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仏教、キリスト教、イスラム教の教理の核は?
仏教、キリスト教の教理の核は「悟」、「愛」だと思ってはいけませんか。違っていれば訂正して下さいませ。 イスラム教の教理の核を一口に述べる事は可能ですか。それはどう表現されますか。漢字一字に限りません。教理の核であって実態との乖離は問わないことにします。 よろしくお願いします。
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●仏教:古代実存主義 西洋系哲学のバックグラウンドがある人物であれば、原始仏教の本質を、このように捉えることがあってもおかしくありません。事実、この指摘を読んだことがあります(誰のなんという本だったか、忘れてしまいました)。仏教は本質的には輪廻からの離脱(涅槃)を目的とし、なぜ人間には苦しみというものがつきまとうのであろうかというテーマを追い続け、正しい生き方をすれば苦しみはなくなるはずだという発想をもっています。 また、仏教の無我論も極めて西洋の実存主義的な思考態度に近いものです。ただし、私は仏教のほうが、通常の実存主義よりすぐれていると考えます。実存主義には歪んだ自意識過剰が見られる傾向があり、これは、今まで信じてきた神が信頼できなくなってしまったことにより、自分たちのよって立つ場所が見つからず、自意識過剰になるのだと思います。サルトルが好きな人には申し訳ないのですが、弁証法家である私には、サルトルの本音など、この程度のレベルのものとしか思えません「オレは不幸者だ。だから頭がいいんだ。どうせお前みたいな幸福な馬鹿にはわからんだろう」。 仏陀に一番近い西欧哲学者はキルケゴールであるような気がします。この人は実存主義者の中では珍しい弁証法の系譜に入る人物で、この人の立場をまとめると、こうなります。「きみは今、幸せ者かもしれない。でもどんな幸せ者でも、不幸者に転落してしまうことがある。自分がそのプロセスを示して見せよう」。仏教が弁証法的であることはしばしば指摘されることです。 仏教の本質を「悟」とすることは、結果だけを見れば正しいことです。しかし、結果そのものよりも、その結果にいたるまでのプロセスを重視する傾向が仏教にはあることも、見逃さないほうが良いと思います。 ●キリスト教:有機的な神との対話 ユダヤ教、イスラム教と同様、キリスト教もまた一神教にして、神と人間の対話をいう要素を持っています。ただし、この対話のスタイルが、それぞれ異なるのです。もっとも原始的なのがユダヤ教、もっともストレートなのがイスラム教です。 キリスト教のポジショニングは、神と人間の対話を、具体的かつ有機的に語るという特徴にあります。神と人間ではあまりに差がありすぎるので、ある程度の有機的関連性を組み込まないと、神と人間の間には、コミュニケーションが成立しにくいのです。キリスト教はこの有機的対話チャンネルの構築という特性により、人間にとってもっとも神を理解し易い一神教となっているわけです。 キリスト教は神と人間の対話を媒介する存在として、聖職者がざんげを聞くという習慣を持っているほか、天使や聖人の概念を使いこなします。また、三位一体論は、ユダヤ教やイスラムでは見ることのできない原理です。さらに、キリスト教においては偶像崇拝の禁止は事実上廃棄されており、これは本が普及する以前の時代に、偶像を通して神と対話するという態度をとっています。東方正教会においてはこの傾向が特に強く、信者がありがたがって絵を触りまわすうちに絵が破損してしまうため、キリストやマリアの顔の部分を除いて、そのほかは金属で覆ってしまうというスタイルのものすら見られます。 偶像崇拝を否定的に見る必要はないと思います。敬虔な東方正教会の信者は、別に神社に行く日本人のように現世利益を求めているわけではなく、ただ心の安静を求め、恭順の気持ちを伝えているだけですから。 キリスト教の本質が「悟」であると思うか否かですが、悟という語が仏教的な通常世界からの解脱と急激な覚醒を意味することはありません。しかし、悟という漢字を、ヨーロッパ人の使う理性の概念と同等のものであると解釈すれば、キリスト教は理性の宗教であり、悟という漢字も不自然ではないということになるでしょう。 ●イスラム:社会倫理 イスラム教は最も純粋な一神教ですが、他方で、生活スタイルの細かいところにまで入り込み、人々の日常生活における行為のあり方まで規定してしまうという傾向があります。これは、肯定的側面をとらえれば社会倫理であり、否定的側面をとらえれば教条主義となります。 イスラムにおいては、礼拝、断食月、飲酒の禁止、食のタブー、ドレスコード、喜捨などの要素が、日常生活に組み込まれることとなります。聖地巡礼を果たした人は、地元に帰ると尊敬されます。