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男と女
その対等性について問います。 まづは読んでください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ だから 男と女の精神には明らかに共通の本性が認められる。 ところが 男と女の身体によって一つの精神の職務の配分が象徴されるのである。 したがって 私たちが段階的に内観を進めて行き 魂の種々なる部分を考察するなら そのとき私たちが動物とは共有しない或るものを見出し始め そこで内なる人がすでに認識され得る理性がその仕事に着手するのである。 この内なる人自身も 時間的事物の管理を委託されているあの理性によって外にあるものに節度を失った進行をなし はなはだしく滑り落ち さらにその頭が同意するなら 言い換えると指揮所で命令し見張る理性のあの部分が いわば男の役割のごとく それを禁止し抑制しないなら その敵の中で衰えるのである(詩編6:8)。その敵とは徳を憎む悪鬼たちとその首長(かしら)たる悪魔である。 永遠なるもののあの直視は妻と共に禁じられたものを食べた頭(男=アダム)自身からも失われ したがって彼の眼の光は彼と共にないようになる(詩編38:11)。かくて この両者は真理の照明によって裸にされて いかに自分たちが恥ずかしく無様に いわば甘い果実の葉のようであり しかも彼ら自身は結実なくあるかということを見るために開かれた意識の眼をもって 善き業の実なくして善き言葉を織り合わせ 悪しく生きながら いわば上手に語って自分たちの汚辱を蔽うのである(創世記3:1-7)。 (アウグスティヌス:『三位一体論』中沢宣夫訳 12・8) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 質問です。 無条件に 分かっていることは ・男女互いに いわゆるこの世の悪(歴史知性によるその知と意識) に対して 責任を負っている。 であり 頭で――頭で です――分かっていることは ・男女ともども この人類としての歴史の共同相続人である。 ということであり しかしながら この事項は 条件つきでなければ 了解しがたいというのが わたしの実情です。 ・女は 《理性によって外にあるものに節度を失った進行をなし は なはだしく滑り落ち》る度合いが 男よりも 激しいのではないか。 この条件をつければ すべて 男女平等で進めます。 しかも 救い難いほど頑迷ではないかとおそれられることは このような条件としての内容は 経験現実として・また社会現象としては 実際であるのではないかと わたしが 認識しているところです。 どうか 最大限の自由に ご批判をたまわりたいと存じます。おしえてください。
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補足を拝見しました。ですが >《外にあるものに対して 理性によって 物欲を発揮するごとく 節度 を失った進行をなし はなはだしく滑り落ちる》 これじゃ補足になってません。 クレオパトラの話、それも、ご質問者の想像上のクレオパトラの話をしようとおっしゃるんですか? 実際のクレオパトラが、どういう心境の下に行動したかは、そりゃあ本人に聞かないと分からんでしょう。ご質問者の想像上のクレオパトラをと言うのなら、「あなたのクレオパトラ」ですから、ご質問者に聞かなきゃしょうがない。それで重ねて補足要求です。 >《理性によって外にあるものに節度を失った進行をなし、はなはだしく滑り落ち》 これはアウグスティヌスのことばだそうですから、エヴァの禁じられた実を食べた情景のことを指しているのでしょうか知りませんが、『善き業の実なくして善き言葉を織り合わせ 悪しく生きながら いわば上手に語って自分たちの汚辱を蔽うのである』こんなことは現代でも卑近な例を、そこここに見られるように思います。 さて、またNo.1の方への補足からですが >カエサルらとの恋は 女としての部分も もろに出ているのではないかと見る場合。しかも これは (いー1) 女としてのこの恋愛感情の部分は まったく それとして捉えればよいのであると見る場合。同時に起こっているが 政治は政治 恋愛は恋愛として それぞれを捉えればよいと。 (いー2) いや その感情は 情愛がたとえ人一倍強かったとしても あくまで 政治・外交の上での手段として使ったに過ぎないと見る場合 それは後世の我々から見ても「もろに女としての部分も出てる」と思って当然でしょう、子までなしたそうですから。それに全世界規模で歴史上に名を刻むような男ですから、やはり男としての魅力にも、それなりのものがあったろうし、彼女が権力に返り咲くためにカエサルの力添えは非常に大きかったということですから、それだけでも女として惚れることは想像に難くない。そしてそのカエサルの力添えというものが同時に彼女の政治権力にとっても大いに有効だったということ、そういうことであり、それだけのことでしょう。 >その感情は 情愛がたとえ人一倍強かったとしても あくまで 政治・外交の上での手段として使ったに過ぎないと見る場合 まぁクレオパトラのような大昔の歴史上の女傑を引っ張り出してこなくても、そのへんのホステスとか商売人が日々やってそうですがね。