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もし記憶を参照しなかったら
もし記憶を参照しなかったら、 当然過去は無いですよね。 また、記憶の投影物としての未来も無いですよね。 すると、記憶を参照しなければ永遠に連続した現在が続くということになりますか。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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≪霊魂って信じます?≫ ○私達は創造の世界が三重になっていると学んでおります。 神という唯一の本体存在(意識)からの個別化した意識。 これを簡単に魂といっております。 アートマ(マハアートマ・ガンディのアートマ、英語のソウル) ガンディーの本名では勿論無く、民衆が尊敬して差し上げた偉大なる魂。 これがいわば着物、つまりいろんな世界を着る。 観念(根源 人間の魂ではコーサル体)、 エネルギーや心理(同じくアストラル体)、 そして物質(同じく肉体)というものです。 ≪死んでも霊魂となってあの世に行くとしたら、~~~・・・≫ ○wakeful意識の記憶では出てこなくても、背負っているそうです。 ≪永遠の現在≫ ○私には今はこのことでの言葉はみつかりません。 ○ただ、肉体の死という区切り、そしてその区切りで記憶の意識を中断する、という存在には永遠の現在を語ることは 出来ない。 記憶を中断せず、己の本当の存在原因とともに、意識、存在、至福であり続けるときには、そのことを語ることが可能 になると存じます。 ○永遠の現在を、口にされた貴兄には、私から、 それは何処から始まっていますか? 始まりも終わりもしてないですか。 などのコメントをお願いし、期待しております。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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有難う御座います。 ☆永遠の現在という意識について ≪思考を介在させずに対象となるものを見ること。≫ ○難しいことでしょうね。そして思考とか見るとか、やはり理論家ですね。 ≪『あるがままのものをあるがままに見る』≫ ○『あるがまま』と『見る』についてはもう少し、貴兄様それ自体となるといいですね。≪いわゆる悟りを開いた人はこういう風なものの見方をするだろうと思うわけです。そのために邪魔と思われるのが知識、経験、先入観、イメージ・・・・それらを総称した『記憶』だろうと思います。そして思考も記憶の反射による現象だと思われます。≫ ○同感いたします。 ≪そもそも、私という存在は思考そのものじゃないでしょうか。≫ ○『私という存在は思考じゃない』という、改竄をすると私の考えに相似してきます。従って『記憶は私の本体ではない』と存じます。ここはどこの位相や表現かの問題なのでしょうね。だから意見の交換は別の機会でできるし、その方効率的ですね。 ≪すると逆説的ではありますが、私には対象となるものをあるがままに見ることはできないだろうと思うわけです。私という記憶は過去によって作られたものとでもいうんでしょうか。古い記憶としての私が、あるがままのものをあるがままに見ることができないのは理屈に合っていると思います。≫ ○経験と記憶、そしてご自分形成、存在について収斂されておられますね。私はこの辺は信仰と精進、従って三途の川ならざる、理論の川をわたってしまっています。記憶とその総体体系が自分になっていることは認めますが。『それを出る。現今の自分になっている自分を出る。』これは私達の究極、最終の課題となっております。もし私が誤解なければ。 ビシューマはエゴ、自己意識。それは神の創造の最初いる、大父祖として、クルクシェトラ(自分と自分世界)という戦場での、味方のクルス(そこの場を僭奪している親族)、敵のパンダヴァの両方から畏怖されていて、現今の自分と自分世界を仕切る大将軍になっています。これをバーラタという王統正統のパンダヴァが何とか奪回しようとしているという、筋なのです。マハバーラタ物語はその寓話なのです。そういう寓話だという解釈です。だから正体や実態があるようでなきクルスとビシューマは自分ではないと、いうわけです。 ≪そんなこんなで、私がもし思考によって作られたものなら、理解によってその終焉も可能じゃなかろうかと思うわけです。自我、迷妄的自分意識の終焉は夢物語じゃないと思います。≫ ○可能ではあるが、簡単ではないことはいうまでもない。 お礼のお礼に:ちょいと意味が違いますが・・・。 (from Bhagavad gita Sloka II:11 By Paramahansa Yogananda) Foget the past, for it is gone from domain! Forget the future, for it is beyond your reach! Control the present! Live supremely well now It will whitewash the dark past, and compel thefuture to be bright!
