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男と女
その対等性について問います。 まづは読んでください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ だから 男と女の精神には明らかに共通の本性が認められる。 ところが 男と女の身体によって一つの精神の職務の配分が象徴されるのである。 したがって 私たちが段階的に内観を進めて行き 魂の種々なる部分を考察するなら そのとき私たちが動物とは共有しない或るものを見出し始め そこで内なる人がすでに認識され得る理性がその仕事に着手するのである。 この内なる人自身も 時間的事物の管理を委託されているあの理性によって外にあるものに節度を失った進行をなし はなはだしく滑り落ち さらにその頭が同意するなら 言い換えると指揮所で命令し見張る理性のあの部分が いわば男の役割のごとく それを禁止し抑制しないなら その敵の中で衰えるのである(詩編6:8)。その敵とは徳を憎む悪鬼たちとその首長(かしら)たる悪魔である。 永遠なるもののあの直視は妻と共に禁じられたものを食べた頭(男=アダム)自身からも失われ したがって彼の眼の光は彼と共にないようになる(詩編38:11)。かくて この両者は真理の照明によって裸にされて いかに自分たちが恥ずかしく無様に いわば甘い果実の葉のようであり しかも彼ら自身は結実なくあるかということを見るために開かれた意識の眼をもって 善き業の実なくして善き言葉を織り合わせ 悪しく生きながら いわば上手に語って自分たちの汚辱を蔽うのである(創世記3:1-7)。 (アウグスティヌス:『三位一体論』中沢宣夫訳 12・8) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 質問です。 無条件に 分かっていることは ・男女互いに いわゆるこの世の悪(歴史知性によるその知と意識) に対して 責任を負っている。 であり 頭で――頭で です――分かっていることは ・男女ともども この人類としての歴史の共同相続人である。 ということであり しかしながら この事項は 条件つきでなければ 了解しがたいというのが わたしの実情です。 ・女は 《理性によって外にあるものに節度を失った進行をなし は なはだしく滑り落ち》る度合いが 男よりも 激しいのではないか。 この条件をつければ すべて 男女平等で進めます。 しかも 救い難いほど頑迷ではないかとおそれられることは このような条件としての内容は 経験現実として・また社会現象としては 実際であるのではないかと わたしが 認識しているところです。 どうか 最大限の自由に ご批判をたまわりたいと存じます。おしえてください。
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- tyr134
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ANo.9です。 もうひとつ質問を立てておられますけど、こちらの訂正なのでこちらに回答しておきますね。 一箇所訂正です。 >このイメージから、「原罪はエヴァより発する」というキリスト教の教義が生まれ現在にまで至ります ここは、「原罪はアダムより発する」ですね。 アウグスティヌスも「アダムの罪は原罪となって子孫に及び」と書いていますね。 「アダムの自由意志によって、エヴァに対する愛より罪を犯した」という考えでしたね。 お詫びして訂正いたします。 以下は補足です。 アウグスティヌスにしろ、新約聖書の作者にしろ、後の神学者にしろ、、、 誰も「男女平等論」という観点から解釈した人は居ないのではというのが、私の認識です。 というのも、「男女平等論」自体がごくごく最近、欧米によって生まれた観念です。 また、世俗化した中で行われた議論なので宗教界にまで(ましてやカトリックにまで)及ぼした影響というのはごくごく少ない範囲のようです。 (少なくとも、私は「ローマ教皇の三重冠を女性にもよこせ」という要求は聞いたことがありません) 現在は「フェミニズム神学」なるものも登場してきているので、その中で今後は進んでいくかもしれませんが、正直その分野には疎いです。 > アウグスティヌスにかんしては 出典を明示していただくとありがたいと思います。 とのことなので一箇所思いつくところを。 ===以下引用=== しかし神は人間の本性を、いわば天使と動物との中間のものとして作ったのである。 (中略) しかしもし主なる神に向かって、自由意志を用いて傲慢かつ不従順に反抗するならば、死に渡されて動物のように生き、欲情に仕えて死後の永遠の罰に定められるのである。神はこの人間を個々に造ったが、それはむろん社会を持たず独りでいるためではない。神の意図は、人間が本性の一致によってのみならず親近さの感情によっても結ばれるのであるならば、人間社会の統一と和合のきずなとがそれによってますます強くなることであった。神は最後に女を造り、これを男と合わせようとしたが、この場合女を男と同じ仕方で作るのをよしとしたのではない。神は女を男から造ることにより、全人類が一人の人間からひろがるようにしたのである。 アウグスティヌス『神の国 第12巻第22章』 ===以上=== この内容より、中世の神学では「女=アダムの肋骨から作られたもの=男より一歩劣ったもの」という世界観が出来上がります。 これは、論理というよりも社会システムと結合して出来上がったと言ってもいいかもしれません。 今後は、聖書やアウグスティヌスのテクストなんかも、「男女平等」という社会システムの中で再定義されていくでしょうね。 本人の与り知らぬところで、と言っては皮肉に過ぎるでしょうか。(笑)
- littlekiss
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こんばんは、brageloneさん。 フラ語の単位を落としてますから…強くは言えない。古傷が、、、 ヾ(-_-;) ちょっと ちょっと、 ほでも、参考までに QNo.436540 【「サン トワ マミー 」とはどういう意味か 】 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=436540 【眼の誕生】 http://www.amazon.co.jp/%E7%9C%BC%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F%E2%80%95%E2%80%95%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%B4%80%E5%A4%A7%E9%80%B2%E5%8C%96%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8F-%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC/dp/4794214782 【進化の不思議な大爆発】 http://www.wink.ac/~ogaoga/seimei2.html 【奇跡のシステム】 http://www.wink.ac/~ogaoga/seimei6.html 【地球と生命の誕生と進化】 http://nihon.matsu.net/seimei/09.kanburia.html 【第16回松陰教学研究会】 http://www9.ocn.ne.jp/~shohukai/16kaikyougaku.htm 【ヨーロッパ・ポルトガル語強勢母音体系の音韻論的記述 】 http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ykawa/thesis_jp/master/makino_jp.htm
お礼
これでは わかりません。説明文を書いてください。ませ。
補足
それぞれの どこそこを読むと これこれのことが書いてあるというふうに 指示してください。ませ。