あるいは駆け引き好きの女とか。但し、何か商売絡みとか生活の必要とかに迫られてもいないのに、わざわざ女の部分を大きくかかわらせるような行動をとる場合、本人自身、その意欲がなければ、関心のない相手や嫌な相手に敢えてやることもないでしょう。ただ必ずしも個人に対する恋愛感情からとは限らない。大きく女としての自信の欠如が動機かもしれないし。(もっと言えば一個の人間としての自信欠如が由来しているかもしれないし。) >感情に走るというのではなく 《理性に走る》状態 あるいは 《理性によっておこなうむさぼり》 要するに理想に走りすぎる、ということですか? ところで >経験的な欲望 とは具体的には? >或る種の使命感 とは、どういったことに関する使命感ですか?理想の社会を築こうとか言うようなですか? >一直線に進んでいるというように見えます 一直線に進むような態度というのは、思慮が浅いのか、自惚れに浸りきってるか、余裕がなくてせっぱ詰まってるか、だいたいどれかです。 >理性が総合的かつ統一的な司令者であるという場合には はじめから 人によく見せようという《配慮》は 為されています。そんなことは お茶の子さいさいなのです。 >残念ながら あたらないと思っています。というのも それほど長いあいだ 虐げられてきたと もし するなら そんなことは もう じゅうぶん あしらえるようになっていると考えられるからです。 「虐げられてきた」というような表現は、それこそ別問題かもしれないが つまりその「配慮」とやらが見透かされるような、そして上手にあしらえないような底の浅い頭の愚かな女は、今回の話題では除外するということですね?? >この見せかけに むしろ はじめに 難なく 成功したゆえに その道を突き進んで 《滑り落ちて》いく場合です。《クレオパトラ》は 偉大なのです。 じゃあ、あくまで、ご質問者が想定したクレオパトラのような女性が一般には多いと見受ける、したがって女性は偉大なり、で結構じゃないですか。何が問題なんですか? まぁ「はじめに難なく成功した」ことに固執するなら、それはあまり賢明とは言えないですよ。 >露骨に表現するのが むつかしく 少しでも 格調高い文章で 包まれないと なんですか、性的なことが絡むからなんですか?格調高くも何も、もう少し分かりやすくする努力をお願いしますよ。独り言を言う場所じゃないんで。 >ずばり 問題は こうです。恋愛関係にあって 恋愛感情から われは自由なりという自信をもって――ここまでは まだ よいとして 次が 問題です―― しかも その男と女の関係にかんして その主導権を握ることを 目的としている。これを一生というほど 追求しつづけている。 これは 第一に まちがいだと思われます。第二に この間違いを侵すのは どうも 女に多い。もしくは 女の場合には はなはだしい。 つまり問題は 男女関係において女性が主導権を握りたがる(しかも恋愛関係にあるということが確固としてあるかどうかもわきまえず)ということにある、ということですか? で、「間違い」とは、女性側が、対等な関係にあることを満足しない、ということですか? そりゃまあ、女というのは、これでなかなか支配欲強い人が多いですよ。それもかなり屈折した形のね。だから >>「死んだ女よりも、もっと惨めなのは忘れられた女です」 これを言ったのは確か女性だったと記憶してますが(ローランサンだったかな) >☆ これは よくわからないです。死ぬよりは 生きていたほうがよいと 単純に思いますが。 単純です。生きていて支配できなければ、死んで支配が叶わなくなるより屈辱なんですよ。女心に疎いと見受けました。(笑)
のっけから失礼ですが、いつも本当に分かり難い文章ですね。今回もご質問の本文からは何がおっしゃりたいのか分からんのでANo.2の方へのお礼の文章から確認させてもらいます。 >《理性によって 物欲を発揮するごとく 外にあるものに節度を失った進行をなし はなはだしく滑り落ちる》 この中の「理性によって」は、どこにかかるんですか?「物欲を発揮する」ですか「滑り落ちる」ですか。ここで分節せよという指示をスラッシュでも入れていただきたいですね。 そもそも「理性」というものは、貪らせたり走らせたりするもんだろうか。 貪りや走らせることに「理性」の看板をかけて誤魔化すということなら、よく見かけることです。それだけ、貪ったり走ったりということに当人の心のうちで明らかな自覚が伴わないまでも強い恥を感じているということでもあるんでしょう。その恥の感情、あるいは自分自身を咎めることに耐え切れないからこそ、いかにも「理性」から持って来たかのような看板かけてるだけなんじゃないでしょうかね。 卑近な例では、自分のためだけにやってることを他人のためにやってるのだと言い訳したりね。 こういう現象自体は基本的に男女関係なく見られることです。その程度の甚だしさを問うのなら、やはりその個人のバックを探らなくてはならなくなる。 確かに私自身、こういうことをやるのが女性に多いような印象は受けていますが、なぜ女性に多いのか、それは確かなのかを言うには調査の必要があるでしょう。 