめぐみだと思います。

noname#195588
noname#195588
回答No.10

知りませんでしたので 検索してきました。 Doxa http://en.wikipedia.org/wiki/Doxa ヘブライ語だと「栄光」は kavod これがセプトゥアギンタでは doxaに翻訳されたということですかね? どうして思惑が栄光になるんですか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  その用法がどこから来たのかについては 知りませんでした。    ▼ (etymonline: glory ) ~~~~~   http://www.etymonline.com/index.php?term=glory&allowed_in_frame=0  Greek doxa "expectation" (Homer), later "opinion, fame," and ultimately "glory," was used in Biblical writing to translate a Hebrew word which had a sense of "brightness, splendor, magnificence, majesty,"  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆  と書いていますが  ドクサには 《見える》があり《良く見える》なら《かがやき》になるようです。  また《思う》があり《良く思う(思える)》なら 《すばらしさ》を表わし得ます。  どうもそのあたりからというのが 無難な見方ではないかと。  ▲ (SPECIAL TOPIC: GLORY (doxa)) ~~~~~   http://www.freebiblecommentary.org/special_topics/glory_doxa.html   The biblical concept of "glory" is difficult to define. Believers' glory is that they understand the gospel and glory in God, not in themselves (cf. 1 Cor. 1:29-31; Jer. 9:23-24).  In the OT the most common Hebrew word for "glory" (kabod, BDB 468) was originally a commercial term relating to a pair of scales ("to be heavy"). That which was heavy was valuable or had intrinsic worth.    Often the concept of brightness was added to the word to express God's majesty (cf. Exod. 19:16-18; 24:17; Isa. 60:1-2).  He alone is worthy and honorable (cf. Ps. 24:7-10; 66:2; 79:9).  He is too brilliant for fallen mankind to behold (cf. Exod 33:17-23; Isa. 6:5).  YHWH can only be truly known through Christ (cf. John 12:45; 14:8-11; Col.1:15; Heb. 1:3).  The term "glory" is somewhat ambiguous.  1. it may be parallel to "the righteousness of God"  2. it may refer to the "holiness" or "perfection" of God  3. it could refer to the image of God in which mankind was created (cf. Gen. 1:26-27; 5:1; 9:6), but which was later marred through rebellion (cf. Gen. 3:1-21)  4. it is first used of YHWH's presence with His people during the wilderness wandering period in Exod. 16:7,10; Lev. 9:23; and Num. 14:10.  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ヘブル語のカボドは 《重さ》という意味から来ているのだそうです。《重いもの》は 《値打ちがある。とうとい》となり やはり《すばらしさ。とうといもの》を意味するようになったと。  出エジプトのあとの荒れ野での放浪生活において ヤハヱーが現われたときにその臨在について《カボード》ということばが初めて用いられていると言います。(出エジプト記 16:7,10)。  このわたしの見方は修正されうる可能性があるかも分かりません。

noname#195588
noname#195588
回答No.9

パルメニデス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%83%87%E3%82%B9 プラトンのイデア論はパルメニデスの不生不滅の考えとヘラクレイトスの万物流転の考えを調和させようとした試みであるとも言われている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ また、プラトンかと思う。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。    ▼ (ヰキぺ:パルメニデス) ~~~~~  § 1.2 プラトン哲学への影響  古代のプラトン主義者たちは、パルメニデスの思想の中にイデア説の原型を見出している。  つまり、   理性でのみ把握される不生不滅の「有」の世界〔:神学〕  と、   感覚で把握される生成流転する世界〔:人間学〕  の二層構造を初めて見出したのがパルメニデスだ、というのである。           *  § 1.3 『パルメニデス』における扱い   1.哲学は     真理(アレーテイア)にしたがうもの〔:神学〕    と、     思惑(ドクサ)にしたがうもの〔:人間学〕    の2部門に分けられる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ただし もし《イデア》が 神学のうちにあって人間の精神であるか 精神の延長にしか過ぎないと見るのなら それは ふつうの人間学の範囲にとどまる。  もしくは 人間のつくった観念の神として捉えられていることを意味する。  《真理》は なぞでなくてはならない。  《不生不滅のもの》が《理性でのみ把握される》などと言っている。  《不生不滅の「有」の世界》と言うのは 《有か無かが人間には分からない非経験の場》なのである。そう表わさなければならない。  * 《思惑(ドクサ)》のドクサは 聖書では《栄光》を意味する。