お礼
思考と精神の違いについて、よく理解していないので私の『私』についての理解は曖昧です。 今のところはこれくらいでいいと思っていますのでご勘弁ください。 優しい人間になろうと努力すればそれは『難しい』ことですが、 私が優しさを手に入れて優しい人間になることはできない。 ということを理解できればそれで終わりじゃないでしょうか。 そのとき優しさはあると思うんですが。 こういうことの積み重ねが自我(エゴ)の終焉だと思います。 永遠の今も努力の結果と考えるなら難しいでしょうが、私にはそうとは思えないのです。 理解によってそれは成されると考えますので0か100、できるかできない、のどちらかの様に思います。 ご回答ありがとうございました。
- bananasand
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>その時、どういう心理状態なのか想像するのも難しいですね。 突き詰めて考えると映像認識、音声認識不能から始まって、 自意識、顕在意識、潜在意識、交感神経系、自律神経系・・・ことごとく広義の記憶で成り立っているので強制的かつ完全に参照を停止すると即死します。
お礼
そうですか、即死ですか ご回答ありがとうございました。
- littlekiss
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こんばんは、shift-2007さん。 このご質問を読みながらおりがみを折ってみたんです。ツルを。 折ったツルを解して紙を広げてみると四角い紙に無数の筋あとがついてます。折りあがりのツルを解して広げたばかりだから、四角い紙についた無数の筋あとが折り目ね、と、折り方の手順はよほど複雑でなければ記憶をたどって筋あとに沿って折ることはできるかと、そうではなしにポンっと無数の筋あとがついた四角い紙を目の前におかれたら「なんじゃこりゃ?」と、勝手が分からずくちゃくちゃくちゃポイ。はたまた、鼻かんでちん。おいおいと。 ●すると、記憶を参照しなければ永遠に連続した現在が続くということになりますか。 いや、そうとばかりもいえないんじゃないかな。 「なんじゃこりゃ?」「なんじゃこりゃ?」「なんじゃこりゃ?」 「なんじゃこりゃ?」「なんじゃこりゃ?」「なんじゃこりゃ?」 「なんじゃこりゃ?」「なんじゃこりゃ?」「なんじゃこりゃ?」 ………………………………………………………………… ………………………………………………………………… ………………………………………………………………… と、紙をいじくってる間にひょいっとなんかができあがることあったりもする。 おもいもかけず コイサンマン、キャンシーアフリカへ行く http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD29927/story.html
お礼
なんか全員集合ってかんじですな~ >なんじゃこりゃ? これは記憶との参照(照合)によってのみ言える台詞だっちゃ(ラムちゃん風) 豚を見たことがない人が「なんじゃこりゃ?変な犬がいる」というがごとしだっちゃ。
>当然~ですよね。 そう念を押されましても。 >記憶を参照 するとかせんとかゆうことが、なんで直接 >過去は無い >未来も無い ことになるんで? ちいさいとき、オカアチャンに怒られたり都合が悪くなると、すぐ両手で自分の目をふさいでしゃがみこむ癖があったという幼なじみがいたことをなぜか思い出しました。要するに自分が見なければ、ないのと同じだろ、というリクツらしい。幼児のくせして、いっぱしのヘリクツこきやがってと思ったが、成人しても、やっぱヘリクツこきの根性悪ということでとおってたもんだ。ながいこと会ってないが、いまも元気にヘリクツこいてるかな。懐かしくもないが。
お礼
アドバイスありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.5です。重大な誤植訂正。 バーラタ族の十四代目の王様はシャンターヌで、森、つまり彼の意識の中で出会ったのが、ガンガ。ガンジス川。オウム、聖霊。第一妻。 シャンターヌ(父なる創造の者)とガンガの間に8人の子が生まれたが、それはガンガが天上で8人の神群(犯した誤りを償うため)に頼まれて、彼らを下生させるためであった。約束はうまれたら直ぐに天上に戻すということであったが、最後の子もガンジスのオウムにいれて、戻そうとしたら、何も反対しないという約束で婚姻したシャンターヌ王がたまりかねて、ガンジスの流れに入水させないように懇請したので、ガンガはそのようにして、自分が自らのガンジスに入水して天上にかえっていった。8人の子とは、原理、当為のことで、最後の地上の命を助けられた子が、エゴ、ビシューマであった。ビシューマというエゴは、記憶の蓄積を内容とするというものであった。というものでした。 パンドゥはその後、3代ほど後の、パンダヴァ5人王子の父でした。 記憶が今漸く戻ってきたのです。エゴを自己とする迷妄の中に未だまさぐっているのに、70を過ぎてきたら、記憶が無くなってきました。 でも永遠の現在はまだ経験ができたという、明確な意識は持ててはいません。