ひとつ考えられるのは、女性は伝統的に長らく、自己主張、自分個人の利益を追求することを控え、周囲の人のために犠牲的精神を発揮するのを美徳とされてきたということが影響しているかもしれません。そうした要請に根強く影響されながらも、やはり自分自身の欲望、欲求抑えがたい、ふつふつと湧き出て押し留めがたい、このような自分の本性の姿に葛藤しているタイプの女性なら尚更、ということかもしれない。一番問題なのは、直視する能力がない、それに耐えられない、ということだと思います。終いにゃ分裂的様相を呈するに至るんでしょう。 まず自分自身に対してシンドイことだな、と思います。 殊更、理性的に見せかけようとするのも、論理を追求しているためであるかのように見せかけるのも。 見せかけるのに失敗しているなら、ますます惨めさが募る。そして「滑り落ちて」いきます。 「死んだ女よりも、もっと惨めなのは忘れられた女です」 誰かが言ってたっけな。
補足
noema_1970さん ご回答をよくお寄せくださいました。自分でも 問題とその意識まで はっきりしているのですが どうも 表現しづらいことのようです。 まづ 次のようにお取りください。 《外にあるものに対して 理性によって 物欲を発揮するごとく 節度 を失った進行をなし はなはだしく滑り落ちる》 そして その事例は 一つに No.1におけるクレオパトラの仮想例があります。 (いー2) (a)やはり カエサルらとの恋は 女としての部分も もろに出ているのではないかと見る場合。 (b)とはいうものの しかも その感情は 情愛がたとえ人一倍強か ったとしても あくまで かのじょの理性によって抑えつけられ 治め られている。これを あたかも自由自在に 政治・外交の上で おおい に 手段として使ったと見る場合。 この理性は――このような理性的存在者は―― あたかもいわゆる神のごとく いかなるものの下にも立つまいと 生涯の決心をしているかに思われます。 ちなみに マキャヴェッリの・目的のためには手段を選ばずという態度は 理性の問題ですが そして この理性による権力・権益のむさぼりにもかかわっているでしょうが どうも いまの事例とは別のように感じられます。ひとことで言って マキャヴェリスムは 自己のむさぼりがあれば それがむさぼりであると ちゃんと 知っていると思われます。わきまえていて まだ かわいい。 それに比べると クレオパトラの悪い場合を仮想した事例では そういう反省をすることはあるでしょうけれど どうも 一直線に進んでいるというように見えます。しかも これを 或る種の使命感を帯びて おこなっているように考えられます。つまり 男では こういう事例は 考えられないように思われるのです。いかがでしょうか。 ★ 貪りや走らせることに「理性」の看板をかけて誤魔化すということなら、よく見かけることです。・・・卑近な例では、自分のためだけにやってることを他人のためにやってるのだと言い訳したりね。 ☆ これについては いまの事例に入りません。何故かと言えば 理性が総合的かつ統一的な司令者であるという場合には はじめから 人によく見せようという《配慮》は 為されています。そんなことは お茶の子さいさいなのです。クレオパトラ仮想例は そうではないですか。 ★ 女性の歴史社会的に置かれた位置を考慮せよ。つまり《女性は伝統的に長らく、自己主張、自分個人の利益を追求することを控え、周囲の人のために犠牲的精神を発揮するのを美徳とされてきたということが影響しているかもしれません》うんぬんです。 ☆ これも 残念ながら あたらないと思っています。というのも それほど長いあいだ 虐げられてきたと もし するなら そんなことは もう じゅうぶん あしらえるようになっていると考えられるからです。 ただし 当たっていると思われる側面につながる要因があります。それは いわゆるその反動ということで たとえばクレオパトラのような偉大な理性人が登場するということです。 すなわち 《〔欲望・自己主張とその抑制との間で〕自分の本性の姿に葛藤している》のではなく この葛藤をすでに通り越えている《タイプの女性なら尚更、ということかもしれない》でしょう。《一番問題なのは、直視する能力がない、それに耐えられない》というとき 仮想クレオパトラは とっくに この覚りは 達成しているというそんな人物像となります。 ですから ★ 殊更、理性的に見せかけようと〔し〕、論理を追求しているためであるかのように見せかける・・・のに失敗しているなら、ますます惨めさが募る。そして「滑り落ちて」いきます。 ☆ という流れではなく この見せかけに むしろ はじめに 難なく 成功したゆえに その道を突き進んで 《滑り落ちて》いく場合です。《クレオパトラ》は 偉大なのです。 ★ 「死んだ女よりも、もっと惨めなのは忘れられた女です」 ☆ これは よくわからないです。死ぬよりは 生きていたほうがよいと 単純に思いますが。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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そして今、女性の生き方、女神伝説や神話。民俗その他を勉強してますが、現実の女性達の感情や立場。行動などもじっと見つめています。 やはり私も違うと存じているのです。でもますます同じだなと思うようになってきております。女性も男性的だし、男性もすごく女性的ですね。すべり方も、そして引かれ方も。差はないようですね。 機能の違いはありますが。それだけですね、どうも。 加齢というのは、そうやって冷静に男女を見ていられる有利さを与えてくれております。でもいつすべり堕ちるかな。出来心で。人間の悲しさですね。
