- ベストアンサー
「あきらめるな」の精神について
世の中「あきらめるな」「あきらめないで」 の呪文のような響きが、歌や言説訓話などに途絶えないような気がするのですが、なぜなんでしょうか? 現実論でいくと、確かに「あきらめない」というほうにもそれなりに美徳や効能があるのは確かですが、それよりも、ここは一旦引くあるいはきれいに退散する、そして新たな対象に向かうというほうが、よっぽど健康的で現実的でかつ効能も大きいのではないでしょうか? または、確かに「あきらめない」しつこさ執念情熱も美しいものではありますが、同時に「あきらめる」「目標転換する」という姿勢も違った強さ潔さがあり美しいものです。 なぜ、一方だけの価値観しか市民権を与えられないのでしょうか?
- みんなの回答 (10)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
基本的には、エネルギーの無駄遣いを怖れる(というケチな)感覚が根付いているからではないでしょうか。 この場合のエネルギーとは、いわゆる「努力」ということになりますが、何のための努力であったか、または、その努力の結果として好ましい結果が本当にもたらされるだろうか、という中途検証を行うのを厭うほどの「ケチさ加減」とでも言ったらよいでしょうか。 本質はどうでもいいから、一度手をつけてしまったことは生かさなければ損だ、という感覚があるのかもしれません。 それ(一度手をつけてしまったこと)を生かさずに、新たな視点で物事を考え直すというのは、過去の自分を否定しつつ次のステップに挑戦するという自己変革を意味するでしょう。 そのためには単なる潔さだけではなく、強靭な自我と、(否定しつつ創造するという)きめの細やかな精神も必要とされるように思われます。 (ただ飽きっぽいだけという例は除外しますが) 「きめの細やかさ」という能力に関して、人間がまだまだ未熟であるということなのか、あるいは、 その能力がありながら、それを生かすことによる価値を未だ見出し得ていないのか。 そのあたりのことと関連してくるような気がします。 私にしても例外ではありませんが、各方面における「きめの細やかな配慮」の無さにも一脈通じるところがあるのだろうと思います。
その他の回答 (9)
>流動的心理状態(どっちかな~ですか?)で「あきらめろ」のほうが美徳の歴史も地域もあるのではないでしょうかね。少なくとも日本の中世くらいだったら圧倒的にそっちだった気がします。> お礼ありがとうございます。 お礼の中でこのような文章が「は!」という思いが浮かびあがってきました。 その言語が響く鍵穴そうですその通りです。それがピッタリ来る個人の世間的認識つまりごく一般家庭における世間の認識がそれが妥当のように思えてくるという心理作用があるものかと思われます。 ナチスドイツを考えてみると一目瞭然だと思います、TV演説を行いあたかもそれが正当かのような錯覚に国民が浸ったあの現象はまさしく、鍵穴にぴたりときたんだと思います。ミグラルム効果もさることながら、演説が世間的雰囲気(世間的雰囲気に飲み込まれる形の心理状態)にあたかも正当に聞こえるかのような演説であったに違いないと思われます。あとは群衆心理であれよあれよという間に戦争状態に突入したんだと思います。
お礼
こちらこそありがとうございます。 集団心理、歴史心理、地域心理、結局は郷に入りてはなんとかという、人間という基本的習性以外のものではないのかもしれません。ナチスドイツはこういう反歴史を語る上で最もいい例ですね。
- magga
- ベストアンサー率15% (56/359)
世の中では自分の能力を最大限に活かし気楽に精一杯みんなの役にも立って自分の生き甲斐を感じられる道よりも。 自分に能力のないことを執着を持って無理にやって悩み苦しんでいる人を見るのがすきみたいですね。 そのくせその努力が「自分の好みに合わない」道だったり、「自分にとって迷惑」な道だったりすれば非難しますね。 「自分にも他人にも役に立つ」と言う基本的な考えが抜けてしまっているように思います。出来ることを精一杯許容内でやって自他に役に立つようにすれば良いと思うのですが… 執着悩み苦しみが皆好きみたいですね。 民衆の価値観なんてこんなものと思います。 ~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
お礼
不要な苦しみを奨励するという思考形式が民衆好み、それに乗せられて不幸を味わう人たちがいる。なんとも流行の思想なんて害しかないんじゃないですか?ろくなもんじゃありません。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
