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日本人は生ぬるいですか

 設問した主題をめぐって 遠藤周作が 次のように書いています。つまり《黄色い人》は 特には われわれ日本人を指して言っているはづです。これを批評・批判してください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神さまは宇宙にひとりでいられるのがとても淋しくなられたので人間を創ろうとお考えになりました。そこでパン粉を自分のお姿にかたどってこねられ竈(かまど)で焼かれました。  あまり待ちどおしいので 五分もたたぬうちに竈をおあけになりました。もちろんできあがったのは まだ生やけの真白な人間です。《仕方がない。わしはこれを白人とよぶことにしよう》と神さまはつぶやかれました。  こんどは失敗にこりて うんと時間をかけることになさいました。すこしウトウトとされているうち こげくさい臭いがします。あわてて蓋をおあけになると 真黒に焼けすぎた人間ができているではありませんか。《しまった。でも これは黒人とすることにしよう》。  最後に神さまはいい加減なところで竈をひらかれました。黄色くやけた人間が作られていました。《なにごとも中庸がよろしい》。神さまはうなずかれました。《これを黄色人とよぼう》。(童話より)    我 汝の業を知れり。即ち汝は冷ややかなるにも非らず 熱きにも非   らざるなり。寧(むし)ろ冷ややかに 或いは 熱くあらばや。然(しか)   れども汝は 冷ややかにも熱くも非ずして温(ぬる)きがゆえに 我は   汝を口より吐き出さんとす。(黙示録)    (遠藤周作:『黄色い人』 冒頭) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  わたし自身の考えは どうも 遠藤のこの人間の性格(?)を三種類に分けた設定じたいが ぴんと来ないので そのことを問題にしたいと思っています。ですが もしこの設定に沿うならば どういう反応や評価がありうるでしょうか。ぜひ おしえてください。  * 変な感じの高みの見物のように みなさんの回答を見てみようとしているのではないかとお叱りを受けるかも分かりませんが どういうふうにこの文章を一般には捉えるのだろうか それが知りたいです。  →この中庸でいいのだと ある意味で開き直るのか / いやいや開き直りですらない いまのままでいいのだとなるのか / そもそも 設定がおかしいだけではなく 生温いという規定じたいが まちがいだとなるのかなどなどです。  * 遠藤周作のキリスト信仰は 発表された限りでは まやかしだとわたしは思っています。  * 次の質問と姉妹関係にあるはづです。   ・《Q:〈絶対〉の概念をなぜ日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?    = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3738300.html 》   ・《Q:男と女= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3689191.html

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回答No.23

いいお話をありがとうございます^^ 今でも日本人にはこういう優しいところがあるように思います。 >司馬が言うには この日露戦争までの日本人は立派だったそうです。特に中国侵略と太平洋戦争時の日本人が異常であったと言います。どうなのでしょう。もし そうだとすれば どうして そうなったのでしょう。・・・ 司馬遼太郎は読んだことが無いのです、でも明治期の日本人に能動性と気概があったのは侍精神がまだ残っていたからだということを何かで読んだことがあります(誰だったか忘れました)ロシア革命、中国の状況が日本にとって都合の良い状況だったということもありますけど、戦略性とビジョンをもっていたのだと思うのです。戦略性というのは負ける戦はしない、ということですよね。 なぜ太平洋戦争では泥沼の戦いに引き込まれてしまったのか? 「なまぬるさ」を個人のこととして考えて見ます。こころほどあてにならないものはない、善良な市民でも状況によってはとんでもないエゴイスト、悪人になることもなるって漱石の小説にありますね。それから、危ないとわかりながらもずるずると流されることもあります、ずるずると落ちていくのがわかりながらもどうしようもないような状態です。日中戦争から日米開戦にそれからひたすら泥沼の戦い、それから敗戦に。魔に魅入られたというか引きずられてしまったというか、人間というものってすごく弱いものだと思うのです。善かれと思っても結果が悪になってしまうことだってよくあります。 人間ってもしかしてみな「なまぬるい」悪をもっているのでしょうか? それからまた、たとえばパッとしない人が状況によっては驚くような善を成すこともあります。 私はそれを決定するのはなんだろうか?といつも考えるのです。 信仰なんだろうか?それとも何か違うものなのだろうか? そこで思考停止になってしまうのですが。 いつも話を拡げてしまって申し訳ありません^^;学生のとき「君がすぐ飛躍するのは論理的じゃないからだよ」と友達に注意されたことを思い出しました。