>けんか四つなのでしょうが 何が「けんか四つ」ですか。失礼なことを言う人だな。こっちはケンカしにきてるつもりはないですよ。 >致命的な弱点を 指摘 どこが致命的弱点なんだか分からんが >結婚申し込みとその返事を超えて 話しがつづくなどと考えるのは 人と人との関係を 犬や猫が互いにひっついたり離れたりするのと同じことだと見なしていることです。意志決定が 大事なときは 大事なのです。大事な意志決定とその表示は きついけれど イエスかノーかなのです。 だったら断られたその時すかさず、そう言えばいいじゃないですか。 世のなか、結婚申込どころか離婚したあとでも、友人として付き合っていこうという考え方の人もいるし、どういう場合に100パーセントイエスかノーかでバッサリやるか、そんなの人によって判断の仕方が違うでしょう。日本人は一般的に、こんなもんだと思いますがね。まぁ貴方がムッとした気持ちも全然理解できないわけじゃないけど結婚申込を断った以上、これがああなったから、あれがこうなったから、だからアンタは右オレは左、二度とあいまみえず!などと潔癖と言うのか極端な言い方は、あまりしないと思う。それが許しがたい言い草だと思うなら、実際にその相手に申し渡す、それだけです。(煩いやつだと思われるのを承知でね)大概、社交辞令は断りの文句とイコールに解釈してるもんだから、特に結婚申込を断るてなことは角を立てずにヤンワリってのが少なくとも日本では一般的なやり方なんじゃないですか。哲学的にどうかこうかと考えてみたって、こういう場合バッサリとヤンワリとどっちであるべきかなんて一概に言えるもんじゃない。 >この女は 人と人の関係が成り立たない地点(――成り立たせようとしない理性のあり方――)にいるなと漠然とわかってから そのことをかのじょが気づくようにと 努めたけれども こちらは非力だったというお話しです。 「人と人の関係が成り立たない地点」てな、なんですか?「貴方が成り立たせたい関係」が、ですか?誰に対してもですか?それが彼女の方針で、それを貴方が変えさせたかったわけですか?非力だった、それが全てじゃないですか。あるいは貴方以外の人だったら非力じゃなかったのかもしれないし。 >やがて 女は 修道院に入ります。それなら 主導権争いに負けていないと踏んだからでしょう。《しっぽを振って わたしに言い寄れ。それまでは 許さない》と言っているのでしょう。 なんだよそれ。ジッドの『狭き門』かと思ったら、主導権争い云々で修道院に入ったぁ?そんな動機で修道院入りするてな話、初めて聞いたぜ。じゃ「しっぽを振って言い寄ったら」修道院から出て来て結婚してくれるんですかね?試しにやってみたらどうですか。それでホイホイ出て来たら、その時こそ貴方の方からフッてやりゃいいでしょう。 >こういう夢を見たことがあります。《わたしは 何時間も何日も 門を叩いています。返事がない。もう意識を失って門の前に倒れていたらしく 気がついたら その女の前に立っていたのです。わたしは どういうわけか すぐさま 求婚します。ふたたびのことだが 結婚を申し込みたいと言います。返答としては――きゃっ きゃっ きゃははははっ ははははhhhhh・・・》で目が覚めた。 だから何だってんですか?貴方の主観が夢に丸出しで出てるだけじゃないすか。 >この欄を アウグスティヌス解釈のために 悪いがアウグスティヌスとやらに深入りする気はない。このミョーチキリンな文章ではね。それにキリスト教で言う男女間を実際の自分の周囲のそれに無理に当て嵌めて考える意欲も起きません。 貴方の個人的な話の中の件の女性とアウグスティヌスの男女論とやらが、どう結び付くんだか、サッパリ理解の外だ。 まあ確かに病的だなーと思う女はいるし男の鼻先にニンジンぶら下げて走らせたい願望を持ってる女もいるんだろうが、少くとも私の身近で、貴方が例に挙げたような女性に似た女は一人もいないのでね。ピンと来ないなぁ。世代が違うからなのかもしれないが。 貴方のご満足いく解説をしてくれる人がいればいいんですが。
お礼
noema_1970さん よくぞここまで――中味は別として――冷静にお答えを書いてくださいました。敬意を表します。そしてひとまづご回答をありがとうございます。 それほど クレオパトラ物語にご関心がお有りだとは見受けませんで 今回は そのほかの話題で 簡単にご返事をさしあげます。 ☆ ひとことだけつけ加えますと 向こうの親から 五十歳ころまで 年賀状が来ていたのですよ。わたしのほうは 何もしていないし 出してもいないのですが。 ☆ もう触れないと思って 文面を読み返していたら もう一点触れようと思いました。 ★ まぁ貴方がムッとした気持ちも全然理解できないわけじゃないけど・・ ☆ わたしは 《ノー》の返事をもらって ほっとして 気がゆるんだのか 《ええっ ほんとですか? ほんとですね?》というような顔をして 相手を見つめたらしいのです。そこへ 《これからも自由に 家へ遊びに来てください》と言われたのです。 ☆ 《けんか四つ》は あくまで スポーツの競技としての用語です。右四つと左四つとでは はじめにマワシを取って組むのに どうしても どちらか自分の得意なほうを取ろうと はたきあったりして 争います。たとえば 現実重視でいらっしゃるから そのことが はじめに しっかりと共通の前提になっていないと――だから なっているように はじめに 設定しようとして――そのことがらに つねに 焦点がいっているということでしょう noema_1970さんの場合。 ☆ またまた 文面を読み返していて ひとこと。 ★ 「人と人の関係が成り立たない地点」てな、なんですか? ☆~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ bragelone:クルマの名は みな ラ行の音が入っているね? cleopatra:・・・(どうも 考えている様子。どうやら サニーというクルマを思い浮かべたらしい)・・・(ふっと後を振り向いて すましている)。 bragelone:・・・。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ こういう会話では 関係が(あるいは コミュニケーションが)成り立たないと思います。 まあ こんなところですかね。 《打てば響く》の看板選手だったんじゃあ?
補足
《ポーラの手記》#3(No.20補足欄からのつづき) §10 まだ はっきりしたことを言えないことなど・・・ ポールのプロポーズをなぜ断わったか なぜ修道院に入ったか 三十年近く修道女でいつづけるのはどういうわけか わたしが話さなければはっきりしないことが いくつかあると思います。いまはまだ 明確な答えは お話しできないように思います。 それは 話したくない 話すことができない理由があるというようなことではなく 必ずしも ひとつの確実な理由があってのことではないと思われるからです。 ただ わかっていることもあります。たとえば 結婚ということ これは まだまだ ひとつ屋根の下に一緒に生活するという段階ではなかったからです。修道院は そのほかに わたしの居場所は ないと思えたからです。その後 たとえばポールと話ができて 相談もできたなら なにか ヒントのようなものが 持てたかもしれないけれど わたしは もう引き下がっているつもりでした。 話は変わりますが ポールは コミュニケーションが問題であると言っているようです。信頼関係であるとか 意思表示のことなど わたしとの私的な関係においても そうだったし 社会一般においても そのことが 核となるような問題であって 自分のライフワークであると言っています。 わたしは むしろ 世の中との関係 世間とのつながり こういった事柄が わたしにとって そして ニュアンスの違いがあっても わたしから見ればポールにとっても 一番の問題であり テーマであったものだと考えているのですが・・・。同じようなことでしょうけど 見方の微妙な違いがあるように思います。 おとこはみな狼との理論ではありませんが 結局 少なくともわたしは 世の中とのそれこそコミュニケーションが どこかでは 不可能だというように思われていて そこから出発するからです。ポールは 熱血漢ですから その不可能性を認めるわけにはいかないということが 出発点にあるということではないでしょうか。 わたしも それこそ キリストの神に仕える身ですので 絶対の不可能を言うわけには行きませんが 逆に ポールも 永遠の現在ですとか なにやら《無力の有効》としての勝利などなどと言っているようですから この地上の世界において 現実にコミュニケーションが 信頼関係のもとに 実現するとは 思えないでいるのではないでしょうか。 §1から§8までで 出会いと二人の基本的な関係について振り返りましたし 上の§9としては 早く一度は言っておきたいことを語りました。ここでは 全体をながめてみて 課題ですとか そのさらに基本にあると思われることを かんたんに まず取り上げました。あとは これらの課題について――と言っても いまも考えているし これからも考えていくということですが―― 語る機会があるかと思っています。聞いてくださって ありがとうございます。 §11 ポールの性格については 直情径行にまちがいはないと思いますが・・・ ポールについては 本人の自己申告から周りの人びとの批評まで いろんなことが言われています。それぞれの内容の間にそれほど大きな違いはないと思いますが わたしの見方を少し披露させていただきたいと思います。 * 直情径行か。君子豹変? いちばんの共通事項は 本人も言っているように 四字熟語でいえば 直情径行というものです。わたしは この同じ性格をいくらか違った角度から捉えて見たいと思います。 まず 広辞苑で調べてみました。 直情:思ったままに表現して飾らないこと。また ありのままの感情。 直情径行:[礼記 檀弓下]相手のおもわくや周囲の事情など気にしない で 自分の思った通り行動すること。(用例:・・・な青年) ここでわたしは 同じ四字熟語であれば 君子豹変をキーワードとして提案したいと考えています。君子を言うためではないのですが 変わり身の早さを言うのに いいかと思いました。まず やはり辞書を引いておきます。 君子は豹変す:[易経 革卦:君子豹変 其文蔚也 小人革面 順以従君 也]君子がその過ちを改めると鮮やかに面目を一新する。俗に 考え方や 態度が急に一変することに使われる。 この説明のなかの通俗な使い方が ひとつの条件をつければ ポールの性格をうまく表わしているはずです。その条件とは 相手の合意や承諾を得られればというものです。 相手の存在に関係なく自分だけの問題であるなら 変更できることはすぐに変更するでしょうし 相手の承諾を俟っている場合に それ以上は快諾がなくても已むを得ないと判断すれば やはりすぐに変わるということだと思います。 (No.12補足欄につづく)
>自分がフッたというかたちで 終わらせるのが 実際の妥協策になるでしょう。最小限度の方策です。 なんでそれが「妥協策」や「最小限度の方策」になるんだか、その間の経緯については全く貴方個人の出来事であって、我々第三者には窺い知れないことです。貴方自身、ここでその内容について明らかにされておられないし。その点で、貴方は何が何だか分からんことをブツブツ言ってるように見えますよ。 >( 断わりの中に添えられた 《これまでと同じように 自由に 家に遊びに来てください》ということばを 《社交辞令》ととるというのは 世界がちがうと感じました)。 社交辞令ととりたくはないのであれば、言葉どおり、自由に遊びに来てくださいというのを実行すればいいじゃないですか?それで迷惑がられたなら、その時に相手の真意をただせばいいし。まあ普通は自分から事前に相手の真意を推し測って遠慮しておくだけのことですよ。本当に相手に歓迎されているのかいないのかは、ある程度は分かるでしょうから。 >(おそらく 多くの人は この女傑については 実感がないのかも分かりません。 それはそうでしょう、貴方の「女傑」ですから。 このオレ様をフッた女は、かのクレオパトラにも比肩するほどの女傑でなければならないってか。 このオレ様をフるようなバカ女は、虫けらのように抹殺されても文句は言えないのじゃーとばかりに簡単に殺しちまうやつもいますが。 >この女傑との関係では 途中で 余計な口を聞いたりしては もう この問題は 消えるということです。 そして、辛うじての、この関係も消えてしまう。この関係でもよい、繋がっていると思えるなら。消えてしまうよりは。てか。 男女間のことにリクツ付けしようとしたってしょうがないです。 めったやたらと、そうしたがるのは、気が済むようにできなくて、それだけ悩んでるってことです。 彼女が貴方を受け入れてくれていたら、あるいは他の女性が貴方に満足を与えてくれていたら、することもない質問だ。 >九十九頭のほうではなく 一頭の羊におつきあいすることを引き受けるのは 一般の女性や人びととかかわることと同じです。 その、「女傑」と名づけた、貴方のクレオパトラ、たった一頭の羊のありのままを、受け入れてやんなさいよ。 ウン十年も万年青年よろしく彼女に執着してきた自分の心も。 それだけ魅力的だったんでしょ?その女性は。
お礼
noema_1970さん 申し訳ないですが この欄を アウグスティヌス解釈のために 割いていただくわけにいかないでしょうか。よろしくお願い致します。 tyr134さんのご見解(ANo.9)から 次のように解釈することができます。 ★ 「男女論」に関しては「原罪」の意味を「男女の性関係」に求めた。 ☆ ということは 第一の悪(=つまり善の欠如)は その善なるヒトとしての存在が 可変的であることに求められるが 第二には 無知と共に 相対的なものごとへの執着としてあって 端的に これを性関係に向けた。 ★ アウグスティヌス以前〔の〕「原罪」の教義では・・・「知恵の実」を食べた事は「好奇心・傲慢の罪」に値し、それ故に楽園追放された。 ☆ 図式的に言わば この《好奇心・傲慢の罪》を 二段階に分けて捉えたと解釈した場合である。 第一段階として 《善なる存在の維持についての無保証(あるいは 神の命じたとおりに生きるならばという条件つきの保証)》 第二段階として 《この善の可変性は 知解の誤謬として あるいは 人間関係の捉え方においての・なかんづく男女の性関係においての無知として 現われうる》。ここからは →無知ゆえの認識の――つまり無知であることによって 想像力が怯えたように掻き立てられることに起因する認識の――むしろ膨れ上がり →その認識事項の自己による管理・操作可能性をみづからの理性の中に見出したと思い込む →性関係に対する自我の強固な固まり→・・・ こういった仮説です。結局 最後の事項も 《人間と人間との関係に対して 互いに自我が固まってしまう状態にある》といったところでしょうか。 自己やモノあるいはそれらの関係に対する執着という場合 この可変的な経験世界を それが すべてであると わざわざ 理性が捉えてしまうことに発する。そこ(自我)で 時間(すなわち可死性)の世界に われわれは 入った。 原理においては 女も男も 同じように この現実は わかっていると思うのですが・・・。 議論はまだまだ続くようです。こう考えてきて かなり しっかりした基礎の上で取り扱っていけると思われます。みなさんも 是非 投稿してみてください。待っております。たれがこの点であやまったではなく 真理もしくは人間の到達しうる真実に 一歩でも 近づくために。
補足
noema_1970さん まだ ご回答をいただけたのですね。質問者としては 感謝もうしあげます。と同時に 話しの内容としては まぁ よくもこれほど つっかかりが作れますねと驚かざるを得ません。 そもそもあなたとは けんか四つなのでしょうが あなたのいいところを引き出そうと努めましたが だめのようですね。ローランサン止まりだったようですね。メキシコの原始心性までを引き出してくるからですよ。 一つ二つ 致命的な弱点を 指摘しておきましょう。 ・結婚申し込みとその返事を超えて 話しがつづくなどと考えるのは 人と人との関係を 犬や猫が互いにひっついたり離れたりするのと同じことだと見なしていることです。意志決定が 大事なときは 大事なのです。大事な意志決定とその表示は きついけれど イエスかノーかなのです。そして大事な意志決定は 重大なあやまちに気づいて改める以外に 変わらないのです。釈迦に説法ですか? ・一頭の羊という問題は いまの女による理性的なむさぼりの問題を含む一般的な問題です。後者を理解できずに――と言っても そんなものはないと わたしの言説を批判し尽くして 証明すればいいのですが その証明をするまでは―― 前者の一般的な問題に拡げて議論しても 始まらない。 ・この女は 人と人の関係が成り立たない地点(――成り立たせようとしない理性のあり方――)にいるなと漠然とわかってから そのことをかのじょが気づくようにと 努めたけれども こちらは非力だったというお話しです。 