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ご意見を聞かせてください。
「人間性の探究」という本来の意味は、人間の行為に共感をもち、それを理解することなのですが、科学研究というものが、場合によっては人間性の探究であるのはなぜなのか、とふと思いました。そこで、人間性と自然科学の関係についてどうお考えでしょうか。ご意見を聞かせてください。
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哲学的な質問ですね。哲学的な説明を参考までに まず「人間性の探求」というのは少し仏教的な響きですね。 近代科学の発祥は、イギリスのアイザック ニュートンさんの前後からだと思います。この時代の西洋はキリスト教、具体的には旧約聖書や新約聖書に 影響されていた時代です。旧約聖書の第1章天地創造(ジェネシス)には神 がこの大宇宙を作ったとあります。偉大な西洋の科学者たちは神が創造した世界の探求という目的で科学研究をしていたのだと推測できます。ニュートンが書いたプリンキピアはそのような考えのもとがあったと思います。西洋では科学研究は外向きに向かいました。望遠鏡で世界のはてを見たいという要求はいまだに続いています。この流れは明治に日本に入ってきましたが研究の精神的土台は受け継がれませんでしたね。 一方、仏教的な内心の研究は東洋で盛んでした。仏教的な考えは内向きの研究である悟りの追求でした。2500年前に釈尊が悟った「宇宙即我」を体現すべく多くの僧たちが修行していたのです。これは言葉どおりとれば心の中に宇宙があるという考えですね。この考えが西洋的な外向きな探求と東洋的な内向きな探求をつなぐ接点ではないかと思えます。 人間性の探求は仏教的な考えでは仏神の世界の探求ということではないでしょうか。西洋ではそれをサイエンス(科学)と呼んだように思えます。 目的は同じであるような感じを受けます。 という考えもあるということで、参考まで
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- apple-man
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>科学研究というものが、場合によっては人間性の探究であるのはなぜなのか、とふと思いました どうしてそう思われたのでしょう? 誰かの本を読まれたとか? 誰々のこうゆう研究内容を読んでとか、 あなたがそう思われた具体的内容を知りたいです。
- First_Noel
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偏った人間原理に基いた場合,人間を言うものに対して ある種フィルタのかかった目でしか考えることが出来ないのでは?と思います. 科学=普遍的原理を見出す学問 (数学や物理に限りません.森羅万象全てが対象です.) ですから,そのフィルタなしでの客観視が可能になるからだと思います. 一例を挙げると,ロケットや人工衛星がなければ,地球をひとつとして考えることは, なかなか一般には難しい,識者のみの思考遊戯で終わったのではないかと思います. ただ,そればかりでOKと言う訳ではないとも思いますが,一助であることは確かだと思います.
- ticky
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私の意見です。 「この世界(宇宙)はどんな風になっているのだろう」 「この世界(宇宙)にはどんな物があるのだろう」 「この世界(宇宙)はどんな風に動いていて、どんな風に動いてゆくのだろう(この世界の中心にある法則は何だろう)」 (究極的には)こういった所から、自然科学は由来すると思います。この点で、自然科学は、未だに哲学的だといえます。 さて、これらの命題は、「この世界(宇宙)」に対するものでしたが、この「この世界(宇宙)」とは、当然、人間が「生き」、「認識する」、「世界(宇宙)」です。人間が主体となった世界について、なのです。従ってさきの命題は、 「人間はどのように考えてどのように生きてゆくのか」 「人間は何に由来するのか」(以上二つをあわせ、「われわれは何処からきて何処に行くのか」ともいわれます) 「人間とはなんなのか」 といった命題にもいきつくと思います。 以上は、当然ながら、「科学技術」ではない、本来的な「自然科学」について、です。こういった「科学」は、あくまでも、「好奇心を満たすため」のものですから、「お遊び」的なものともいえますが、実利中心の資本主義社会で軽視されているのは、残念なことです。
- petit-C
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意見です。答えになっているか。。。 人間の考えていることと、自然現象は、けっこう食い違っていたりしますが、 普段は、気づかないように思います。 思い込みと自然の真理を比べたら、 人間がどのように思考するかがわかるような気がします。 その反対に、論理的に説明できなくても、わかったりすることも多くて、 ものすごい発見というのは、直感に、あとから論理がついて来ているようですね。 この直感のすばらしさは、機械なんかには無理でしょ。 これらは、人間性の探求の一部なのではないでしょうか。
- SCNK
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関係ないでしょう。だれかが格好つけて言ったんじゃないですか。 そもそも自然科学というのは、他の学問同様、自然哲学から始まったものでしょう。自然哲学は早いはなしが、自然についての知的好奇心を満たそうとするものではありませんか。それが一つ一つ真理をつかみながら、積み重ねて行く間に自然科学になったのだと思います。しかし結局、19世紀に入るころまでは知的好奇心を満たすためのお遊びなんですよね。まあ国王が援助したりはしてますが、結局、その担い手は貴族であり、片手間にやっていたのでしょう。 科学がしっかりした目的をもったのは、19世紀になってからだと思いますよ。でもむしろそれは技術の方が先にあって、科学の成果が技術に役立つと思い始めてからです。それ以来、冶金学が大砲や鋼鉄艦を作るのに役立ったり、有機化学が爆薬や毒ガスを作るのに役立ったり、それから原子物理学が核兵器を作るのに役立ちましたね。でもだれも人間性の探求なんていうのは考えなかったのではないでしょうか。それを追求したって国益にも、経済的利潤にもならないですから。
つまりは「人間性」の定義による、ということでは? すなわち、人間性を、他の動物は行わないような思考や行動をする性質である、と定義すれば、科学的な探求は人間性の最たるものの一つに数えて良いでしょう。特に自然科学は人間が古来から興味を抱いてきた自然の法則を、自分たちの言葉で記述しようと工夫してきたものですが、このようなことを行う他の動物は今のところ存在していません。 よって、自然科学は人間性の一つの現れである。 このような考え方ではないでしょうかね。