現在では否定的なイメージで語られ、イスラムの保守性を示すものとされている、いわゆる「4人妻」の習慣にしても、もともとは、戦争で男が減ってしまい、生活が立ち行かなくなっている女性がいることを背景として、富裕層はひとりで複数の女性を扶養しなければならないとする福祉政策だったものです。 ただし、このようなイスラムの特性は、当初の理念が失われるにつれ、教条主義化していくケースもあります。端的にそれをあらわしているのが、アフガニスタンを以前支配していたタリバーンで、タリバーンが実効権力を握っていた間には、異様な事象が多数みられました。たとえば、ボクサーは肌の露出度が高いという理由で、ボクシング禁止令が出てしまいましたし、なぜだか理由は想像もつきませんが、たこあげ禁止などという決まりも出来ましたし、なんといってもあのバーミヤンの貴重な仏教遺跡を破壊したのは許しがたい行為です。 イスラムは本来、経典の民(ユダヤ教、キリスト教、イスラム)としか結婚してはならないとする教義をもつものの、基本的には宗教的寛容を説くものであるという原点をタリバーンは忘れています。イスラム国家の中には、ヨーロッパで迫害されたユダヤ人を多数受け入れてきたケースもありますし、インドのようにカースト制度から逃れようという発想でイスラムに改宗した人もいるという事情を、タリバーンは全く分かっていないようです。 さらに、多くのイスラム国家で、税金さえ払えば異教徒であっても信仰の自由が保証されるという制度がとられ、イスラムに乗り換えたほうが税金が安くなるという理由で異教徒が多数移住してくるというケースがあることも見逃すべきではないでしょう。この政策で政治的成功をおさめた典型例はオスマントルコで、キリスト教徒による軍隊を作ったりしているわけです。もともとはキリスト教国だったアルバニアは、トルコの支配下に入った際、家にいる女性はキリスト教徒、社会生活のある男性はなんちゃってイスラムという変則パターンで、トルコ人のお気に入りとなった国です。トルコ料理の本には、よくアルバニアレバーというレシピが出ていますし、オスマンが勢力を失っていく中でエジプトが独立をしてしまうのですが、その時のエジプトのリーダーもアルバニア人です。
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No.3です。クリスチア二スムについて 補足します。信教・思想・表現および言論の自由にもとづいて 投稿します。 その核は 信仰であり これは 人為を超えていると述べました。同時に 教理はありませんと。 たとえば 核を《愛》ととらえる場合 それは やはり 十字架上の死とその後の復活に焦点があたるわけですが そしてそれは 神は その独り子をお与えになるほど この世を愛された。子を信じる 人が一人も滅びないで 永遠の生命を受けるためである。 (ヨハネ福音3:16) このように説明されるわけですが このとき 神は――もしくは 人間としてのイエスではなく キリストとしてのイエスつまり神の独り子としてのイエスは―― 自分勝手に はりつけの刑に甘んじて 死についたのです。(人間としてのイエスは 出来るなら その杯を取り除いてください・でも みこころのままになさってくださいと言っています)。 この死と復活が 愛であり 言われるように 無償の愛であるのですが もし このとき 自分勝手に振る舞ったのでないのなら 無償とは言わないはづです。人間がそれに応えるという報いを神は望んでいたことになるからです。人間よ愛を示すから その愛に従えという要求のような含みがあったことになるからです。 ですから すべては 人為を超えています。 ちなみに ブッディスムは あたかもこのような超経験のことがらを その教理に散りばめていますが 結局のところ 人為もしくは経験思想であることを超えないもののようです。 ユダヤ人は 超経験を概念としては持っているはづです。ですが すべては 律法やその規則によって 生きるということのようです。 イスラームは 超経験が どこにどのように触れられているのか 門外漢にとっては 分かりかねます。もしくは 教理のすべてが 超経験をあつかっているようにも思えます。(つまり わたしのほうが おしえて欲しいという意味にもなります)。
お礼
間違いなくNo.3の補足として読みました。 1 肝心要の主要部分が私には通じません。が、仮にこの質疑を追跡している方が居られればANo.3で >>その核は 信仰であり これは 人為を超えていると述べました。同時に 教理はありませんと。 こう述べられた理由を、ANo.8の論証によって承知されたことと思います。 2 私に通じない最大の理由は「イエス」を「人間としてのイエス」としか把握できていないからでしょう。この事情は http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3886781.html のANo.9のお礼の欄に明らかです。折角ですが、今日明日に理解できるものではありません。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。