noname#195588
noname#195588
回答No.8

プロセス神学 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%BB%E3%82%B9%E7%A5%9E%E5%AD%A6 プロセス神学(英語:process theology)は、アメリカで発生した「プロセス哲学」と結びつける形で、世俗神学に対抗するものとしての神学を再建する神学者たちのグループの神学である。 プロセス神学はホワイトヘッドのプロセス哲学という前提に深い関連がある。 ホワイトヘッドは世界は動的なもので、つねに変化しているものであって、生成が本質存在を含有しているという理念を中心に思想体系を形成した。ホワイトヘッドは神でさえ生成に従属していると考えた。 チャールズ・ハートショーンはホワイトヘッドの理念をさらに発展させて、生成は本質存在、無限、永遠と共に神の属性の一つであるとし、神もまた有限で時間的なものであるとした。ハートショーンは神はプロセスそのものであると言い切った。 このような考えを前提として、デヴィッド・レイ・グリフィン、ノーマン・ピッテンガー、ダニエル・デイ・ウィリアムス、シュバート・オグデン、ジョン・コブ・ジュニアなどの英語圏の急進的神学者が提携し、プロセス神学のグループを形成した。 日本在住の神学者としては、福音主義神学とプロセス神学の関係を研究しているステパノ・フランクリンがいる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ どうやらプロセス神学というのがあるようです。 ホワイトヘッドは名前しか知りません。 「西洋の全ての哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない」 という言葉で。

