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科学的じゃないとは何を指すのか?
- 多くの人たちが「科学的じゃない」という言葉を使います。科学がいったい何をどこまで知っているのでしょう?
- 町には「科学的じゃない」という言葉がよく耳にされますが、科学の立場に立ちながら科学以外のものを否定している人の理由について知りたいです。
- 私はクリスチャンであり、神とは何かやキリストの復活に関しても人間の知恵では理解できないことだと思っています。一方で、科学的じゃないとされることを簡単に否定している人たちの意見に疑問を感じました。
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質問者が選んだベストアンサー
質問の前提が覆ってしまうのですが… “知恵ある者”で、かつ“科学的じゃない物を否定するという方”という人はいません。 つまり質問にあるような人は質問文にあるとおり “「実はあまりこの世界の事をよくは知っていないのにさも知っている様な顔しているだけでしょ?」という人”です。 “よく知らない”ということは、知識・知恵がないということですからね。 ただし、超常現象などで“科学では説明できないから、これは霊の仕業だ”という論法をとる人がいます。 この場合は「科学では説明できない」という時点で論争の土俵は科学、その科学の土俵において「Aで説明がつかなければ(CでもZでもなく)B」と主張する人は、当然科学の土俵において「その主張は科学的ではない」と主張の仕方を否定されることになります。 (Bだと断定したことについて否定する。可能性自体の否定ではない)
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- waamos
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ちゃんとした「科学的」知識なら、何という前提に 基づいた話で、どこまで適用可能で、どこから間違いになるか、 注意書きがしてあります。「何をどこまで知っている?」 という疑問については、それを参照してください。 「科学的」というのは、お互いに納得できる前提 つまり公理や実験結果のみを出発点として、 一定のルールの下で行う議論を形容する言葉です。 注意して頂きたいのは、結論の正しさは「科学的か否か」 という判断とは無関係である事です。 将来、新しい公理や実験によって、ビッグバン理論や 進化論が否定される可能性も十分あります。しかし、 仮に否定されたとしても、それらの理論が直ちに科学的で 無くなる訳ではありません。それらの理論が「科学的な スタイル」にのっとって、今までに分かっている物理法則や 実験結果と矛盾しないように構築されているためです。 そういう意味で、たとえ間違っていたとしても科学的です。 「科学的でない」というのは、議論の方法が、上で説明した スタイルに沿っていないというだけの話です。重要な事ですが、 「科学的でない」と「真実ではない」はイコールではありません。 「宗教って科学的じゃないよね」という物言いは 「平泳ぎって走り幅跳びじゃないよね」という程度の 意味合いしか持ちません。気にしない事です。
お礼
ご参加ありがとうございます。 やはりそうですよね。 私も普通の人が普通に言っているだけならあまり気にも止めないのですが、「非科学的」という言葉は割と色々な所で色々な人が言っていますよね。 例えば、「神様を信じる人」とか、証明しようの無いものを認識している/知っている/信じている人に対して多くの人がこぞって「証明できないだろう」とか「非科学的」等と言ったり、権威ある人が言ったりするなら、気の弱い人(^^)はくじけてしまいそうじゃ無いですか? 私はこの質問のようによほど体調が悪い時に「素朴な疑問に変わってしまう程度」で済むから良いですが、そうでない人はそうではありませんし、私だって、自分でもよく理解できないものを見た大切な記憶がそうした風潮の中で薄れてしまう事もあります。 そんな時、科学屋さん(この場合似非科学屋と言う事になりますが)たちの救い様の無い頭の固さというか、どうしようもない頑迷さにため息の一つもつきたくなる時があります。 全く知性を感じる事ができないそんな彼らを目の当たりに、もう私と関係ない所で好きにしてくれというしかありません。 に加えて今回は体調が悪かったのです^^ もう大分回復しました。 ありがとうございます。
- gato_azul