お礼
問いかけとして つづらせていただきます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 女性が 共同体的な肉欲の餌食や下婢であるというような 女性にたいする関係のなかに 人間が自分自身にたいしてそのなかに実存している限りない堕落が語られている。 というのは この関係の秘密があいまいではなく 決定的に 公然と むきだしに表現されるのは 男性の女性にたいする関係のなかであり また直接的な 自然的な類関係(* 人びとの共同性)がどのように捉えられているかというその仕方のなかだからである。 人間の人間に対する直接的な 自然的な 必然的な関係は 男性の女性にたいする関係である。・・・ この関係のなかには 人間にとってどの程度まで人間的本質(* ここでは大胆に 理性と読む)が自然(* ここでは乱暴に 欲望)となったか あるいは自然が人間の人間的本質となったかが 感性的に すなわち直観的な事実にまで還元されて 現われる。それゆえ この関係から 人間の全文化段階( Bildungsstufe )を判断することができる。・・・ (マルクス:経済学・哲学草稿 3・2 私有財産と共産主義) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ わたしは考えるのですが 理性統一神たる仮想クレオパトラは この《関係》をつくろうというのではなく これを通り越えて そもそも この《関係》に入っていないのではないか こういう問題意識を持ちます。偉大な業績を残すほどであってもです。 マルクスは 《粗野な共産主義》ということも論じていますが これは 私有財産にしても あるいは 女性という対偶にしても 機械的な一律・均分による所有を求める欲求であり動きです。 わたしは思うのですが 社会にはこのような欲求がうごめいていて この欲望を 何らかの形で満たそうとするそのはたらき(ないし知恵)は 女であり 女傑であり あるいは 女性性から出て来てしまっているのではないかと疑うのです。理性のむさぼりとしての社会的な大構想 その大元締め これが 女性(あやまった方向へ行った女性性)であるように感じられます。 そしてこれは ひとたび どうもそのようではないかと疑い 何らかの認識を おのおのが かたちづくるなら それでいいという問題だと思います。まとまりがなくて おゆるしあれかし。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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brageloneさん、それにしても、難しい文章です。brageloneさんのコンメンタールが欲しい。でも何とか今までのお心に報いたく、自分(たち)の側からの理解と思いを綴ってみたい。 人間の中の男女、その一方である男、そして女としては、どちらからも他方を異なるものと見えてくるのは、事実であります。 がどうも見えるほどには、実際はそんなに違いはないという思いになってきています。 相互の違いの見え方は、お互いさまに、便益などからに起因しているように思えますよ。 そして、創造者からは全く何等の違いもない存在なのではないでしょうか。聖典などでの違いの言い方には、創造ということの中の説明をするための、象徴をいっていると存じますので、それを直ちに現実の私達の男女のことに、当て嵌めると少し妥当性がなくなりはしませんか? 無論聖典などの象徴的言い方は、事実界における、男女の様相的相違に着目して、使っているのでしょう。 私達は、唯一の実在が創造者(という意識)でしかない。から出発します。 創造者は無行為ですが、多面性の一つ(意識)で、夢を見ます。 この夢が創造活動であり、創造界である。 その最初が、意識の中で女性(ガンガ、オウム、最初の配偶者)に出会います。 その中に自分の普遍意識(これをひとり子という)をリフレクトします。これが夢界ですね。 だから一切は唯一なる存在の意識の中のことでしかない。 そしてそれは女性です。彼からはすべて女性界であり、その中の子どもでしかない。 子どもは神に向かうという磁極では女性性、太極の陰陽でいえば、やはり陰の極なのでしょうね。それは子たる中の男女というものに区別のない在り方というわけです。勿論、人類としての歴史の共同相続人である。それは男女の差がない。全く。 滑り落ちる度合いの差は、ない。私の経験と観察でもない。 仮にbrageloneが違いを見るなら、それは私の経験と観察とは相違しております。 オウムは直接唯一者に接続し、地底の最後まで通じている。 ヒマラヤから大洋の海底にまで。 だから、その中の被造体は流れるなら、何処までも流れていくことができる。