bragelonne
質問者

お礼

 かざみどり365さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ▲ ホワイトヘッドは神でさえ生成に従属していると考えた。  ☆ ここが 問題でしょうね。  結論を述べるならこうなります:  1. 神は精神でも概念でもない。しかも概念化されうる。たとえば《愛》と。  2. 《愛》なる概念として捉えられた神は そのようにほんとうは非思考ながら仮りの代理概念として派生的に持たれた言葉として あたかも――人間学の次元において――《成る》。《生成》して来たというような感じでありかたちである。  3. 言いかえるとそのようにすでに概念ないし人間の思考の問題として捉えられたときには(――つまり神学としてだけではなく 人間学としても 思考の問題になったなら――) 人びとはもはやそこだけを見て 《神でさえ生成に従属していると考え》ることはあり得ましょうね。  4. それだけのことです。  5. なのにわざわざさも何か大きなあたらしい発見ででもあるかのように大威張りで しかも多くの人間に追随されるまでになって 《プロセス哲学だのプロセス神学だの》と吹聴している《白いあたま》。  ▲ チャールズ・ハートショーンはホワイトヘッドの理念をさらに発展させて、生成は本質存在、無限、永遠と共に神の属性の一つであるとし、神もまた有限で時間的なものであるとした。  ☆ 《絶対なる非経験の場(それは たしかに場の作用としてチカラでありハタラキであると想定される)》に起源を持つと仮定すると あたかも――あたかもです――経験世界への《生成》が過程的に起きていると見がちであり見たいのかも知れません。  6. たとえば     非経験:《絶対としての 神の愛》     ―→(それについての神学:すでに思考の領域ではあるが       神をヒラメキをとおして感じ得るという想定と前提がある。       しばしば 神秘思想と呼ばれ発表されてもいる)。     ―→経験世界:ヒラメキ(直感・直観。インスピレーション)       (言わば神の予感があるのかも知れない。        つまりたとえば《愛》として)     ―→ 人間学・コギト(思考):こうなれば 《愛》は明らかに        人間の思考に供され得て概念と成る。       ―→ つまり《愛》とは何か?         これは人間の経験行為およびそれを錯綜させつつ含んだ        社会的な経験事象に照らし合わせつつ その概念を説明し        理論立てる。         世の中は《唯識 Consciousness only 》なんだよとか        あるいは          《愛とは 資本である。社会的な諸関係の錯綜する構造        としてその総体 これが資本であり愛である》と。       ―→ すでに人間の思ったりおこなったりする愛であれば そ         れは 《有限》のものである。  7. ではあるが・つまり大枠としてこのようであることにおそらくマチガイはないのであろうが ここから  ▲ 生成は本質存在、無限、永遠と共に神の属性の一つであるとし  ☆ 得るか?   《無限・永遠》は 《絶対》のことであり 《非経験の場》としての神のことを概念的に説明している。《属性》だと言えばそう言えるかも知れない。けれども《生成》は 時間的・過程的なことを意味内容とする。つまり《有限》である。   ○ 《有限》は 《無限》の一属性であるか?  8. あるいはつまり  ▲ 神もまた有限で時間的なものであるとした。  ☆ という《思考の跡》が チャールズ・ハートショーンなる人のあたまの中に残っている。という事実であり問題であるようです。  9. 人間があたまの中で考えたことは そのまま《神の真理》だと言うのか? このバカチンめが。  10. おそらくすべては 《非経験なる神が 経験世界に遍在する》という派生命題(これ自体は妥当である)から――しばしばあやまって――みちびかれて来る思惟の問題であるようです。  11. 《文字はころし 霊は生かす》。について・それをとおり越えて この《文字(人間の思考・想像)》も 《神》から派生して来る《霊》そのものだと言いたいところまで 現実のきびしさに耐え切れず地道にあゆむという人びとの我慢づよさがおとろえて来ているのでしょうか。  12. 《神学の秘密は 人間学である》と言ったならそれは 神学の次元を《無》としたのだから――つまりは有神論と同じく《無根拠》とみなしたのだから―― 神学をその《無の領域》としてじゅうぶん とうとんでいる。神学に敬意をはらっている。  あるいはつまり 神学と人間学とをきちんと区別し得た。この区別すらをも取っ払いたいというのが 現代の《〈思考の神〉崇拝》の哲学でありへべれけなる酔っぱらいの神学なのであろうか。

