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宗教の名の下に起こる犯罪、争いの真相とは?
- 宗教が犯罪や争いを引き起こす理由や背景について、哲学の回答常連の皆さんに聞きました。
- 宗教には人の心を良心という感情で導く影響力がありますが、逆に煩悩と呼ばれる悪しき心も存在します。
- 宗教の名の下に起きる戦争や犯罪は、良心の欠如が背景にあると考えられます。一体どう思われるのでしょうか?
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No.7です。 >「ことば」というものは人それぞれの受け止め方をされてしまうんですね。 >それが原因で議論がかみ合わないという状況が生じてしまうのでしょう。 ジミー・カーターって人。 『議論の的が何であれ、クリスチャンは適当な聖書の言葉を強調し、その言葉の普遍性を主張することによって自分たちの意見を補強することをしないわけではない。しかしそれは、聖書を利用して個人的な好みを合理化しているにすぎない。「神と私は正しい。私たちに同意しない人はだれであれ間違っている。」私がいつも憂慮するのはこうした「正しい信者」である。』 これは何もクリスチャンだけではなく、一般人にも言えること。 良心の働きが無いと、争いになり 戦争になる。 『残された道は、プラグマティックな目標に焦点を絞ることだ。その目標とは、戦争を回避し、苦痛を軽減し、残酷で圧制的な体制のドアを開き、前向きの変革をもたらすことである。多くの場合それは、権力を掌握している者が <どれほど嫌な相手であろうと、私たちが対話を厭わない時> にのみ可能となる。 対話を厭わない気持ちのみが、私たちに妥協の余地を見出させる』 というのを聞いてどう思うでしょうか。 私、何度かクリスチャンと聖書の解釈について意見の不一致があり、「おかしくないですか」と突っ込みを入れると、クリスチャン それに対して返事をしてくれず、「あなたに神の祝福を」と書き逃げされるんです。 「そんなの求めてない、私がさっきから求めているのは説明」なわけですが。。。 なんで、説明の要望に関して答えてくれず祈られるのか???? 私の要望がうまく相手に伝わらなかったようで、私が神の祝福を求めていると思われてしまったのか? ・・・。 そんなわけないですね。 逃げ口上。 私は相手に逃げられると毎回思っちゃうんです。 「出てきておきながら、答えられないと逃げるとは・・・でも相手にしてみれば、それ以上つっこまれても知らないものは答えられないのだろう。知らないと言う勇気 持って欲しいなぁ」と。 要するに『「だって聖書に書いてあるから」 「私がそう言うようになった原因は、聖書に書かれているからです。意味など知りません。聖書に書かれていなければ、私はそういう事は言いませんでした。 責任は聖書であり 私ではない。だから私に聞かないで』ってわけでしょ? 危険だ。 こういう人だと、自分の所属するグループの中で、パワーを持った人がその人に命令すると、その命令を「だって聖書にそう書いてあるから」と同様に扱いその命令を良心のふるいにかけることなく実行できてしまう。 『君は根拠の無い噂を流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。君は多数者に追従して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追従して証言し、判決を曲げてはならない』 で、それをやった場合 どうなるか。 ホロコースト。 だから やっては駄目だと古代の賢者は言っていたわけですね。 やってしまった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%92%E3%83%9E%E3%83%B3 『裁判を通じてアイヒマンはナチスのユダヤ人迫害について「大変遺憾に思う」と述べたものの、自身の行為については「命令に従った」だけだと主張した。』 良心なしに 「上の命令を実行したまで。」 「上が私に命令しなかったらやらなかった。」 「だから私が悪いんじゃない」 って主張なわけです・ 上が悪いんじゃなく 良心の不在 が原因でしょ? 一党独裁だったから、選択の余地は無かったのかもしれませんが。 >まずは言葉をどう受け止めて使っているか。そのところを分かり合ってこそ議論が成立するように思えます。 んーー あくまで私が思うことなのですが、、、 言葉じゃなくて、良心を働かせ行動するかどうか じゃないかと。 どれほど嫌な相手とも、対話しようと働きかける行為が、ルーアハの出現じゃないか と。 敵対する相手をボコボコにして追い出して、もう懲りて来ないだろう と思ってたら、また やってきて「あの~」と接触を試みてきた場合、ただの馬鹿と呆れるか それとも。。。。 