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「科学は宗教だ」と解する方が私以外にもおられるのですね。 キリスト教にしろ仏教にしろ、その聖典は長い年月をかけ多くの人の手により編修されたものです。 科学と云う教えもまた、【神格】こそ存在しないものの古くからガリレオやニュートンなど【聖人格】が存在し、彼等の真理の探究にかかる思考と行動と結末が【聖典】に記されています。この【聖典】は既に膨大な量になっていますが、今現在も聖典科学経は執筆中であり、また誰もが正しい知識と実験により新たな頁を書き加えることができます。 さて、世の中にはイロイロな考え方の人がいます。 キリスト教も仏教もイスラム教にも、様々な宗旨宗派があります。 そしてご多聞にもれず、科学教にも【原理主義者】が存在します。 彼ら【科学原理主義者】は、この【聖典】を「誤りの無い完全なもの」であり「この世界の全てが明確に記されているもの」であると信じて疑いません。ひとたび【霊】だの【超能力】だのと聞けば、「そのような物の存在は【聖典】に記されていない。お前は邪教に囚われている。正しい教えはこうだ。」と辻説法が始まるのです。 悪気があるわけではありません。 間違っているとも言い切れません(*1)。 でも思想の押し付けはちょっとだけ迷惑ですね。 こうした思想文化の違うもの同士が、お互いを尊重しつつ融和していく術は、現在ありません。これが出来るようになれば、世界から紛争も無くなり真に万人の望む神の御世が到来すると思うのですけどねぇ。 (*1)ただ一点、【聖典】は未だ校了していない;未だ完全無欠ではない、と云うところを除いて。また、いつか完成を見た日には、今は【外典】か【偽書】扱いの心霊関係項目が【正典】に盛り込まれる可能性もある。
お礼
ご参加ありがとうございます。 あーーーーーーーっ! 「科学教原理主義」ですかぁ!^^ うまい!言い得て妙ですねーーーーーっ! キリスト教原理主義にも私はしばしば「何故?」と思っています(^^) 科学が宗教というところまでは普通に考えていましたがその中の派として「原理主義がいる」という発想まではしませんでした! 確かに科学教にも色々な「派」があるのかもしれませんね。 なるほど。。 彼らは原理主義者なのか。。。
- cliomaxi
- ベストアンサー率33% (2921/8736)
>「非科学的と否定する」マインドがいったいどれほどの人間が本来持っている想像(創造)力を潰しているかは計り知れません。魑魅魍魎の出現を許すよりはマシなのかもしれませんが。 本来科学って人間の想像力や探求心があってこそなんですけどね。 つまり(科学的な)知的好奇心が有るからこそ人類はここまで進歩してきた。 ここでも何度かあった質問ですが、遠くの宇宙を調べるのは何のためなのかと云った実生活には今のところ何の役にも立たちそうもない研究を半ば批難を込めているのだと思います。 科学では有るが現実的では無いとも云えるでしょう。 逆に盲目的な宗教信者は非科学的云々と言う人以上に閉塞的で想像力の欠如した人達と言えるのでは無いでしょうか。 >やはり「非科学的であるとなにかを否定する人たち」はあまり物を考えない人たちであるというところに落着きそうでしょうか。 「非科学的であると否定する人」は確かにそう言えるかも知れません。 しかし思うにこの非科学的云々と言っている人の使う科学は本来の意味での科学の事を指していないような気がします。 科学ってもっと想像(創造)的でエキサイティングでダイナミックなものだと私個人は思っています。
お礼
お返事ありがとうございます。 誤解があるといけませんので、言わせて頂きますと、私も科学は好きなのです。 エキサイティングでダイナミックな魅力に満ちた学問だと思っています。 ただ、やはりこの世界の真実の姿のほんのごく一部も知らないという言葉が適当に思える位私の思うこの世界は深く広いのです。 それでも、私は科学も大好きなんですよ。 でなければ一々新理論や仮説などの情報更新などしません(^^) また、私は科学は好きですが、同時に科学的な手法をしていたのでは何万年かかっても解明できないであろうなと思う目の前の真理もあると思っています。 科学は面白いのですが、証明主義的なところが良い点であり悪い点でもあります。 証明できる事柄、つまり、言葉にできること、目で見れる事など、これら「証明」するという手法ではもしかすると永遠に解明できないものがこの世界にはごろごろしています。 こういう方面で「想像(創造)力を潰している」と言いました。