補足
締め切り予告 これは補足ではありません。15日以来、新たな寄稿がありません。 19日(土)、朝までに何方からも新たな寄稿がないときは当方の都合次第で締め切ります。どなた様も原稿を無駄にされませんように。
- give_thank
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キリスト教の教理の核はマタイの福音書に書いてあります。 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」(聖書) キリスト教には少し誤解があるようです。キリスト教は御利益宗教や脅迫まがいの宗教ではありません。 愛の宗教、優しい宗教というイメージがあらしいですが、ちょっとみなさんが考えているものとは違います。 父親で子供がいうことを聞かずに好き勝手やっているのをみて怒らない人はいるでしょうか。本当にその子を愛しているのであれば怒るはずです。それは神にとっても同じことです。愛し愛される存在として人間をつくりました。自分の愛するひとり子を犠牲にしてまで人のことを思っているのに、人はその存在を無視して自分勝手な道に向かって歩いています。 父なる神と子であるイエスは一心一体であるだけに、イエス・キリストの十字架での苦しみを父なる神も受けたはずです。 それなのに、人間は神を無視し続ける。それは一体どんなことなのでしょうか。 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(聖書) ここにある話があります。 ある日、一人の青年の家に、とつぜん彼の弟が、血みどろになった手にナイフを持ち、洋服も血にぬれた姿で、青ざめて入ってきました。「兄さん、誤まって人を殺して、追われているんだ!」 それを聞いて、彼はすぐに弟の服をぬがせて、自分が着ました。弟を奥の部屋にかくし、弟が持っていたナイフを持って、身代りにつかまりました。やがて彼は、死刑になりました。 ある日、弟のところに、こんな手紙が届きました。「兄さんは死んでいくが、兄さんの死を決して無駄にしてはいけないよ。」 弟は、お兄さんの愛に心を動かされて、急いで警察へ行って、「僕が、僕がやったんです!」と、告白しました。しかし刑事さんは言いました。 「兄さんがあなたの身代りに死んだのだから、二人も死刑になる必要はない。君は自由だ。彼の死を無駄にするな。」 このお兄さんの弟に対する愛を見ると、イエス・キリストのアガペーの愛(無償の愛)が思い出されます。 ここでどのような道を進むのかはその人しだいです。 神は愛なる方ですが、怒る神でもあると聖書にはっきりと書いてあります。「主は怒るのにおそく、力強い。主は決して罰せずにおくことはしない方。」(聖書より) 人の永遠の命のために自分の命を捨ててまでした、この神の愛を無視できるでしょうか。 つまり、キリスト教の一番大事なのは、神を認めて心から愛することです。それは義務ではありませんが、そうするときに心のどこかにあいていた穴が埋まり、こころから喜びが湧いてきます。 私がそのことの証人です!
お礼
>>愛の宗教、優しい宗教というイメージがあらしいですが、ちょっとみなさんが考えているものとは違います。 みなさんといわれる方々の名誉のために代弁しておきます。私以外のみなさんは考え違いをしていないでしょう。大丈夫です。私も、たまたまヨブ記を読んだばかりですので「神の愛」が過酷なのは承知しています。 ANo.6、ANo.7と並んだのは偶然なのか、そうでないのか実に対称的で好都合です。何から何まで裏腹の関係にありそうで興味深く読みました。 有り難うございました。
補足
お礼の欄に誤字がありました。「対称的」は「対照的」でした。失礼しました。
- magga
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上座仏教を学ぶものです。 仏教は「愛」のなかでも「慈悲喜捨」を育てなさいといいます。そして今にちゃんと気づけるようになる「智慧の開発」=「悟り」を奨めます。理性と道徳を重んじ、論理的な明晰な思考を目指します。 信仰の部分も、只信じることを奨めず、根拠を持ち自分の能力の中で精一杯の論理を駆使し、実際確かめ、「信」を強めることを奨めます。 その途中でもその信を持った物自体をすぐに真理とせずに、「私はこの範囲でこのようにした結果このようなことに気づき、このように思う。」とし、それは常に更新可能なものとし「私は正しい、他の意見は全て間違っている」と言う考え方はしてはならないと言います。 対話についても、あくまで個人の自由を侵さずに、論理的に根拠を持ってはなし、対話する人が理性的で対話をする状態ならば、わからないことを知るために対話を続ける。 このような姿勢です。 「理性」と「信じ仰ぐ」が根本的なところに横たわっていると感じます。