「こりゃ 一度 席をもうけて話しだけでも聞いてやろう」って少し歩み寄るじゃないですか。 そうなると、内から外に吹いて入ることを妨害していた風が止む。 凪になり、入れる。 凪いだ状態でテーブルに着けば、暴風の時はできなかった和解に達することができるかも。 それは、言葉もいらない。 信頼 というか 少なくても「どうやら相手は自分に危害を加えたり、自分に不利になるようなことを押し付けようとしてやって来ているのではなさそうだ」となり、相手に対する見方が今までとは変わってくる。 態度を軟化させても大丈夫だとなる。 磁場に両者がひっぱられ、同じテーブルで食事をするようになる。 そしてやっと「このままだと、アメリカによる爆撃を受け、これだけ損害が出ると見込まれます。」とデータを提示され、「でも この条件を受け入れれば、これだけ損しますが、これだけお得も得られます」と説明される。 「これを言いたくて何度もドア叩いていたのか」となり「で お前はどうするべきだと思う? その条件を飲むと国民は納得せず私を支持しなくなる」と言われたら、「その懸念も計算済みで、綿密なプランを練ってきました」と商談に入るわけです。 で、敵対する勢力の人だけど、ジミーカータが出てくると、腹を割った話し合いをした相手なので、敵国の代表は門前払いにするが、この人のアドバイスだけは一応耳を貸すようになる。 お互いの中に良心が磁場(西洋の宗教の場合 神 が適切かな?)にひっぱられて、敵対していた者同士が、いつかは和解に至れるようになるのではないか というのがジミーカーターの信仰の証なわけです。
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- harepanda
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まず、人間には他をおもいやる心「良心」があるというのは、定説ではありません。人間の他者に対する感情を表現するにあたり、アダム・スミスのようにシンパシーの概念を使う人もいれば、ルソーのように一般意志の概念を使う人もいます。プーフェンドルフは社交性衝動という概念を使いました。昨今の薄っぺらな議論の中に、承認という概念を使う人もいます。ようは、「人間がいかにして、人と人の関係、人と社会の関係を作り上げていくのか」というテーマを、人間本性から導出しようとする議論は、人間の本性とは何であるかという前提が違うと、全く違う結論が出てきてしまうという問題があるのです。このことは、とっくの昔にルソーが指摘してしまったことであり、挑戦も何も、わたしに挑戦するならジャン・ジャック・ルソーに挑戦するくらいの覚悟を持ってくださいまし。 人間には悪い心もあるというのも定説ではありません。例えば、一神教であるはずのユダヤ教、キリスト教の枠組みの中では、「全知全能の創造主がいるのなら、なぜ必要もない悪などというものまで作ったのですか?」という質問に、正面突破で回答することは不可能です。さらに、「旧約聖書のダニエル書、新約聖書の黙示録のように、神と悪魔の最終戦争という思想が、なぜ一神教に混ざっているのですか?」という質問にも回答できません。理由はおそらく、ユダヤ教に二元論のゾロアスター教の影響が混じりこんでいるからだと思います。黙示録の本質は、「現在、キリスト教徒はローマの迫害に苦しんでいるが、ローマはかつてのバビロンと同じように、滅びるであろう。その日まで、キリスト教徒は団結して生き抜かなくてはならない」という暗号の手紙だとされています。しかし、キリスト教がローマの国教となり、本来はすでに不要になった後も、聖書の中に、この意味不明な文章が残ってしまいました。だから、黙示録を語りだすと、オカルトになってしまう人が多いのです。 また、何をもって悪となすのかというのも議論の余地があるところです。人間は哺乳類の範疇におさまる生き物ですが、特異な性質をいくつか持っています。ホモ・サピエンス・サピエンスのメスは、他の哺乳類のメスが明確な発情期を持つのに対して、一年中、オスを受け入れることが出来ます。哺乳類の中には、メスが子育てをしていると発情しないので、オスのほうが子殺しをして、無理やりメスを発情させるという行動をとるものすらいるのです。ホモ・サピエンス・サピエンスも、ひょっとしたら、このようなタイプの哺乳類に進化していた可能性が高いわけです。その場合、子殺しは当然のように発生する出来事となり、人間社会においても、オスによるメスの子殺しは悪とは見なされなくなるでしょう。 宗教の名の下に起きる戦争とは、単なる迷信による戦争に過ぎず、本来は野蛮時代に属するものです。現代では、純粋に宗教が原因で起こる戦争など、あまりありません。例えば、イスラムの内部で主流派のスンニ派と少数派のシーア派があるのは、歴史的・文化的には勝っているはずのイラン人が、成り上がりのアラブ人に支配されているという屈辱感から、少数派のシーア派となったことによるものであり、本質は宗教闘争ではなく民族闘争です。