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「障害者にやさしく」は偽善?
ご覧いただきありがとうございます。 唐突ですが、私は「障害者にやさしく」してしまいます。 それは良いことと思われるかもしれません。 現に私も障害を持つ方々のためになると思ってそうしていたのですが… そこにはどうしても「可哀想」という気持ちがつきまとい、下手をすれば 「自分の方が恵まれているのだからその分少しでもやさしくしてあげないと」という感情がないとは言えません。 どうしても、健常者と対等なやさしさを持って接することができないのです。 そんな私の考えを見抜いて、私の援助などを逆に煩わしく感じさせてしまうのではないか、 だからといって見放すこともできない…と、いろいろ考えてしまいます。 障害者の方と日常でそれほど接する機会はないのですが、時々接するといつも罪悪感に駆られます。 皆さんは如何ですか?私と同じような気持ちを感じている方はいらっしゃいますか?
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机上の話ではなく現実に接して行くとそういう風に葛藤するのは確かにあります。 良かれと思いながら実は優越感に浸った満足感からか、などetc。 私も最初はその葛藤はゼロではなかったです。 でも、慣れとは恐ろしいもので、それに接しているとそれが普通になってしまい、障害者のハンデって、電車に乗ろうとした時にスイカでささっと入って来た電車に乗れるのと、わざわざ券売機に硬貨を入れて切符を買っていたらその電車が行ってしまい次の電車に乗った、というぐらいの感じになりました。 ただ、障害者と言っても、いろいろなケースがあるので、単に普通の人から見たひと括りの概念は捨てた方が良いと思います。 目の不自由な人、身体の不自由な人、脳の発達の遅れ気味の人とかでは、普通の人から見る不便さを越えた種々雑多なハンデがありますので。 また個人的には、「普通の人」という言葉の気遣いは逆差別と思っています。 日本語においては、普通の人の反対は「普通の人ではない」の意味だけに限らないからと思っているからです。 また、あくまでも個人的にですが「健常者」というのは必要以上に気遣い過ぎた言葉で、逆に障害者との絶対的な垣根を最初から作っているように感じます。 何故ならそれらから派生して目の不自由な人に対する目が不自由ではない人のことを最近では「晴眼者」とも言います。言葉の意味を考えたらとても言葉に出して言えるような単語とは思えないところもあるからです。 基本は考え過ぎというのもあると思います。 ある行為の到達時間や効率において、やや時間がかかる環境の人ぐらいで、と思えば、変なプレッシャーもないのではと思っています。
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- fallen_angel
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仮に「偽善」だとしても、相手にとって有り難い行為ならOKでしょう。 「自称:県下一障害者に冷たい者」より
- -226-baku-
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大丈夫ですよ。 tekitash2さんの質問を読み、tekitash2さんの方が恵まれてるなんて勘違いだと思います。 罪悪感にかられる必要はないのです。 「私のほうが恵まれていない」 と思って、いいですよ。
- tomban
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愛情というのは「量」ではないのじゃないですか?。 だから「どちらかどう」というものではなく、もっと広範に考え、とらえても良いんじゃないかと思いますよ。 マザー・テレサが仰っていましたね。 「愛情の反対は憎しみではなく無関心だ」と。 真実の善、欺瞞の善…というか、そのような「区分け」は、あまり必要無いんじゃないか、と思います。 何かを「肯定」していくことは、何かを「否定」することです。 「これは正しいが、これは間違っている」ということは「選別」であり、可能性や「未来」の否定でもあります。 「愛情」や「善心」をわざわざ「ふるいわけ」しなくても良いんじゃないかな?。 自分が「思うかたち」で、接すれば良いと思います。 「理解」は難しい!!。 それはとても難しいのです。 時間もかかることです。 だからこそ、なおさらに「ふるいわけ」を急ぐ必要は無いと思う。 生きて行くうちに自然と、それらは「きまって」くるんだと思っています。
- marga0313