お礼
私も最近物忘れがひどくて参ります。 話が変わりますが、霊魂って信じます? 死んでも霊魂となってあの世に行くとしたら、 脳という記憶の塊から自由になれるわけですよね。 これって永遠の現在に似てると思いませんか。 訂正ありがとうございました。
記憶を参照していない時点を現在と仮定すればそれは現在 そうでないと仮定すればそれは現在ではない。 という感じだと思います。これ間違いないです。絶対です。発揮し言って言い切れます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 当人にとっては時間という尺度がないのですから、時間の中にいる他人の現在という定義も意味をなくすのでしょうね。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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shift-2007さん。ご質問でとても大事なことに気付くことができましたことを感謝し、報告します。 記憶の参照なくして、私達のwakeful意識生活というものは常人の場合は想像ができませんね。 私達の勉強しているものでは、常人の場合のwakeful意識生活の主挌がエゴであることが多いとされています。 そこでのエゴとは迷妄的自分意識ということです。このエゴはいうなれば、あって無きが如く、無くてあるが如くというもので、いうなれば源氏物語の帚木みたいなものだということです。これの、つまり私たちの普通の意識の内容や実体とは、実は記憶でしかない、とヒンドゥ理論は分析しております。 この、記憶参照で成立している、常任の意識は過去、現在、未来という、本来区切りのないところに区切りを入れている。 この原理、意識をマハバーラタでは、ビッシューマという、8人兄弟(天界の原理、当為)の最後の、母ガンガに天界に戻され無かった、唯一の王子で象徴しております。 それは、父パンドゥの懇請でもありましたが、地上の維持のためでもあります。 記憶を参照しなことは、地上生活の意識では、不可能に近い困難なことだと存じます。 それができれば、地上の全ての迷妄の根幹である個別化、区切り、ことば的表象の一つの、時間(時間意識は過去・現在・未来の区切りでしょうね)とその区切りがない意識になると存じます。 記憶参照してないようで、記憶参照して、成立・存立している意識g私達であるというのが現状ではないでしょうか。 正に永遠の現在。それでその意識はいつからの、現在でしょうか? 連続ということもない、全体。始まりも、終わりもない。存在自体。いえ存在も非・不存在もない。 それは具体的個人の意識でしょうか。それはもう個人とその根幹との区別・境壁のない、個人の意識なのでしょうね。 shift-2007様は、こんなコメントにどんなご批判をなさいますか? どうかお話を、永遠の現在という意識について、貴方様のお考えを、お話をコメントしてください。新に質問を上げても、どなたも振り向いてくれないかも知れませんので、どうかお願いします。 私の課題なのです。この永遠の現在が。
お礼
あぁやっぱりkrya1998さんはこの質問からそれを見るんですね。 >永遠の現在という意識について 思考を介在させずに対象となるものを見ること 今のところそんな風に思います。 ************* 私の中でひとつのお題がありまして、 『あるがままのものをあるがままに見る』 いわゆる悟りを開いた人はこういう風なものの見方をするだろうと思うわけです。 そのために邪魔と思われるのが知識、経験、先入観、イメージ・・・・それらを総称した『記憶』だろうと思います。 そして思考も記憶の反射による現象だと思われます。 そもそも、私という存在は思考そのものじゃないでしょうか。 だとしたら記憶こそが私の本体だろうと思います。 すると逆説的ではありますが、私には対象となるものをあるがままに見ることはできないだろうと思うわけです。 私という記憶は過去によって作られたものとでもいうんでしょうか。 古い記憶としての私が、あるがままのものをあるがままに見ることができないのは理屈に合っていると思います。 そんなこんなで、私がもし思考によって作られたものなら、 理解によってその終焉も可能じゃなかろうかと思うわけです。 自我、迷妄的自分意識の終焉は夢物語じゃないと思います。
まず連続という認識がないでしょう。 その場その場だけですよね。 前後関係がない。 だから何が起こっているのか、何をやっているのか分からない。 学習も知識も一種の記憶でしょう? 言葉も覚えられない。 物も覚えられない。 記憶を参照しないというのは 記憶のストックがないのと同じと考えていいと思いますが 記憶のストックがない状態というのは 限りなく生まれたばかりの赤ん坊のような状態だと思います。 本能だけで動いているような状態。