結婚申し込みは 背水の陣を敷いての苦肉の策でしたが 効を奏さなかった。効を奏さなかったどころか 一種のやぶへびでもあった。やがて 女は 修道院に入ります。それなら 主導権争いに負けていないと踏んだからでしょう。《しっぽを振って わたしに言い寄れ。それまでは 許さない》と言っているのでしょう。 こういう夢を見たことがあります。《わたしは 何時間も何日も 門を叩いています。返事がない。もう意識を失って門の前に倒れていたらしく 気がついたら その女の前に立っていたのです。わたしは どういうわけか すぐさま 求婚します。ふたたびのことだが 結婚を申し込みたいと言います。返答としては――きゃっ きゃっ きゃははははっ ははははhhhhh・・・》で目が覚めた。さもありなんと思ったわけです。 お望みなら 必要な範囲で 品を落さず プライヴァシを侵さぬ範囲で一般化して ご説明いたします。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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私には戦略も方策もない。何も世の中について知らない。どうすればいいのかわからない。だから、誰でもつきあってくれる方を大事にしてます。 それしかない。そして、誠意と真実だけ。つまりそれだけしかない。売り物にもしてないし、看板でもない。最高・最大の戦略ということでやってきました。 《がんとやる》のはそれしか方法がないときは、《がんとやる》と出て行く。何にもないのですよ。本能や衝動で生活しているみたいだ。 でも気軽です、いろんなこと考えない。面倒だし、意味がない。 意味のないことくらい、疲れるものはない。というわけで、手抜きの生活です。 腕力も知力も何もないのに、声と気迫だけで打って出る。身の程知らずの私の人生。 人が相談しているいろんな悩みなどは、あまり理解同情する感性が成長していないのが私でしてね。
お礼
krya1998さん お付き合いいただいてありがとうございます。 でも もうご自分の立ち場をはっきりとお示しになりましたね。 わたしは 触媒だと見られることがあります。あるいは ただの鏡として 歩いていたり ものを言ったりしているだけだと。あるいは いつも白紙 どこまで行っても たまねぎの皮をむくみたいだと。 でも 画面いっぱいに塗りたくったキャンヴァスの顔を見せるときもあるのです。 ありがとうございました。
補足
《ポーラの手記》#4(No.14の補足欄からのつづき) 全体を まとめて言えば こうなるでしょうか。 つまり すべてのことについて相手に諮った上で さらにその合意や承諾などについて同じくすべてを最終判断した結果 もし自分が決断したとするなら そのときには ただちにものごとを改革し 自分自身も変わる。 * 問題は? 問題があるとしたなら それは それ以上相手の意向に俟つ必要がないとポールが判断するときが 時には 早すぎたりするということであるかも知れません。 少なくとも 相手には 見切り発車だと取られてしまうことがあるのだと思います。そして 相手の意思を尋ねるときに かれは まさに直情径行で すべて〔許すかぎり〕公開・公言するかたちで明言します。 そして ふつうは この段階で その相手は ある意味で恐れをなして 譲歩することが多いようです。譲歩しえない場合には ポールから去っていくということです。 相手自身が去る必要などないとき つまり相手のほうが目上であったり いわゆる多数派であったりするときは とうぜんの如く ポールはその場から外され 相手にされなくなります。 ポールが自身にとっての異性であるおんなに対して その交際の合意を得るために ついやすことばと時間とこころとは わたしの経験からいけば 無限だったと思います。見切り発車はなかったのでした。 相手であるわたしが はい合意しますと言うまでは 延々とそのコミュニケーションがつづきます。永遠にです。そして ひとたび わたしがOKするならば ただちに革命がおこります。そのようにわたしは 見ていたのです。 §12 直情径行と言っても 心理や情況の雰囲気では 動きません 或る時 多分 大学一年から二年へ進む春休みだったと思いますが ポールは はるばるわたしの町を訪ねてきました。このときは どこへ行くと言って まずわたしの家へやって来ました。しかも わたし一人でいるところだったのです。 じつは とうぜんの如く わたしが 母と相談して 一度 そういう機会を作ったのでした。少し手持ち無沙汰を感じたわたしは 高校野球をやっていたので そのテレビ中継を見ますかと かれに そのわたしのぎこちなさの心をぶつけました。 ポールは 大学時代だけですが 野球部に入るくらいですから 嫌うことなく わたしの申し出を受けて それに従っていました。わたしも落ち着いてきて かれの様子をひそかに窺っています。要するに かれの狼の部分が現われるかどうかの問題です。 要するに かれは わたしの心理を詮索するということには まったく関心がないという様子です。相手が 言葉で 口に出して 意思を表明しないことには ポールは きちんと応えることはしないという主義です。情況がなんであれ 雰囲気がどうであれ 関係ないのです。かれには いったい 想像力がないのかと 初めのうちは 疑っていたわけです。 わたしの意思表示がないことには ポールはいっさい全く動きません。ほかのつもりがなかったわたしは 野球の試合が回を重ねるにまかせざるを得ませんでした。それを ポールは すべて受け留めて 自分の動きを保留し 待っているのです。一試合が終わるころには わたしが 白旗をあげました。もちろんわたしは そんな様子は微塵も見せるわけなかったわけですが。 いわばポールは 相手の意思表示を待つあいだ その時間が一日・一年・十年・五十年と続いてもそのあいだの態度としても じつは言うなれば 直情径行なのです。直情が 永遠につづいているのです。そして あらためるという場合 一瞬のうちにあらたまった新しい直情が ふたたび永遠につづきます。なぜ変革があったか ことばでの説明が必ず付いてきます。 わたしは 婚姻ということに関しては 意志決定を保留しつづけました。言いかえれば NOという答えでした。そして かれポールと別れるかということに関しては もはや 別れる・別れないとは関係ない地点にいる自分を認めざるを得ませんでした。友というべきか あたかも身内のひとりというべきか。 と言っても わたしは 現実主義ですから この世の中に対して それを ポールの目をとおして捉えるですとか ポールと生涯の連れ合いとなって生きていくとか そういう選択をしようとは 思わなかったのです。聖書に書かれたことは 現実だとは考えがたいと思っているわたしが かえって その聖書の世界に没頭するようなかたちで 一人で 生きて来ています。 (未完のかたちでのおわり)
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
ANo.7のお書き込みから: 優位性やイニシヤ(シャ)に私は拘らないが、そんなことからの言動や計算をするなんて、どんな場面でもばかばかしい。全く無用で、非効率です。意味がない。 必要なら、がんとやるだけ。でるだけ。誠意と真実だけ。 婚姻とか何とかで、そんな配慮をするなんてのは生きる時間とエネルギー、そしてその集中がもったいない。自分としては。 切っ掛け、時機、時と状況は配慮しなければならないが、遅らすことではない。そりゃっとやっていく、勢いというのも大事なもの。リズムとか。卦とかは見ないが、宇宙はそれでできている。 武将が出陣の時に参拝するのもそんなものです。 創造界は数限りなく、ヴァラエティがありますから、いろんなことに遭遇いたしますね。そんなことを神と共に、喜怒哀楽の中で経験し、楽しむ。そして父なる御許に帰っていく。 創造とはそんなものかな、と一面をみています。 同じ神の思いで出てきている私達の、いろんな状況がそれをわからなくする。いろんな状況も結局同じ事なのに、いつも翻弄される。 そうやって私達と神は楽しんでいるのでしょうか。
お礼