オウムも唯一者も、どこまでも相手をする。 しかし、子と唯一者というものは、唯一者に自己認識することを、本心としている。 そして創造界という限りなく上界と限りなく下界はどこまでいっても、うえに行く道と、下に行く道が常に用意されている。これをオウムの中のヴィサルガという。垂直に並ぶ、二つのドットで象徴されている。 唯一者からみると、創造界は女性です。伴侶です。 その中はすべて、陰と陽のように相対立するかのような、両面性で構成されて、同じ事が、取り留めない無数の違いに見えるだけ。 男女も見かけだけの差に過ぎない。違いはない。違いはその中で迷妄たるMayaに捉われた、目の開かない人間という意識の見ている現象に過ぎない。 というもので、単なる考え方、神話、推論、構成ではなく、これが実在のあり方だ、という教えです。 人間は常に、誰もが、向上できるし、そうなっていくし、そういう機会はある。しかもそれとは違う方向にもなっていく。 これが創造界の基本のありようのひとつです、ということを教えられております。 だから、bragelone様の保留条件は、存立しない。というものです。 単なる観方ではないのですが、私はこういうふうに見ることができるので、全てに一貫性をもっていられるし、平和にいられます。 男も女性性があるし、女も男性性がある。そういう発見と気付きをしてきております。何等の差もありません。肉体の役割の面以外は。 これに、bragelone様もそうだな、と思うことになるかも知れなし、ずぅっといや、違うだろう、と思われていくかもしれませんね。 どちらがどうとは、どこの誰も強制はしないし、できないでしょうね。私が変更、転向するかも知れないですしね。
補足
krya1998さん よくご回答をよせてくださいました。 ★ 滑り落ちる度合いの差は、ない。私の経験と観察でもない。 / 保留条件は、存立しない。 ☆ 明確にお答えいただきました。観察された例は ないのだと。 さて この質問は(あるいは この質問も) 自分のほうが すすめづらくなってきました。表現がむつかしい このひとことに尽きると思います。 以前の《Q:日本人は死んでいるのですか=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3346636.html 》に似ていますが 今回は 男と女とのちがいに着目している限りで きわめて経験具体的なことがらを扱います。 その前に アウグスティヌスの文章は 後半は 例のアダムとエワの物語です。《きみは どこにいるのか》との声を聞くと アダムは《隠れています。・・・》と答え 《食べるなと命じた木から食べたのか》と問われると 《女が誘ったので》と返し エワは 《蛇のせいです》と口答えするようになったという内容を言っていると思います。 前半は たしかにわたしの解釈が入っていたかも知れません。《理性によって 経験的な欲望に走る。しかも その欲望から 自分は 〔いま上に出た〕知恵の木の実を食べて 自由なのだ。欲望に振りまわされることなど ない。そのようにして 理性によって おこなうむさぼり》 こういう問題だと見たのでしたが。 そして この推測が当たっていても その具体的な議論は なかなか 公共の場では むつかしい。当たっていなければ もう少し修行をしてきなさいということになります。 挑んでみましょうか。またまた 引用です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく公共的なものとしてこのようなもの(* これが 男女の愛のことです)を愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される 内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なものの無知によって――魂はこのことを時間的に為すから――或る点で誤り そして為すべきようになさなくても それは人間の試練に他ならない。 (* 男と女の関係を避ける必要はないと取れます)。 私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練(コリント前書10:13)が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。 しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善の目的をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも恥づべきことをなしているのである。 (アウグスティヌス:三位一体論 12・9) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 露骨に表現するのが むつかしく 少しでも 格調高い文章で 包まれないと まちがいが恐れられます。という事情なのですが ここで ずばり 問題は こうです。恋愛関係にあって 恋愛感情から われは自由なりという自信をもって――ここまでは まだ よいとして 次が 問題です―― しかも その男と女の関係にかんして その主導権を握ることを 目的としている。これを一生というほど 追求しつづけている。 これは 第一に まちがいだと思われます。第二に この間違いを侵すのは どうも 女に多い。もしくは 女の場合には はなはだしい。――男には あまり聞かないと思います。 と書いてきましたが やはり わかりにくいですかね。わかりにくいようですよね。どうしましょう。弱りました。 このまま お返ししてもよろしいのでしょうか。この場合は 無視というご回答も ありとさせていただきます。