noname#80116
質問者

補足

 《飛躍》癖なら負けない自信があります。 ★ 人間ってもしかしてみな「なまぬるい」悪をもっているのでしょうか? ★ 魔に魅入られたというか引きずられてしまったというか、 ☆ ここから飛躍します。遠藤にちなんで 引用のみ します。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この小説は今まで私が書いたエンターテインメントとは非常に趣を異にしていると思う。新聞連載中も読者からその疑問を手紙にもらったことさえあった。  私はこの小説をユングの影の問題から刺激をうけて書いたことを率直に告白したい。我々の心の奥には世間でみせる我々の顔とは別の秘密の顔がある。それを当人さえ気づかぬこともある。その秘密の顔は無意識に抑圧された ある意味で本当の顔だが しかしそれを表面に出すと我々は社会的に生きていけない場合もある。ユングはそれを影といった。  《ジキル博士とハイド氏》の話は有名だが しかしこれは人間誰にも存在する命題なのだ。この小説はある意味で私の《ジキル博士とハイド氏》である。   (遠藤周作:『悪霊の午後 』 〈まえがき〉の全部)   ――それで私は英子さんはそのような潜在欲望を人の心に触発させる能    力をもった女――これを学問的にはネクロフィラストと言うのですが    ――そんな女ではないかとあの時は考えたわけです。   (前掲書 〈渦〉の章)   悪霊の最大の詭計は悪霊などこの世に存在しないと人々に思わせることにあります。   (同上 〈慶子〉の章)  いわゆる世間でいう悪女というやつですな。悪女というのは悪いことをする女とは限りません。悪運をまわりにばらまく女という意味です。しかし彼女が意識的にそんな行為をやるんじゃない。彼女がいるためにまわりのものの何かが狂うと言ったほうがよい。  ・・・  一言で言うならば その女性は まわりのものが日常生活で抑制しているものをよび起こす力があるのでしょうね。つまり我々は自分の意識下にいろんな本能や欲望をかくしているでしょう。・・・そういう抑えつけたものが 彼女に出会うと噴出してしまうのです。噴出したもので その人は目茶苦茶になるのです。   (同上〈過去〉の章) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《Q:男と女》のほうに出すべきだったかも知れません。ただし 男と女の対等性なる原理〔のほう〕について疑うものではありません。現象については いくらか解明したきところありという意味です。 ★ 善かれと思っても結果が悪になってしまうことだってよくあります。 ★ それからまた、たとえばパッとしない人が状況によっては驚くような善を成すこともあります。 ☆ と重ねて確認しつつ。

その他の回答 (23)

  • pojipoji
  • ベストアンサー率32% (53/161)
回答No.3

神に脅されねば倫理が保てないとして、神の名により倫理を押し付けるのは人の業でしょう。倫理は時代、地域を共有する人々の総意の中にあり、誰かが外部から押し付けるものではないと考えます。ここでは、中庸であらねばならないと考えます。 しかし一方に、脅されていないのにどうして倫理が守れるのかといぶかる人々がいます。しかし、犬でも鞭打たれれば従うでしょう。この意見には人間を軽んじたところがあると感じます。 倫理はその時代、地域の人がともに了解していればよいのであって、外部からことさら罪を作ることを強要し、罰する必要はどこにもないと考えます。新たな不幸を作る必要はないということです。 過去の幾多の民族の絶滅についても、中庸により、それもあるかと了解しておれば落とさずに済んだ命もあったことでしょう。私たちはもっと別の文明の人々とも話ができ、人間についての新たな見聞も深められたでしょう。過去のことが単に過去の人々が野蛮であったというのではなく、自分たちの考えや行為が「絶対」というものに基づくと考えていたことが、この不幸の原因であると考えます。 わたしは生温くありたいと思います。

