- 締切済み
もし記憶を参照しなかったら
もし記憶を参照しなかったら、 当然過去は無いですよね。 また、記憶の投影物としての未来も無いですよね。 すると、記憶を参照しなければ永遠に連続した現在が続くということになりますか。
- みんなの回答 (42)
- 専門家の回答
みんなの回答
No.20です。 ★ なぜそう思うのです? ☆ に対して なぜそう思わないのです?と返したいところですが こうです。いまは 永遠の現在といった主題について問い求めているわけです。空観も縁起も涅槃も この《いま・ここ》における生活態度の問題であると論じているのですから そのときに ★★ いつの日か涅槃でお会いしましょう ☆ という表現を 《Good Luckみたいな物》として持ち出すのですから どうしたんですか?と問うているのです。 ☆☆ 専門でない者が言うことですが 涅槃が 《ここ》と違うどこかであったり 《いま》ではない いつかのことであったりするのではないですよ。 ☆ と言っているのですから それに対して 間違いを正すか それとも 同感であるなら その内容とは違った挨拶ことばを持ってくることもなく ふつうに あいさつを述べるかだと思います。という意味です。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
おはようございます、shift-2007さん。 斑尾って?失礼しちゃう(`へ´) まだ、ボケちゃいませんて。ホント? うーん…それがその… 今朝はキッパリと強くもいえないのですよ(ちょい弱気)(T_T) と、いうのもですね 実話を少しお話します。いま、茶店にて朝のコーヒーを飲みつつケイタイを打ってます。昨日は公休、今日は早番と思い昨日の遊び疲れもあり遅い目覚め、時計を見るなり慌て飛び起きバタバタバタと身支度整え駈けだし家を出、電車に乗り込み会社へGO。定刻の出勤時間には滑り込んでギリギリセーフ。ふぅー、と、ため息をつきタイムカードをカシャ。ほっと、一安心。上着を脱ぎ、先に出勤してきている同僚に「おはよう」と、声をかけたところ不思議そうな顔でこちらをみて「あ、あぁ…おはよう、、、」と困惑したかのようなおぼつかない声で返事が返ってきた。思わず「なんか顔についてる?」と聞いてみた。すると、申し訳なさそうな顔で「○○さん、今日早番だったけ?●●さんとシフトチェンジしてたのかな?」と言葉が返ってきた。その言葉にドキッ!「エッ?!」と、おもわず言葉がでてしまう。シフト表を確認してみると今日のわたしのシフトは遅番となっている…あぁ…やっちまった。4月の勤務表には目を通してはいたのだけれど、いつの間にか私の記憶の中で遅番が早番にすり替わっていた。思いこんだら時にこういうコトが起きる。 3月末にもらったシフト表に目は通していたのに… で、シフトを仮に見ていないとして 出勤 早番 出勤 遅番 出勤 公休 先の展開はそれぞれによって異なってくるんじゃないかな? パラレルワールド
お礼
朝から茶店というのも優雅でいいじゃないですか。 >先の展開はそれぞれによって異なってくるんじゃないかな? これは当人が未来を想定しなくても現在は過去に依存するってことですか。 私もコーヒー飲もう ご回答ありがとうございます。
No.19です。 自分にとって《喜びのある・楽しいライフワーク》であり じっさい楽しんでいるなら・楽しんでいるのだから 相手に対する挨拶は 深い意味のない というより 要するに 意味のない ことばで お茶を濁してもいいとお思いなのでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >お茶を濁してもいいとお思いなのでしょうか。 なぜそう思うのです?