ANo.6 ≪世の中圧倒的に「あきらめるな」に傾いていませんですかね?≫ 「それは自己をあきらめるな」という意味でのことでしょう。 簡単に、取り組んでいるもの、こと、そして操作せられているもの、ことを放棄するなということでしょう。 「安易に取り組み始め、安易に立ち去るなかれ」ということですよね。 楽な道ばかりが、道ではないですからね。私も52年も前高校卒、受験浪人。そして二十歳から一大学の図書館職員。ちょうど60年安保。バイト人事です。そして66まで勤務しましたが、苦楽両方でした。 あきらめなかった。優秀なやつらは次々と転職やらなにやらしていったけれどの、いいことなかったし、今も待った気の毒な状況のやつばかりですね。 ずぅっと自分の何かを抱き続けてきて、問題だけは捨てなかった。 問題はね、自分の。中学からの、人生とは、人って、生きることって。ということでは。 今はそれを解決することもしたけれど、もっと問題が直截で、広がり、深まることに努力しているけれど。 でも続けるには素直に受け入れていくという、自分変更や自分離れも必要であった。一貫する中で。どこまで根本から自己変革するかは今も課題ではあります。
お礼
そうですか。なかなかいいお話です。 諦めないで進を通しているというのは、人生をシンプルで力強くするかもしれません。もちろんバランス感覚を取りながらという条件がつくのでしょう。 しかし、怖れながら、質問のご回答にはなっていないようです。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
あきらめるも、捲土重来も、新たな出発も真の自己性をいきるためのもので、全て同じ次元のことです。 真の自己性を逃げないということで、どれを偏重せよということを誰もおおせられては居ませんよ
お礼
世の中圧倒的に「あきらめるな」に傾いていませんですかね?
またなんとも深い話ですね。考え概があります。 多分ですが非暗示的な心理状態つまり曖昧性の状態の時に起こるのではないかと思います。 ある種流動的な心理状態の時にインパクトのある言語を発するとあたかもそれが重要かのような錯覚が生まれるのが一つ 群集心理的な側面が二つ目に挙げられると思います。まあ同調心理や状況の力などです。今のところこれしか思いつきませんがこの二つを吟味してみたいと思います。 一つ目の方はある種流動的な心理のなかでそれが響く人が出てくるのだと思います。それが2つ目の理由で促進されある種一辺倒になってしまうという事なのかもしれません。砂鉄は磁石を置かれるとある適度一辺倒に方向を変えますよねそれに似てるのかもしれませんね。 結構簡潔に終わってしまった事をお詫び申し上げますw
お礼
群集心理的要素は多分に存在しますね。つまり、無批判、空気、思考停止、付和雷同という人間として恥ずかしい状態です。そういうものに乗って大体の企業活動は行われるわけですけどね。 流動的心理状態(どっちかな~ですか?)で「あきらめろ」のほうが美徳の歴史も地域もあるのではないでしょうかね。少なくとも日本の中世くらいだったら圧倒的にそっちだった気がします。つまり、あくまでも根拠のない言辞なのでしょう。もしかすると、近代現代社会の中に「あきらめない」を誘発する要素それと鍵穴が合う鍵が含まれているのかもしれません。
一昔まえ作詞 木村充輝さんで「あきらめましょう」という曲 が巷にながれていました。歌手は華原朋美さんだったかな。 なるほど、ぱっと諦めるというたいへん難しいことを あきらめましょうという言葉で爽やかに表現したなんとも 穏やかな歌だったと記憶しています。 しかし、メジャー調の明るい歌なのになぜか物悲しい印象を 拭いさることは出来ませんでした。何故だろうと考えたのですが。 「あきらめる」という言葉そのものにネガティブな印象が ついているということと、あきらめるという言葉そのものに なにかにまだ執着しているということがワンセットであるという ことに気がつきました。 つまり 目指す→挫折→あきらめる→忘却 本当にあきらめた状態はそのもの自体忘れてしまうことでは ないかと思うのです。 今日のJpopの歌詞は恋愛歌が多いまたは、恋愛を暗示した歌 が多いためあきらめるというネガティブなイメージと 次の段階の忘却という恋愛におけるタブーを連想させないため 「あきらめるな」「あきらめないで」という言葉を 多様しているのではないかと思うのです。 教育現場や社会一般におけるあきらめるなという言葉については ケースバイケースなので申し上げにくいですが、あきらめずに ことをなし、そして成功を収めるということは理想です。 理想は美しいものであり、最大公倍数であることが多いです。 あなたが実現しっこないことは早急にあきらめてさっさと 違う道で大成しろというのは間違っているわけではなく 少数派なのではないでしょうか。