証明できないものを否定、或は相手にしない(科学が相手にしないものは全世界の大半を占めるその信者達も相手にしない)事がそうした結果を生んでいるという意味です。 もう一度言いますが、科学は実に魅力的です。しかし、自らの知恵の小ささの分を弁えないといけないとおもっています。 >逆に盲目的な宗教信者は非科学的云々と言う人以上に閉塞的で想像力の欠如した人達と言えるのでは無いでしょうか。 私は宗教VS科学をしているつもりはないので、こういう発言に関しては「ある種の人たちはそうかもしれませんね(^^)」と同意を示すだけです(^^) cliomaxiさんの最後のパラグラフで、”非科学的であると何かを否定する人たちが指している科学は本当の意味の科学ではない”ように、その閉鎖的で想像力の欠如した人たちがすがっているのも本当の意味での宗教ではないのかもしれません。 何の明目であれ人が集まれば、いろんな人が居るという事です。そういう一部の人たちをあげても仕方がありません。
- fxq11011
- ベストアンサー率11% (379/3170)
私はアメリカ人が嫌いです。 もちろん一部を見てのこととは思いますが、自分の知っていることがすべてという思い上がりで行動するからです、(いわゆる、井の中の蛙です)。 アメリカ人が最も見習うべきは、木の精霊、大地の精霊・・・・他を信じる、アメリカインデオの、未知のものに対する畏れの心です。 科学的とは、人間の知り得ている知識で判断する限りでは、合理的なものを指します。 したがって、そうでない物の存在までも否定するのがアメリカ人で、オリエンタルミステリアスとして否定しないのが東洋人(少なくとも過去は)、およびインデオです。
- fxq11011
- ベストアンサー率11% (379/3170)
私はアメリカ人が嫌いです。 もちろん一部を見てのこととは思いますが、自分の知っていることがすべてという思い上がりで行動するからです、(いわゆる、井の中の蛙です)。 アメリカ人が最も見習うべきは、木の精霊、大地の精霊・・・・他を信じる、アメリカインデオの、未知のものに対する畏れの心です。 科学的とは、人間の知り得ている知識で判断する限りでは、合理的なものを指します。 したがって、そうでない物の存在までも否定するのがアメリカ人で、オリエンタルミステリアスとして否定しないのが東洋人(少なくとも過去は)、およびインデオです。
お礼
すみません。 この質問に対するお返事と受取れません。 宜しくお願いします。
- eld3399
- ベストアンサー率4% (16/345)
キリストと呼ばれている人物が湖の上を歩いたというのは事実だと思います。 彼はこのような力を持っていたと聞いています。
お礼
ご参加ありがとうございます。 お返事を頂き、感謝致しますが、質問の趣旨から外れていると思います。 宜しくお願い致します。
適切なお答えが多いので、蛇足を一つ。 私は科学で飯を食ってきました。ですから、科学の何たるかは一応わきまえているつもりです。 私にとっては科学も宗教の一つだと思えます。 ただし、他の宗教の神様(もしくはそれに相当する概念)が我々がどんな罪を犯してもに「バチ」を与えないのに対し、科学は無視するとバチが当たります。 極端な例として、「私は万有引力を信じない」と言って崖から歩み出せば少なくともいくらかの怪我をするでしょう。 検証出来ない理論は仮説です。仮説の間はバチは当たりません。仮説でなくなり知識になるとバチが当たります。(笑)
お礼
ご参加ありがとうございます。 (^^)やはり宗教なのですね。 この例えで言うと、宗教は別に万有引力を否定していないと思います。 ただ、条件によっては万有引力が作用しない対象が有り得る事を示唆する事があるだけです。 例えば、キリストは湖の上を歩きましたが、これは万有引力の法則とは相反するできごとです。 また、科学教でも、揚力さえ働けばあたかも引力が働いていないかの様に飛行機が飛ぶ事を証明していますが、もし誰も揚力を知らなければ、あんな重い鉄のかたまりが飛ぶ訳ないという事になるでしょう。 普通は死ぬまでに一度も見る機会が無いのが当たり前ですが、この世界には私達の知らない法則がまだまだあるかも知れない。 相対性理論によれば、実は時間や空間とは相対的なものであり、絶対的なものではないが、ニュートンによれば時間も空間も絶対である。 相対性理論は様々なそれを支持する証拠があり、誰も否定していないと思いますが、日常生活では誰もそんな事を考えていません。 ニュートンで十分だからです。 だから、ニュートン的にものを考える。全く問題ありませんが、相対性理論を否定するのは愚かですよね? また、ニュートン的世界観の中に生きているだけなら相対性理論は無視しても「問題はありません」が「得もありません」。 車に乗って目的地まで地図を見てたどり着けますが、GPSは使えません(^^) これもある種のバチではないでしょうか。 そしてこの「最初のバチ」はいったいどの位計り知れない「気づく事さえできないバチ」を与えており、その「バチにまみれた世界を当たり前だと考える。世界とはこう言う物だと考えるマインド」は世界をどの位「バチのまっただ中」に陥れているかわかりません(^^)
