●仏教:古代実存主義
西洋系哲学のバックグラウンドがある人物であれば、原始仏教の本質を、このように捉えることがあってもおかしくありません。事実、この指摘を読んだことがあります(誰のなんという本だったか、忘れてしまいました)。仏教は本質的には輪廻からの離脱(涅槃)を目的とし、なぜ人間には苦しみというものがつきまとうのであろうかというテーマを追い続け、正しい生き方をすれば苦しみはなくなるはずだという発想をもっています。
また、仏教の無我論も極めて西洋の実存主義的な思考態度に近いものです。ただし、私は仏教のほうが、通常の実存主義よりすぐれていると考えます。実存主義には歪んだ自意識過剰が見られる傾向があり、これは、今まで信じてきた神が信頼できなくなってしまったことにより、自分たちのよって立つ場所が見つからず、自意識過剰になるのだと思います。サルトルが好きな人には申し訳ないのですが、弁証法家である私には、サルトルの本音など、この程度のレベルのものとしか思えません「オレは不幸者だ。だから頭がいいんだ。どうせお前みたいな幸福な馬鹿にはわからんだろう」。
仏陀に一番近い西欧哲学者はキルケゴールであるような気がします。この人は実存主義者の中では珍しい弁証法の系譜に入る人物で、この人の立場をまとめると、こうなります。「きみは今、幸せ者かもしれない。でもどんな幸せ者でも、不幸者に転落してしまうことがある。自分がそのプロセスを示して見せよう」。仏教が弁証法的であることはしばしば指摘されることです。
仏教の本質を「悟」とすることは、結果だけを見れば正しいことです。しかし、結果そのものよりも、その結果にいたるまでのプロセスを重視する傾向が仏教にはあることも、見逃さないほうが良いと思います。
●キリスト教:有機的な神との対話
ユダヤ教、イスラム教と同様、キリスト教もまた一神教にして、神と人間の対話をいう要素を持っています。ただし、この対話のスタイルが、それぞれ異なるのです。もっとも原始的なのがユダヤ教、もっともストレートなのがイスラム教です。
キリスト教のポジショニングは、神と人間の対話を、具体的かつ有機的に語るという特徴にあります。神と人間ではあまりに差がありすぎるので、ある程度の有機的関連性を組み込まないと、神と人間の間には、コミュニケーションが成立しにくいのです。キリスト教はこの有機的対話チャンネルの構築という特性により、人間にとってもっとも神を理解し易い一神教となっているわけです。
キリスト教は神と人間の対話を媒介する存在として、聖職者がざんげを聞くという習慣を持っているほか、天使や聖人の概念を使いこなします。また、三位一体論は、ユダヤ教やイスラムでは見ることのできない原理です。さらに、キリスト教においては偶像崇拝の禁止は事実上廃棄されており、これは本が普及する以前の時代に、偶像を通して神と対話するという態度をとっています。東方正教会においてはこの傾向が特に強く、信者がありがたがって絵を触りまわすうちに絵が破損してしまうため、キリストやマリアの顔の部分を除いて、そのほかは金属で覆ってしまうというスタイルのものすら見られます。
偶像崇拝を否定的に見る必要はないと思います。敬虔な東方正教会の信者は、別に神社に行く日本人のように現世利益を求めているわけではなく、ただ心の安静を求め、恭順の気持ちを伝えているだけですから。
キリスト教の本質が「悟」であると思うか否かですが、悟という語が仏教的な通常世界からの解脱と急激な覚醒を意味することはありません。しかし、悟という漢字を、ヨーロッパ人の使う理性の概念と同等のものであると解釈すれば、キリスト教は理性の宗教であり、悟という漢字も不自然ではないということになるでしょう。
●イスラム:社会倫理
イスラム教は最も純粋な一神教ですが、他方で、生活スタイルの細かいところにまで入り込み、人々の日常生活における行為のあり方まで規定してしまうという傾向があります。これは、肯定的側面をとらえれば社会倫理であり、否定的側面をとらえれば教条主義となります。
イスラムにおいては、礼拝、断食月、飲酒の禁止、食のタブー、ドレスコード、喜捨などの要素が、日常生活に組み込まれることとなります。聖地巡礼を果たした人は、地元に帰ると尊敬されます。現在では否定的なイメージで語られ、イスラムの保守性を示すものとされている、いわゆる「4人妻」の習慣にしても、もともとは、戦争で男が減ってしまい、生活が立ち行かなくなっている女性がいることを背景として、富裕層はひとりで複数の女性を扶養しなければならないとする福祉政策だったものです。