- harepanda
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ANo1ことharepandaです。 なるほど、概念的にではなく感性的に知覚したいという趣旨ですか。 A-1:男性の更年期障害は体験したことがありませんが、妻の父がその状態で、かなり色々と困っています。また、私は甲状腺機能が正常値の下限ぎりぎりらしく、若い段階で更年期障害が出てもおかしくない状況です。 A-2:私は双極性障害、もしくは、非定型うつ病という、ストレス性の病にして、通常のうつ病よりも、はるかにたちのわるい病気にかかっているので、時々、「これって客観的に見たらヒステリーだろうな」と思うような行動に出てしまうことがあります。うつ病は昨今のホットトピックですが、うつ病にかかることで人間としての深みがまし、結果としてうつ病体験はよい出来事だったと言っている元患者がいるのが、非常によく分かります。 A-3:《理性によって外にあるものに節度を失った進行をなしはなはだしく滑り落ち》という文ですが、「理性によって進行しすべり落ちる」というかかり方をしているとは読まず、「理性によって外に排除されてしまってあるもの」と読みかたをしていました。日本語って難しいですね。女性の場合、理性が物欲という形で現われるという意味でしょうか?もし、その意味であれば、女性のほうがアクセサリーやら化粧やらの細かいものへの物欲が強いのは事実だと思います。しかし、男性には、クルマという環境への負荷も自分の出費も多いものを、趣味にしている人が多数いることを計上する必要があると思います。結果として、性差に関係なく物欲は同等にあると思います。 いー2:根本的な動機が恋愛感情にあるのではない別ケースを考えて見ましょう。男性の場合、権力欲や処世術が原動力となっている時がありますが、フランス革命期のタレーランとフーシェの間のつばぜり合いは、非常に激しいものがありました。タレーランについての伝記「タレラン伝」を読めば、彼が外交の天才であるとともに、美食や女遊びにひたりきっていた人物であることが分かります。女性の消費好きな傾向と同じではないでしょうか? なお、一般論から言えば、brageloneさんのように、A-1とかいー2とかいったような項目を立て、物事の要素を分解して並びたてていく思考法は、イギリスやアメリカに見られるタイプの思考法であり、これはどちらかと言えば男性的な思考法です。brageloneさんが男性的な発想法であることは確実だと思います。 他方、私は弁証法家で、しかも、マルクスではなく、ヘーゲル、キルケゴール、アドルノの系譜に入りますので、分類とか数字とかを一切信用せず、概念で物事を語ろうとする傾向があります。物事を要素に分解したりリストアップしたりするのは弁証法家が嫌うところのもので、これをやると全体というものが見えなくなってしまうと弁証法家は考えます。特にアドルノに当たると、女性的とも言えるほどの音楽趣味を、音楽社会学という学問にしてしまうなどの行動を見ることが出来ます。もともと、私の発想法は、こういった点でbrageloneさんより女性的なのでしょう。
お礼
harepandaさん さらに解説くださってありがとうございます。 わたしの場合 具体例として――むしろ 感触として いままでの経験が 残っていて 分かっていると思っているのですが―― あまりうまく出せないようです。どうも 思ったより 具体的な話をしづらいようにも 思えて来ました。 焦点は あらためて 《理性によって 物欲を発揮するごとく 外にあるものに節度を失った進行をなし はなはだしく滑り落ちる》ふるまいにあります。 感情に走るというのではなく 《理性に走る》状態 あるいは 《理性によっておこなうむさぼり》。どうも抽象的になります。そしてこの場合の 理性は ただの・自分だけに通用するような思い込みという内容をも伴なっているのではないでしょうか。そして 物欲という言い方だけでは 意を尽くせませんでした。 挙げていただいた例からは たとえば タレーランが その《権力欲》を理性のもとに満たすために 理性によって 美食や女遊びをも利用したという場合だと 性差はないという結論に達するかと思われます。ただ――よくは知らないで触れようとしているのですが―― 全般的にそういう《処世術》が流行ったというような情況ではないかとも見られます。《むさぼり》から微妙に逸れているように感じられます。 ジェームズ・ボンドが 女をも その使命達成のために利用するのは そういう職種なのだと思われます。そういう理解ができれば この事例(理性によるむさぼり)に当たらないと考えます。 ちょっと 想像力が涸れてきました。もう少し考えてみます。 * 弁証法は きわめて単純に 問い→答え→問い→・・・という循環の過程として すべてのことがらの基軸となるでしょうし 分類法をも自分のもとにかかえているとも思われます。つまり 性差の問題とは あまりなじまないように思われます。(なぐり書きですみません)。(気がついたことがありましたら 補足欄にも 書かせていただきます)。