- cliomaxi
- ベストアンサー率33% (2921/8736)
最初に断っておきますが、私はキリスト教やその他の宗教をを否定しませんし、比科学的だと批難もしません。 信じているのならそれが正しいと云うスタンスです。 科学は基本的に取扱う命題とそうでないものが有ります。 実験を何度やっても同じ結果であるとか、理論上の綻びが無いと言ったようなものです。 勿論宗教は扱いません。 まだ一般的には普及していないようですが、ビッグバンを補完するものとしてインフレーション宇宙論と言うものが有ります。 望遠鏡の精度も性能も上がり宇宙の果てまで観測出来るようになりこの理論は現在は主流になっています。 観測結果がその理論を裏付けているのです。 神が宇宙を地上を、そして人類を創造したとする聖書の額面通りに受け止めると地球はせいぜい数千年から数万年程度の年齢になってしまいます。(科学的な観測結果は45億~50億年くらい) 進化論に関してもダーウィンが発表した当時、教会の力が強かったことと、キリスト教徒が殆どだった欧米では全く受け入れられませんでした。 「猿から人になる訳が無い」と(厳密にはチンパンジーなどと同じ祖先から別れた) 遺伝子の配列でも差異は極僅かですし、受精してから生れるまでの間は人間も兎も殆ど変わらない形態と言うのも、ネアンデルタール人やクロマニヨン人などの現代のホモサピエンスとは違った人類が過去に存在した事実も「神が造った」よりもずっと合理的に説明出来ます。 因にこの進化論、輪廻転生の思想の仏教国であった日本ではすんなりと受け入れられたそうです。 アメリカでは一応憲法で教育と宗教は分けるようになっているようですが、一部のキリスト教系の人からは「進化論と同じ時間を神が創造したと教えるべきだ」と教育委員会などで論じられ、現にある州ではそのようになったこともあります。 但し「神」とすると不都合が有るので「設計者」等と言い換えています。 インテリジェントデザイン説と云われるものです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3 これには更に「フライングスパゲッティモンスター教」なるものが現れています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E9%A3%9B%E3%81%B6%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%B2%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E6%95%99 最初に戻って、科学では「神を信じる信じない」は命題として扱いません。 つまり宗教が科学的とかそうでないとかは関係ないのです。 別の話題ですが、科学の恩恵にどっぷりの筈の現代人がしたり顔で「科学は何も出来ない」とか「科学では説明出来ない」と云うのは釈然としません。 例えばニュースなどでどこぞのカルト宗教信者が病人を祈祷で治すとかでちゃんとした医療を施さない話題が有りますが、殆どの人はそんなので治る訳が無い、非論理的だし非科学的だと感じている筈です。 しかし、何故か気の力など科学では説明出来ないと云われる超能力的なものは何の疑いも無く信じてしまうダブルスタンダードはどういう事なのかと思ってしまう訳です。(気の力は実際はちゃんとした手順を踏んだ科学的実験では不思議でも何でもない事が証明されている) >実はあまりこの世界の事をよくは知っていないのにさも知っている様な顔しているだけでしょ?」と思っているだけです。 テレビや雑誌(専門誌では無い)等は話題性を追求しますから実際には既に科学で解決しているものでも「科学では説明出来ない」等と結論づけていたりします。 専門誌を読む一般人は殆どいないでしょうし、そう言う話題を取り上げた書籍がベストセラーになったと言う話も聞いた事がありません。 逆に不思議と思えるような事は話題として面白いですから視聴率や購読が伸びたりするのです。 マリアの奇蹟とかキリストの死体を包んだ布とかの話題は枚挙に暇が有りません。 科学者は解らない事や未解決のものはちゃんとその様に云っています。 どうでも良い話ですが私はフライングスパゲッティモンスター教徒です。
