有難う御座います。
☆永遠の現在という意識について
≪思考を介在させずに対象となるものを見ること。≫
○難しいことでしょうね。そして思考とか見るとか、やはり理論家ですね。
≪『あるがままのものをあるがままに見る』≫
○『あるがまま』と『見る』についてはもう少し、貴兄様それ自体となるといいですね。≪いわゆる悟りを開いた人はこういう風なものの見方をするだろうと思うわけです。そのために邪魔と思われるのが知識、経験、先入観、イメージ・・・・それらを総称した『記憶』だろうと思います。そして思考も記憶の反射による現象だと思われます。≫
○同感いたします。
≪そもそも、私という存在は思考そのものじゃないでしょうか。≫
○『私という存在は思考じゃない』という、改竄をすると私の考えに相似してきます。従って『記憶は私の本体ではない』と存じます。ここはどこの位相や表現かの問題なのでしょうね。だから意見の交換は別の機会でできるし、その方効率的ですね。
≪すると逆説的ではありますが、私には対象となるものをあるがままに見ることはできないだろうと思うわけです。私という記憶は過去によって作られたものとでもいうんでしょうか。古い記憶としての私が、あるがままのものをあるがままに見ることができないのは理屈に合っていると思います。≫
○経験と記憶、そしてご自分形成、存在について収斂されておられますね。私はこの辺は信仰と精進、従って三途の川ならざる、理論の川をわたってしまっています。記憶とその総体体系が自分になっていることは認めますが。『それを出る。現今の自分になっている自分を出る。』これは私達の究極、最終の課題となっております。もし私が誤解なければ。
ビシューマはエゴ、自己意識。それは神の創造の最初いる、大父祖として、クルクシェトラ(自分と自分世界)という戦場での、味方のクルス(そこの場を僭奪している親族)、敵のパンダヴァの両方から畏怖されていて、現今の自分と自分世界を仕切る大将軍になっています。これをバーラタという王統正統のパンダヴァが何とか奪回しようとしているという、筋なのです。マハバーラタ物語はその寓話なのです。そういう寓話だという解釈です。だから正体や実態があるようでなきクルスとビシューマは自分ではないと、いうわけです。
≪そんなこんなで、私がもし思考によって作られたものなら、理解によってその終焉も可能じゃなかろうかと思うわけです。自我、迷妄的自分意識の終焉は夢物語じゃないと思います。≫
○可能ではあるが、簡単ではないことはいうまでもない。
お礼のお礼に:ちょいと意味が違いますが・・・。
(from Bhagavad gita Sloka II:11 By Paramahansa Yogananda)
Foget the past, for it is gone from domain! Forget the future, for it is beyond your reach! Control the present!
Live supremely well now It will whitewash the dark past, and compel thefuture to be bright!
お礼
死後の世界・・・そのときが楽しみですねー 存在しているすべてのものに始まりがあったんでしょうか。 出産という出来事は妊娠という出来事の結果ですし、妊娠も両親という存在の結果です。永遠の過去から形を変えて存在し続けているともいえます。 始まりがないなら当然終わりもないわけですよね。 時間という概念がはじめと終わりを作っていると思います。 時間が概念ならばそれを作っているのは思考だから、思考を介在させなければ時間から自由になれる。理屈ですかね? ご回答ありがとうございました。