- harepanda
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私は近代哲学を専攻した者で、アウグスティヌスのことは、教科書レベルの知識しかありません。その前提で、お読みいただければ、幸いです。 >・女は 《理性によって外にあるものに節度を失った進行をなし、はなはだしく滑り落ち》る度合いが 男よりも 激しいのではないか。 近代人文科学の功績のひとつに、フロイト理論があります。彼の最大の発見のひとつとして言われているのが、ヒステリーは子宮に由来する女性だけの現象であるという先入観を否定し、男にもヒステリーは存在すると指摘したことです。 人間が理性を失い、感情的になる場合というのは、通常の生活リズムの中では3パターン思いつきます。(1)ヒステリー、(2)更年期障害、(3)PMS:月経前症候群です。 上記のうち(3)は確かに男にはありませんが、(1)と(2)は男にもあるというのが現代医学の前提です。フロイト以前の理論に基づいて性別論を展開する人は、どうやっても性差別の意識から逃れることが出来ません。近代哲学者でも、カントの世代までは神学者=哲学者で、一生を独身ですごしています。フィヒテの妻あたりは、夫以上の熱心な民主主義運動家と知られていますが、フィヒテやヘーゲルでも、やはり多少の性差別の残滓は感じます。 特に、キリスト教神学は、古典古代のおおらかで自由な女性像をつぶしてしまい、中世を女性にとっての暗黒時代にしてしまった責任があります。魔女狩りなど、ギリシャやローマの時代にはありませんでしたよ?魔女狩りはキリスト教が異端審問としてカトリック国で開始し、やがて、プロテスタントに飛び火して理論的に先鋭化するのです。 他方、ギリシャやローマには、女流文学も存在しましたし、女性も非常におおらかな生活をしていました。喜劇作品では、男たちが戦争を起こそうとしているのを見て、女性たちが連合を組み、セックス・ストライキをすることで男を従属させ、戦争を止めさせるなどという馬鹿馬鹿しい物語まであるくらいなんです。逆にバッカス祭では、酒飲みとフリーセックスの乱痴気騒ぎだったりするわけですが。また、ローマ時代には政治的権力を持っていた女性も多く、例えば、クレオパトラはエジプトの女王なので黒人だと思っている人もいるかもしれませんが、彼女は人種的にはギリシャ人です。ローマが文明の程度はまだ低かったものの軍事大国にのし上がってきた時に、エジプト王として堂々とローマと渡り合うほどの女性がいたわけです。 昨今では中世を文化的に停滞した暗黒時代だと見なす見解は流行らないので、私も忘れかけていたのですが、正直に言って、キリスト教神学の人の本音を見せていただき、やっぱりヨーロッパ中世は暗黒時代だと思い直しました。
お礼
補遺です。 お気づきだと思われるように 例示として出した(あ)と(い)との区別が うまく出来ていませんでした。互いに重なる部分をも持ってしまったようです。 ですが (いー2)の場合について 問いを立てることには 差し支えないようですので このままとさせていただきます。
補足
harepandaさん ご回答をありがとうございます。 わかっていることは 男と女の違いにかかわらず 人は 歴史のすべての共同相続人であるということです。そこに 何の差異・差別はありません。ただ それが わたしの場合 頭でわかる状態(段階)であるので 何とか感性によっても 理解することができないだろうかという趣旨になっています。 結論は 誰も共有しているという大前提ですので 疑問のおこる部分について その結論にたどりつけるように さらにお尋ねしてまいりたいと存じます。 (A) 《(1)ヒステリー、(2)更年期障害》が男にもあるので たとえばきわめて強く物を欲しがるといったように《外にあるものに節度を失った進行をな》すことは 性差は関係ないとおっしゃる点については (A-1) わたしの場合 更年期障害が 脚に来たと医師に指摘されたことがあるので その点 分かりますが そのことが 《はなはだしく その物欲に 滑り落ちる》といった問題につながったことはないと思っていますので ヒステリーともども まだ 感得しえません。 (A-2) でも これも(ヒステリーなどの現象が 性差に関係ないことです) 頭では分かるわけですが harepandaさんは 知覚としてわかりますか。 (A-3) ですが harepandaさん じつは 問いの中に《理性によって》という表現をしましたように この表現のとおりのこととして お尋ねしています。つまり おっしゃるような《理性を失い、感情的になる場合》という事例は 扱っていないのです。むしろ頭において物欲が募りこれに突き進んで行き勝ちではないかという問いになります。よろしくどうぞ。 