krya1998さん おはようございます。 きわめて個人的なことで お騒がせしているというおそれは持っていますが そうではないとも――鉄面皮なのでしょうか―― 思っているところがあります。おつき合いいただいて たいへんありがとうございます。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 同じ神の思いで出てきている私達の、いろんな状況がそれをわからなくする。いろんな状況も結局同じ事なのに、いつも翻弄される。 そうやって私達と神は楽しんでいるのでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このようにおっしゃった境地が わかるときもありますし あとになって分かるときもありますし まだ 分からない場合も あるようです。 ☆ 《婚姻とか何とかで》といっても 人間関係そのものをないがしろにしていいとは むろん おっしゃっていないと思うのですが 探究中のことが わたしに あるというのも 実際のようです。 ★ 必要なら、がんとやるだけ。でるだけ。誠意と真実だけ。 ☆ 誠意と真実だけを売り物として来ていましたが 《がんとやる》ことは わたしの判断で まだ時ではないという思いで ずるずるとうん十年というわけでした。 ☆ アウグスティヌスをめぐる問答は どれだけでも かまいませんが 問題が 人と人との関係の成立如何という点では まだ 引き下がるわけには行かないという思いと そして 意思疎通の点で 弱音を吐きかけております。 多謝です。
>女傑にならない一般女性の話しですね。 はあ、そうですが。てっきり一般的な女性についてという前提だと思っていましたから。最新の補足欄にても「男女平等のためにこそ」と一般論的におっしゃってますが。違うんですか。 「稀れ」な女性の話をしてるのなら、そりゃ一般的つまり平均的大多数の女性に関する話にはなりえませんね。 >この種の女性は 初めから この《信仰》を持って登場します。特別に宣教したり勧誘したりはしませんが すでに《信徒》を自己のもとに集めています。そういう作業は 飯よりも好きなのではないでしょうか。 つまりファンが多い、モテる女性であるということですか。で、貴方も、その中の一人であると。 「飯より好きなのでは」というのは、あくまで個人で想像して言うだけのことですね。 すでに前回の補足で >そのような想像上の女性像は 皆に持たれていると考えられる場合です。これは 社会共同の心理として 幻想として しかも 顕教としてではなく つまりは密教のごとく=という粗い意味で 集団的な無意識のかたちで この女傑=女神を 人びとが待望しているという社会の情況です。 とにかく何でも平等に与えよといった要求を突きつけて止まない《粗野な共産主義》の考え方は この理性統一神としての女神を ちょっとした隙から 崇拝するようになるかも分かりません。 このようにおっしゃってましたが、やっぱり貴方の「想像上の女性」という域を出ないでしょう。「待望」だとか「崇拝」だとか、ご質問者個人の内面が発している言葉だと思います。(なるほど、だから「クレオパトラ」なのか。。。) どうもなんだか、個人的に思いを遂げられないでいる女性に対する「なぜ、なぜです?私の気持はお分かりのはずだ~!」といった未練でもあるのだろうかと訝しんでいたら >個別性という事態が 問題の中核にあります。 とおっしゃるので、なんだ?個別の話だったのかと思い、ANo.7のご回答者へのお礼欄を見てみると >結婚申し込みから 半年経ってやっと答えが返ってきたというのは そして その断わりに 《これまでと同じように 自由に 家に遊びに来てください》ということばも添えられていたというのは 主導権を争っているからで 互いに人と人としてのかかわりを 一切 持とうとしていない・つまり この場合 持てないということだと考えます。これが 理性統一神の信仰なのだと思います。 とある。そういうことですか。(苦笑) >問題は 人と人との関係・つながりを たしかに 持っているのかです。よく言えば 透明性があって しかも 人間関係という場に入らない(入ったように見せかける)のではないか これも 判断の基準です。 ぶっちゃけ、フラレたという明らかな結果があるんなら難しく考える必要ないと思います。 親密に繋がっていたいという欲求があれば、男女関係なく、でき得る限りそうしようと積極的に働きかけるでしょうが、そんな意欲を持っていない相手とは、そういう関係には入らない。それだけのことじゃないですか。あとは、いかに角を立てないように済ませるか、まして半年待たせて結婚申込を断ったというような経緯があるんなら、いわゆる社交辞令になるってことでしょう。社交辞令なんだから、もちろん、無理に誘わない。 ま、自分をフッた女性というものは不可思議なまでに気高く眩くも後光が差して心中推し測りがたい。男にとって永遠の謎。現実そういうことでしょう。つれないことです。(笑)
お礼
noema_1970さん ご回答をありがとうございます。 柔軟であるという様子に見えたのでしたが だめのようですね。 ・九十九頭のほうではなく 一頭の羊におつきあいすることを引き受けるのは 一般の女性や人びととかかわることと同じです。 ・実在の女傑 そして 社会的な幻想としての女傑 二つの側面があります。 ・この女傑は 理性統一神の信仰(思いこみ)と表現しましたが 前回の《世界征服主義者》というのが 分かり易いはづです。 ・この種の女傑にとっては 自分がフッたというかたちで 終わらせるのが 実際の妥協策になるでしょう。最小限度の方策です。 ( 断わりの中に添えられた 《これまでと同じように 自由に 家に遊びに来てください》ということばを 《社交辞令》ととるというのは 世界がちがうと感じました)。 (おそらく 多くの人は この女傑については 実感がないのかも分かりません。もしかかわっていたとしても 無意識なのでしょう。 しかも いちばん はっきりしているのは この女傑との関係では 途中で 余計な口を聞いたりしては もう この問題は 消えるということです。その意味で この質問は 一般の方がたに扱いをお願いしても 無理だと いま わかりました)。
- tyr134
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アウグスティヌスについてなのですが、彼は別に男女平等論を説いたわけでは無いですよ。 彼は、新プラトン主義やストア派の教えをキリスト教に導入し、その結果中世から現代にまで及ぶキリスト教思想に影響を与えています。 で、「男女論」に関しては「原罪」の意味を「男女の性関係」に求めたんです。 アウグスティヌス以前(というよりもユダヤ教的な)「原罪」の教義では、アダムとエヴァが「知恵の実」を食べた事は「好奇心・傲慢の罪」に値し、それ故に楽園追放されました。 それが、アダムとエヴァの子孫である我々にまで及んでいると考えます。 一方、アウグスティヌスはストア派の「禁欲主義」に大きな影響を受けていました。 まず彼は、「なぜアダムがイブの誘いに乗ったか」という問いに答えようとします。 で、「善意の配慮=愛」からだと考えました。 蛇に化けた悪魔はアダムを騙せず、エヴァを使ってアダムを貶めようとしたと考えたわけです。(蛇は、「性」の象徴でもあります) つまり、アダムはエヴァを「悲しませたくない」という「愛故に知恵の実を食べた」のです。 結果、二人は「お互いの性」に目覚め、楽園を追放されるときに「局部」をイチジクの葉で隠すこととなりました。 そして、この「性への目覚め=原罪」であり、そこからの脱却として「禁欲」を唱えたワケです。 もちろん、「原罪」が子孫である我々にまで及んでいるのは言うまでもありません。 このイメージから、「原罪はエヴァより発する」というキリスト教の教義が生まれ現在にまで至ります。 つまり、アウグスティヌスは「原罪」の意味を「好奇心・傲慢」から「食・性」へと替えたのです。
お礼