noname#80116
質問者

補足

 pojipojiさん ご回答をありがとうございます。  さて 思ったより大変なことになってまいりました。それほど議論としての絡みは起こらないだろうと思っていたのですが そうでもなかったようです。  ひとことで言って 《中庸あるいは調和》が 貶められることはないと思います。その上で 《中途半端あるいは煮え切らない》という性癖が 問題になっているのだと考えます。  そうなると わたしは このpojipojiさんのご見解も そしてNo.2のmystisism2さんの展望も 決して互いに矛盾していないと まづ考えます。ひょっとして これこそが こうもりの中庸といいますか 二股膏薬の中途半端になるでしょうか。 ★ 神に脅され・・・神の名により倫理を押し付ける ☆ その反面で 《父母の教えにすっかり従い一生を送る》のは 事なかれ主義のようでもあるし むしろ 親が子に何かを押し付けているようでもあると 見られるのではないでしょうか。  そうであれば 真理は 中間にあります。信仰は 個人の内面に閉まっておけ。親であっても 子の人格を尊重せよ。というふうに どちらに対しても その中間の地点から 物言いをすることになります。  おそらく 誰もが ★ 私たちはもっと別の文明の人々とも話ができ、人間についての新たな見聞も深められ〔ること〕 ☆ を望んでいることでしょう。 ★ 過去のことが単に過去の人々が野蛮であったというのではなく、自分たちの考えや行為が「絶対」というものに基づくと考えていたことが、この不幸の原因であると考えます。 ☆ もう一度おそらく このように指摘される悲しい歴史があったと考えられるとき 《中庸ないし相対性》は――ここで おそらく ですが―― 《絶対》の想定のもとに(あるいは それと同時に)獲得したものなのではないでしょうか。  野生であってもよいが 隣の部族を 別の村だからというので 殺してよいというわけにはいかない――この中庸は 互いに同じ人間だという相対的な見方のもとに得られたのでしょう。《絶対》を想定することと(≒信仰を持つことと) 自分がその絶対者になることとは まったく二つの別のことがらだと言わなければなりません。それは 《中庸》の精神と 同じ知恵として得られたものではないでしょうか。同時一体の知恵であるとすら考えられないでしょうか。  自由な幅をもった――もっともっと自由な幅をもった――中庸の動態としてなら わたしも ★ 生温くありたいと思います。 ☆ と唱和したいと思いますが いかがでしょう。  このような《中庸》論を 日本人は 世界に向けて 押しつけになる寸前まで 発信していくべきではないでしょうか。

回答No.2

回答ではなくって個人的な感想なんですが、私も人種的な分類には最初違和感覚えました。 >我 汝の業を知れり。即ち汝は冷ややかなるにも非らず 熱きにも非   らざるなり。寧(むし)ろ冷ややかに 或いは 熱くあらばや。然(しか)   れども汝は 冷ややかにも熱くも非ずして温(ぬる)きがゆえに 我は   汝を口より吐き出さんとす。(黙示録) 積極的に悪をなすことも無ければ善を成すことも無い、積極的に他人にぶつかっていったりすることもない、それゆえ他人を傷つけることも傷つけられることもほどほどで、自分の悪も欠点もはっきりと自覚することもできないまま、可もなく不可もない自足の中で生きている受動的な罪のことですね? ーあれは地獄も極楽も知らぬ腑甲斐ない女の魂でござるー                   「六の宮の姫君」 芥川龍之介の「六の宮の姫君」の罪を連想しました。こういった自覚できないゆえにいっそう救われ難い罪というのは洋の東西問わず存在するのではないかと思ったのですが、他人の思惑に敏感で、人との調和を重んじる日本人にこういう受動的な罪の傾向があるというのであればそれもわからなくはないです。 日本人といってもいろんな人がいるので一概にはいえませんけど。