ただし、このようなイスラムの特性は、当初の理念が失われるにつれ、教条主義化していくケースもあります。端的にそれをあらわしているのが、アフガニスタンを以前支配していたタリバーンで、タリバーンが実効権力を握っていた間には、異様な事象が多数みられました。たとえば、ボクサーは肌の露出度が高いという理由で、ボクシング禁止令が出てしまいましたし、なぜだか理由は想像もつきませんが、たこあげ禁止などという決まりも出来ましたし、なんといってもあのバーミヤンの貴重な仏教遺跡を破壊したのは許しがたい行為です。
イスラムは本来、経典の民(ユダヤ教、キリスト教、イスラム)としか結婚してはならないとする教義をもつものの、基本的には宗教的寛容を説くものであるという原点をタリバーンは忘れています。イスラム国家の中には、ヨーロッパで迫害されたユダヤ人を多数受け入れてきたケースもありますし、インドのようにカースト制度から逃れようという発想でイスラムに改宗した人もいるという事情を、タリバーンは全く分かっていないようです。
さらに、多くのイスラム国家で、税金さえ払えば異教徒であっても信仰の自由が保証されるという制度がとられ、イスラムに乗り換えたほうが税金が安くなるという理由で異教徒が多数移住してくるというケースがあることも見逃すべきではないでしょう。この政策で政治的成功をおさめた典型例はオスマントルコで、キリスト教徒による軍隊を作ったりしているわけです。もともとはキリスト教国だったアルバニアは、トルコの支配下に入った際、家にいる女性はキリスト教徒、社会生活のある男性はなんちゃってイスラムという変則パターンで、トルコ人のお気に入りとなった国です。トルコ料理の本には、よくアルバニアレバーというレシピが出ていますし、オスマンが勢力を失っていく中でエジプトが独立をしてしまうのですが、その時のエジプトのリーダーもアルバニア人です。
お礼
ご回答のもつ値打ちの何%なりと掴もうと思い、印刷してきちんと読みました。全然分からなくて、しかも丸ごと分かったという感じです。ご期待通りに読めるレベルにないのは、お見通しでしょうから率直な読後感を記してお礼とします。 1 喩えとして、こういうことを考えます。A群には仏教、キリスト教、イスラム教。B群には古代実存主義、有機的な神との対話、社会倫理。これらを一対一に対応付けよと言われれば迷いなく、このご解答の通り結ぶような気がします。B群に幾つかのダミーを忍ばせても正しい3つを選び出せそうです。この意味でいえば丸ごと良く分かりました。 しかし、分かるということは、こういうことではないのでしょう。古代実存主義、有機的な神との対話、社会倫理。これらのキーワードを捻り出すことこそが分かるという意味でしょうから、この点からいえば何も分かってはいません。 2 比較して言えば、ご回答の仏教の項目に多くの哲学用語が登場しているのは何故かを考えました。多分偶然ではないのだと思います。質問人のレベルを考えてキリスト教以降は哲学用語を削ったというのでもない気がします。禅のことも実存主義のことも何も知らないのに何故か私の中で、両者はよく結びつき、そもそも禅とは宗教なのかという疑問もあります。寝言の類でしょうが。 3 聖母の無原罪の御宿りにしても、三位一体にしてもキリスト教は、よく理論化するものだと感心します。これらの論理を追及した経験は未だありません。科学が未発達の時代に神の存在を前提にすれば、これらの論理は完璧なのか、あるいは破綻があるのか興味があります。これも直感だけですが西欧と論理はよく結びつくので、キリスト教と有機的な神との対話もよく結びつきます。 4 イスラム教はキリスト教より6~700年歴史が浅いそうです。単純人間の習性として今日のイスラム教と6~700年前のキリスト教とを比較したくなります。あるいは6~700年後のイスラム教と今日のキリスト教とを比較したくなります。このとき、どの辺りが共通し、どの辺りが異なるのか興味があります。 おかしな言い方ですが、今日ではイスラム教はキリスト教より宗教色が濃いのでしょうから社会倫理とよく結びつきます。 哲学の素養がないので十分には読みこなせません。済まなく思います。有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。
補足
締め切るに当たって、回答を寄せて下さった皆様へ これは補足ではありません。 教理と問えば、あっという間に特定の言葉に集中するのだろうと予想していました。これほどバラつき、というより、そもそも教理が寄せられないのは全く意外でした。一口で言えるほど単純ではないということでしょうか。それとも既に適切なご回答があるということでしょうか。 ありがとうございました。