部族ではないですけど・・。
武士社会で、後世の事例になったのが、平清盛による源頼朝赦免です。
平治の乱に敗れて背走した頼朝は、捕らえられ処刑されるところを池禅尼の助命嘆願で、伊豆の国に流される事で一命を取り留める。
同じく、源義経も鞍馬寺で出家することで、一命を助けられたが、結果的には両名とも平家を滅ぼすこととなり、これを前例として敗将に連なる男子は、老若を問わず首を打つことが武士の習いとなった。
国士無双と称される、漢の武将韓信は斉王になったときに、項羽から味方するように誘われ、腹心のかい通(かいは機種依存文字)も劉邦と距離を置き、項羽とともに天下を3分割するように薦めたが、劉邦への義理からこれを断った。
劉邦は項羽を倒し、天下を握った後、韓信を疎ましく思い、讒言を信じて冷遇するようになり、やがて殺されてしまった。
これをもって
「狡兎死して走狗烹らる」という言葉ができたとか。
呉の猛将、伍子胥は呉王夫差を助け、呉を中国第一の強国にし、夫差にも厳しく諫言を行った。
宿敵越を破った夫差は驕り高ぶり、諫言をする伍子胥に自決するように迫り、死を与えた。
伍子胥の死後、呉は荒廃し、越に蹂躙されることとなり、夫差は伍子胥の言を信じなかったことを恥じて顔を白布で隠し自決した。
お礼
特に戦国の世においては、情けを掛けた事が一族の滅亡を招く 火種となってしまうとは、恐ろしい話ですね。 また違う話でしょうが、スターリンが部下の将校を大勢処刑した話を 思い出してしまいました。何時の時代も、戦時の軍人は気苦労が多そうですね。 驕りは身を滅ぼすとは言いますが、何にせよ伍子胥が気の毒です。