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もうたくさん回答がついていますので参考になるかは分かりませんが、 私の経験から言わせてもらいます。 障害者スポーツとか見てみたらどうでしょう。 ちょうど来年北京もあるのでパラリンピックの予選とか選考とか やってたりするんじゃないでしょうか。詳しくないですけど。 スポーツじゃなくてもいいですけど、音楽とか芸術系でも。 できれば自分が興味があったり、経験があったりする分野だと なおいいと思います。 本当にカッコいいですよ、障害なんて見ていて感じません。 そう云うことに触れると可哀想だなんて思わなくなると思います。 実際私がそうでした。 私も確かに質問者さんのように感じたことはありました。 でも、障害者スポーツを見るようになって思ったのは、 「彼らは可哀想じゃないよな」ということです。 あれだけ生き生きしている人たちを可哀想だなんて思いません。 障害があれば普段の生活など大変なこともあると思います。 でも大変だからって可哀想なのとは違います。 そう思ってから自分が凄く自然に行動できるようになったように思います。 できないことがあるのはお互い様です。 私は、あんな風に人の気持ちを動かすことはできません。 偉そうに書いてしまってすみません。
- ginga77
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私も「自分は良いことをしている」と思いながらお手伝いする人より、 相手と自分の状況をいろいろ模索しながら行動する人の方が、 より、相手に対し的確なフォローができるように思います。 質問者さんは、そのことに気づきながら行動しているだけでもすばらしいと思います。 あと、一点、 どうしても「自分が恵まれている」と思ってしまうのだとしたら、 「私もいつかこうならないとも限らない」と思ってみるのも一つの方法かもしれません。 「私はこうなるはずがない」と思っているから「自分は恵まれている」と思うのかもしれませんが、 人事とは思わず、「自分もこうなることがあるかもしれない。その時にこうしてやってもらっているとしたら?」 そう思いながらお手伝いしてみると、また相手に対する目線や態度が変わるかもしれません。
優しくするのと甘やかすのは違うと思います。 遠縁で少し障害を持った人がいます。 小さい頃から親が可哀想だと言って甘やかして育てたので、とても我儘になってしまいました。 学校時代の同級生男子に足に障害を持った人がいました。 (小児麻痺でしょうか?) 男子たちとキャッチボールをしてボールがそれても皆と同じように玉拾いをしていました。 それを初めて見た時「可哀想になんであの人にボールを取りに行かせるの?酷い?」と思いました。 しかし男子達はボールを拾いに行くのが遅いなど文句を言わず、普通に接していました。 (本当に遅いのですが) それから何十年も経過して盲導犬を連れている方に遭遇したことがあります。 自動ドアが開いて、店に入るつもりは無い状態なのに入ってしまったようでした。そして出る方向を探しているようでした。 (ウロウロしているようでした) 「どうしましたか?」と声を掛けて、上記の事を言いました。 目的の場所は、バスターミナルの所へ行くつもりが反対側の店の入り口に入ったのでした。 乗り場のターミナルまで案内しました。 また中途障害者と生まれつきの障害者とではお手伝いの度合いが違うと思います。
- BluesHeart
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沢山の回答が来ているところへ屋上屋を重ねるようで気がひけますが…。 No9の方が仰っている様に「かわいそう」ではなく「不便そう」という観点で手を貸すのならいいんじゃないですか? 「かわいそうだから…」というアプローチの場合「こっちの言うことを聞け」という態度になりますが、「不便そうだから…」という場合は「どうしたら助けになる?」という態度になります。 結局のところ「障害」というのは「状況がその人の能力に対応していない」ということですから、その不足分だけサポートするわけです。 ※「状況が~」というのは、車椅子と階段という状況ならサポートが必要ですが、座談会などの状況ならサポートは不要、ということです。 ※また「能力に対応~」というのは、小さい子どもにはエレベータのボタンが押せない、という状況を想定してください。 まぁ障害があるということは、生活一般に不便が山積しているわけですから、多少の“親切の上乗せ”ぐらいしてもバチはあたらないと思いますが。
- dai-ym