お礼
>記憶のストックがないのと同じと考えていいと思いますが 自分で書いておいてなんですが、ここら辺が私自身よくわかっていないのです。 いまさら知らなかったことにはできないので参照という言葉を使ったのですが・・・・。 ご回答ありがとうございました。
- kigurumi
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どうなんでしょう。 ある人は脳が壊れてしまい、40年前以降の記憶が無い。 だから、その人にとっての現在は40年前。 現在の大統領は、40年前に大統領だった人なわけです。 バック ツゥー ザ フューチャーで、主人公は過去に行った時、テレビに出ている俳優を見て「この人 大統領になる」と言い、まわりを唖然とさせてしまった。 40年前が現在の人にとってもそうです。 今は2008年だと言っても絶対に信じない。 大統領はブッシュだと言っても、なんのことを言っているのか 自分を馬鹿にしているのか となる。 でも40年前のことは、すごく鮮明に覚えている。 40年前 家の中でどういうカーテンがかかっていたかも覚えており、現在かかっているカーテンを見て「どうしてカーテンを変えたのか 前の方がよかったのに」と言う。 奥さんに聞くと、確かに結婚した頃そういう色のカーテンをしていたそうです。 で、その人の認識は自分は20代。 鏡を見て絶叫したそうです。 自分の顔を鏡で見ようとしたら、老人が鏡にうつっており、びっくりして大声を出したら、老人も同じように絶叫している。 よく見ると自分に似ている。 一体なんの悪ふざけで、このようないたずらの鏡を設置したのかと怒る。 40年間の記憶がすっぽり抜けた人なわけで、40年前の次の日が今なわけです。 さっき、昨日 数日前、1年前 などの概念が現在というものを作り出しているのか。 過去も現在も連続しているというか、統合しているんじゃないかと。 例えば過去の記憶が全く無くなった人でも、空模様を見て無意識に傘を用意したら、雲行きが怪しいと、未来に雨が振る確立が高いと認識していることになる。 つまり過去の記憶が無いにもかかわらず、統合しているので、傘を持っていこうという思考になる。 ボーン・アイデンティティーって映画だと、その人は過去の記憶を喪失したにもかかわらず、レストランに座っていて、誰が懐に銃を忍ばせており、入り口以外にどこから出れるかまで、ざっと思考してしまう自分に驚いていた。 武術の心得の記憶などないのに、相手を叩きのめしているし、何ヶ国語も喋れる自分に「俺は一体何者なのだ」と驚いていた。 つまり過去を参照しなくても、統合しているので、できてしまっているわけですよね。 40年前から先の記憶が無い人についても言えると思います。 40年以降の世の中の動きは全く記憶が無くても、電子レンジの使い方は無意識でやってしまうんじゃないかと。 テレビにまわすダイヤルが無くて戸惑うかもしれませんが、しばらくすると、テレビの側にあるリモコンを見て、電源というものを押すんじゃないかと。 また、過去の記憶が全く無い人でも、明日とか いつか という未来の概念はあると思います。 そして過去の記憶を喪失した人でも、思い出せないが過去というものがあるという認識は保持していると思います。 人間は現在のみにしか存在しませんが、それにつながる過去を現在に統合しており、過去の記憶がなくても、過去を現在に所有しており、特に生命を維持する重要な事な場合、過去の経験は思い出せなくても、勝手に体がやってしまうのではないかと。 10年前の今日 なにが起こったかを言える人もいますが、ほとんどの人は言えなくても、それで生活するのに困りません。 家の中の様子が違ったとしても、家具が見たことも無いものに変わったとしても、椅子だと認識すれば疲れていれば座るでしょうし、プラスチックのコップを見たら容器として使うでしょう。 統合しているので、過去を参照する必要が無いから。 過去を参照しないとやっていけないものと、過去を参照しなくても統合して一体化しているものと、あるんじゃないか って思います。
お礼
どこまでが私でどこまでが記憶なのか・・・・ こうなったら思考を停止させるしかないかもしれませんね。 それでも残る何かが『私』なのかな。 ご回答ありがとうございました。
お礼
死後の世界・・・そのときが楽しみですねー 存在しているすべてのものに始まりがあったんでしょうか。 出産という出来事は妊娠という出来事の結果ですし、妊娠も両親という存在の結果です。永遠の過去から形を変えて存在し続けているともいえます。 始まりがないなら当然終わりもないわけですよね。 時間という概念がはじめと終わりを作っていると思います。 時間が概念ならばそれを作っているのは思考だから、思考を介在させなければ時間から自由になれる。理屈ですかね? ご回答ありがとうございました。