お礼
ご参加ありがとうございます。 >実はあまりこの世界の事をよくは知っていないのにさも知っている様な顔しているだけでしょ?」と思っているだけです。 この部分は書いた後に少し言葉足らずになってしまったなと思っていた部分です。反省しています。 例えば、一次元の世界に住む住人は、二次元の世界に住む住人と「混在」「共存」しているのに、一次元分しか見る事ができないため、二次元の住人を目の当たりにしても、その体の一部だけを見て「なんて不完全な生物だ」等というかもしれませんね。 。。。ここでは言うとしましょう(^^) 二次元の人が三次元の人を見ても同じです。「混在」しているのに全く異なった姿形に認識する、或は認識しないのです。 いったいこの世界は何次元でしょう? 例え宇宙の果てまで見えたとしても、それが一次元的な視野であったら、現在地から宇宙の果てまでの間にどれほどの「見落とし」があることでしょう? この意味で「この世界をよく知らない」と表現しました。 因に、私なんかは、ダブルスタンダードどころか、トリプルでもクアドラプルでも物によっては受け入れます。 だって、それらの間には幾らでも「見落とし」が存在し得てるわけですから。 因に、私はクリスチャンですが、どちらかと言うとIDよりなのかもしれません。 決定的に実証されていないとはいえ、多くの「仮説」に多くのそれを支持する証拠があります。私はそれらを否定するだけの知識や知恵を持っておらず、よく知らない物を軽々しく否定するほど愚かでもないと思っています。 ただ、私にとってはそれらはあまり重要ではないのです。 例えば、パソコンを親に買ってもらった子供。 ここにあるパソコンは誰が構想して誰が組み立て、誰が運んでくれたのか? そういう事を気にする子供はいったいどの位いるでしょう? 「親が買ってくれた」事がその子にとって大切なのであり、誰が構想して誰が作ったのかは問題ではありません。 私は進化という過程を辿ったにしろ、創造という出来事であったにしろ、いずれにしろ「神様が下さったこの存在」と考えています。 過程は私にとってはあまり問題ではないのです。 話しがそれましたが、科学の恩恵にどっぷり浸かっていますが、科学の弊害にもどっぷり浸かっています。 何かがあればそこには善い面悪い面があるのは科学も宗教も同じ。人間のする事ですから。 その一例として「非科学的と否定する」マインドがいったいどれほどの人間が本来持っている想像(創造)力を潰しているかは計り知れません。魑魅魍魎の出現を許すよりはマシなのかもしれませんが。 やはり「非科学的であるとなにかを否定する人たち」はあまり物を考えない人たちであるというところに落着きそうでしょうか。
- juyjuy
- ベストアンサー率22% (139/612)
おっしゃる通り >進化論やビックバン< は「仮説」です。 ついでに言えばいま科学者が(ノーベル賞をもらった人も含めて)定説としているものも、厳密には仮説で、もっといい説明が出てくれば「昔の説」になります。科学者はもちろんこの事を十分知っています。だから日々研究を続ける事が出来るのです。 我々は学校でこの「定説」を正しいものとして習っていますが、私の70年間の生活の中で、三度「定説」が変わった例があります。 ウェーゲナーの大陸漂移説です。私の父親の時代に出てきた「昔アフリカと南アメリカはくっついていた」という今では子供でも知っている説です。これが私が大学時代には「地向斜説」というのが定説になり、その後「プレートテクトニクス説」によって「大陸漂移説」が正しかった事が認められました。 今は「暗黒物質」「暗黒エネルギー」の存在が確固たるものになり、またブレーン宇宙論がビッグバンに挑戦しているところです。 上記各説は理科系以外の方には何の事かわからないかもしれませんが、全部Wikiに乗っていますから調べて見て下さい。 さて質問に対する答えですが、本当の科学者は質問者様のおっしゃる「意味」で「科学的じゃない物を否定する」人はいません。 欧米の科学者で敬虔なクリスチャンは沢山います。
お礼