No.17です。 《ライフワーク》にかかわることを扱っているのに 《深い意味はない》のですか? おふざけとしてのライフワークなのですか。 つまり 《記憶を参照しなかった》としても この問題はついてまわりますよ。植物人間になってしまってもですよ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ん~言葉がすべて裏目ですね。 私にとってこのライフワークは楽しいものです。 喜びがあるのです。 修行や義務、カルマではありません。 浅いからおふざけ、深いからまじめというカテゴリ分けは意味があるでしょうか。
補足
もしかしてNo13で「brageloneさんも同じ」と書いたことが気に障ったんですか。だったら謝ります。
- ruehas
- ベストアンサー率68% (816/1194)
こんにちは。 >はて? >何をそんなにお怒りなのかよく分かりません。 自分の屁理屈だけぶちまけて平気で「締め切り逃げ」とはっきり書いてあります。これで分からなければ本当のバカですね。
お礼
いつも知的で丁寧な回答をするruehasさんが、理由はともあれ質問者をバカ呼ばわりするとは思いませんでした。 このままシカトしてもよかったんですが、私も今まであなたにいい回答をもらった恩もありますのでお礼を書いています。 もし、このお礼に対して書き込みをするつもりなら、他の人もこのQAを見ていることをゆめゆめお忘れないように。 ご回答ありがとうございました。
No.13です。 ★ いつの日か涅槃でお会いしましょう ☆ とのこと。専門でない者が言うことですが 涅槃が 《ここ》と違うどこかであったり 《いま》ではない いつかのことであったりするのではないですよ。 永遠の現在というからには いま現在であり 此処の場でのことですよ。それ以外にありえません。と思うのですが どこで どう 違ってきているのでしょう。 表象する例としてのように言えば いま現在にすべての時間と空間とが 集中しているような。また その現在過程は 構造を形作っているような。ですから その構造が 動いているような。そこに わたしがいるのですし その像じたいが わたしであるかも知れないですし。・・・
お礼
はは、相変わらずまじめですね。 それほど深い意味は無いのです。Good Luckみたいな物だと軽く流してください。 >その像じたいが わたしであるかも知れないですし。・・・ 確か池田昌子さんの本で”すべて(世界や他人)が自分として存在する”というのがありました。 哲学を通して世界の秘密を覗きましょう(深い意味は無いですから突っ込まないで!!) ご回答ありがとうございました。
- ruehas
- ベストアンサー率68% (816/1194)
こんにちは。 質問者さんの某質問に参加したものです。 ご自分の屁理屈だけぶちまけて平気で「締め切り逃げ」ですか。典型的な「常習者」ですね。 >でも、ラブホテルや避妊具は実際にあるわけですがそれとは違うのですか マスターベーションは学習行動であると既にご説明してあるはずです。 >しかし、本能から交尾という情報が抜けてしまった理由にはならないと思うのですが。 本能行動から交尾の目的が消失したんて誰が言ったんですか? 私はそんな非常識なことを書いた憶えはありません。 質問者さんはこのサイトのあちらこちらで独善的な発言を繰り返しているようですが、はっきり言って笑われますよ。 質問を締め切られてしまったので私のお礼がまだでした。 何度も回答をお読み頂きありがとうございます。 どうもご苦労様でした。
お礼
はて? 何をそんなにお怒りなのかよく分かりません。 ご回答ありがとうございました。
補足
常習者なのは認めますので、これに懲りずまた回答をお願いします。
> 私という存在は思考そのものじゃないでしょうか。 > だとしたら記憶こそが私の本体だろうと思います。 私もそう思います。 とても個人的な話ですが 先日「潜水服は蝶の夢を見る」という映画を見ていて その思いが確信になってきました。 (必ずしもそういうことを説いた映画ではないでのですが…) > 私がもし思考によって作られたものなら、 > 理解によってその終焉も可能じゃなかろうかと グレッグ・イーガンの「万物理論」が、そんな話ですね。 http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%87%E7%89%A9%E7%90%86%E8%AB%96-%E5%89%B5%E5%85%83SF%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%B3/dp/4488711022 人間がついに「万物理論(theory of everything)」を理解して 自由になるお話です。 最後に自由になった人間が描かれているだけで 何がどう自由になったか?は書いてないんですけどね。 ただ、う~ん、何だろう… 万物理論の理解というのは「制覇」に近い感じがするんだけど > 優しい人間になろうと努力すればそれは『難しい』ことですが、 > 私が優しさを手に入れて優しい人間になることはできない。 > ということを理解できればそれで終わりじゃないでしょうか。 これは「諦観」に近い感じがします。 ご質問者さまはどちらをイメージされているのだろう? 後者は仏教に近いと思います。 時間も概念ですが、死も概念ですよね。 死の厳密な定義は出来ないんだと養老孟が言ってました。 だから「死後の世界を想定しなければ、死から開放される」 というようなことを話していました(死の壁)。 まあ、死後の記憶はありませんから、死後の思考は出来ないという理屈ですね。 だから、私は霊魂なんて信じても無駄だと思っていますし 死後の世界を語らない仏教に共感します。 > 死んでも霊魂となってあの世に行くとしたら、 > 脳という記憶の塊から自由になれるわけですよね。 ああ、そうか… そういうことをお考えになっているのですね。 でも、それって、生の否定に聞こえちゃうなぁ。 死んだら自由になれる…みたいに聞こえませんか? そこまで自由って、重要か?みたいな… 自由だって所詮「概念」で、結局は概念に振り回されているんじゃないかしらん。 > あるがままのものをあるがままに見る そんなの無理、もっと自分の直感(という名の偏見)を大切に、なんて 最近はそんなことを考えるんですが 私の回答って、ご質問者さまの話とちゃんと噛み合ってますかねぇ。
お礼