noname#80116
質問者

お礼

 mystisism2さん ご投稿をありがとうございます。  ANo.1の方に対して せっかく質問したので 少し問いかけによって絡むということをしてみました。そのあと このご感想をもらって なにかこう 大きなどんよりと曇った空が これは 日本人にとって 問題であり課題であるぞと言っているような感覚を覚えました。  そうして 示されていた芥川の掌編小説を 検索して読んで そのあと 質問に帰ってみると こんどは ANo.3に pojipojiさんから また 別の角度から おおきな問題点の指摘を受けていました。  さあ これから どうなることでしょう。  pojipojiさんのご議論ともすでに関係すると思うのですが mystisism2さんのご指摘が さらに 大きいと思ったそのわけは 芥川の小説の中で 示されたように   「あれは極楽も地獄も知らぬ、腑甲斐(ふがひ)ない女の魂でござる。 と規定したあと さらに   御仏を念じておやりなされ。」 とあったからです。これは 《空也(くうや)上人の弟子の中にも、やん事ない高徳の沙門(しやもん)》が言ったという解説があります。  * 芥川龍之介の「六の宮の姫君」:   http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/130_15275.html  そうなると 仏教の一つの見解としてみても 《父母の教へ通り、つつましい朝夕を送つてゐた。それは悲しみも知らないと同時に、喜びも知らない生涯だつた》というような中途半端な考え方・生き方は 喜ばしくはないと判断されているということです。つまり 早い話しが ひとりの日本人が そういう価値判断をなしているという事態になります。 ★ 他人の思惑に敏感で、人との調和を重んじる日本人にこういう受動的な罪の傾向があるというのであればそれもわからなくはないです。 ☆ とmystisism2さんは 書いておられますが わたしはその中で《罪》ということばに ゆえもなく 抵抗感を感じるのですが それは別としても 歴史的に――まったく顕在していないとしても――正統な見方であるように 思っております。そうなると よけいに pojipojiさんのご回答に どう応えていいか 迷うことになるのですが いま そのように考えております。  この議論の発展を見守っていただき ご意見をお寄せください。

  • cabin504
  • ベストアンサー率8% (30/341)
回答No.1

個人的な見解です。 人間をそういう風に表してるだけだと思いますよ。 色は違えど同じパン。 しかも、すべて未完成。 日本人のあいまいな姿には、少し批評が見えますが・・・。 文章としては、少し見にくいですね。 ついでに、司馬遼太郎が「絶対」はないと書いておりますが 確かに「永遠に変わらないものはない」ので 「絶対」はありませんが、 その「永遠に変わらないものはない」という事こそが 「絶対」なのですね。

noname#80116
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。 ★ 色は違えど同じパン。  しかも、すべて未完成。 ☆ これがいいですね。 ★ 日本人のあいまいな姿には、少し批評が見えますが・・・。 ☆ 《冷ややかにも熱くも非ずして温(ぬる)きがゆえに 我は汝を口より吐き出さんとす》の箇所ですよね。  そういうところ あるかも知れません。と言いますか そうとう弱いところを突いたものだとも見られます。でも それほど 気にしないというところでしょうか。 ★ その「永遠に変わらないものはない」という事こそが 「絶対」なのですね。 ☆ なるほど。《絶対》を想定するけれど それは ない(いわゆる無神論)というかたちでのお立ち場ですね。司馬遼太郎の文章は 哲学としては もう少し整理すべきでしょうね。 ☆ 先ほどの《黄色い人に対する批判》ですが。それは 《生煮えの白い人》が やけに 出来もせぬくせに倫理規範にやかましいのに対して たとえば わが源氏物語では 倫理もへちまもありません。くっついたり離れたり あるいはいわゆる演歌の歌詞のように ああせつない・会いたい・恋しいと延々とぐちゃぐちゃ言い続けていたりです。これでは 神さんも 手のつけようがないのでしょうか。いかがお考えになるでしょう。  (せっかく質問したので 少し からんでみました)。 

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