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東京大空襲 逃げ方

昨日「東京大空襲」のドラマを見て祖母の話を思い出したの質問させてください。 私の祖母は東京大空襲の体験者です。私はおばあちゃん子だった為、良くそういった話を聞いていたのですが、幼い頃の話なので記憶もあいまいですし、今になって色々興味を持ち聞きたいと思うのですが、祖母は10年以上前に他界してしまい聞くことができません。 当時、祖母は両国付近に住んでいたようです。 (毎朝窓越しにお相撲さんの朝稽古を見るのが楽しみだった。と言っていました) 東京大空襲の日は 「川に入っていれば安全だから隅田川の方に逃げよう」という父親の意見に母親が反対して「○○に逃げるべきだ」と言って○○に逃げたそうです。 ○○に逃げたおかげで燃える物も少なく間隔もあいていたので、火もそこまで激しくならなかったので助かった。と祖母は言っていました。 そこで質問なのですが、○○とはどの辺の事を言っているのだと思いますか?私的には皇居の方とか大きな公園か何かかな?と推測しています。 また、東京大空襲の際どちら方面に逃げるのが正解だったのでしょうか?

みんなの回答

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11113)
回答No.4

>また、東京大空襲の際どちら方面に逃げるのが正解だったのでしょうか? ふざけたような答えになりますが、「生き残った人が逃げた方面が正解だった」ということだと思います。 B29爆撃機は目標を特に特定せず、無差別に爆撃していきました。飛行機の航路、風向きなどでたまたま爆撃が集中した地域と比較的集中しなかった地域があったと思います。 また風下になってしまったために大きな被害を受けた地域と風上になった地域があったと思います。爆弾も風の影響を受けますから、風上の地域はそもそも落ちてくる爆弾の量も少なく、火災の影響も受けづらいということはあったと思います。 ちなみに覚えておいていただきたいことですが、東京大空襲というのは民間人に対する無差別爆撃ですので、戦時法に違反する虐殺行為です。一晩で8万人も殺したのですから、世界史に残る虐殺行為だといえるでしょう。しかし戦争に無条件降伏した日本政府はこのことをアメリカ政府に対し文句をつけないことを約束してしまいました。原爆もそうです。 このことを訴えたのが、今映画になっている「明日への遺言」の岡田資元中将です。

noname#54102
noname#54102
回答No.3

ご質問の文面を読み、はるか昔に読んだ本の情景が思い出されました。その本は、東京大空襲の実体験をつづったもので、東京大空襲の事実を世に知らせる役割を担った本です。 私の薄い記憶では、おばあさまの体験に近いことが述べられていたように思います。 岩波新書 「東京大空襲」 早乙女勝元著 http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/41/3/4150210.html

  • nakaizu
  • ベストアンサー率48% (203/415)
回答No.2

No.1 の方の説が正しいように思います。 手許に昭和21年発行の東京の地図があります。戦災で焼失した地区は赤く印刷されています。両国のあった本所区はほとんどが赤くなっていますが、両国駅の北側、同愛病院の近くは焼け残っています。 焼け残っているのは同愛病院と保善という学校、その東側の震災記念堂のある公園?(被服廠跡)、同愛病院の南側の公会堂のある公園?です。 また、現在国技館がある場所は隅田川の水を引いた堀割か貯水場のようになっていて、その周りにも焼けなかったところがあったようです。

  • eito_waka
  • ベストアンサー率54% (148/272)
回答No.1

両国でしたら、隅田川に面した「陸軍本所被服廠跡地」の可能性があります。 現在、ここには慰霊堂のある公園がありますが、関東大震災時や太平洋戦争時は広い空き地でした。 関東大震災時には、ここに近所の多くの住民が家財を持ち込んで避難をしました。 ところが、その家財に火がついて火災旋風が起こり、この場所だけで3万8千人が死んでしまいました。 その時にこの跡地ではなく、隅田川に逃げ込んだ人は比較的助かったといわれています。 東京大空襲の時には関東大震災の時に跡地で多くの人が死んだ事を知っている人が多かったため、 跡地に逃げ込んだ人は少なく、多くの人は隅田川に逃げ込みました。 そのため、隅田川の水面にぎっしり人が詰まってしまい、溺れる者が出たり、 火が水面に広がったため逃げられず、火にまかれる人が出てしまいました。 逆に跡地は広い空き地の割りに避難者が少なかったため、火災が延焼せず、そのためここに逃げた人は助かりました。 東京大空襲の際、気転のきく人は「関東大震災の際に安全だった隅田川には人が殺到してかえって危ない。 陸軍本所被服廠跡地は多くの死者が出たために、今回は避難する人が少ないはずで、むしろ安全のはず」と考えたそうです。 断言は出来ませんがおばあさんも、この気転をきかせた人の一人だったのではないでしょうか。

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