お礼
日本にも上座仏教を学ぶ方が居られるのですね。 核にも「外縁部の核」、「中心部の核」と色々ありそうです。「愛」、「慈悲喜捨」、「智慧の開発」=「悟り」、「理性」、「信じ仰ぐ」と沢山挙がりました。 >>理性と道徳を重んじ、論理的な明晰な思考を目指します。 ここの部分を初めとして哲学(というより学問?、常識?)と何ら矛盾しないのですね(道徳を除いて読めば)。所謂、宗教に付き纏う諸々の胡散臭さがこれほど無いとは知りませんでした。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。
- kigurumi
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No.2です。 キリスト教徒の多くはヨハネの福音書が一番好きって人が多いそうです。 日本語に翻訳されているものを見て見ましょう。 「始めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神である」 この言葉と日本語に訳されているものはロゴス。 ロゴスはギリシャ語では多義的。 古代のギリシャの哲学者によって、ロゴスという言葉を使うとき指し示す意味が違っていた。 言葉、理論、真理、あるいは教理などなど。 じゃ、言葉ではなく教理として訳しなおしてみましょう。 「始めに教理があった。教理は神とともにあった。教理は神である。」 ふぅ。 で、その教理ってなに? 教理 つまり 神ってなに? 誰か答えられる? 神とは何か真実を答えられる人 手をあげて? 以前 神って言葉をネット辞書で検索して愕然としたことがあるんですね。 沢山の種類の辞書をネットで検索できますが、どの辞書も神の定義が書いてない。 うそでしょー と思いつつ、確かに、誰も神を定義できないから、辞書に載せられないわなぁ と思いました。 狭義では可能かもしれませんが、真実として「これが神」といえない。 「○○教では△を神としている」程度。 じゃあ その神ってどんなん? こんなことやった あんなこと言った とか書いてあるが、ようわからん。 で、その行為を後意味づけして、行為を正当化している。 あくまで正当化しているのは神じゃなく人間の都合。 自分達の都合にいいように解釈しているだけで、本当のところは誰も知らない。 私は以前 キリスト教ってのは愛の宗教だという印象をぼんやり感じていたんですね。 ええ、あなたがぼんやり感じるように、以前の私も愛の宗教だ 人に優しい宗教だ 癒しの宗教だ という印象をもっていました。 でも、ちょっと足を一歩踏み入れて、その世界で実在した人たちのやったことを見て回ると、(あくまで本でですが)、「これは・・・・ これがどうして人に優しい宗教だと、私は思ってしまったのだろう」となったんです。 不毛の大地に立ちすくしてしまった。 確かにキリスト教は愛を売りにする言葉で信者勧誘をしていますが、外箱は「愛」でも、キリスト教を受け入れないものには死をって実行していますよね。 神を受け入れないものは死ぬ とかやって それって「自分を崇拝しないものは殺す」なわけで、そりゃあ 暴力による人が人を支配する最悪の理論。 「王様は立派な衣装を着ておられる」と嘘八百並べる信者によって支えられている虚構の城。 虚構の城なので幻で実体が無いわけです。 実体が無いものの教理は無いですよね。 「いや キリスト教って現実あるじゃないか」っていっても、例えばb「愛の宗教です」と言いつつ、殺しまくっていたら、一体その団体は何をもって愛としているのか よーわからなん ですよね。 利己的な愛こそ神の愛である って言っているわけで、そりゃあ 人間は利己的ですから、キリスト教信者にならなくても利己愛ありますけど、、、、。 究極の利己愛を持ちましょーってのがキリスト教の教理だというのなら納得します。 確かに、大量虐殺をして奪っていったわけですから、欲に溺れきった人じゃないと信仰できない。 究極の利己利益、究極の自己愛に溺れる人が、キリスト教徒になる というのなら、現実の信者はみなそうですから納得します。 仏教と対極をなすわけです。 ということを考察していくと、キリスト教の教理は「究極の自己愛を求めるもの この指とーまれ」かもしれないですね。 別にどれほど自分を愛してやまなくてもいいんですが、、、 他人に迷惑かけるのだけは止めて欲しいですね。 朝っぱらから、宣伝カーで大音量で音楽ならしながら、地域の静かな朝をかき乱しても平気なわけですから、もう少しだけは他人の平和についてちょっと気を配りつつ、自己愛に溺れて言って欲しいものです。 