お礼
諦めましょうは聴いたことありませんが、なかなか共感できそうですね。あきらめ→忘却というプロセスは普通だと思いまして、特に恋愛のタブーとは思えないのですが?完全に記憶がなくなるわけでもなく、また再会などきっかけがあれば再燃するんじゃないかと。やはり歌がどうして無意識的忘却の美しさを注目しないんでしょうかね。 私自身があまりに執着して人生の質を落とすという傾向があるので、ああなんか毒されたな~という苦い思いからこの質問を立ち上げたのですが、こう批判するのも少数派ですかね。
- Harune_
- ベストアンサー率20% (1/5)
世の中「あきらめない」ことが絶対正しいかのように言われ、 単純な価値観を押しつけられるようで、 息苦しい感じはわたしもします。 たしかに潔くあきらめることが美徳とされる場合もありますね。 恋でも、お金でも、その他いろいろなことに関しても 情熱を傾けるのはいいことですが 少し引き際を誤れば貪欲や執着ばかりが目立ってしまいかねません。 しかし「あきらめる」ばかりでもよくないと思うのです。 目標転換して次にいっても またうまくいかなくなってあきらめる、 その次も泥沼になってきたから身を引こう… ということを繰り返すようでは 強さ潔さなど誰にも認めてもらえません。 どれだけ醜くても、泥臭くても、 やはり最終的にはどこかで踏ん張らなければいけないのだと思います。 「あきらめるな」という言葉が真剣な意味でに使われるとき 話し手はこういうことを言いたいのだと思いますが、いかがでしょうか。
お礼
ご回答、もっともだと思うのですが、しかし同時に、やはりこの質問を立ち上げようと思ったなにか「洗脳作用」のようなものに対する疑念が沸き起こっています。 うまくいかない→どんどん次にいく→ヒットするものを発見する→成功する こういう過程がメジャーに名ってのなんら悪いことはないと思うのですけどね、むしろうつ病を減らすのではと。 たしかに踏ん張る強さはなにか印象的でことをなす要素です。しかし、それは拘泥ストレスを伴っている。 やはり、どっちもとりえがあるのに、なにか一方だけを無批判美談にする傾向があるようです。
補足
お礼後のどしますね。 私思いますに、企業人を養成するという魂胆がこの国のどこかにあってそれが文化的媒体に流出定着しているということがいえませんかね。つまり、企業人にとっては「あきらめる」営業姿勢はご法度だということで。
- anris
- ベストアンサー率36% (12/33)
もう一方の価値観、つまり、「あきらめる」に対しての市民権は、 言葉が変わっているからです。 好きの反対はなんだかわかります?実は、「嫌い」ではなく、 「無関心」です。 「あきらめない」の反対は「あきらめる」ではなく、 「自分らしく」です。 これは。国語学的に言ったら間違っているかも知れませんが、 生活のうえでは真実です。 「あきらめる」の語源は、「明らかに見る」だといわれていますが、 自分には、何ができて、何ができないのかを知ったとき、初めて、 「あきらめる(明らかに見る)」ことができます。 ちょっと話はずれましたが、「あきらめない」という自己啓発的な側面で、市民権を得るか、「あきらめる」という言葉が変わった、「自分らしくいる」という言葉で市民権を得ているかの違いです。
お礼
そうですか!これは非常に鱗なご回答です! 「自分らしく」ってそのニュアンスだったのでしょうかね。 「自分らしく」執着して一生をかけて時には一生を棒に振るということはあまりない?「自分らしく」はつねに仏教的なカーストの残滓的あるいは封建社会の身分制の潔い社会を反映していますかね。 でも、たしかに変わる言葉、変容して「自分らしく」もその代用の一例だと感じます。ほかにもありそうです。 しかし、やっぱり、「好き」⇔「嫌い」「あきらめない」⇔「あきらめる」の構図もあると思います。少数派かもしれません。
- donguridog
- ベストアンサー率5% (5/100)
>なぜ、一方だけの価値観しか市民権を与えられないのでしょうか? でも、基本的なことはありませんか? 裏切り。 陥れる。 他殺。 報復。 何事にも汚いって。 極度の愛国心。
お礼
そうですね。 裏切りと信頼誠実。 陥れると滅私奉公 他殺に自殺 報復につつましさと辛抱 極度の愛国心と極度のノンポリ それらはある気がします。
お礼
ケチさ加減からくる!資本主義原理的かもしれませんね。変化を奨励するというのは、かえって難しいことを要求することのなるのかもしれませんね。人間性の限界ということで案外こういう思考形式になっているのかもしれません。各方面における深慮のなさ、それも人のモラリスト的な限界を呈していますね。