イスラエルが周辺イスラム各国と、もめごとを起こしてばかりいるのは、第一次大戦の時にイギリスが、諸国を見方につけようと「イギリス側につけば、戦後、こんなほうびをやる」というカラ手形を連発し、しかもその口約束が、そこらじゅうで矛盾していたからです。アルバニアにいたっては、かつてオスマントルコに支配されていた時、家庭に残る女性はキリスト教徒、社会生活のある男性は、なんちゃってイスラム教徒という戦略でオスマントルコ時代を巧みに生き抜いた国であり、宗教間の戦争など無意味であることを何百年も前から実証していた良い例だと言えます。 クラウゼビッツが述べたとおり、戦争とは外交の延長に過ぎないものであり、外交以外の手段をもっておこなわれる外交が戦争なのです。クラウゼビッツ以降の近代戦は、国家間の戦争であるかぎり、この法則に当てはまります(内戦やテロとの戦いを除く)。ここでは、宗教心とか良心とかは通用しません。政治的利害関係や民族間闘争こそが、戦争の本質なのです。
お礼
良心も悪い心も定説ではない。ということについての文面をよく読んでみました。ここでは「善」も「悪」も社会性といった要素を加えていくと「定説」といえるようなものはない。と受け止めてみたのですが。 何を以って悪となすのか、議論の余地がある。ということについては、社会人として立場が違えば、善も悪も変化してくるのだなぁ、と思いました。 「宗教の名の下に起きる戦争」以下の説明に接しても、やはり‘社会’に向けた厳しい目を感じます。‘宗教’という‘力’は利用されもするのですね。 それから私の質問で使った「良心」という言葉は、さまざまに受け止めることができるのだと、感じました。多くは視点の違いが原因だと思いますが。 ちなみに私が思い描いて使った「良心」あるいは「悪い心」は、子どもにも備わっている心、まだ社会人になる前の、親の保護の下にある子どもの「心」のことであることに気づきました。 回答ありがとうございました。
補足
回答ありがとうございます。私の質問の文章からどの程度のレベルで説明すれば分かるだろう、と思ってくれなかったのでしょうか。 私にはレベルが高すぎて、この回答と自分が発した質問とをどこでどう結びつけたらよいのかわかりません。 良心があるというのは定説でない。悪い心があるというのも定説でない。之をどう受け止めたらよいのか考えているところです。 もう少しレベルを下げて説明して下さるとありがたいです。 また、善と悪が一本の線で分けられるなどとは思っておりませんので、補足しておきます。よろしくお願いします。
- dongri5656
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まず、良心ってなんですか? その定義をしてもらわないとちゃんとした回答はでき ないでしょう。 宗教が真の信仰であった時代は過去のものです。公明党 を見ればわかるようにその背後にあるのは政治的経済的 な手段、圧力団体です。 宗教の異端を排除するために中世西欧では女性への拷問 とそれに続く処刑がが繰り返し行われました。それを 詳述した本を読むとわかりますが、やっている連中は おぞましい性犯罪者たちです。女性への陰湿な興味が女性 器をいじめる道具で実現されます。 十字軍にしても同じ。やっていることは盗賊行為です。
補足
早速の回答ありがとうございます。哲学される人は‘良心’という言葉に、あいまいさを感じるようで、ほかでも良心とは何かといった、疑問を出されたことがありました。私の受け止め方は、やさしさとか、他を思いやる心といった、ごく一般に受け止められているであろう心持のことです。理性というよりも感情に属する心理といえばよいでしょうか。 そんな意味で‘良心’という言葉を使いました。
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お礼
私が質問に使った「良心」という単語について、いろんな意味を含ませることができるのだなぁと思いました。ただ単純に‘やさしさとか’という補足をつければ皆さん共通の認識の下での議論が成り立つのかと思っていたのです。 例えば子どもの心に、さっき虫を殺しちゃったけどかわいそうだったなぁ。もう殺すようなことはしないよ。と云う様な心情を「良心」という言葉で表現していたつもりだったのです。 でも大人になりきってしまった皆さんは、社会人として道徳的価値観に基づいた「良心」を想定しての回答でした。理性で納得できる「良心」が必要だったように思います。 きぐるみさんは、私が言わんとするところを、理解してくださったようで、まことに心強いメッセージでした。豊富な知識をもとに、そして私とは違った観点から、「良心の不在」を指摘した論は知識人にはよきメッセージとして受け入れられるのではないでしょうか。 言い回しが独特なのでちょっと分かりづらいかなぁ。 回答ありがとうございました。