「潜水服は蝶の夢を見る」、「万物理論」ともに面白そうですね。 >でも、それって、生の否定に聞こえちゃうなぁ。 どちらかというと私も養老孟さんと同じで死は無い派?です。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3648451.html >自由だって所詮「概念」で、結局は概念に振り回されているんじゃないかしらん 人を殺せないことは不自由ですか? もしそうでないなら人を殺さずに生きられることは自由じゃないでしょうか。 不自由の反対を自由、と定義したから自由の概念に振り回されるのだと思います。 >もっと自分の直感(という名の偏見)を大切に そうなんですが、私は本当のことが知りたいだけなのです。 ご回答ありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
稚拙な提案を申しあげ、補足を賜れば幸甚です。 1. 記憶の参照をする主格、意識のご検討。 その本体・実体、性格、原理、そして今そこにおられるshift-2007さんとの関係について。 2. 参照という用語 ご検討の末に採用したタームと存じます。 それは依拠、振り返りなどと異なるようですね。 ANo.5のお礼でも少し敷衍されておられますが。 3.『あるがままを見る』ために、それを変形、デフォルメ、遮っているものを除去される(私が誤読していなければ)ということのようです。 (1)除去の対象として、その手法として、ご検討されておられるのdすね。 (2)デフォルメ、遮っているものは、掲げられたところのそういうものだけでしょうか? (3)除去した後の手法はどういうものでしょうか。 自然に、当然に顕れますか。 そこに対している主格、意識とは何ものですか。 その認知・知覚の機関、能力、そしてメディアはどういうものですか。 私はこの辺が問題だと思い続けております。それとの関係で、禅とか信仰のサマディとか、今の知性や意識の変改は予測されておられますか。 結果として対面させられる、shift-2007は徐々に姿を露わすでしょうが、結果がよければ、経過を意識していなくても宜しいでしょうか。 なお認識は不可視のものの顕し、区分、個別化として成立しておりますが、(と存じますが)永遠の現在とshift-2007様とはどういう状況になりますか。 それは生まれも死にもしないのですが、そして区分意識の中には知認できなくても、存在していなくても、存在していると、予定されておられるからなのでしょうね。
お礼
>私はこの辺が問題だと思い続けております。 今の私には説明することはできません。死後の世界を説明できないのと同じですね。 ただ、これは技術や知識、経験の結果ではないので何の不都合もないと思います。着ている服を脱ぐようなものかなと思います。 たぶん私が私でなくなるだろうとは思います。自我、エゴにとってはこれは死と同義ですね。 >予定されておられるからなのでしょうね。 そうですね。今の私には理屈上(私の理屈ですが)でそれはあるとしか思えないのです。 そしてこの理屈が正しいかどうか確かめてみたいのです。 私が私でなくなったとしても。 ご回答ありがとうございました。
補足
今朝ひとつ悟りましたよ。 思考には思考の役割があると言うことです。 確かに思考には永遠の現在を認識することはできないのですが、 そのことを思考自身が理解することによってその動きを止めること ができるということです。 この連続がいわゆる悟るということでしょう。 そしてあらゆる思考が停止したときにそれは現れるのでしょうね。 と言っても思考はあらゆる領域で動いているので一つや二つの悟りではどうしようもないでしょうけど。 こういうことは宗教的知識があるひとには何をいまさらと思うかもしれませんが、自分でそれを自覚することに喜びを感じるんですね。
No.2です。わたしの回答が 飛躍として扱われなかったようですね。 その後 どうも 質問の意図がハッキリしなかったのですが それは 表現がまちがっていると分かりました。《悟るとは どういう事態か。現在という時間 あるいは 現在するという生の過程 これとの関係で 説明せよ》だと思います。 つまり 《記憶を参照しなければうんぬん》という表現ではなく 《自己の狭く限られた記憶そして認識にかんする正誤合わせた記憶 そのような記憶としての知識を用いてわたしが思考するということ さらにそこに自分の欲望や意図を絡めようとしてしまうこと これらから自由になるには》 どうすればよいか。こういうご質問ではないでしょうか。 けれども すでに shift-2007さんは その答についても その骨格は 示されていますよ。 ・No.11お礼欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 永遠の今も努力の結果と考えるなら難しいでしょうが、私にはそうとは思えないのです。 理解によってそれは成されると考えますので0か100、できるかできない、のどちらかの様に思います。 ・No.5お礼欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・そんなこんなで、私がもし思考によって作られたものなら、 理解によってその終焉も可能じゃなかろうかと思うわけです。 自我、迷妄的自分意識の終焉は夢物語じゃないと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《理解》ということばが 鍵になっているようですね。 中間の総括(交通整理)として 半ば横田槍之介でした。
お礼
交通整理ありがとうございます。 私にとってこういうことを考えるのは、ライフワークになってしまいました。 この抽象的な質問に対してもピンとくるってことはbrageloneさんも同じですね。 いつの日か涅槃でお会いしましょう
お礼
ご回答ありがとうございます。 言われていることは分かりますが、これはbrageloneさんと私の思考方法の違いによるんじゃないでしょうか。 先のお礼でも書きましたが、私にとってこういったことは積み上げられた結果とは考えていません。だから私がここで的外れな事を書いてもそれはそれでいいんです。 私から見るとbrageloneさんは少し弦の張りが強すぎると思います。 強すぎても弱すぎてもいい音が出ないって言うでしょう? 下衆な言い方に聞こえるかもしれませんが、しゃれが通じないなーなんですよ。 これはもう哲学じゃなく心理なんじゃないでしょうか。