ですから 男尊女卑 女性蔑視 魔女狩りについては 忘れてもらってかまわないと思います。 女性の偉人が いくらも存在したということも 何の問題もありません。 もし仮りに 逆に クレオパトラの例で考えれば こうなるかと思います。つまり かのじょは ローマの軍人たちと 男女の関係をも含んで わたりあったことには まづ 二つの解釈があるでしょう。 (あ) まったく男の政治家と同じように ただし 女であることをもそこに同時に武器として使い わたりあったのだ。 (い) やはり カエサルらとの恋は 女としての部分も もろに出ているのではないかと見る場合。しかも これは (いー1) 女としてのこの恋愛感情の部分は まったく それとして捉えればよいのであると見る場合。同時に起こっているが 政治は政治 恋愛は恋愛として それぞれを捉えればよいと。 (いー2) いや その感情は 情愛がたとえ人一倍強かったとしても あくまで 政治・外交の上での手段として使ったに過ぎないと見る場合。 要するに これらの事例と解釈例の中からは (いー2)の場合 それの極端な場合が 《理性によって外にあるものに節度を失った進行をなし、はなはだしく滑り落ち》るという仮りの事例であります。 そして いまこの質問の趣旨としては その《度合いが 女は 男よりも 激しいのではないか》 このような いぶかり・疑いです。一般的に言って 経験事実としての妥当性は まったく ないでしょうか。 なければ わたしが 感性を磨くべきだという結論になります。 あるとなれば では どう捉え どう対処していけばよいか みんなで考えようという問題になります。(結論は 言い忘れましたが 頭だけではなく 直観によって わたしの場合 受け容れておりますので その結論へつなぐ考え方です)。
補足
noema_1970さん お応えをありがとうございます。 noema_1970さん まさに いいことをおっしゃってくださいました。 ★ 単純です。生きていて支配できなければ、死んで支配が叶わなくなるより屈辱なんですよ。女心に疎いと見受けました。(笑) ☆ 《生きていて支配できなければ、死んで支配が叶わなくなるより屈辱なんですよ》の理性暴走 理性によるむさぼり これは――あくまで 経験的な現象として捉えての話しだということは はじめからの共通の前提ですが―― どうも 男には見かけないと思われてなりません。 これが すべてです。この質問のすべてです。 (ローランサンという女であったならば その女に男は操られていたという推測が成り立ちそうなのですが。つまり けっして男を擁護するのではなく――男こそ悪いことばかりやっていますが この理性によるむさぼりの一貫性にかんしては 男は稀れだと思われます―― この場合は そういう実態・実相が 推測されるのですが)。 ☆ かくなる上は 事実認識――《仮想例クレオパトラ》などと言わずにです―― つまり情況把握と分析 そして しかるべき哲学としての答えを出すよう努める こういう作業過程になるでしょう。 マキャヴェリスムが分かっただけでは 不足する哲学の探究です。(あとで述べるように 広い意味での《無意識・集団的無意識》のような概念もかかわってくるように思うのですが)。 ☆ ですから ほかに出された補足要求は もうすべて この課題に吸収されると見ていいですよね。 ☆ もう一点です。先のkrya1998さんのご回答へのお礼(補足)で書いたのですが そしてこのことは そのあと知ったのですが 問題は 二つの側面があると考えるようになりました。 理性統一神信仰(思いこみ)による理性一貫爆走 これが 仮想クレオパトラというように 女傑であって 実在の女として 経験現実となって現われる場合が ひとつの側面です。 いま一つの側面は こうです。そんな女英雄など知れたものだ 実際にはいないというときに しかも そのような想像上の女性像は 皆に持たれていると考えられる場合です。これは 社会共同の心理として 幻想として しかも 顕教としてではなく つまりは密教のごとく=という粗い意味で 集団的な無意識のかたちで この女傑=女神を 人びとが待望しているという社会の情況です。 とにかく何でも平等に与えよといった要求を突きつけて止まない《粗野な共産主義》の考え方は この理性統一神としての女神を ちょっとした隙から 崇拝するようになるかも分かりません。 というような社会学・宗教社会学・女性論(=男性論)そして哲学思想の問題に あるいは 発展するかも知れません。いかがですか。 ★ じゃあ、あくまで、ご質問者が想定したクレオパトラのような女性が一般には多いと見受ける、したがって女性は偉大なり、で結構じゃないですか。何が問題なんですか? ☆ 一つに その暴走について 哲学はどう捉え どのような処方箋を出すか。もう一つに 歴史の共同相続人である資格が 女には なくなります。つまり ★ 男女関係において女性が主導権を握りたがる ☆ というとき 単なるイニシアチヴがどちらにあるかの問題でしたら 何も言うことないですが その主導権争いを 理性一貫のもとに 一生のあいだ 続けていては 要するに そもそも 人と人との関係じたいが 成り立たない。という問題が 起きているものと考えます。《理性教》は 問題だと思います。 (尻切れとんぼですが)。