(つづき)罪がただ甘美に思惟われるだけではなく 行為においても実行されるべきであると精神によって決定され得るのは 肢体を外的な行為へと動かし(* 意味微妙) あるいはそれによって抑制すべき最高の力である精神の意図が悪しき行為に譲歩し仕えるときだけである。 精神が思念においてだけ禁じられたものを楽しむが 為すべきであると決定せず しかもそれらが心に触れたとき直ちに拒否すべきであったものを喜んで保持し心で思い廻らすなら それが罪であることは否定してはならない。だが 外的行為においても遂行するように決めたときよりも遥かにその罪は小さいのである。このような思念についても神の赦しを祈り求め 胸を撃ち 《われらの罪を赦したまえ》と言わなければならない。つづいて 《われらがわれらの負債者をゆるしたるごとく》と祈りにおいて付加されなければならない。あの最初の二人の人間は 各自その答責性を持っていた。したがって 女だけが禁じられたものを食べたなら たしかに女だけが死の罰で打たれたのであろう。そのことは一人の人間の場合 思念が直ちに離脱すべきである禁じられた悦楽によって独り悦に入り また悪しきことが為すように決められないで ただ回想においてのみ甘美に保持されるなら いわば女だけが男を除いて罰せられる というように思ってはならない。たしかに これは一つの人格であり 一人の人間である。また実行する意志はなく このようなもので心を楽しませようとする意志がある思念だけの罪であると考えられるものも仲保者キリストの恩恵によって赦されないなら その人は全体として罰せられるであろう。 以上のように この論議において 私たちは各々の人間の精神における観想と行為の或る種の理性的な結婚を尋求してきたのである。この観想と行為の職務の配分にも拘らず 両者には精神の統一が保持されている。神的権威(聖書)が最初の二人の人間 すなわち 全人類の起源である男と女について語るあの真理の物語を安全に保って 使徒(パウロ)が神の似像を男にのみ認め女には認めず――もちろん 二人の人間の性の相違はあるが―― 一人の人間において問い求められることを意味表示しようとしたのは何故か ということを理解せしめるのがこの論議の唯一の目的である。 ( 承前 12・12) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
補足
tyr134さん ご回答を寄せていただきありがとうございます。 《原罪がエワから発する》ゆえ 総じてその後の人類の歴史に対する責任も女にあり その歴史の共同相続というかたちは考えられず 基本的に言って 男女平等であるとは言えない側面(もしくは基礎)がある。――こういう内容を主張されているのでしょうか。 ★「男女論」に関しては「原罪」の意味を「男女の性関係」に求めたんです。 ☆ アウグスティヌスにかんしては 出典を明示していただくとありがたいと思います。 人間について《善がつくられた》から始まり この善が相対的な存在であったことより この善が(善の意志が / 善の知解が / 善の記憶が)損傷を受けたり自分で棄てたりして減少する。つまりその減少した部分が 善の欠如となる。この状態を悪とよぶ。つまり悪の原因は 相対的である善(その意志)にあるというのが 基本だと思います。つまり 知恵の木の実を食べたことです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この可変的な善の意志が理性的被造物の第一の悪 すなわち 善の第一の欠如である。 次に 彼らの意に反して なすべきことについての無知と有害なものへの欲情とがはいり込んできた。また これらに伴なって 誤謬と苦痛とがもたらされた。・・・精神は のぞんでいたものを手に入れると たとえそれが危険なものであったり あるいは空しいものであっても 誤謬によってそのことを考えなかったり 病的な快楽によって圧倒されたり 空しい喜びに有頂天になったりする。 いわば 過剰によってではなく 欠乏によって起こるこれらの病気の源泉から 〔天使および人間という〕理性的存在のいっさいの悲惨が流出するのである。 (アウグスティヌス:信仰・希望・愛 第二部 救済論 第一章 堕罪の状態 赤木善光訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 蛇が明らかな歩みではなく 極く少しづつ匍(は)って進むように 善から後退的に滑り落ちる運動も自分を顧みない者たちを次第に捕えるのである。つまり彼らは神の類似への転倒した欲望からはじめて 遂には動物に似るようになる。そこで アダムとエバは最初の高貴な衣裳が剥ぎとられて裸になり 可死性によって皮の衣を纏ったのである。 (アウグスティヌス:三位一体論 12・11) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 最初の人として造られたあのアダムとエバという周知の夫婦の物語において 蛇は禁じられた樹木の実を食べたのではなく ただ食べることを勧めたのにすぎない。また女だけが食べたのではなく 夫にもそれを与え 二人で一緒に食べたのである。もちろん 女だけが蛇と会話をなし 女だけが蛇に誘惑されたのである。そのように 一人の人間においても生起し 見分けられる 或る秘そかな結婚(* 観想と行為との=知行合一のごとく?)において 感覚的な魂の運動は 肉的 または いわば身体の感覚に向けられているものなるゆえに 私たちと動物に共通であり 知恵の理性から区別される。私たちは身体の感覚によって物体的なものを知覚するが 永遠の変わらざる霊的なものを知恵の理性によって知解する。 さて 感覚的欲求は知識の理性に近くある。身体の感覚によって知覚される物体的なものについて行為の知識と言われているものが推考するから。精神がその知を最高善の目的に関係づけるとき よく推考し 知覚されたものを善きものとして享受し そこに偽りの幸福において休息するとき悪しく推考するのである。だから あの肉的 あるいは動物的な感覚が 時間的・物体的なものにおいてその行為の職務のゆえに 生き生きとした推考によって思い耽ける精神の志向に / 自己を / 言い換えると不可変的な善である普遍的・全体的な善ではなく 自己中心的な 自分自身の善を / 享受すべき或る誘惑を投げかけるとき いわば蛇は女に語りかけるのである。 しかし この同意が思惟(おも)いの悦びによってのみ満たされるが 肢体は高い計画(はかりごと)の権威によって・不義の武器のごとく罪に引き渡されないように・抑制されるなら 女だけが禁じられた樹の実を食べたように考えられるべきだと思う。しかし 身体の感覚によって知覚されるものを悪しく用いることに同意して 能力があるとき身体においても満たされるように或る罪を犯すように決定されたなら 女が自分の夫にも禁じられた食物を共に食べるように与えたのだと理解すべきである。 ( 承前 12・12) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(つづく)
補足を拝見しましたが、う~ん、どうも分かりません。 ご質問者のおっしゃる「理性」とは、どういう意味で使っておられます?通常の意味合いからは大分離れているように思うんですが。 「思い込み」が激しいというのは、いわゆる融通が利かないと言うか頭のめぐりが悪いタイプの人を指して、よく言われますが、このタイプは基本の部分で保守保身の欲求が強く(漠然とであっても、それだけ不満や不安や脅威を感じている)そのために自分を取り巻く周囲の状況を固定化して捉えたがる傾向が出てくるようです。(何かの理由で不安が募ると、固定化をやりたがるようになるというのは、通常そういうタイプでなくても見受けられます。)そしてまた、それゆえ、自分の保守保身並びに、それに強く関与していると本人が見做しているところの何らかの組織(家庭とかサークルとか、つまり居場所)も含めて、そのために自身が行うことは有用なことなのであるという「信仰」を持ちやすいようでもある。 >社会共同の心理として 幻想として しかも 顕教としてではなく つまりは密教のごとく=という粗い意味で 集団的な無意識のかたちで この女傑=女神を 人びとが待望しているという社会の情況です。 >とにかく何でも平等に与えよといった要求を突きつけて止まない《粗野な共産主義》の考え方は この理性統一神としての女神を ちょっとした隙から 崇拝するようになるかも分かりません。 《粗野な共産主義》とは、ちょっと面白いと言うか気取った言い方だと思いますが、もとはバリバリの自由競争翼賛者が、いざ自分の敗北に直面した途端、共産主義に転向したかのような言動をとることも実際あったようです。 「人びとが待望しているという社会の情況」というものは実際あるかどうか思い当たらないのですが なぜ「待望している」「崇拝するようになるかも」と言えるのか、まず、ご自身の分析をしてみたら何か分かるんじゃないですか。 