noname#195588
noname#195588
回答No.7

弁証法について調べていると 否定神学というのにも関心が出てくる。 しかしよくわからない。 それと、昔は思わなかったけど、 インド哲学にはまった最近になって、 こうして読み返してみると、 アートマンについて、~ではない、と否定することで 肯定しようとしたヤージュニャヴァルキヤも イメージするようになった。 ところで、 永遠にとっては無意味な話かもしれませんが、 ブラジュロンヌさんの、ある神とか無い神とかについて、 いわば時間の内なる神としては、生成する神 つまり、成る神なんていうのもあり得るのではないでしょうか。 というのも、あるとか無いとかではなく、成る。 という話が、やたら出てくるからです。 永遠から時間の内へと被造物の世界に顕現するにつれて、 神も死んだり、生きたり、あったり無かったりしたりして。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~  ところで、  永遠にとっては無意味な話かもしれませんが、  ブラジュロンヌさんの、ある神とか無い神とかについて、  いわば時間の内なる神としては、生成する神  つまり、成る神なんていうのもあり得るのではないでしょうか。  ~~~~~~~  ☆ それは 人間の想像による観念の神のことでしょうね。  偶像だと知っていれば 大丈夫なわけですが それは 一般に《真理= 全体としてのひとつなる神》の派生概念としての神々であり 言わば分身ということでしょうね。  すなわち 次の定理にもとづくなら げんみつには 《人間学》の次元にすでに降りて来ている神々のことだと考えられます。  ○ (簡略版定理:ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ):神学    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):人間学    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  :人間学    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 神学として考えるよりは すでに人間学とのつながりを予定していて その霊なら霊のはたらきを――神の分身として―― 成る神 と言ったりするのでしょうね。  早い話が 空の放電現象は 神鳴りです。  正直者のこうべには神やどる。とか  心のきよいひとはさいわいなり。神を見る。とか  どの土地にも谷戸の神がいて その土地と人びとを守っている。この神を大切にしなくてはいけない。とか  原子炉を建設するにあたって 神主さんのお浄め・お祓いを挙行する。とか  ★ ~~~~  永遠から時間の内へと被造物の世界に顕現するにつれて、  神も死んだり、生きたり、あったり無かったりしたりして。  ~~~~~  ☆ なぜそう表現されて来るか?   この答えは かんたんです。  神学の次元つまり非思考の庭にあっては じつは経験世界における《有る・無い》という概念が当てはまらないのです。  だから逆に 神について《有る神》とも《無い神》とも どちらの言い方も 自由に出来て しかもお好みに応じて 有神論か無神論かをひとはえらべばよい。となっています。  神は存在するか? 仮りに存在すると言って表わしているのみです。   それにしても どの言語も 《かみ》という言葉は持っていて じっさい使われているようなのです。  しかも この現実世界に神は 《遍在》するとまで――派生概念としてですが――論理的には帰結されて来ます。  だったら そのことを捉えて  ★ 永遠から時間の内へと被造物の世界に顕現するにつれて  ☆ といった捉え方も出て来るというものです。目に見えている或るものごとにかかわらせて――たとえば放電現象にかかわらせて―― 神が現われ 現実に成るといった表現さえもが 持たれて来るようです。  あるいは そのいちばんの結果は    《梵我一如》もしくは   《ひとに神の霊がやどる》または   《一切衆生はことごとくブッダターを有する》  なのであろうと考えられます。まぁ アラヒトガミは じっさいにはあまり触れないほうがよいでしょう。まぎらわしくなるからです。    しかも中で 三位一体なる神学は とてつもない飛躍でありおとぎ話です。  《ひとに神の霊がやどる》なんて代物ではないわけです。  《神そのもの――しかも位格としては 子なる神――》が そのまま人間と成ったと言っています。  梵我一如は 人がその神学(非思考の庭)において 神の霊としてのアートマンをやどすと言っていて そのような事態は 神の霊の分有だと説明されます。  クリスチアニズムでも ふつうの人は そうです。神の霊の分有ということになります。  ところが 子なる神でありみづからも神であるキリストが イエスという人間にそのまま成った。と言っています。  ナザレの人 マリアの息子のイエスは そのままむろんふつうの人間であり しかも同時に 神そのもの――むろん霊としてですが それでも神そのもの――であるという驚天動地の理論(テオーリア=観想)です。そういう神学です。  うんぬん。(さて どうなりますか)。