暴走族っいるじゃないですか。 何故 爆音を鳴らし走るのか。 周りの人に注目してもらいたいからですよね。 他人に注目されないと、自分の存在が希薄になるという病に犯されているわけです。 他人次第な存在なわけです。 自分に自信が無く自分の存在を他人の注目に依存しなければ、存在しているという自覚が無いと、大音量で朝っぱらが一番遠くまで迷惑をかけられるので、賛美歌だかなんだかをガンガンならしながら、「自分を見て 自分の発する言葉を聞いて 注目して お願いだから 自分が消えないためにも お願いだから自分を見て! あなたに慈悲があるのなら、 あなたに愛があるのなら どうか 私を見て 感じて お願いだから うおーーーん」ってわけで、ガンガン鳴らしてしまうんじゃないかと。 哀れ。。。。。。 「心が貧しい人は幸いである」 意味は、「もう周りの誰も自分を支えてくれる人が居ない人は幸いである。やっとそこで初めて神の前に立つから」 つまり、周りに支えてくれる人がいたら、神にすがらなくても生きていけますよね。 神をないがしろにしてしまうわけです。 でも、周りの誰にも頼れない情況になったら、もう残されたものは神に頼るしか道は無いわけです。 周りの人が助けてくれない情況になって やっと 神にすがろうという気持ちになる。 誰一人も頼るものがない、支えてくれる人が無い情況になった人が、「貧しい人」もしくは「心が貧しい人」。 イコール 信仰があれば人を全て失った後、残るのは信仰のみで、やっと神の御前に立たされるってわけです。 で、賛美歌だか聖歌だか知りませんが、ガンガン鳴らしながら迷惑行為をしている人は、神の前に立たず、人に頼ろうとしている。 神に頼るしかないという情況ではなく、また信仰もないので、人に頼ってガンガン鳴らして訴えているわけです。 もしもし、、、何故神に訴えず、人に訴えるのか? 神の存在を否定しているからか、貧しくないからか。 どっちにしても、そのような人がいくら訴えてもその言葉は幻でしかない。 自分ができないことを、他人に薦める愚かさ。 誰か止めてやればいいのに、、、っていつも思います。 彼の教会では彼の暴走を止めないわけで、誰も彼を支えない情況なので、彼は全ての人に見放された状態なわけですが、信仰が無いので、貧しい情況になっても、神によらず人によろうとするんですね。 信仰が無いものが、信仰を勧める。 苦笑というより、本当に哀れな人だと思います。 もし キリスト教の教理が愛であれば、この人のような状態になりえないですよね? この人が信仰心が無いのに、信仰をしていると思い込んでいることに間違いがあるし、神が救わなくても、他の信者が救えばいいのに、それすらせず、このような醜悪な状態をさせ続けるってのも、愛が無いゆえに起こっているわけです。 不毛ですねぇ。
お礼
ANo.2では >>キリスト教は、、、よくわかりません。教理って無いんじゃないかと。 と、結論だけを答えて下さったのに対し、ここではその論証という訳ですね。 ANo.4までに登場したキリスト教の教理の核は「愛」、「なし」、「有機的な神との対話」です。こんなにばらけるとは思っていませんでした。ということは >>よくわかりません。教理って無いんじゃないかと。 この説に一理(もっと?)あるのだと思います。その根拠を述べて下さっていて、読み取れた積もりですが下手な要約や抜粋はしないことにします。 教理の定義は?、神の実態を誰が決めるのか、教理を聖書に観るのか信徒の行為に観るのか、こうした観点の相違によって違ってくるのは良く分かります。 毎度、懇切な回答を寄せて下さって有り難うございます。またの機会にもよろしくお願いします。
ブッディスムは 人為の極致。 クリスチア二スムは 人為を超えたところ。 イスラームは アッラーフ(神)が人(ムハンマド)に乗り移って クルアーンを語ったところ。 二番目は 教理などありません。 最初のは 人為の問題ゆえ 教理だらけになります。 最後のは 教理が神と見なされている。
お礼
ブッディスム・・・・・・・「人為の極致」 クリスチア二スム・・・「人為の超越」。この二者は対比が明瞭になりました。 イスラーム教は、どうも括り難いらしいのですね。そもそも教理とあっさり言っていますが、理解の深さによってその意味にズレがありそうにも思えてきました。 >>二番目は 教理などありません。 これは全く意外でした。そういうものなのですね。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。
- kigurumi
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アバウトですが、、、 仏教は一切が諸行無常であり、空である ことを悟れ。 キリスト教は、、、よくわかりません。教理って無いんじゃないかと。 ユダヤ教、イスラム教だと、神の業に驚き、恐れ、ゆえに敬え。 かな。