「集団的無意識」とはユングの用語である「集合的無意識」のことでしょうか。以前覗いたことのあるサイトで紹介されていたのを思い出しましたが(河合隼雄訳)ストー『ユング』に、以下のような記述があるそうです。 『古代人の神話は、彼らを彼らの世界によりよく適応させてくれる方策であったのである。 ユングの言い表そうとしたことの例として、彼がニューメキシコのプエブロ・インディアンを訪ねたときの経験から引用することができよう。この人々は太陽が自分たちの父であると信じている。その上、彼らは、自分たちの宗教儀式を行うことによって、太陽が毎日空を横切る旅を遂行するのを助けている、とも確信していた。これらの儀式を几帳面に果たすことで、彼らは、それゆえ全世界に貢献しているのである。そしてもし彼らが愚かにもそれ怠ったなら、「十年たてば太陽はもはや昇らなくなるだろう。…永遠に夜が続くだろう。」ユングのこれに対するコメントは、以下のようである。「そのとき、私は個々のインディアンに見られる「気品」と静かなたたずまいが、何に由来するかがわかった。それは太陽の息子であるということから生じている。彼の生活が宇宙論的意味を帯びているのは、彼が父なる太陽の、つまり生命全体の保護者の、毎日の日没を助けているからである。」神話は、…たとえ客観的真実ではなくとも、重要な建設的機能を勤めているのである。…分裂病者の妄想がうまく役立たない神話であることは全く明白であり、そのため彼らは…病院に住まなければならないのだ。』 「父なる太陽の、つまり生命全体の保護者の、毎日の日没を助けている」この信念が「「気品」と静かなたたずまい」を与えている。では、これらが与えられていない場合、実際のところ、どんな「たたずまい」になるだろうか。また「重要な建設的機能を勤めて」などいないのだということが明白になった場合は。 ヒステリーというのは、まるで、悪しき女、愚かしい女の代名詞のごとき印象があるけれども、全くゆえのないことだろうか。ゆえはあるのだとしたら、それは何だろうか。 >一つに その暴走について 哲学はどう捉え どのような処方箋を出すか。 「処方箋を出す」ということになれば、それは哲学よりは精神分析の方の仕事でしょう。 >《理性教》は 問題だと思います。 なるほど。ことに男女の間での話となれば尚の事ですね。愛情とか恋愛感情を自分ではなく自分以外の者に独占されるくらいなら全員に分配せよと要求されたって、いくら男が「バラ蒔く性」であったとしても、そうも行かないし、じゃあ関心だけでも持ってくれと懇願されたって、これも限界がある。無関心が許せないとか言われたって、じゃあ自分自身を振り返ってみろと言うと、そこは不問にせよと言う。不問を要求する理由は、自己検討能力に乏しいからという場合もあるし、それをやる気自体がない場合もある。 女性はナルシストで恋愛至上主義者が多いようですから、自分は愛されているという確信があれば、その確信のうえに乗って「一直線に進む」というような行動をとりがちかもしれないが、ひとたび、実は、そういう関係にない、あるいは、なくなったということが明らかになれば、たちまちにしてグチャグチャに崩れるか、または恥も外聞もない開き直った態度を見せる。愛されているという実感が欲しい、必要とされていたい、とにかく全受容されている証が欲しい。これは自己愛性人格障害というものが女性に多いらしいということの原因かもしれません。ま、いずれにしても個人の背景が重要には違いない。 遠い過去に読んだマンガのなかに出てきた女性キャラクターが、ある微妙な問題のために、決して結ばれることはないだろうと諦念している男に向かって言うセリフですが 「あなたを手に入れられないんだから、代わりに、あなたの持ってる~~を私はもらうわ」 というのがありました。これは枠を取っ払っていくことで、あるいは、あれとこれの区別がつけられない、もしくは敢えて投げ打って、一種の補償行為として幅広い場面での応用がなされそうです。あっちで失敗したことを、ここで取り返そうとかいうような。取り返すとまでは期待しないが一つの示威行為として。「忘れられた女」にならないために。 必ずしも男女間のことや恋愛感情に絞って考えなければならないということでもなさそうに思います。 女性一般の特性として考察するのも慎重でなければならないでしょう。やはり個々の事情の方が重いでしょうし、そうした背景や経緯を知ることが困難なのであれば尚更です。
補足
noema_1970さん お世話になります。 むつかしいです。当事者と第三者の問題 表現の具体性の問題。それとこの種の女傑は 稀れです。女傑という傑出した地位についた場合が 稀れであり ふつうの社会生活の中にあっても この種の統一神信仰を一貫して守り通すという女性が 稀れです。 なお――男女平等のためにこそ――逆らって弁論をつづけるならば ★ 第二段落:《 ・・・このタイプは基本の部分で保守保身の欲求が強く・・・それゆえ、自分の保守保身並びに、それに強く関与していると本人が見做しているところの何らかの組織(家庭とかサークルとか、つまり居場所)も含めて、そのために自身が行うことは有用なことなのであるという「信仰」を持ちやすいようでもある》。 ☆ ちがいは こうです。この種の女性は 初めから この《信仰》を持って登場します。特別に宣教したり勧誘したりはしませんが すでに《信徒》を自己のもとに集めています。そういう作業は 飯よりも好きなのではないでしょうか。 ローランサンを wikiで読みましたが 情報が少ないこともあって はっきりとした感触を得ることは出来ませんでした。アポリネールとの恋愛が 出発点だったとしたら そこに 将来の女傑ぶりを感じさせるかも分かりません。 問題は 人と人との関係・つながりを たしかに 持っているのかです。よく言えば 透明性があって しかも 人間関係という場に入らない(入ったように見せかける)のではないか これも 判断の基準です。 ☆ 出されたユングの例は 単なる原始心性だと理解します。知恵の木の実を食べたあとという条件が あいまい過ぎます。 (その意味では 哲学は 精神分析学に 任せておけないところがあります。処方箋を出しても かまわないでしょう)。 ☆ 理性教の問題では 女傑にならない一般女性の話しですね。 ちなみに 問題はきちんと把握されているのですが 《無関心が許せないとか言われたって、じゃあ自分自身を振り返ってみろと言う》 ここは 問題です。《じゃあ自分自身を振り返ってみろ》と言ってしまったなら 話しは おわりです。人間と人間との関係の成立や如何の問題ではなくなります。《無関心 というか 無返答》を通さねばなりません。口を聞いたら その場で それとして(つまり 相手の女性の思うままの内容として) 関係が成立することになります。少なくとも 女性のほうは その成立を 有効だと主張する手形を得たことになります。――女傑は ここのところ いっさい 沈黙を通します。こちらも無返答を通します。このにらみ合いが 一生続きます。 女傑は 《ナルシシスト》でも 《恋愛至上主義者》でもないですよ。世界征服主義者です。 ☆ マンガの女性キャラクターのお話しは これだけでは 分かりません。脈絡からずれてもよいとするなら 女傑というのは 絶対に《忘れられた女》にはならない人種です。なったら 二次的な(模倣の)女傑が 現われないでもないでしょうが もう 信仰は失せています。ふつうの理性が戻っているものと推測されます。 個別性という事態が 問題の中核にあります。なかなか 議論には向かないかも知れません。いかがでしょう。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