回答No.5

 横スレ失礼致します。  §3. 理象化(?) > (7) キング・コギトの王国と言うのと あまり違わない。かも知れない。違いは それでも 色濃い。理性を打ち出すというよりは ハート・こころを重んじるところだ。 ↓↓↓  「キング・コギト」、つまり、“自己・我 [の意識]”。ここでは、下の「独我論」との兼ね合いから、“cogito,ergo sum”。 換言しますと、“自己の意識のみが存在し、他者のことなどは無関係である“、といった姿勢のことでしょうか?  そして、さらには、理性的であるわけでもないと・・・ > (8) ひょっとすると この理象化の動きには 例の独我論が一役を買っているかも知れない。もしそうだとすれば それは あまりたたかうということをしない。コミュニケーションが この世の中において人間どうしのあいだで 成り立つとは思っていない。発信はするが受信はごめんだという半鎖国政策である。  《科学的認識の世界に こころなる女王のもとに ささやかに生きる》と言う。 ↓↓↓  「あまりたたかうことをしない」=議論・討論をしない。「コミュニケーションが この世の中において人間どうしのあいだで 成り立つとは思っていない。」=間主観性の欠如。さらには”共有”の欠如。  換言しますと、“受信するのはごめんだ。”自己”内で鎖国政策をとらせていただく。勝手に意見を言われても、ボクは知らない”といった姿勢のように考えられます。  だけれども、《科学的認識の世界に こころなる女王のもとに ささやかに生きる》と言う、つまり、科学的なるものは、一応認めはする(だからと言って、深く疑ったりはしない)。 > ご教示ください。内臓の布置や 内蔵そのものの吟味検査とともに。  さらにその診断および処方箋のあと 歴史と社会の全体にわたる処方箋までをも。 ↓↓↓  上述のことから、このような珍種(ちょっと言い過ぎたかも)、“蛸壺に閉じこもったひと”の生態やその対処方法、さらには、”彼らとのコミュニケーションを育む方法とは?(コミュニケーション論)”  ということをお聞きしたいのでしょうか?  申し訳ございません。  以下のように、”質問者に聞こう!”ということが、本OKWaveでは推奨されておりますので、ご質問させていただきました。  ご理解の程、頂戴できれば、幸いです。 ネチケット ~回答編~ 質問者に聞こう! http://guide.okwave.jp/guide/netiquette_amanner.html

bragelonne
質問者

お礼

 にゃん_にゃんこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  少し違うと思ったところは  ★ そして、さらには、理性的であるわけでもないと・・・  ☆ ここは 《理象化》というくらいですから 《理性的であろうとはする》と言えると思います。  同じく  ★ 科学的なるものは、一応認めはする(だからと言って、深く疑ったりはしない)。  ☆ ここも むしろつとめて《科学的なるものの世界に 深く入って行く》傾向があると見ます。  それゆえ その――変な言い方ですが――理象の世界に没頭するようにさえなる場合を見ようとしています。  その《理象》の世界に深く入って行くというのは 現実世界において資本の論理が色濃く貫かれていると見て これを嫌いこれをむしろ蔑み 自分の――理象の――世界にすすんで入って行くという傾向と見ます。  あとは 復唱・引用をしませんでしたが 受け取っていただいたかたちが 伝えようとしたことでした。    もう少し趣旨説明をしますと:   §1. 疎外   §2. 物象化  ここまでは むしろふつうの歴史観として共通の理解にあると思っていました。少々マルクシズムに片寄ったかたちかとは思いますが。  そこまでを踏まえて   §3. 理象化(?)  というのは 要するに §1から§2へと推移した世界史を 嫌う。よって遠ざけようとする。しかも実際には 自分が遠ざかる。つまり 逃走する。あるいは 避けどころを求める。そしてそれが 資本主義の経済や社会についてその短所を取り上げてその筋による認識論をつくる。これが 《理象》の世界です。  たとえば《搾取》 これが 資本主義経済にはある。ゆえに ダメだ。から始まって そのダメ史観としての認識体系までを築く。そしてその《理象》の世界に自分は浸る。  こういった傾向がみられるのではないか? という問題提起です。  質問者にいい処方箋はないのですが そしてそれを問い求めていると書いていますが それでも現実の問題を回避する姿勢では なかなかあたらしい社会への移行は それがあるなら あってもかなわなくなる。という指摘をおこなおうとしたものです。これに見解をもとめています。    要するに世界史の展望にもなっています。  しかもそういった展望というのは 具体的ないまの問題を取り上げて議論しておくことも じゅうぶんに含まれていると考えます。つまり 具体的ないまの企業における問題点などです。《前史から後史へ》の課題と同じような趣旨でもあります。