ご参加ありがとうございます。 大陸漂移説の移り変わり周辺についてはよくは知りませんが、暗黒物質やブレーン宇宙論、その後に続く理論もいくつかは簡単には知っています。 私もその辺りは好きで、情報更新はまめではありませんがしています(^^) >さて質問に対する答えですが、本当の科学者は質問者様のおっしゃる「意味」で「科学的じゃない物を否定する」人はいません。 やはりあまり物を考えない人たちが喋っているだけなのでしょうか。 あまりにも自信たっぷりに否定するのでごくたまに体調が悪い時等に素朴な疑問になってしまう時があります(^^;)
- vaidurya
- ベストアンサー率45% (2714/5983)
ヒンドゥーもブッディズムも東南アジアやアフリカの原始宗教も すべて、誤ったもの、偽の神として迫害したキリスト教が 科学を同列に考えないのがよくわかりません。 私は卑しき科学崇拝者ですから 科学的に説明できないものは無いものとして考えることがあります 逆に、科学的に説明できないけど存在が確認されているものも多々あります。 宗教を科学的に説明する手法もありますし YHWHはCTHULHUと、あるいは日本でもっとも多くの参拝者を集める故人睦仁と 同列程度に、存在を信じます。まぁ、睦仁やナザレのヨシュアは 実在の人物とするのが現代科学ですけど… 今さら、彼らを科学より頼りになるものとは思いません。 キリスト教が多くの民族の宗教を排他し広まったように 科学は、キリスト教を含む多くの宗教を排他し広まりました。 より論理的で、実践的で実証主義の宗教 それが科学だと考えればいいんじゃないかと思います。 科学と、他の宗教の大きな違いがそこにあって キリスト教自体が、聖書などに伝えられたことがらを すべて真実という仮定によってのみ成立しています。 そして聖書と歴史的経緯において、ユダヤとムスリムとの間に 議論の余地を抱えているほど、非常に不確かに見えるものです。 根拠無く信じ、信じることこそを根拠とするのが宗教です。 同様に科学にも、絶対ではないことを知りながら 現在の説を信じている例は数多あります。 いずれの宗教も、信じるのは自由ですが… 「科学を信じることをおかしい」と考えることも、またおかしいことです。 宗教はあったほうがいいけど、宗教家はいないほうがいいと思うことがあるね。 教える人や資料は必要だけど、信じさせる人がいる必要は無い気がしますから… 科学は、信じさせる人によって広まったものでは無いんですよね。
お礼
ご参加ありがとうございます。 恐れ入りますが、キリスト教が過去にして来た事をとやかく言うつもりはなく、「単純に素朴な疑問」なのです。 >より論理的で、実践的で実証主義の宗教それが科学だと考えればいいんじゃないかと思います。 という部分に対しては、私もとりあえずはそういう受け止め方をしています。 しかしながら、私の質問はもっとシンプルです。 例えば、何かがここに存在する事を証明できても、何かがこの世界のどこにも存在しない事を証明はできないと思うのです。 それを存在しないと断言するのはどういう了見でしょうか? というのが私の質問です。 現代科学は、500年前には誰も知らなかった様な高い技術を持っています。 今の私達の「証言」を500年前の人に聞かせたら笑われるでしょう。 しかし、500年前の「科学的見地」では有り得ない事だらけの事が今の時代に溢れているでしょう? 500年前の人たちが「見落としていたもの」を発見し、それを利用した結果だと思うのです。 「科学という宗教に対する盲信」でしかないのでしょうか。 ある種のクリスチャン達が現代キリスト教団に盲信して科学を頭ごなしに否定している様に、科学への盲信者たちもまともな知恵を働かせずに迷信や何かの感情等に煽られて右往左往しているだけなのでしょうか。
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お礼
ご参加ありがとうございます。 科学の立場に立っているにしろ、宗教の立場に立っているにしろ、「この世界の事をあまりよく知らない」のはお互い様です。 どの立場に立っているにしろ、やはり「発言に誠意がない」場合に問題になるのでしょうか。 「超常現象を科学で説明できないから霊の仕業ではないか」とする人も、きちんと誠意と周囲に対する敬意を持ち、可能性の一つとして取り上げるならそれを否定する人も少ないのではと思います。 ただ、直感で得た認識については説明の余地もなく疑いの余地もない「真実」として主張する事も有り得ますが。 つまり、やはり「非科学的である」として何かを否定する人たちの発言はいくら相手が自信たっぷりでも実はあまり知識や知恵に基づいている訳ではないし、大抵は文化的背景や何かの感情に煽られて言葉が右往左往しているだけだが、文化的背景が彼らに自信を与えている。 という感じで概ねよろしいでしょうか。