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川越と江戸の船便
所要時間と江戸のどこへつくかを教えてください。
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- jo-zen
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以下のURLを参考にしてみてください。 http://www.alpha-net.ne.jp/users2/kwg1840/fune.html 舟の種類は、並船・早船・急船・飛切船などがあった。並船は一応の終着地の「浅草花川戸」まで一往復七・八日から二十日ほどかかる不定期の荷舟、早船は乗客を主として運ぶ屋形船。急船は一往復三・四日かかる荷船。飛切船は今日下って明日上がるという特急便であった。
- 川原 文月(@bungetsu)
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私は、自称「歴史作家」です。 しかも、川越市に住んでいます。 さて、川越と江戸の舟運についてですが、「江戸」と書かれているので、「江戸時代」のことですね。 そもそもの始まりは、寛永15(1638)年1月20日の朝に川越に大火があり、その時、川越にある「仙波東照宮」が類焼しました。時の藩主は「堀田正盛」でした。 ただちに、千代田城(江戸城)にも報せが届き、東照大権現さまを祭ってあるため、内川(ないかわ=現在は新河岸川しんがしがわ)をつかって、江戸から川越へ修復のための第一級の材木などを運んだのが始まりと言われています。それまでは、川越街道をつかっての陸路輸送が主体でしたが、一気に大量の資材を運ぶには、余りにも時間と人手がかかり過ぎる、ということで、隅田川と新河岸川がつながっていることに目をつけ、舟を使うことにしました。 しかし、本格的な輸送路としての開発は、正保4(1647)年、川越藩第5代藩主松平伊豆守信綱が内川を改修して、九十九曲り三十里を掘削してできたのが新河岸川です。この九十九曲りにしたのは、なるべく流れをゆるやかにするための工夫でした。これにより、川下(江戸)へはもちろん、川上(川越)へも舟が往復することができるようになったのです。 川越の出発地点は、上新河岸(現:上新河岸)と下新河岸(現:下新河岸)、その対岸の牛子河岸(現:牛子)が主でした。やがて、上新河岸より上流にも扇河岸、下流に寺尾河岸ができ、「川越五河岸」として問屋などが軒を連ねました。 申の刻(午後4時頃)に川越五河岸から出発した舟は、翌朝の寅の刻(午前4時頃)千住(現:尾竹橋付近)に着きました。その後、さらに川下の花川戸まで行き来するようになりました。 人馬による陸路ですと、馬の背では米2俵、大八車でもせいぜい5俵がせきのやまでしたが、川越舟運は一舟で250俵運べたということで、川越の産物を江戸へ、そして、江戸の流行を川越へと発展していきました。