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例え自分が偽善だと思っても他人にとってためになることをやることはいいことですよ。 人間の心なんていろいろなものが交じり合って当然で、その中に汚い心のない人などいません。 tekitash2産のように自分のそういう汚い心を知ってなお誰かに何かをしてあげたいと思う気持ちの方が、 実は自分は穢れなき素晴らしい心で素晴らしいことをしているんだと思っている人より他人に優しく、本当にその人のためになることが出来るものです。 >そんな私の考えを見抜いて、私の援助などを逆に煩わしく感じさせてしまうのではないか もしそんなふうにかんじる方がいれば、その人には今の援助をやめてしまって良いと思います。 そして、各個人に援助するだけでなく、本当に障害者の方々が自立するための何かをしていけば、間接的にそういう人の役にも立てます。 また、例えそういう人がいても、逆にそういうふうに思わず、tekitash2さんの援助、手助けに本当に感謝している人も多くいるはずです。 そういう人のために今までやっていることを辞める必要もありません。 ただ、自分に出来る範囲でやっていくことが大事です。 「自分の方が恵まれているのだからその分少しでもやさしくしてあげないと」 実はこの考えってもの凄く大事な考えで、恵まれたものが自立的に恵まれてない人の手助けをしていくと世の中は良い方向で回っていきます。 そしていつか自分も何かしらで恵まれない状況になります。 病気や歳をとったため、何かで失敗して財産を失う・・・ そのときは別のそのときに恵まれている人の手助けを受けるのですから。 tekitash2さんは見栄のためのやさしさでなく、本当のやさしさを持っているがゆえに悩んでいるのだと思います。 でもそのやさしさこそ本当にその人の本当にためになることが出来る要因だと思います。 誰かに感謝されるため、表彰状をもらうため、名士になるため・・・ そんな別の要因で誰かに[本物じゃない優しさ]を振りまいている人はやさしさの押し付けをしてしまうことが多いです。 誰かを可哀想と思い恵まれてる自分が何かしなきゃいけないと思う、「純粋なやさしさ」からの行動は目に見えない、その人から直で感謝されなくてもその人のためになることが出来ます。 誰から評価されることもなく表彰状などももらえずともそちらの方が本当に人のためになっていて、決して偽善などではないと思いますよ。
- KoL418
- ベストアンサー率23% (43/180)
こんにちは。 私は持病があります。先日手術も受けました。 外見からは、持病があることはわかりません。(痩せているので身体弱そう位は思われてるかもしれませんが) 私の病気を知っている家族、友人、知人は「やさしく」してくれます。 そうですね・・・「かわいそう」と相手が思っていること、意識的にしろ無意識にしろ、「自分の方が恵まれているのだからその分少しでもやさしくしてあげないと」と感じていることはわかります。 正直、それにイラつく時もあります。 何だか、常に病気を意識させられているみたいで。 制限はあっても、健康な人と同じように出来ることだっていっぱいあるのにとも思います。 でも、イラついた自分は小さいなあって思います。 「かわいそう」って気持ちも、「やさしくしてあげないと」という気持ちも、上から目線かもしれないですが、相手に関心があるからこそ、そういう気持ちになるんじゃないでしょうか。 だから、「やさしく」してくれる人に多少複雑な思いはあっても、やっぱり「ありがとう」って思います。 そもそも、何かしらの不都合を抱えた人と、そういうものが無い人を、全く同じに扱うことは無理だと思います。(物理的にも、心理的にも) 中には、質問者様が助けてくれたことで、不愉快に思う人もいるかもしれません。 でも、「ありがとう」って思う人もたくさんいると思います。 だから、質問者様はそのままでいいのだと思いますよ。
- ougen26
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私は、父と姉が障害者です。 しかし意識して、障害者だからとか思って接した事はありません。 障害者で無くても、電車に酔って気分が悪い人に座席を譲りますよね? 私は、いつも、困っている時はお互い様という気持ちでいます。 現に、今、私は妊娠23週ですが、周りの方に助けられ、とても感謝しています。 tekitash2さんも、困った時、誰かの些細な助けの手があれば、とても嬉しく、いつか自分もそうありたいと思える時があると思いますよ。 今は、心の葛藤があるかもしれませんが、やっていて良かったと思える時がくると思います。 私は、そう言って悩まれているtekitash2さんが、とても純粋に思えて、申し訳ないですが、かえって嬉しく思ってしまいました。 今の気持ちを大切にしていって下さい。
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お礼
皆さんたくさんのご回答ありがとうございます。 まとめてお礼をさせていただきたいと思います。 いろいろな意見をいただきましたが、結局のところ悩みながらも手をさしのべることを やめる必要はないということ、同じ考えを持っている人がたくさんいることを知ることができて とてもほっとした気持ちになりました。 あたたかなご回答を皆さん本当にありがとうございました。