お礼
仏教・・・・・・・・・・「諸行無常」、「空」 キリスト教・・・・・・「教理なし」 ユダヤ教・・・・・・・「神の業に驚き、恐れ」 イスラム教・・・・・・「神の業に驚き、恐れ」ですか。 キリスト教の教理がすっと出ないのは意外でした。そういうものなのですね。 無責任に、そして率直に言うとユダヤ教は民族宗教の域を出ないと思っていました。イスラム教の方が一皮剥けている気がしますが教理となると似たようなものになるのですね。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。
- dulatour
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仏教は「慈悲」・・・母親の子どもに対する気持ち キリスト教は「愛」・・・父親の子どもに対する気持ち・・かな イスラムは「神との契約」・・・商売人の掟 慈悲と愛に差についてはいろいろな本が出版されているので、 お読み下さいね (^_^)v
お礼
締め切るに当たって 質問した時点と現在では補足の欄の印象が少し変わりました。イスラム教に「商売人の掟」とのコメントを入れるのは一理ありそうに思えてきました。皆さんのお陰です。 またの機会にもよろしくお願いします。
補足
1 イスラムは「神との契約」、これは100点でしょう。しかし、これを使って良いのならユダヤ教やキリスト教も「神との契約」というのではありませんか。 2 イスラムに「商売人の掟」とのメモが入るのは「母親の子どもに対する気持ち」、「父親の子どもに対する気持ち」に比べると普遍性の点で落差が有りすぎませんか。「商売人の掟」ではローカルな印象で世界が、また人類全体が視野に入っていない気がするのですが……。不当に買いかぶることは出来ませんから事実がそうであれば止むを得ません。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。
お礼
ご回答のもつ値打ちの何%なりと掴もうと思い、印刷してきちんと読みました。全然分からなくて、しかも丸ごと分かったという感じです。ご期待通りに読めるレベルにないのは、お見通しでしょうから率直な読後感を記してお礼とします。 1 喩えとして、こういうことを考えます。A群には仏教、キリスト教、イスラム教。B群には古代実存主義、有機的な神との対話、社会倫理。これらを一対一に対応付けよと言われれば迷いなく、このご解答の通り結ぶような気がします。B群に幾つかのダミーを忍ばせても正しい3つを選び出せそうです。この意味でいえば丸ごと良く分かりました。 しかし、分かるということは、こういうことではないのでしょう。古代実存主義、有機的な神との対話、社会倫理。これらのキーワードを捻り出すことこそが分かるという意味でしょうから、この点からいえば何も分かってはいません。 2 比較して言えば、ご回答の仏教の項目に多くの哲学用語が登場しているのは何故かを考えました。多分偶然ではないのだと思います。質問人のレベルを考えてキリスト教以降は哲学用語を削ったというのでもない気がします。禅のことも実存主義のことも何も知らないのに何故か私の中で、両者はよく結びつき、そもそも禅とは宗教なのかという疑問もあります。寝言の類でしょうが。 3 聖母の無原罪の御宿りにしても、三位一体にしてもキリスト教は、よく理論化するものだと感心します。これらの論理を追及した経験は未だありません。科学が未発達の時代に神の存在を前提にすれば、これらの論理は完璧なのか、あるいは破綻があるのか興味があります。これも直感だけですが西欧と論理はよく結びつくので、キリスト教と有機的な神との対話もよく結びつきます。 4 イスラム教はキリスト教より6~700年歴史が浅いそうです。単純人間の習性として今日のイスラム教と6~700年前のキリスト教とを比較したくなります。あるいは6~700年後のイスラム教と今日のキリスト教とを比較したくなります。このとき、どの辺りが共通し、どの辺りが異なるのか興味があります。 おかしな言い方ですが、今日ではイスラム教はキリスト教より宗教色が濃いのでしょうから社会倫理とよく結びつきます。 哲学の素養がないので十分には読みこなせません。済まなく思います。有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。
補足
締め切るに当たって、回答を寄せて下さった皆様へ これは補足ではありません。 教理と問えば、あっという間に特定の言葉に集中するのだろうと予想していました。これほどバラつき、というより、そもそも教理が寄せられないのは全く意外でした。一口で言えるほど単純ではないということでしょうか。それとも既に適切なご回答があるということでしょうか。 ありがとうございました。