bragelone様 朝六時に最初に貴兄様のこのページにお会いに参りました。 そして何度も読んでは考え、読んでは考え、朝食の後にも参りました。やはり難解でして、思考と文章を辿っていけないのです。 申し訳ないが、私の一方的お手紙になります。判るようになったらまた、どこかで書き込めると存じますので、どうかご許容ください。 創造者が創造者からみて、男女を等しく創造しているなら、束の間、かりそめ、条件付の私達が、なにを言って等しい。 創造者に志向するということ、それから遠ざかるということ。この側面、相では等しい。全く同じで、アダムとあとイヴですか、これは二人の人間という解釈はしておりません。 人間を創る神の行為を説明していると存じます。 このあたりは私がここで説明してもいいが、別のことにしたいと存じます。 神との関係では万人が同じです。 男女を問うことは全くの無用であります。 そしてこの創造界では、この単純なる事情を複雑にしているだけです。創造界の有様は、どこまでいっても、どんなにしてもフラクタルなる取り留めなさです。それで何かを判断しても、無意味と存じます。 終局の理念と価値、立脚の根拠を示さない説明や認識は無意味です。 この創造界のどこにどうおかれていても、どんな人もその時点のその地点で、この終局の理念と価値、立脚の根拠に関係し、志向する機会も可能性も、創造者と自分の任務もあります。そういう視点での認識と説明であって、初めて存立するので、また終局するのですね。 だからそこでのお話にお戻しになられることが重要かと存じます。 そういう次相では、神には人間をなんら種類に分ける原理はありません。当為もありません。 アダム・イヴは単なる原理や性質、傾向のことでしかありませんし、全部の人間の肉体などの構造と性格をいっているにすぎない。 私達の修行の説明は、許されたものしかいえませんので、此処までにとどめることをお許し下さい。ぶっきらぼうで、すみませんでした。
お礼
krya1998さん お世話さまです。手間暇を取らせて申し訳ありません。 事情はこうです。 人種や家柄・職業などの差が 人間の平等という原理に 何か差し支えることは 何もないと思います。男女の性差も まづは同じように受け留め 受け容れてもいます。ただし この男女平等に疑いを持たざるを得ない事柄があれば それを 解明しようとすると思います。その作業です。 結婚申し込みから 半年経ってやっと答えが返ってきたというのは そして その断わりに 《これまでと同じように 自由に 家に遊びに来てください》ということばも添えられていたというのは 主導権を争っているからで 互いに人と人としてのかかわりを 一切 持とうとしていない・つまり この場合 持てないということだと考えます。これが 理性統一神の信仰なのだと思います。 今回は どうも ここまでのようです。申し訳ありませんでした。そして 謹んで 感謝申し上げつつ。
補足
お礼欄のあと 書いています。 今朝 krya1998さんのこのご回答とNo.8の方のご回答とを見て どうも 今回 いまの時点では わたしの筆不足のようだとあきらめに入りました。 そうして ここのお礼欄をまづ書いて そのあと No.8のnoema_1970さんへのお応えを書いていくと まだまだ 行けるようだということに気づきました。実際 noema_1970さんへのご返事では じゅうぶん 手ごたえがあります。そういうもんなんですかねぇ。――ということで もう少し この質問 つづける用意があります。 まづは ご挨拶まで。
お礼
tyr134さん ご回答をありがとうございます。 いまわたしたちは 人間学の最先端を行っているとの自負を持って 互いに進んでまいりたいと存じます。見つけました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ かの女に対する男 一人に対する一人 人間に対する人間 妻に対する夫であったものが神の律法にそむくに至ったのは 彼女が真実を語ったと信じたからではなく むしろその結合にかたく縛られていたので彼女の説得に従ったからであると考えるべきである。 《だまされたのはアダムではなくて女である》(テモテ第一書2:14; コリント後書11:3)と使徒が言ったことは間違いではない。これは 女は蛇の言葉を真実とみなして聞き入れたが 男はたとい罪の仲間に加わろうとも ただ一人の相手から離れるのを欲しなかった という意味で言われる。とはいえ 男がそれを知りかつ予期して罪を犯したのだとしても そのことで罰が軽くされることはない。それゆえ使徒は 《アダムは罪を犯さなかった》とは言わず むしろ《だまされなかった》と言ったのである。なぜなら 《一人の人によって罪は世に入った》(ローマ書5:12)と述べ また少しあとでいっそう明瞭に《アダムの違反と同じ形で》(同上5:14)と述べるとき それは明らかに彼をさしているからである。 使徒はこの《だまされた人々》という語で 自分たちのなしたことを罪だとは思わない人々をさしている。しかしアダムはそれを知っていたのである。もしそうでなければ 《アダムはだまされなかった》ということが どうして真実であるだろうか。けれども 彼はまだ神のきびしさを知らなかったので 自分のなしたことが赦されると信じて欺かれたのかも知れない。もしそうだとすれば 彼は女と同じ仕方で欺かれたのでないとしても 《あなたがわたしといっしょにいるようにとくれたあの女がそれをわたしにくれたので わたしは食べたのです》という言い訳に対してくだされた罰について 彼が誤ったことは確かである。手短かに言えば 二人は信じてだまされたのではないが 罪を犯したために捕えられて 悪魔の罠にかかったのである。 (アウグスティヌス:神の国 14巻11章 泉治典訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
補足
ここでは 原罪と性欲とのかかわりについて アウグスティヌスを検討します。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ところで 最初の人間は罪を犯さなかったならば性交も出産もなかっただろうと言うとすれば それは聖徒の数を満たすためには人間が罪を犯すことが必要であったと主張するものではないだろうか。・・・ しかしわたしたちは・・・むしろ次のように信じなければならない。すなわち だれひとり罪を犯さなかったとしてもこの上なく至福な国を満たすのに十分な数の聖徒たちが生まれてくる。彼らは今 神の恩恵により罪人の群れから集められ この世の子らが生みかつ生まれる限り 今後も集められていくのである。 それゆえ もし罪がなかったならば 楽園の幸いにふさわしい結婚がなされ 愛される子を産み しかも恥づべき欲情はなかったのである。それがどのようにして可能であったかを 現在の実例をもって示すことはできない。しかしそうだとしても 多くの肢体が現在意志に仕えている事実を見れば 一つの肢体が欲情なしに意志に仕えたということを信じがたいことと思ってはならないのである。・・・そうだとすれば 不従順の罪の報いである欲情がこない場合でも 他の器官と同じく性的器官も意志の指図により 人間に仕え服従して子孫を産む働きをなす と信じてもよいではないだろうか。 ・・・・ 疑いもなく 楽園における結婚生活には〔そのような〕反抗 争い 意志と欲情の対立 あるいは意志の充足に対する欲情の不満足はなかった。・・・ ・・・それゆえ 今書いていることをみだらな気持ちで読む者は 自然本性を避けるのではなくて咎を避けるべきであり 議論に必要な言葉をとがめるのではなくて 自分たちの恥づべき行為をとがめるべきである。・・・というのも 《自然的な使用を自然に反する使用に変えた》(ローマ書1:26)女たちの恐るべき行為を使徒が批難しているのに驚かない人は わたしの書いたものを尻込みせずに読んでくれるからである。ことにわたしは今 使徒のように罰せられるべき卑猥な行為に言及し それを批難しているのではなく むしろ彼と同じく卑猥な言葉を避けながら 人間の誕生の過程を可能な限り説明しているのである。 (アウグスティヌス:神の国 14・23) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1.性欲のない生殖行為は 原罪の前でもあったろう。 2.男も《同じく 女との自然の関係を捨てて 互いに情欲を燃やし・・・》(ローマ書1:27)というように 歴史に対して 共同責任者であると同時に 共同相続人であると認識できますが なお《女のおかす 自然にもとる関係》を 指摘しようとしているように見える。 この女の取り扱いが 単なる現象としての程度の大きさに過ぎないのか それとも 或る種の仕方で 原理論に食い込むような問題を宿しているのか。ここを ぜひ 解明したいと思います。よろしくどうぞ。 * 経験現象として 平等を疑わせるようなことが起こらなければ 何の問題もなかったでしょうに。