「ボールは友達だ」は隠喩?
家庭教師のバイトをしている者です。
中学国語を教えていて、隠喩法が出てきました。隠喩の例を挙げようと便覧を調べると、隠喩の例に「人間は考える葦である」がありました。
そこでふと思いついたのですが、キャプテン翼の名台詞、「ボールは友達だ」は隠喩法なのでしょうか?
幾人から「それは隠喩ではない」、「喩えになっていない」と言われました。
以下は私が考えたことなのですが、
「友達」が「喩え」になるには、「一般的にボール(やモノ)が友達になりえない」という前提が必要になると思います。 しかし、「友達」という概念が人間や生物だけを対象にしているのかどうかはよくわかりません。
もし「ボールは友達だ」が、モノも友達になりえるので喩えになっていないのなら、「ボールは友人だ」にすれば喩えになるのでしょうか?
ちなみに、私は隠喩法を、直喩法の(まるで)「~のようだ」「~のように」を使わないでたとえるものだという認識しかありません。他の定義や基準から考察できるのかもしれません。
皆さんは「ボールは友達だ」は隠喩法だとお考えになりますか? 理由を添えてご回答いただけると幸いです。
お礼
一体「言葉」とは何者なんだという問題に直面しますね。「馬鹿」といわれても別に本当に「馬鹿」なわけじゃない。「親しめるわね」とか「愛嬌があるわ」という比喩(反語)表現であったりする。つまり、言葉が一対一対応ではないということが世の常識である。つまり、一対一対応ではコミュニケーションというのはほとんど不可能であるということらしいですね。それはコンピューター言語です。自動翻訳機が役に立たない理由もこの辺にあるのでしょう。人間の頭脳のやわらかさはたいしたもんです。 つまり、「言葉」というものはその土台に状況心理がありその影響を大きく受けながら発するものであり、同じ言葉でも大きく捻じ曲げながら使うものであるらしいですね。